国営湖北農業水利事業は、昭和40年に着工し、22年の歳月をかけて完成した画期的な事業です。
受益面積約5,000haというスケールの大きさもさることながら、この事業の特筆すべき点は、琵琶湖の北にある天然の湖・余呉湖を揚水式の貯水ダムとして活用していることです。
当初の計画案では、高時川の上流に貯水ダムを築き、湖北平野を潤すという通常の方式でした。しかし、様々な検討の結果、琵琶湖の水をおよそ80mの高さにある余呉湖に汲み上げ、貯水湖として活用するという画期的な発想が生まれ、幾多の苦難を克服して完成しました。これは国内ではもちろん、諸外国でもほとんど例を見ません。
さらに注目すべきことは、この天然のダム及び河川を最大限活用するため、雨量計、水位計、流量計など30数ヶ所に及ぶ水利情報をテレメーターで中央管理事務所に集め、その情報処理に基づく指令を取水施設や分水工(18ヶ所)に伝達して操作するという情報工学的手法を駆使した水管理システムが装備されている点です。
自然の摂理と人間の生の営みにどう折り合いをつけるか ――― 農業土木の原点ともいうべき理念を、秀逸な発想と近代的技術で実現した記念碑とも言うべき事業です。
場所は、琵琶湖の北端東部に位置する通称湖北平野一帯。草野川(姉川北部の支流)、高時川、余呉川等の沿岸に展開する長浜市他7町5,050haの農業地帯です。
戦国時代には、浅井家三代の所領でした。とりわけ、織田信長に滅ぼされた浅井長政は、奥方であった信長の妹「お市」をめぐる悲劇の武将として有名です。その浅井家の居城・小谷城の山の下には、この事業で造られた3本の水路が通っています。
この地域は、美濃と北陸を結ぶ交通の要衝であり、姉川の合戦や賤ヶ岳合戦をはじめ幾つかの戦乱の舞台となりました。浅井家滅亡の後には、秀吉、秀次と受け継がれ、江戸時代に入ってからは彦根藩の所領として幕末を迎えています。上述した3川の各取水地点における全流域面積はおよそ250km2と地区の水田面積の5倍程度。通常、河川かんがいの安定流域とされる10~20倍には遠く及びません。
夏季の渇水時、稲が枯死するか否かの瀬戸際は、村中が殺気立ちました。この事業が実施されるまでは村々の水利紛争が絶えず、約400年に及ぶ複雑な伝統や水利慣行が受け継がれてきました。とりわけ、高時川と杉野川が合流する地点は絶好の取水地点であり、図のように6ヶ所の井堰がひしめいていました。最も上流に位置する「餅ノ井」が有利であることは言うに及びません。この「餅ノ井」は広大な比叡山系荘園の所有であり絶大な権力を持っていたのですが、新興勢力の浅井家が圧力をかけ、遂にはこれを奪ったと言い伝えられています。
「水を制する者が土地を制する」。餅ノ井を制した浅井家は、有力な戦国大名へとのし上っていきました。しかし、この餅ノ井も、「極端な渇水に見舞われた時には堰の一部を壊して下流右岸(大井堰)にも水を分ける」との取り決めがありました。
水田が白く乾き、いよいよ亀裂が生じはじめると右岸大井組の各集落は合議の上、「餅ノ井落し」を決行することになります。神社の鐘を合図に各集落の半鐘が乱打され、水利役員は白装束に紋付羽織陣笠、一般農民は白襦袢、白帯、白鉢巻をなし、神社参拝の後、6尺棒を手に餅ノ井へと向かいます。これを裸で迎える餅ノ井の役員。
大井組「旱魃になったので水をまかし(開放)に来た」
餅ノ井組「欲しければ力づくで取るがよい」
かくしてクライマックスの「餅ノ井落し」が始まります。まず、餅ノ井堰を切り落し、さらに松田井堰も落し、自分達の集落へ水が流れるのを見届けると、歓声を上げながら引き上げます。
その後、餅ノ井組の集落は堰の修復に取りかかりますが、これも大井組隊伍の列が井明神橋から消え去った時という取り決めがありました。したがって、大井組は一滴でも多く水を得るため白装束の隊列は数百人、時には千人を超えたと伝えられています。
また、両岸に水田を持つ集落は微妙な立場であるため、紺の法被、黒帯、豆絞りの鉢巻姿で樫の花棒を担ぎ、山陰にひそむ形で参加したと言われています。
昭和17年、県営事業によりコンクリート構造の合同井堰が完成しました。しかし、この時も、上流の餅ノ井、松田井は加わらず、水利秩序の再編は持ち越されました。
農民にとって水の一滴は血の一滴に等しく、とりわけ井堰は集落の命綱でした。上流、下流、右岸、左岸、同じ川から取水する場合、どうしても取水量には差が出ます。渇水ともなれば不利な集落は全員飢え死の危険にさらされます。いささか乱暴な言い方をすれば、井堰の構造そのものが社会の不平等を形成してきたということになります。近代社会が法による平等を保障しても、こうした問題はほとんど解決されません。
この湖北地方に真の社会秩序がもたらされたのは、湖北農業水利事業の完成、すなわち昭和61年のことでした。湖北農業水利事業は、余呉湖のダム化、近代的水管理システムといった技術的成果に加え、湖北地方の数百年に及ぶ社会構造を改善したという意味でも特筆されるべき事業と言えるのではないでしょうか。
(1)受益地
長浜市、浅井町、虎姫町、びわ町、
湖北町、木之本町、高月町、余呉町
(2)受益面積
5,050ha
(3)主要工事
頭首工3ヶ所
(余呉川頭首工、高時川頭首工、草野川頭首工)
余呉湖のダム化利用
(利用水深4.7m、利用量8,750千m3)
余呉湖補給揚水機1ヶ所
(揚水量27m3/s)
用水路補給導水路 4.0km
余呉幹線水路 6.8km
中央幹線水路 9.1km
高時幹線水路 12.0km
草野幹線水路 5.0km
計37.04km