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1.巨椋池(おぐらいけ)
2.農業と漁業
3.秀吉による開発
4.遊水池としての受難
5.南郷洗堰の完成と巨椋池の分離
6.死滅湖の時代
7.巨椋池干拓へ

icon 1.巨椋池(おぐらいけ)



 現在、京都市伏見区の南部から宇治市の西部、久御山町の北東部にかけては、広大な田地が広がっています。今では、京滋バイパスの巨椋(おぐら)インターにその名をとどめるだけになりましたが、ここには、今から七十年ほど前まで、巨椋池(おぐらいけ)という巨大な湖が存在していました。
 その大きさは、およそ東西4km、南北3km、周囲16km。面積は約800haと、甲子園球場の約200倍もの広さがありました。
 京都盆地の最低地であったこの巨椋池のあたりには、北から桂川、南からは木津川、そして、東からは琵琶湖に発する宇治川の流れが集まってきます。この三本の川は、かつては巨椋池で合流し、淀川となって大阪湾へと注いでいました。 
 三本の大河川とつながる巨椋池には、増水時、膨大な量の水が流れ込み、周囲は洪水の常習地帯でした。


icon 2.農業と漁業



 乱流する3本の川が流れ込み、広大な沼地のような状態であった古代の巨椋池周辺は、当然のことながら、農業に適した土地ではありませんでした。沿岸の低地では、わずかな雨量でも水位が上昇し、農地はすぐに水に浸かってしまいます。条里制もしかれたようですが、年貢を納めるほどの収穫が望めたかどうか。むしろ、漁業を生業とする人々の方が多かったものと思われます。河川が流れ込む巨椋池では、コイ、フナ、ナマズ、ウナギなど、およそ四十種類にもおよぶ魚や、タニシ、シジミなどの貝を捕ることができたため、沿岸には多くの漁師が生活していました。
 中世に入ると、平等院のそばに水車が作られ、宇治市寄りの小倉村では、宇治橋の上流から水を引き入れるようになります。この水車は、『源氏物語』の挿絵などにも描かれており、鎌倉時代以前から、すでに水路は整備されていたようです。()そのすぐ南の伊勢田村や巨椋池南岸の村々では、木津川から水が引かれました。しかし、こうした沿岸の低地は、巨椋池の水位とほとんど高さが変わらないため、新田を拓いても、水はけが悪く、収穫はままならなかったようです。

※・・・ 宇治川筋の水車は、古くは、平安時代から使われ始めたようで、次第にその数を増やし、ついには沿岸で百以上にも達したといいます。『徒然草』などの書物や『石山寺縁起絵巻』などの挿絵にも描かれ、16世紀ごろには、多くの名所図絵に登場する川の風物詩となっていました。



icon 3.秀吉による開発



 巨椋池が大きな変貌を遂げるのは、安土桃山時代の1594年、豊臣秀吉によって伏見桃山城の築城が始まって以降のことです。関白の座を秀次に譲った秀吉は、伏見に巨大な城を築くと、そこへ移り住み、全国の大名の屋敷まで城下に建設しました。現在も、伏見の桃山には、毛利長門、井伊掃部、鍋島など当時の大名の名が地名として残っています。
 この伏見での築城は、軍事的にも商業的にも、京都と大阪をより緊密な関係で結ぶ戦略であったことは言うまでもありません。伏見から大阪までの淀川の勾配は極めて緩く、水量も多いため、川を整備すれば、大きな船もここまで入ってくることが可能でした。
 さらに、伏見の町を洪水から守るために、幾筋もの河道に別れて、いったん巨椋池へと流入していた宇治川を巨椋池と切り離す大事業が行われます。図が示すように、宇治川は槙島堤によって北へ迂回する形となり、巨椋池とのつながりは、淀付近のみとなりました。さらに、伏見城下の南には現在の観月橋が渡され、太閤堤の上には京都と奈良を結ぶ大和街道が造られました。
 秀吉は、この工事の後、四年ほどで他界しますが、その後の伏見は高瀬川の開削などによってさらに整備され、幕末まで、西国と京都を結ぶ港として極めて重要な役割を果たしました。稀代の土木家でもあった秀吉の最後の大事業が、現在の河川景観の基礎を築いたといえます。


icon 4.遊水池としての受難



 対岸の伏見が港としての繁栄を極める中、巨椋池は江戸時代に入っても水害が多発し、受難の歴史が続きます。
 堤防が築かれ、宇治川が分離されたことによって、流入量が減ったとはいえ、依然、淀付近で三河川の合流点とつながっていた巨椋池は、増水時には必ずといっていいほど、甚大な被害を被りました。
 このため、江戸の初期に木津川の付替え工事がなされましたが、根本的解決にはほど遠いものでした。幕府は、土木工事に秀でていた川村瑞賢を派遣して、淀川の浚渫や付替えなどの治水工事を図りますが、これらはいずれも下流の商業都市、大阪を守ることを主眼として行なわれたものでした。巨椋池周辺にとっては、川の流れの妨げになり、洪水の発生を助長するとして、漁猟が禁止されるなど、むしろ圧迫を受けることの方が多かったようです。
 そもそも、秀吉が宇治川と巨椋池とを完全に分離しなかったのは、大都市である大阪を守る意図があったためといえます。増水時、氾濫する水量を受け止めるクッションとなる巨椋池の存在は、下流の大阪や河内平野にとってはありがたい存在でした。大阪を襲った洪水は数知れませんが、この巨椋池が存在しなかったら、もっと多くなっていたことでしょう。いわば、巨椋池は淀川流域の洪水調節の機能を担う「遊水地」の役割を長い間果たしてきたことになるのです。
 こうした巨椋池の受難が解消されるのは、明治も半ばに入ってからのこと。明治38年の南郷洗堰の完成を待たなければなりませんでした。

icon 5.南郷洗堰の完成と巨椋池の分離



 明治に入ってからも、巨椋池周辺は、五年に満たず氾濫に襲われ、下流、淀川でも大規模な水害が頻発しました。明治18年に起こった淀川の水害は、死者100名、被災者26万人を記録し、さらに、明治29年には、死者360名にものぼる大惨事が起こります。
 この頻発する洪水の被害に加え、明治の初年には伏見と大阪の間に蒸気船が就航するようになり、この大型船の水路を確保するためにも、淀川筋の改修工事は、これまでにも増して緊急の課題となりました。
 当初、改修工事の指揮をとったのは、オランダ人技師ファン・ドールンらです。彼らの測量と計画に基づいた淀川改修工事が、明治21年にはいったん完了しますが、それでも引き続き22年には大規模な水害が発生しました。
 これを受けて、より大規模な改修工事が計画されますが、その指揮をとったのは、日本の治水港湾工事の始祖とも呼ばれる沖野忠雄博士でした。彼の考案した南郷洗堰(なんごうあらいぜき)は、瀬田川を浚渫し、川幅を広げ、そこに巨大な堰を設置することで、琵琶湖の水位を安定させ、宇治川の流量を調節するという画期的なものでした。この発想が実現に至ったのは、明治38年のことです。これによって、長年、巨椋池が果たしていた遊水池としての役割は必要なくなり、三川の合流部分の付替えが可能となります。
 淀の町の北側を通って、桂川に合流していた宇治川には、新水路が作られ、三川の合流地点は、下流へと移転されました。川幅は広げられ、新たな流路には、10km以上に渡って両岸に築堤が施されました。明治39年、工事が完了すると、巨椋池は宇治川と切り離された独立した湖となりました。


icon 6.死滅湖の時代



淀川と切り離され、長い水害の歴史から解放されるかにみえた巨椋池でしたが、思ってもみない新たな災難が、この地に降りかかります。独立湖となり、水の循環を失った巨椋池に、周辺から生活廃水や農業排水が流れ込むことで、水質が急激に悪化し始めたのです。底に溜まった汚泥によって、蚊が大量発生し、風土病とも言われたマラリアまで発生しました。昭和2年には、巨椋池沿岸19か村が、マラリア流行指定地とされます。
 水質の悪化は、当然、周辺の農家にも悪影響を及ぼします。また、宇治川と分離し、水位が低下したことで、池の魚類は減少し、漁獲量も減っていきました。農業者にとっても、漁業者にとっても、巨椋池での生活は立ちゆかなくなりつつありました。いわば、巨椋池は死滅湖となってしまったのです。
 こうした状況に対処する唯一の方法として、巨椋池では、干拓への機運が日増しに高まっていきます。干拓の構想は、早くは、明治初期からありましたが、沿岸部の利権者の調整が難しく、漁業権補償問題など、その実現には解決すべき問題が多すぎました。関係者の熱心な働きかけの結果、干拓が食料増産という直接的な効果とともに、農村での雇用機会の創出をもたらすことが重視され、事業が具体化に向けて動き出すのは、昭和に入ってからのことになります。

icon 7.巨椋池干拓へ



  昭和7年、国内初の国営干拓事業として、巨椋池干拓の実施が可決されると、翌年から事業が着工されました。池の水を汲み出すために、宇治川の側に排水機場をつくることから始められ、排水ポンプ10台によって、池の底であった約800haは陸地になり、そのうち634haが新しい農地として生まれ変わりました。あわせて、周囲の農地1260haの用排水改良も行われ、干拓田には、耕作のための道路や用排水路が整備され、巨椋池は、整然と区画された農地として生まれ変わりました。
 事業は昭和16年に完了し、昭和23年には、全ての干拓田の払い下げが完了します。干拓地の全面積が沿岸農漁民に払い下げられ、周辺農家約500戸は一挙に今までの2倍の約1.6haを持つ自作農となりました。つまり、干拓による利益の全てが沿岸住民にもたらされたのです。
 戦前戦後の食料増産時代には、この農地だけで3万石(4500トン)もの収穫を記録し、巨椋池に新たに生れた農地は、日本の食料事情に大きな貢献を果たしました。(
 現在では、都市近郊という立地を活かし、米はもちろんのこと、野菜や花きなどの生産を行う一大農業地帯として成長を続けています。

※・・・ 戦時中の米の配給量は、一日あたり2合あまりであったことから計算すると、巨椋池干拓地での増収分4500トンは、4万人以上もの人々の一年分の食料を担っていたことになります。