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1.はじめに
2.東播地方資源開発事業の概要
3.事業推進の経緯
4.国営事業発足の背景
5.鴨川ダム着工から完成まで
6.初代工事課長
7.現在
8.東条川農業水利事業の概要
9.国営造成土地改良施設整備事業の概要

icon 1.はじめに



兵庫県南部・播磨東北部の加古川左岸に位置する丘陵地帯の 灌漑用ダムとして、旧:上東条村黒谷地先(現:加東市)に建 設された『鴨川ダム』の湖底には、かつて戸数 7戸(51人)、 耕地面積 8町歩(田 7町歩、畑 1町歩)の戦後としては 豊かな暮らしの土井集落があった。
 大正13年、播州地方を襲った大旱ばつの救済対策に悩んで いた、旧:市場村長(現:小野市)の近藤準吉翁(国営東条川 地区の「兵庫県東播土地改良区」初代理事長 近藤 次(ヤドル) 氏の父)は有名な言葉を残し、本事業が着手された昭和22年 まで語り伝えられていた。
 『天恵の地形、土井は池になる!』と・・・。

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昭和22年12月撮影 土井集落全景
(正面中央の割れ目が鴨川ダム予定地)

 土井集落は四方を山ですっぽり囲まれた典型的な盆地であるが、1ヶ所だけ小さく裂けており、そこを遠慮がちに小さな鴨川 が流れていた。準吉翁はこの割れ目を塞げば立派な“池”になると言ったのだ。
 土井集落としてはその当時、全く迷惑千万な話であった訳だが、 戦時中にも、ダムが築造されて水上機の基地になると言いふらさ れるなど、土井の人達にとってはその当時から、永遠に安住の地 としての桃源郷を約束されていた訳ではなかったのである。

icon 2.東播地方資源開発事業の概要



 近藤準吉翁は、常習的な旱ばつ地帯である加東郡及び美嚢、加西、加古郡の農地6,000町歩に対する旧田の用水補給と新たに丘陵地の山林を開拓することにより、開田1,500町歩、開畑1,000町歩の農地を造成し、産米の増殖と農業経営の安定を図り、貯水 量の一部は工業用水として利用するため、用水源として東条川上流の大川瀬渓谷(現:大川瀬ダムの下流3㎞地点)に79,400千m3の東条川貯水池(主)、上東条村土井に11,070千m3の鴨川貯水池 (副)を築造し、ダム間の連絡導水路を経て、鴨川貯水池から幹線水路により地区内に送水すると言う大構想を立案し、昭和13年3月に「東播地方資源開発期成同盟会」が発足した。


icon 3.事業推進の経緯



 期成同盟会は事業の推進を図るため、関係四郡の町村長が状況し、関係各省に陳情嘆願すると共に、会長 近藤準吉氏が状況の上、加東郡選出の小林代議士を通じて「建議案」の提出を懇請した結果、昭和14年3月国会において採択された。
 これを受けて兵庫県議会も論議を尽し、県知事がしばしば現地を視察し地元選出県会議員が期成同盟会と共に推進に努力し、その計画実施の具体化が期待された。
 然し、昭和15年に入り支那事変は一段と戦局が飛躍して、遂 には昭和16年12月米、英に対し宣戦を布告し大東亜戦争へと発 展したため、地方開発事業は次第に影を薄め、一旦中止を余儀なくされた。


icon 4.国営事業発足の背景



 = 終戦 = 戦地からの復員者が国内に溢れ、津波のように襲ったのが“食糧難”である。 一にも増産二にも増産が叫ばれ食糧の国内自給体制の確立を急ぐことが国民の熱望であり、進駐軍 の占領政策でもあった。 日本政府が食糧の増産を至上とする時 機において、戦争のため葬られていた東播地方の土地改良、開拓事業が台頭してきたのである。
 時あたかも開発先駆者、故:近藤準吉翁の一子近藤 次氏は市場村長として自治行政に専念中であり、父:準吉の初志を実現せんものと真っ先に取り組んだのが東播土地改良事業の実現であった。
 次氏は兵庫県農地部の協力のもとに、地元選出代議士を通じて、政府と軍政部(G.H.Q)へ波状陳情を繰り返す一方、地元では 受益地区を決定して「東播普通水利組合」(兵庫県東播土地改良 区の前身)を結成した。
 ダム建設は食糧の乏しい混乱期に、封建日本の殻を脱却するための政策として採択された農地改革と相俟って、軍政部ベニー中尉等の現地視察を契機として、農林省が国営事業として採択することとなり、昭和22年5月に上東条村役場内に「国営東条川農業水利事業所」が開設された。
 ここに、期成同盟会の「夢」(土井集落の人達には「悪夢」 ) が現実となった訳であり、準吉翁が“池”構想に魅入られてから 実に20余年ぶりの出来事であった。


icon 5.鴨川ダム着工から完成まで



 昭和23年 9月 1日の「鴨川ダム調印式」を終えて、ダムの建 設は補償交渉の解決で勢いに乗った。
 昭和22~24年度までの3年間で39,000千円程の工事費を投入して仮設備工が完成し、コンクリート打設が本格的に実施できる基盤が整った段階で、昭和25年9月に軍政部からの「見返り資金」1億5千万円が転がり込み、工事は俄に活気づいて、築堤工事は 昼夜兼行という突貫工事を敢行、現場に常時250人の労務者が投入された。

 石英班岩というダム建設に恵まれた地質も手伝って、コンクリート打設(V=48,400m3)は順調に進み、着工して3年後の昭和 26年、有効貯水量 8,380千m3の鴨川ダムが完成した。
 (総工事費 314,353千円)

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昭和26年11月撮影 鴨川ダム湖面の全景
(土井集落は水の底なり)


icon 6.初代工事課長



 京都帝国大学を卒業後、農林省農地局に入省と同時に軍隊への 召集を受けた「故:梶木又三全国土地改良事業団体連合会々長」 〔兵庫県神戸市出身、元:農地局建設部長、元:参議院議員(3期 18年、元:環境庁長官&自民党参議院幹事長)〕は、四年半の軍隊 隊生活を終えて昭和21年夏に南方から復員し、その年の暮れに復 職の後、数人の仲間と一緒に上東条村天神(現:加東市)に、 この国営事業の調査班として乗り込み、以来、昭和22年 5月の 事業所開設を経て、昭和27年 3月までの5年半を「国営東条川 農業水利事業」の初代工事課長として鴨川ダムの建設(昭和23年 7月着工~昭和26年11月竣工)に貢献された。
 日本三大名湯の一つである有馬温泉の“中の坊瑞苑”は、氏の生家である。

icon 7.現在



 『鴨川ダム』は、俗称“東条湖”の愛称で親しまれ、西国三十 三ヶ所巡り第25番札所の古刹清水寺の麓に位置し、立杭焼の里と 共に「県立自然公園」に指定(1957.04/27)されており、酒米「山 田錦」の水源としては基より、湖畔は行楽地として多くの人に慕 われている。
 また、昭和62年度からは「国営造成土地改良施設整備事業」に より、鴨川ダム等のリニューアル化が行われている。

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平成9年3月撮影 鴨川ダム全景
(施設整備事業で改修されたダム、下流より望む)


icon 8.東条川農業水利事業の概要



(1)事業期間
  昭和22年度~昭和39年度
(2)国営事業費
   2,021百万円(対日見返り資金 174百万円を含む)
(3)受益地
 東条町、社町、滝野町(以上、現:加東市)、小野市、三木市
(4)受益面積
   3,021 ha( 旧田 2,522 ha、開拓 499 ha )
(5)主要工事
 鴨川ダム(総貯水量 8,676千m3)
 調整池 2ヶ所(船木池、安政池)
 頭首工 1ヶ所(東条川取入堰)
 鴨川導水路 5,338m
 幹線水路 17,210m(第1号 ~ 第5号)
(6)関連事業
   代行開墾建設事業  (昭和25年度~昭和30年度)
   県営かんがい排水事業(昭和31年度~昭和37年度)
   団体営   〃   (昭和27年度~昭和38年度)

icon 9.国営造成土地改良施設整備事業の概要



(1)事業期間
 昭和62年度~平成8年度
(2)国営事業費
 3,953百万円(土地改良事業3,663百万円、 受託工事290百万円)
(3)主要工事
鴨川ダム(堤体補修:導流部、堤頂部、鋼製ラジアルゲート 3門)
 調整池 2ヶ所(船木池、安政池)の取水ゲート改修
 幹線水路 3,650m(既設-水路内面 RC補強工法)分水工改修
 管理施設 1式(観測・警報局舎の新設、テレメータ化など)

【引用・参考文献】
1.「東条川工事誌」 農林省近畿農政局 1965/07/30
2.「東播土地改良沿革誌」 兵庫県東播土地改良区 1970/07/25