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1.地域の概況
2.古代の水利
3.中世以降の水利と水争い
4.暴れ川の猛威
5.野洲川ダム等の国営事業化
6.昭和50年代は1次整備
7.計画洪水流量の大幅増...
8.残る水口頭首工の整備...
9.国営総合農地防災事業...
10.野洲川沿岸における地域住民...
11.国営4事業の概要

icon 1.地域の概況



 滋賀県の湖南・甲賀地域に位置する野洲川は、鈴鹿連峰に源を発し、西流して滋賀の甲賀市、湖南市、栗東市、守山市、野洲市を貫流して琵琶湖に注ぐ延長65kmも及ぶ県下最大の河川です。また、この野洲川沿いは、京都と伊勢神宮を結ぶ街道として、参勤交代や商人たちの宿駅として栄えたところで、現在では国道1号線(旧東海道)、名神高速道路(第二名神含む)、JR草津線など、京阪神、中京を結ぶ交通の要衝となっています。

 本地域は、野洲川下流部に位置する湖南地域(守山市、栗東市、野洲市)と上流部に位置する甲賀地域(湖南市、甲賀市)により成っていますが、本地域の農業は水稲を中心として、湖南地域においては 野菜・花きが、甲賀地域においては茶が生産されており、滋賀県下でも有数な農業地帯となっています。


icon 2.古代の水利



 野洲川下流の肥沃な(低地の)湿地は、古代から耕地として利用されていました。氾濫原を流れる無数の小河川からは、古代の原始的な土木技術でも容易に水を引いてくることができたのです。地域には、近くの小学生が土器の破片を拾ったことによって、明らかになった服部遺跡(100m2区画面積で細かく区切られた弥生時代の水田跡など)の他、古代の水田遺構が各所で見つかっています。

 大化の改新後、公地公民制により、畿内を中心に全国各地で条里制がしかれました。野洲川下流には、現在でも、規則的に通る道路などに条里制の影響が色濃く残っています。また、野洲市の「五之里」「五条」「六条五之坪」、守山市の「十二里」、栗東市の「十里」「綣の七里」など、小字の地名として条里制の名残を見ることもできます。

 しかし、まだ灌漑(かんがい)技術が発達していなかった当時、土地が整然と整理されても、そこに水を引いてくることができなかったため、すべての土地を開田することはできなかったと考えられています。


icon 3.中世以降の水利と水争い



 奈良時代の743年、懇田永年私財法が発令され、公地公民制が崩れると、荘園時代が始まります。野洲川流域には、延暦寺系、法隆寺系、大安寺系などの荘園がありました。有力な寺院は、田畑を開墾し、同時に河川から農地に水を引くための堰を設けていきました。

 しかし、もともと河川の水が少ない野洲川。分散した領主によって、こぞって開発が行なわれると、上流と下流、左岸と右岸で水を巡った争いが起こりました。

 野洲川筋での水利紛争も歴史的に遡れば古く、その争いの如何に激烈であり悲惨であったかを伝える夥しい史料が諸部落に保存されています。それによれば、豊臣秀吉の天下統一が成ったとは言え、戦国の余燼なお消えざる慶長12年、現石部頭首工附近で左岸取水をしていた「一ノ井」とその下流井堰「中ノ井」は、決起して新しい井堰を設け、さらに下流に位置する井堰の「今井」の用水を、かがり火を焚き武器を執って奪取するなど、非常に激烈を極めた水利紛争を展開したとのことです。その後、数年を経ずして全国的な大旱魃に見舞われた寛永3年にも相争い、清冽な野洲の河原に凄惨な鮮血を流す悲劇をも起こしました。


icon 4.暴れ川の猛威



 また、野洲川は、古くから「近江太郎」と呼ばれている暴れ川で、中流部の川幅は広く、500mを越えるところもあるのに対し、河口から約5kmで南北に分流した後はそれぞれの川幅は70~150mに縮小する河川でした。このため、下流部では、大雨のときに水位が急上昇して破堤や溢水が起こりやすかったのです。

 流域は花崗岩など浸食されやすい地質からなり、また山地が伐採などによって荒廃するのに伴い、流入する土砂の量が増大し、堆積の進行によって下流では水を流す能力が低下していきました。室町時代後期頃から河床の上昇がすすみ、氾濫と築堤を繰り返した結果、耕地の安定と確保のために河道を人工的に固定した天井川が下流のいたるところに発達し、決壊した時の被害をますます大きくしていきました。ひとたび堤防が決壊すると、家屋・田畑の損壊と落命、堤防の修復、不自由な避難生活、困窮きわまる暮らしと家族離散、水害の惨状はとどまるところを知らないほどでした。


 昭和28年9月の台風13号による大水害が契機となり、昭和46年から昭和54年にかけて、 南流と北流の間に放水路を建設する河川改修が 行われました。この結果、野洲川下流域におけ る治水機能は大きく向上しました。



icon 5.野洲川ダム等の国営事業化



国営かんがい排水事業「野洲川地区」の実施(昭和22年)

 先に述べたとおり、この野洲川に依存する井組は流血の惨事を起す水争いを繰り返す状態でした。このため、根本的に用水補給策を切実に求める沿岸農民の熱意が実り、遂に昭和8年の大旱魃を契機として野洲川ダム建設の議が起り、14年12月の滋賀県通常県会において総工事費210万円で7ヶ年継続工事として野洲川上流に県営ダム建設する事が議決されたのでした。ここに沿岸農民の積年の願いである安定的な用水確保に向けた抜本的な対策の事業化が県営事業としてスタートすることとなったのです。

 しかし、事局は支那事変が深刻拡大されんと言う 時期でもあり一時工事を中止することとなりました。 その後、終戦となるや食糧増産が緊急を要することと なり、終戦直後の昭和22年7月から農林省直轄事業 となりました。

 しかし、予算面、資材面共に少なく、事業の始めは進展を見ませんでしたが、幸いにもこの事業に対して駐留軍の理解を得ることができたとして、多量の資材供給と、莫大な見返資金を受け、農林省予算として、当時の最高額を年々割り当てられることとなりました。昭和25年には米国対日援助見返資金214,000千円の割当を受け、工事はますます進展して、昭和26年7月には野洲川ダムの貯水を見るに至りました、その後昭和27年より石部頭首工に着手し、昭和29年9月にはこの工事も完成しました。引続き水口頭首工工事に着手し、昭和30年7月には附帯工事の導水路895.38m(暗渠46m)と共に完成し、ここに国 営事業は完全に竣功を見るに至ったのでした。



icon 6.昭和50年代は1次整備



国営造成土地改良施設整備事業「野洲川地区」の実施(昭和49年)

 先の農業水利事業完了以来20年が経過し、野洲川ダムでは、堤体や地山からの漏水が増え、下流頭首工では、幾度かの洪水を受けて、各所で河床洗掘や低下が進み、護床及び護岸や水叩コンクリートの一部が破壊され、沈床張石の流出なども生じました。また、ゲート類にも損傷が見られ、用水管理に支障を来し、洪水時の安全性確保にも問題が出始めました。
 このため、国営造成土地改良施設整備事業をもって、老朽部分の改修、機能の改良あるいは施設の補充等緊急に必要な補強工事を行い、その機能維持及び安全性の確保を図ることとしたところです。昭和49年度に事業採択を受け、当時、県内で永源寺ダム建設などの国営かんがい排水事業を実施していた国営の愛知川農業水利事業所が工事を所管し、野洲川ダムについては、昭和50年度に取水ゲートの補強に着手、その後下流護床工、堤体グラウト、管理設備等の整備を行いました。また石部頭首工については、同年、ゲートの補強に着手、その後下流護床工を、昭和51年には水口頭首工下流護床工に着手、その後、ゲートの補強を行い、昭和54年に施設整備事業として3施設の整備を完成させました。


icon 7.計画洪水流量の大幅増で災害発生が危惧



国営総合農地防災事業「野洲川沿岸地区」の実施(平成11年)

 野洲川の源流となる鈴鹿山脈の地質は秩父古生層に属し、砂岩、頁岩(けつがん)、石灰岩などからなりますが、野洲川の流域では花崗岩帯が主となり、これらの花崗岩は地表付近で風化が著しいほかマサ化することが多くたびたび豪雨による斜面崩壊を起こすと言われています。

 野洲川ダム完成から40年の経過を経た当流域では、山林の崩壊や地域開発の進行、更には降雨強度の増加など、自然的・社会的状況の変化に起因して流出量が増大するという現象が顕在化し、野洲川ダム及び石部頭首工の洪水流下能力が不足するなど、洪水時の管理に係わる重大な機能低下という新たな問題が生じてきました。

 このため、国営総合農地防災事業の実施により、野洲川ダムについては、設計洪水流量308m3/sから830m3/sの洪水量にも対応できるよう改修することとし、洪水吐のタイプをゲート型から自由越流式堤趾導流タイプに変えることとしました。また、石部頭首工については、計画高水流量1800m3/sから4500m3/sの洪水に対応できるよう、全面改修(新設)することとし、洪水吐のタイプを固定堰からゴム引布製起伏堰に変えることとしました。




icon 8.残る水口頭首工の整備も防災事業と同時に



国営造成土地改良施設整備事業「野洲川中流地区」の実施(平成18年)

 水口頭首工は、国営野洲川土地改良事業により昭和30年7月に完成し、その後国営造成土地改良施設整備事業(S49~S53)により改修工事が行われています。
 しかし、供用開始から50年が経過し、取水施設や洪水吐施設などの老朽化や損傷が顕著になってきたことから、国営造成土地改良施設整備事業により平成18年度から改修工事を実施することになりました。

 野洲川土地改良区が長年待ち望んだ水口頭首工の整備は、国営総合農地防災事業として行うことが出来ませんでしたが、国営造成土地改良施設整備事業として工事を行うこととなり、念願の基幹3施設の整備を並行的に進め、完了させることが出来ました。

 国営野洲川中流土地改良施設整備事業としては、洪水吐ゲート及び巻き上げ機の整備、取水ゲートの取替、エプロン部の水叩きコンクリート・下流側護床ブロックの改修、導水路の改修、管理棟の整備を行いました。



icon 9.国営総合農地防災事業における環境配慮



 野洲川ダムと石部頭首工の農地防災事業による抜本的な改修工事は平成11年にスタートしましたが、おりしも平成5年に環境基本法、平成9年には環境影響評価法などが成立し、環境に対する社会の関心が高まってきました。また、平成12年に公布された食料・農業・農村基本法においても「環境との調和への配慮」がうたわれましたし、平成14年には改正土地改良法が施行され、国営事業においても事業実施の原則として、「環境との調和への配慮」が位置付けられたところです。

 このような社会的背景のもと、この事業の実施に当たっては全国に先駆け自然生態系などへの影響を評価し、併せて周辺環境にも調和し、親水等に配慮した施設として利活用されるよう、各種委員会の指導・助言を頂き、施設設計等の検討を進めてきました。

1.石部頭首工

 県土木が主宰する「石部・甲西の川づくりトーク」の要望に配慮し、現頭首工の上下流の中州を保全するとともに、特筆すべき植物の種については必要に応じて移植や種子の採取・播種等を行うこととしました。



 石部頭首工魚道の設計に当たっては、魚種等に対応できるよう3タイプの魚道を採用することとしました。採用した魚道型式とその特徴は次のとおりです。

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 また、農業水利施設での新しい試みとして常に県民の暮らしを支えてきたこの石部頭首工の重要性を地域の住民にも再確認してもらうことを目的に、流域のジオラマ、魚道の観察施設のほか、本地区の水事情の歴史を伝える資料展示施設を整備し、郷土理解機能や頭首工の役割を伝えるなど学習の場として流域での利活用も考えているところです。

 毎年多くの住民・児童が、見学に、研修に、遠足でと、石部頭首工を訪れています。




icon 10.野洲川沿岸における地域住民との交流



 利水・治水の面で便利になった野洲川であるが、反面、人々の暮らしからは、遠い存在になったことも事実とです。野洲川と地域と人々のふれあいについて住民の意見を聞いた資料によると、野洲川の川部に入れないとか、児童達はほとんど野洲川とふれあう機会が無いと記されているとのことです。

 このため、野洲川沿岸の土地改良区、関係市町および整備工事を実施した野洲川沿岸農地防災事業所では、他の国営事業地域に先駆けて、地域の環境・農業や土地改良施設の大切さを普及啓発するため、協働して地域との交流活動を行い、今も継続実施しています。

 地域交流イベントとしては、「野洲川源流体験」、「水源地域のクリーン活動」、ジオラマを使った「我が町・野洲川の源流等再発見」などが行われています。また、総合的な学習支援として、「小学校での出前講座」、および現地での「ダムや頭首工などの施設見学会」を行い、元気に学ぶ子供さんたちとの交流により啓発の効果を上げています。



icon 11.国営4事業の概要



1.国営土地改良事業「野洲川地区」

(1)受 益 地 (現)守山市、(現)栗東市、(現)野洲市、(現)湖南市、(現)甲賀市
(2)受益面積 3,933ha
(3)主要工事
100
(4)実施時期 昭和14年度~昭和30年度

2.国営造成土地改良施設整備事業「野洲川地区」

(1)受 益 地  (現)守山市、(現)栗東市、(現)野洲市、(現)湖南市、(現)甲賀市
(2)受益面積 -
(3)主要工事 野洲川ダム、水口頭首工、石部頭首工(部分改修)
(4)実施時期 昭和49年度~昭和53年度

3.国営総合農地防災事業「野洲川沿岸地区」

(1)受 益 地 守山市、栗東市、野洲市、湖南市、甲賀市
(2)受益面積 3,120ha
(3)主要工事
200

4.国営造成土地改良施設整備事業「野洲川中流地区」

(1)受 益 地 野洲市、湖南市、甲賀市
(2)受益面積 1,095ha
(3)主要工事 水口頭首工(部分改修)
(4)実施時期 平成18年度~平成21年度