琵琶湖東部最大の内湖であった大中の湖は、滋賀県のほぼ中央に位置し、戦後、食料難解決の手段として琵琶湖周辺が干拓された中でも最も大きな干拓地である。
大中の湖の南方、安土山には織田信長が築城した安土城址があり、その天守閣は7重の楼閣で各層は安土文化の粋を極めた華麗な絵画装飾を施していたとされている。
信長がこの城から眺めていたであろう湖畔の風景も現在は近代的な営農が営まれている農地として大きく変貌している。本稿では、大中の湖の干拓とともに大きく変遷していった農業を紹介していきます。
琵琶湖の周辺には大小40余の内湖があり、これらの内湖は平均水深が1m78cmで、技術的にも容易に干拓出来るところから明治初年より計画されていたといわれており、大正8年には農商務省の調査で干拓に最適地と認められたがその後はいろいろの事情で実施の運びに至らなかった。しかしながら、満州事変、支那事変を経て大東亜戦争が勃発し、戦時食料対策の一環として昭和18年に琵琶湖対策審議会が設けられ、その結果、昭和19年4月から農地開発営団の手によって干拓事業が正式に始められた。
40余湖の内湖のうち最も容易な地区10カ所、面積約1,070haに着手、このうち農地開発営団の手で米原町入江内湖(現在米原市:305.4ha)、彦根市 松原内湖(73.3ha)、近江八幡市水茎内湖(20. 3ha)の3地区を施工、小中の湖(342.1ha)、繁昌池(33.8ha)、野田沼(39.8ha)、大郷内湖(13.7ha)、塩津内湖(16.8ha)、貫川内湖(16ha)、四津川(19.9ha)を農林省が滋賀県に施工を委託した。
工事は戦争中のことで、労務者、資機材の不足を克服 し着々と進捗し、不便ながらも作付けが出来増産効果をあげたのである。昭和22年9月には、営団が施工していた入江、松原、水茎の3地区と県に委託していた小中の湖地区、計4地区を農林省が引き取り直轄工事として実施、同時に内湖の干拓計画が全般的に再検討され、さらに大中の湖(1,137ha)が加えられ、計11地区総面積約2,310ha、米作増産量65千石を目標に工事が進められた。
その後、昭和34年に県営事業で塩姿婆内湖(16.4ha)、38年に曽根沼(87ha)、39年に宇崎内湖(91.9ha)、がそれぞれ着工した。国営津田内湖(119ha)は15番目で琵琶湖干拓最終地として昭和42年度に着工した。
1)計画から着工に至る経緯
昭和29年9月、農地開発営団の閉鎖に伴い農林省の直轄事業として琵琶湖干拓事業を引き継ぐこととなり、この時から大中の湖地区の干拓実施が具体化し、検討が始まった。計画の基本的な考え方としては、現在出来上がっている形態になるまでは種々検討され、その間にはいろいろな問題点を解決しなければならなかった。
計画を進めるに当たって、本地区として問題となった事項は、
①背後地の流域面積が相当あり、これよりの流出水の排除方法
②大中の湖を用水源としている周辺背後耕地の用水確保の方法
③琵琶湖魚類の産卵適地である本地区の漁業に対する対策であり、これらの対策が大きな課題となった。
昭和25年11月に至り、一応の事業計画を作成し「公有水面埋立法」により大中の湖水面1,124haならびに津田内湖水面112.6haの埋立申請を行い、昭和27年3月その承認を得ている。
しかしながら、大中の湖は琵琶湖魚類の主な産卵地であり、この場所の干拓は琵琶湖の魚類の保護、また、これにより生活している漁業者にとって重大な問題であるとして反対され、その対策ならびに補償交渉に長時間を要し、一時は干拓事業の着手は見通しの立たない様相であった。
昭和28年10月、漁業権消滅、昭和32年12月、漁業補償の妥結を受けようやく事業着手に至っている。
2)計画の概要
大中の湖は琵琶湖と4カ所の水路によって連絡されており、隣接の西の湖、北の庄内湖とともに一大貯水池の形状をなしていて、洪水時においては背後地からの流入水の遊水池の役目を果たし、また周辺耕地のかんがい用水源となり、他方種々の舟運の便として利用されていた。
大中の湖を干拓するにあたっては、背後地周辺に悪影響を与えないよう流出水の排除、かんがい用水源としての水面を残存する必要から、内湖の周囲に築堤し承水溝とし、その機能を保つこととされた。
干拓地の営農計画は、大型機械の使用による大規模営農形態をとることとし、水田および酪農を基本として入植者1戸当たりの土地配分を4haとしている。これにより、地区内道路、用水路、排水路の配置を検討し、1 圃区が12ha(125m×960m)、1区画は0.5ha(125m×40m)としている。
3)工事の概要
造成面積 1,145ha
着工 昭和21年4月
完成 昭和43年3月
事業費 3,177百万円
主要工事
北部堤防 傾斜提1,640m
東部承水溝提 〃 3,921.5m
南部堤防 〃 2,796m
西部承水溝提 〃 4,429m
新田排水機場 計画排水量12.08m3/s
横軸射流ポンプ
電動φ800mm×2台
ディーゼルφ1,200mm×3台
排水路工 一式
用水路工 一式
4)工事の実施
(1)堤防、承水溝
干拓事業の工事の施工は、まず締切り提から始める こととなる。本地区の堤防線は、東部堤防(東部承水溝提)、南部堤防および西部堤防(西部承水溝提)、北部堤防に分かれる。
北部堤防は琵琶湖側に面し、沖積土による自然の締切り中州の中央部に延長1,640mを山土運搬により築堤し、琵琶湖水位の上昇時における地区内への流入を防止する。
東部堤防は、新田排水機場から小中の湖干拓地東部 堤防との接点までの延長3,921.5mを下流放水路の掘削土および承水溝よりサンドポンプ船により湖中築堤を行い、地区の東部を締切る。
南部堤防は、小中の湖干拓地北部堤防から近江八幡市白玉町に至る延長2,796mを西の湖よりサンドポンプ船により築堤し、地区の南部を西の湖と締切る。また、小中の湖干拓地北部堤防は補強整形し、道路として利用する。
西部堤防は、地区西側の奥島山麓に沿って琵琶湖に 至る延長4,429mを承水溝掘削土および搬入土により築堤し、西部流域からの流出水を遮断する。
(2)地区内排水
ア.排水機場
地区内の排水路水位は、常に琵琶湖水位より低いことから、締切り工と並行して干拓地の貯留水及び地区 内を排水する新田排水機場が昭和34年に着工された。
排水量の変化に対し、常に最高の効率で排水するに は最小限数台のポンプが必要である。本計画においては、小降雨時、旱天時にはφ800mm電動ポンプ2台で、豪雨時については左記の他にφ1,200mmディーゼルポンプ3台を併用することとし、計画排水量は最大12.1m3/sとしている。
イ.大幹線排水路
地区内排水の主たる大幹線排水路は、水路断面も大きくまた、干陸排水時ならびに干陸後の排水路として、支線排水路とともに干陸排水の前に仮断面にて掘削することとして、小型浚渫船により掘削を行い、昭和39年6月干陸終了後、地区内の乾燥を待ち昭和40年度から大幹線排水路は、コンクリート矢板護岸工を施工して完成断面とし、支線排水路はコンクリート柵渠工法をもって施工している。
(3)地区外排水
上流域からの流出水は、地区の周囲に巡らせた各承水溝により遮断して琵琶湖に放水する。
東部流域の洪水は東部承水溝で補水し、東部放水路より琵琶湖へ放水する。また、南部流域の洪水は南部承水溝に補水し、津田内湖(長命寺川)を経て琵琶湖に放水する。西部流域の洪水は西部承水溝に補水し、切通し付近から琵琶湖へ放水する。
(4)用水路工
ア.用水源
用水源は、東部承水溝から3カ所、西の湖から1カ所、南部承水溝から1カ所ならびに琵琶湖(西部承水溝)から切通しを経て2カ所の計7カ所に用水取入れ樋門を設け、自然取入れにより取水する。
また、琵琶湖総合開発計画に基づく湖面低下(1.0m)に対する補償工事として既に各河川の琵琶湖へ放水する河口に樋門が設置されていたため、東部承水溝には新田樋門、南部承水溝には渡合樋門を設置している。
イ.西の湖用水補給揚水機
渇水時に於ける南部承水溝および西の湖より取水している既耕地の用水確保と西の湖の水位維持を計るため、南部承水溝渡合樋門下流左岸に西の湖用水補給揚水機を設ける。
①計画揚水量 Q=2.0m
3/s
②PV型軸流ポンプ
ディーゼルφ700mm×2台
ウ.樋門
樋門は先述した琵琶湖総合開発計画に基づく湖面低下に対する補償工事として設置されていたが、本事業計画により各々機能を失うことから、従来の機能回復として設置している。
5)県営ほ場整備事業
昭和39年6月、本地区が干陸したが、当時、国営の施工範囲は上述の基幹施設であり、地区内の整地工事等(用排水路工、地均工、暗渠排水工、付帯護岸工)は全部受益者の負担で、また、自ら工事がなされるものとなっていた。これは、入植増反者の負担があまりにも莫大なものとなり、営農計画に大きく支障を来すこととなる。
将来、入植者の手で補助もなく融資にのみ依存して実施することは、事業規模、負担能力、実施期間などを考えると到底至難な事であり、また用排水の末端部の配分を受けた人と幹線部近くで配分を受けた人とのアンバランスは入植営農計画に相当のズレが生じるだけでなく、営農さえも長年月出来ない人も出てくるという不安も十分考えられた。
補助制度は構造改善事業、県営土地改良事業、開墾事業等あったが、この時点では受益者が確定しておらず土地改良法第3条の資格者が無いことが大きな壁となっていたのである。再三の熱意ある陳情の結果、末端10haを除く暗渠排水工、付帯護岸工さらに北部側の境界用水路を国営で施工されることとなった。
一方、用排水路等の一部が国営事業の中で取り上げられたとはいえ、地区内整備の負担は大きく入植増反者にのしかかる事となる。そんな中、農林省は昭和41年度から400haの作付け工事計画を発表、県は国営で施工されない400ha地区の末端工事の着工を行う事となる。しかし、補助事業の適用課題は解決していなかったのである。
県は農林省、大蔵省当局に対し、幾多の矛盾を抱えた現状を計画的な早期投資による効果の早期発現を期すべき制度化の実現を目指し県を挙げての陳情を行った。
6月末、新しく「干拓地区内農地整備事業」という新制度で予算要求がされることが決定した。8月、大蔵省への昭和41年度予算要求説明が始まるが、大蔵省は農林省の補助制度を整理すべき段階で、新しい制度を設けることは認められないとの強い意見で平行線をたどる。
農林省は勿論のこと、県も総力を挙げて大蔵省への陳情に力を注いだ。年が明けた1月8日、県営ほ場整備新規採択40数地区の備考欄に「干拓地1地区を含む」という但し書きで認められる事となる。
県営ほ場整備事業「琵琶湖地区」は紆余曲折しながら干拓地内農地整備事業新規採択第1号として昭和41年度着工を見るのである。
1)基本構想
大中の湖干拓事業のねらいは、食糧増産だけでなく生産性および所得水準の高い自立経営農家をつくり、それにふさわしい社会環境を備えた新農村を建設することにあるので、滋賀県は次のような基本的な考え方のもとに諸計画の策定ならびに事業の推進を図ることとした。
ア. 本干拓地を農業近代化のモデル地域として建設する。
イ. 背後地の構造改善事業の促進、特にその規模拡大面に直接寄与する。
ウ. 近代的な農村生活を確率して、次代を背負う農村後継者の育成を図る。
(1)土地配分計画
造成地の配分計画については、地区内を極力規模、条件等の斉一な入植者に配分するよう計画し、地元増反についても、現耕作面積と合わせて2haになるよう配分している。
一方、入植者は一戸当たり農地4.0ha、宅地0.1haの配分とし、農地については、将来における経営拡大(酪農、園芸)を考慮して、4haのうち1haは集落周辺の高位部に、3haは比較的地区の中央部においていずれも8戸単位(協業体)にまとめて配分する。
(大型機械を中核とした8戸の協業組織利用による集団栽培方式)
(2)集落計画
入植者集落については、災害対策ならびに生活上及び営農上の利便を考えて3カ所の集落にまとまって居住することとし、いずれも地区内周辺の高位部に一集落当たり10haの用地を設定して、必要なる生活環境の整備を図ることとした。各集落(北部・西部・南部)には、72戸集団で216戸が入植し、昭和45年12月には3市町の境界が確定し、能登川町・安土町・近江八幡市にそれぞれ所属した。
2)大中の湖干拓地の農業の変遷
(1)昭和41年度、初めての営農がスタート
大中の湖の干陸後2年を経た昭和41年4月、新農村建設をめざして選ばれた入植者が、食糧増産と自立経営農家をめざし開拓の鍬が降り下された。当時の地区内は、 国営による用排水路、道路工事の最中で一帯は身丈を越える雑草が繁茂し、また野鼠等の天国となっていた。
昭和42年4月には、216戸の入植者全員の営農に入る事となる。しかし、配分された農地の土壌条件は千差万別で地力差は大きく、耕土を大量に搬入しなければ不毛の地に等しい砂地や腰まで入るヘドロ地帯、その上全く機械の使用が出来ない地帯など大半の入植者は苦難の連続であり、血のにじむ努力がなされたのである。
(2)昭和40年代の経緯
昭和40年代は入植初期の建設段階で苦悩の連続で、 稲作の近代化の定着に努めながら転作による野菜、花、 畜産の導入を進め経営の複合化に努めている。
我が国の経済が高度成長の時代で、農業も大きく成長し、稲作転換という大きな試練はあったが、新しい経営が成功し農家所得は10年間で4倍に急成長を遂げた。
①昭和41年~45年
水稲単作経営の展開 協業経営による大型機械化体型稲作、カントリーエレベーターの建設
②昭和43年~
稲作協業経営が個別に移行、水田裏作にキャベツ等の導入、協業組織による和牛肥育経営から個別肥育経営に移行、乳雄肥育経営を実施
③昭和45年~
稲作、野菜、畜産の3部門を柱とした経営が展開される。路地スイカの導入から輪作による土地有効利用として米麦+路地野菜(キャベツ、白菜等)などの選択的複合経営が始まる。
④昭和48年~
北海道に素牛生産のため大成牧場を建設
(3)昭和50年代の経緯
昭和50年代では石油ショックから、一転して低成長 時代に突入し消費の伸び悩み、価格の低迷、農家所得の停滞、減少となり農家経済を直撃。所得の伸びは止まり 農家の階層分化が始まった。特に、多額の施設投資を実施した農家の打撃が大きく、農家所得の伸びはこの10年で僅かに1.75倍に留まり、他産業との格差が進行した。
①昭和50年~
作期分散と後作野菜の導入のため、「酒米の作付け+契約栽培(早生大カブラ、壬生菜等)」、「麦類+キャベツ、白菜、加工向け野菜等」、施設野菜では「半促成ナス、スイカ、キュウリ、イチゴ+抑制トマト」等選択複合経営の盛期となる。
②昭和57年~
北海道に第二牧場として忠類牧場を造成(草地70ha)、漬け物加工場の建設、野菜選果場の建設。
(4)昭和60年代~平成
昭和60年代以降日本経済が著しい発展をとげ、国際社会における日本の地位向上とそれに伴う責務の増大から経済の国際化が進展し、農産物の市場開放要求が高まり牛肉・オレンジの自由化が進められ、続いて「米」まで部分自由化することとなり、この影響を受けて農畜産物の価格は押し下げられ農家経営が危機的状況に貧している。
①昭和62年~
園芸振興のための花卉出荷施設の建設、野菜加工施設の増設
②野菜の生協等との産地直売の強化
飼料費の低減と有利販売のため、混合飼料工場を建設
③平成6年~
新時代の稲作経営の確率を目指して、新カントリーエレベーターを更新
(5)平成10年代の経緯
平成7年から実施されたウルグアイ・ラウンド農業合意を受け、我が国の農業・農村を巡る国際環境が大きく変化する。食生活の面についても、食糧消費は飽和水準に到達し、消費者の志向は質へと変化する。
(6)平成20年~
平成20年には国内で、事故米穀の不正規流通問題や輸入食品による薬物中毒事案等消費者の間に食の安全に関する不安が高まる。また、食品事業者による不適正な表示や製造といった消費者の信頼を揺るがす事件が発生。
また、水田のフル活用を通じ、国内農業の食糧供給力(食糧自給力)を強化し、食糧自給率の向上を図り、国際化の進展にも対応しうる力強い農業構造の確保が求められる。