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1.古代から続く土地
2.飢饉による農村の荒廃
3.農民指導からの復興
4.天水に依存した農業
5.台地を潤す大事業

icon 1.古代から続く土地



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 栃木県の東南部に位置する芳賀台地周辺の地形は、約1億6千万年前の中生代の堆積岩に、2千万年前の新生代の火山噴出物が堆積し、その上部は関東ローム層によって覆われています。地味肥沃なこの地域では古くから農業が盛んに行われ、江戸時代に入ってからはさらに開墾・拡張や用水工事が進み、明治時代以降には農産物の商品化も発展しました。
 このような歴史から、この地域は原始以来の豊富な遺跡をもっています。古代には東北への玄関口となり、戦国時代にはこの地に勢力を張った豪族たちの興亡によって動乱の現場ともなりました。そして江戸時代の後期に続いた飢饉によって「農村の荒廃」といわれる苦難の時代を乗り越えると、明治維新を迎えて栃木県が成立しました。続く大正時代には、官線鉄道として真岡線と烏山線が開通すると、真岡線では煙草・石材・米・陶磁器が、烏山線では木材・米が都心へと運ばれました。昭和の時代に入ってさらに道路整備が進むと、宇都宮市の都心から約20km、東京都心からは約100kmの首都圏内にあるこの地域は、都市近郊という土地の利を生かした営農がいよいよ期待されるようになります。
 しかしながら、都市に向けて十分な農作物を供給するには、農地および水利施設はあまりにも貧弱なものでした。ここに、本事業達成に向けての道のりが始まるのです。

icon 2.飢饉による農村の荒廃



 全国的に農業開発が大きく進んだといわれる江戸時代。主要な用水土木工事は15世紀後半から17世紀後半までの200年間に集中的に実施されています。しかしその頃を過ぎると、耕作労働力の不足などの理由から開発にブレーキがかかり、その分、水稲の品種改良が著しく進歩しました。早稲・中稲・晩稲の分化は、反当り収量の増加をもたらしただけでなく、豊凶差の分散や早稲による裏作、農繁期における農業労働のピークを緩和することにもなりました。
 しかし、農地開発や品種改良が進む一方で、江戸時代には幾度となく全国的な大飢饉に襲われることがありました。この地域で最も大きな被害が出たのが天明の飢饉(1782~1786)です。天明3年(1783)の浅間山大噴火では芳賀・那須両郡一帯にまで火山灰が降り積もり、さらに冷害にさらされることで、作物は甚大な被害を受けました。これにより当然のごとく飢饉に拍車がかかり、穀物の値段は高騰。木の皮や草の根まで食べ尽くした挙句、多くの餓死者を出すに至りました。この年は午年に当たったため、現在も「午年の水害」としてその惨状が言い伝えられているほどです。
 こうした大飢饉によって、特に荒廃の激しかった芳賀地区を含む関東の農村を建て直すことが、寛政の改革(1767~1786)での農政の課題でもありました。しかしこの頃になると、農村の荒廃は、自然条件や年貢の過重だけでは説明できないものとなっており、商品経済の進展によって伝統的な農村が変貌していくという情勢下にあったようです。

icon 3.農民指導からの復興



 年貢の減免や農地整備といった中央の政策ではもはや手に負えないほど、農村は荒廃していました。農村の人口流出は激しく、商品経済が農村にも浸透して、農民は貨幣を得たいために特産の歯タバコや和紙・木綿などの商品作物に力を入れ、米づくりが二の次になっていったのです。これに対し、各藩それぞれが年貢の確保をめざして対策を打ち出しています。
 黒羽藩(現益子町)の鈴木武助は領内を廻って倹約と備蓄を呼びかけ、農業の出精・諸商売の制限・間引の禁止・養育米の扶助などを行いました。彼がまとめた『農喩』は、当時の幕府の農政改革の参考資料にされています。 小貫村(現茂木町)の豪農・小貫家の11代目当主・小貫万右衛門は、農民の教養を高める必要があるとして自ら先進地の農業を学び、農家に対し農家経営の基本と日常生活の心得を説いた教科書『農家捷径抄』をまとめ上げました。その中で、農家の経営は家内労働力を考えてやや小さめがよいとして、男女二人で田畑4反歩を経営する小規模経営の収支計算モデルを例示しています。
 農民・農村を本来の姿に戻すためのこのような農民指導の中で、とりわけ効果を得たのが二宮尊徳による『尊徳仕法』と呼ばれるものでした。これは、まず農民が無理なく上納できる年貢水準(分度)を割り出し、これを基準にして藩の歳入歳出を組みます。藩士および領民にはその枠内で倹約努力して生活することを強要しました。そして、報徳金をもって村々の荒地を起き返し、必要であれば用水・堰・橋なども整備しました。また、窮民救済としての施粥などにより、この尊徳仕法を導入した茂木藩・烏山藩では、大飢饉の際にも餓死者を出すことがありませんでした。そして、人口増加・荒地開発・生産向上を達成していったのです。

icon 4.天水に依存した農業



 順調と思われた芳賀地区の農業開発ですが、たった一つ、致命的ともいえる弱点を負っていました。それは台地という地形の宿命ともいうべき用水問題です。
 芳賀台地の年間降水量は、1300mm前後と県下で最も少ない地域に属しています。台地を侵食してできた小河川の流域に発達した水田の用水は、小河川に設けた堰から取水して用水補給を行っていますが、各河川ともに流域が小さいため常習的な干ばつに悩まされました。特に多量の用水を必要とする代かき期などには用水不足が必至で、加えて取水施設も著しく老朽化していたため、取水の不安定と施設の維持管理に多大な労力を費やしていたのです。また、関東ローム層に覆われた丘陵台地に開けた畑地には用水施設が整備されていないため、天水のみに依存した生産性の低い畑作農業を余儀なくされ、その経営も不安定でした。
 都市近郊に位置する芳賀台地は、首都圏農業の確立が期待されながらも用水不足に悩まされ、安定した農業用水を確保することが長年の念願でした。そこで、栃木県及び関係市町村が主体となって“芳賀台地に水を”を合言葉に、国営事業を動かしていくことになります。

icon 5.台地を潤す大事業



東荒川ダム空撮全景
東荒川ダム空撮全景
 栃木県及び関係市町村は、昭和44~51年にかけて予備調査を実施するとともに、促進協議会を設立して農業用水対策のための調査を国に要請しました。これを受けて、農水省は昭和52年からの5年間で直轄調査を行い、その後57年からの5年間で全体実施設計を作成して着工の準備を整えました。しかし、着工という段階になって、受益農家が負担金が高いことを理由に反対したため、地元負担金はそれぞれの町が応分の負担をすることで、昭和62年、ようやく着工の時を迎えたのです。
 本事業は、畑1,160haおよび水田1,590haの、合計2,750haの農地に対する農業用水を確保し、畑地かんがい・水田用水補給を行うものです。那珂川水系の荒川上流にある東荒川ダムに特定かんがい用水として水源を求める一方、畑地かんがいと水田の用水補給を行う施設の整備として、荒川ダムから取水するための森田頭首工、これより地区内に導水するための揚水機場3ヶ所、塩田調整池、送水路4路線・幹線用水路4路線を新設。併せて関連事業としてほ場整備等を行い、農業用水の安定的な確保と供給に加えて、農業経営の近代化と営農の合理化を図りました。これにより、首都圏から100kmという立地条件をいかした、食料供給基地としての都市近郊農業の確立をめざしたのです。
 今日では、ダム湖およびその周辺は地域のレクリエーションの場としても利用され、東荒川ダムは平成15年「地域に開かれたダム」として国土交通省の認定を受け、ダムを核に地域と一体となった整備が進められています。


● 国営芳賀台地農業水利事業概要(昭和62年着工、平成16年完工)

(1)受益地
    益子町、茂木町、市貝町、芳賀町、南那須町、鳥山町

(2)受益面積
    2,750ha

(3)かんがい施設
    森田頭首工
    揚水機場3ケ所
    調整池2ケ所
    送水路4路線(8.1km)
    幹線用水路4路線(47.9km)
    ※特定かんがい用水として、東荒川ダムに最大0.24m3/sの取水を依存する。



栃木県 ―国営芳賀台地農業水利事業