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1.鬼怒川の流れ
2.利根川の東遷と鬼怒川・小貝川の分離
3.進む用水開発
4.近代化への悲願
5.治水対策の実現
6.鬼怒川南部農業水利事業

icon 1.鬼怒川の流れ


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 鬼怒川(きぬがわ)は、栃木県と群馬県境の鬼怒沼を水源とし、関東平野を北から南へと流れ、利根川へと注ぐ一級河川です。
 二千メートルもの大山脈から急傾斜で流れ出る激流のため、古くから、洪水をおこす暴れ川として知られてきました。鬼怒川に当てられた「鬼が怒ったような川」という漢字からも、激流として恐れられてきた歴史が伝わってくるようです。
 古代には、この鬼怒川は「毛野河(けぬかわ)」と呼ばれ、4世紀の末ころ、現在の栃木・群馬の県域に成立していた「毛野国(けぬくに)」の国名も、この川の名前からきていたようです。( )「毛野(けぬ)」という言葉の語源には、鬼怒川の洪水のために、頻繁に土地が崩れてしまう「崩野(くえの)」が転じたものとする説が残っています。
 鬼怒川の東を南流する小貝川(こかいがわ)も、頻繁に洪水の起こる暴れ川として有名で、「小貝川」の名前も、「壊井(こかい)」という、決壊被害の多い河川を表す語からきているという説があります。 古代には、この鬼怒川と小貝川は、乱流を繰り返し、周囲は広大な湿地帯のようだったといいます。

・・・ 毛野国は5世紀に入り、渡良瀬川を国境として、「上毛野(かみつけぬ)」(現在の群馬県)と「下毛野(しもつけぬ)」(現在の栃木県)に分割され、大化の改新以後はそれぞれ「上野(かみつけ)」「下野(しもつけ)」と呼ばれるようになります。「上野(かみつけ)」は、後に音便で「こうずけ」と呼ばれるようになりました。

icon 2.利根川の東遷と鬼怒川・小貝川の分離



 鬼怒川沿岸の開発が大きく進んだのは、江戸時代以降のことです。家康によって江戸に幕府が開かれると、関東平野の開発に、大きな力が注がれるようになりました。
 それまで、図のように東京湾へと注ぎ込んでいた利根川が、現在の銚子から太平洋へと注ぐ流れへと変えられたのも、この時代のことです。当時の江戸は、利根川・荒川(あらかわ)・綾瀬川(あやせがわ)・入間川(いるまがわ)などの主要河川が全て隅田川(すみだがわ )を通って東京湾へと流入しており、治水上、たいへん不安定な状態にありました。1594年から1654年、およそ六十年の歳月を要した大工事によって、利根川の東遷が実現すると、江戸の水害の危険は除かれ、関東平野の開発も進んでいきました。
 この利根川の東遷と同時に、下妻のあたりで合流していた鬼怒川と小貝川を分離する工事も行われました。二本の河川は、長い間、激しい乱流を繰り返し、あたりには、騰波江(とばのえ)をはじめとして、砂沼(さぬま)、大宝沼(だいほうぬま)などの沼地が広がっていました。
 1629年、この両河川を分離させる新水路が開削され、翌年には付け替えられた二つの河川は、利根川へと南流するようになりました。この河川改修によって、洪水の被害も減り、堰や水路などの水利施設の開発や河川沿いの農地の開墾が大きく進んでいくことになります。
・・・ 隅田川は、かつては入間川の下流部のことを指しました。
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1000年前の関東平野

icon 3.進む用水開発



鬼怒川筋用水位置図
鬼怒川筋用水位置図
 鬼怒川と小貝川の分離が実現すると、広大な湿地帯であった一帯の開発も進んでいきました。
 右岸を潤す勝瓜用水や大井口用水は、一説には、平安時代の開削と伝わる古い用水ですが、江戸時代以降、特に大規模な開発が進んでいき、地域を支える大用水となっていきます。また、江連用水や吉田用水など新たな用水の開発も進んでいきました。
 こうして、水路の開削が進み、沿岸の新田開発が発展していくと、当然のことですが、増えた農地の分だけ、必要とされる水の量も増加していきました。しかし、鬼怒川を流れる水の絶対量が増えるわけではなく、特に、雨の少ない年などは、開発されたいくつもの用水を利用する人々が、限られた水の権利を主張し合い、争いに発展することも少なくありませんでした。
 また、沿岸の人々を悩ませたのは、水不足だけではありませんでした。暴れ川として有名な鬼怒川沿岸では、大雨のたびに、大規模な洪水の被害が起こり、その度に、堰や水路は濁流に飲み込まれ、破壊や流失を繰り返しました。
 渇水と洪水、一見相反するかに見えるようなこの二つの被害が沿岸の人々を苦しませ続けたのです。

icon 4.近代化への悲願



 江戸時代に開発が進んだ勝瓜用水では、幾多の水害の記録が残っています。1683年には、大洪水によって取入口が破壊され、1721年には、水かさが30尺(約9m)に及ぶほどの洪水が起き、人畜家屋までもが流出、水の引き入れ口は、ことごとく破壊され、農業を行うことすらできなくなったといいます。その後も、1735年、1742年、1773年、1779年、1781年、1791年、1793年、1803年、1823年、1824年と頻繁に洪水の被害が記録されています。大井口用水でも、それは同様で、江戸時代を通して、鬼怒川の洪水による取水口の破損の被害が記録されています。
 当時の堰や用水路は、牛枠(うしわく)や蛇籠(じゃかご)( )で水をせき止め、素掘りの導水路で引水するというもので、鬼怒川の激流に耐えるものでは、到底ありませんでした。そのため、人々は、頻繁に起こる増水のたび、堰や水路の修復作業に追われました。
 しかし、明治、大正と時代が変わっても、これらの堰や水路は使い続けられます。老朽化した堰を改修し、洪水や増水に耐え、安定的に水を引くことのできる水利施設を築くことは、この地の人々にとって、悲願ともいえるものでしたが、堰の抜本的な改修には、何よりも、まず、鬼怒川の激流の制御を可能とする治水対策が必要でした。
・・・ 牛枠(うしわく)とは、川の流れをコントロールする水制(すいせい)の一種で、水の勢いをやわらげて河岸が削られるのを防ぐとともに、流れを川の中央部に導き、河道を安定させるために設けられました。太い丸太を組みあわせた構造で、三角錐や四角錐の形をしています。激流に流されないよう、足元には重しとなる石を詰めた蛇籠(じゃかご)を載せて、川のなかに設置されました。

icon 5.治水対策の実現



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 鬼怒川で水利施設の抜本的な改修が可能となるのは、昭和31年、上流に五十里(いかり)ダムを始めとした多目的ダム群が建設され、治水対策が確立されてからのことです。
 鬼怒川におけるダムの建設は、大正の初めから幾度も計画された悲願でしたが、いずれも、地質上の問題や戦争の開始などの状況によって、断念せざるをえませんでした。五十里(いかり)ダムの完成は、長い間、頻発する鬼怒川の洪水被害を被ってきた住民にとって、何よりも待ち望んだものでした。さらに、昭和41年には、西側に川俣ダムも完成し、この二つのダムによって、河道が安定し、水源も確保された鬼怒川は、近代化に向けて大きく動き出します。近代的な堰堤を設け、老朽化した取水堰を一箇所に統合する合口事業が、ここにきてようやく可能となったのです。
 まず、計画されたのが、扇頂部に位置していて、最も洪水被害が多く、面積規模も大きい鬼怒川上流部です。昭和32年、逆木用水や市の堀用水などの旧9用水を佐貫頭首工に合口する「国営鬼怒川中部農業水利事業」が着手されました。水利権の調整には、関係者の粘り強い取り組みが必要とされましたが、昭和41年、事業は無事完了を迎えました。

icon 6.鬼怒川南部農業水利事業



 上流部での事業が無事着手され、いよいよ下流部の鬼怒川南部地区でも、悲願であった水利施設の近代化が実現に向かって動き出します。
 それまで、この地区での水の取入れは、勝瓜、大井口、伊讃美、江連、絹、結城、吉田の7用水が、それぞれ小規模な取水口によって行っており、鬼怒川には5箇所、田川には3箇所の取水口が設けられていました。また、水路も素掘の土水路で、老朽化が著しく、改修や補修を繰り返す状況でした。
 これらの堰を近代的な勝瓜頭首工へと合口し、施設の近代化と用水系統の再編成を図る鬼怒川南部農業水利事業が着工されたのは、昭和40年のことです。昭和51年3月、十年の歳月を経て、とうとう念願の事業が完了すると、9,000ha以上の水田に安定した水を送ることができるようになりました。
 古代、「毛野川(けのかわ)」と呼ばれていたころから、暴れ川と恐れられてきた鬼怒川。この鬼怒川の豊富な水を安定的に利用し、豊かな農業経営を実現させるという人々の長年の願いが、この事業の完成によって、ついに実を結んだと言えます。
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勝瓜頭首工
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船玉第1・第2機場全景


■ 事業概要
受益面積: 9,427.8ha(水田)
関係地域: 栃木県真岡市、小山市、二宮町 茨城県下館市、下妻市、水海道市、結城市、岩井市、関城町、
石下町、三和町、八千代町、千代川村
基幹工事: 勝瓜頭首工
田川取水口
揚水機場3箇所(船玉第1、第2機場、川岸機場)
導水幹線ほか3路線延長88kmの新設改修
集中管理施設
■ 事業経過
昭和32年4月 東京農地事務局計画部による直轄調査開始
昭和37年3月 同上調査完了(直轄調査費2 6,613千円)
昭和38年4月 関東農政局建設部設計課による鬼怒川南部農業水利事業全体実施設計開始
昭和39年3月 同上実施設計完了(実施設計費2 7,007千円)
昭和40年8月 鬼怒川南部農業水利事業計画確定
昭和40年10月 事業所開設

栃木県・茨城県 ―鬼怒川南部農業水利事業