東播磨地域は、兵庫県南部の中央に位置し、明石市、加古川市、高砂市、稲美町、播磨町の3市2町からなっています。
気候は日本海側にくらべ、雨の極端に少ない(年間降雨量は1,100mmから1,200mm程度)典型的な瀬戸内気候地帯で、かんがい用水はもちろん、飲み水にも不自由するほどの干ばつ常襲地帯でした。そのためここに住んだ農民達は数多くのため池をつくり田畑を開墾してきました。
ため池が多い事で知られる香川県が調べたところ、農業用のため池の数としては、兵庫県が1位で43,962カ所で、香川県の2.7倍もありました。
いまから約2000年前、稲作が行われるようになった弥生時代には、すでにため池が造られていたといわれています。稲美町の天満大池の元となる岡大池は、白鳳3年(675年)に築かれたという記録が残っています。
この東播磨地域に多くのため池が造られるようになったのは、新田開発が盛んに行われた江戸時代から明治時代にかけてで、現在あるため池の多くは、この時代につくられたものです。
この地方の川沿いでは、古くから稲作が行われてたことが古墳や条里制の跡で知ることが出来ます。この遺構は大化改新以前、すでに条里制による土地の改良が進められていたことを示しています。
聖徳太子によって造られたとされる日本最古(推古14年(607年)建造)の取水施設五ヶ井。これは加古川下流の中州を利用して堰から水を引いたもので、東岸一帯200haを潤したと伝えられています。このようなかんがいの技術が稲作生産を発展させ、その結果、富の蓄積による巨大な古墳文化がこの平野に築かれていきました。
さらにこの堰は、室町時代に入ると5つの地域を潤したことから五ヶ井堰と呼ばれるようになり、その頃には700haもの水田を潤すまでに発展していました。そして加古川大堰が完成する1989年までのおよそ1400年もの間利用され続けていました。
このように、川沿いの低地の地域では川から水を引くことが可能で古くから用水施設が造られましたが、一方、川より高い台地へ水を引くことは当時の技術では不可能だったため、まったく手つかずの状態が続いていました。
平安時代、この地方の様子を、清少納言は枕草子で次のように歌っています。「野は嵯峨野、さらなり。印南野。交野。狛野……」これは、美しい野原といえば第一に嵯峨野を挙げ、その次に印南野、交野、狛野……がつづくという意味の歌です。「野」とは、人の手が入っていない未開の地であると考えられ、水が乏しいため田畑にされることはなく、まったくといって良いほど放置された草原地帯であったことを物語っています。
江戸時代、日本各地で新田開発が奨励されるなか、この印南野台地にもその波が押し寄せ、藩の支援のもと積極的に新田が造られていきました。その結果、ため池の数も増えていくことになります。中でも稲美町は町面積の7分の1がため池で占められていました。特に、この地域では、サイホン工法の技術が確立され水路が引かれるまでは、ため池が唯一の用水源でした。
万治元年(1658年)寺田用水が完成すると、和田、寺田、西谷、野辻、広岡、北野などの集落が誕生し、貯水量158万m を誇る加古大池の完成により、1,000石を越える新田を持つ加古新村が、また、宝永4年(1707年)大久保用水が完成すると、鳥羽、清水、森田、小久保といった村々が誕生していきます。このように次々と新田が開発され、印南野の荒野が次第に田畑に生まれ変わっていきました。古来より、川に水路を引くことによって、その沿岸に村が生まれていく様子がよくわかります。
○五ヶ井用水
聖徳太子によって造られたという我が国最古の取水施設が元で、北条之郷、加古之庄、今副庄、長田庄、雁南庄の用水となり五ヶ井用水と呼ばれています。
○新井用水
江戸時代、古宮組(現播磨町)の大庄屋今里伝兵衛が、藩主榊原忠次に願い出て明暦元年(1655年)着工、起伏の多い地形条件ながら延長14kmをわずか1年余りで完成、工事に動員された人数は延べ16万4千人にも及んでいます。まさに藩をあげての一大事業でした。
○上部用水
慶長5年(1600年)姫路城主、池田輝政によって進められ、60年後の松平直矩の時代に完成した井堰と伝えられ、昭和の初期には730haの水田を潤していたとされています。
○亀井堰
国包村(現加古川市)のかんがい用水を目的に造られた井堰で、当時国包村は加古川の氾濫に苦しめられたばかりでなく、日照が続く干ばつには、村人総出でハネツルベを使って朝夕かんがいするのが日課という有様で、国包村に嫁ぐ嫁はなかったと言われるほど悲惨を極めていました。この井堰は村の総百姓畑平六が私財を投じて文化13年(1816年)完成したとされています。現在は加古川大堰として改修されました。
○林崎掘割
明暦3年(1657年)和坂村の伊藤次郎右衛門と甲谷五郎兵衛他10の庄屋により明石川から鳥羽の野々池に水を引くことを計画、導水路の測量を一任された山崎宗左衛門は、提灯の明かりで土地の高低を水盛りし、通水が可能なことを確認します。請願を受けた時の城主松平忠国は突飛な工事を不安に思い、容易に許可を与えなかったのですが、度重なる陳情と農民達の命をかけた固い決意を知った忠国は遂に許可を与え、明暦3年の冬に開始し翌年の春の田植えまでに巾1.5m、延長5,374mの掘割溝(手堀りの水路)を完成させました。まさに農民達の執念がなせる事業でした。取水口は現神戸市西区平野町で、印路の山裾を縫って野々池に達しています。忠国の子信之は水路の修理のために年1千人の人夫と田約6反を与え修理費を出しています。いかに藩として重要視していたかがわかります。
○伊川谷村水路
寛文11年(1671年)生田村の庄屋源左衛門、年寄三良兵衛が築造した、神戸市西区伊川谷町から別府、生田を経て本市太寺に至る5,622mの導水路。伊川の取水堰から包丁池、平池に注いで新池に達しています。
■今も行われる江戸時代の節水慣行「段水」(きだみず)
現在の加古大池畦塗りが済むとその地区の委員が漏水しないことを確認してから ようやく田植えが許され、池からの放水には、あらかじめ写真の ような杭を法面に打ち、6寸(約227mm)ごとに段板をつけ、 これを一段(ひときだ)と呼び、ため池掛り一段で一巡して放水 を停止します。放水の開始時期、順番、雨の時の措置など池独自 の規約が定められ、厳しい節水の慣習が今も引き継がれています。 いかに水を大切にあつかっているかが理解される慣習と言えます。
水不足から開発が遅れていた印南野台地にもようやく周辺の川を取り込み、台地の開発が進展していくことになります、しかし、当時の複雑な水利権により低地河川からの分水が認められたのは、かんがい期以外に限られていました。また、水源地と受益地の領主が異なることも大きな障害でもありました。
しかし、明和8年(1771年)の実地測量の結果、既に淡河川からの導水が可能であることを確証しています。その後、文政8年(1826年)、明治5年(1872年)と地元の有力者が何度も測量、計画、設計を行い請願を繰り返しますが、工事規模の膨大さと資金難に加え、当時の技術からは不可能とされていました。
この間、この地方に情け容赦のない三つの災難が襲って来ることになります。
○三つの災難
文政年間(1804~1817年)以来、姫路藩は綿が米に匹敵する重要な換金作物だったことから、この地方に適した綿の栽培を奨励していました。ところが、慶応から明治初年にかけて干天による凶作が続き、畑は枯渇、土地は荒れ果て離村する人が相継ぐという災難に襲われます。
さらに、明治時代にはいると、生活の糧としていた綿栽培が安い輸入品に押されて販路が激減、収入の道が途絶えるという状況に見舞われます。これが2つ目の災難で、農民の暮らしは日を追う毎に窮乏を極めていきます。
そこにもう一つ、深刻な災難が突如降りかかってくることになります。明治11年(1878年)の地租改正です。不公平をなくすために行われたはずの地租改正が、この地方には従来2円~3円でも買い手がない土地に23円もの地価評価額が下り、税金が一挙に2倍から3倍に跳ね上がりました。再三に渡る租税額減免の哀訴の声も届かず、税金の取り立てはますます厳しくなるばかりでした。
渇水による凶作が天の災難、綿花の単作栽培が裏目にでるという地の災難、そこに税金という人が創った制度の災難、この天・地・人、まさに三重の災難が同時に押し寄せてきたわけです。税が納められず、土地が公売された者219名、先祖からの土地を売って税を納めた者94名、土地、家屋を売り、亡産した者197戸、人口は約800名。これは、実に印南新村の七分の四の戸数だったといいます。
郡史が巡視途中、ある農家を訪ね、年老いた農夫が煮ていた土釜を覗くと、中には一粒の米すら見当たらず、刻んだわらが煮られていたという、まさに創造を絶する試練にさらされていたのでした。
いよいよ、耕地の大半を占める荒畑を一刻も早く水田化することが、村の存亡をかけた最重要課題となってきます。
○播州葡萄園の誘致
もはや、だまって餓死するか、村を離れるか、さもなくばこの地に水を引き、米を作る以外に生きる道は残されていません。すなわちそれは、山田川疏水を引くことを政府に迫ることでした。疏水発起者である魚住完治は2度に渡る請願を県に繰り返します。しかし、いずれも莫大な工事費をどう工面するかが唯一の問題となり暗礁に乗り上げます。重税にあえぐ村民に負担能力があるはずもなく、国庫金を当てにしますが無碍もなく却下されます。それならせめて税の軽減あるいは免除を嘆願しますが、一度決めた制度がそう簡単に覆ろうはずがありません。
時の明治政府は殖産興業に力を入れていました。農業振興の一貫として国産ワインの醸造に乗り出します。用地選定のため兵庫県に巡視の報を知った加古郡長北条直正は、税金対策として国営葡萄園の誘致に乗りだします。(そのときに用地として買い上げられた土地の値段は6円50銭。内50銭は郡長の私財により捻出しています。いわば公示価格が23円だったにもかかわらず政府の買い上げ価格はその4分の1の価格でした。のちに不当な税にたいして地租が修正され、税の延納が認められることに繋がります。)そして明治13年(1880年)国営播州葡萄園の開設にこぎ着け、土地を売った費用で税金を納付、その見返りとして、明治19年(1886年)山田川疏水事業にたいして国庫金が貸与され、事業が動き始めたのでした。後に、淡河川に水源を変更し、ようやく明治21年、念願の台地への導水、淡河川疏水事業の第一歩が踏み出されることになりました。水路の総延長26.3km。途中28ヶ所(延長5.2km)に及ぶトンネルの掘削は難工事を極め、ようやく3年と4カ月の歳月をかけて明治24年完成しました。文政年間に計画された悲願の疏水計画は、農民達の三重苦の代償としてようやく完成をみることが出来たのでした。そしてその時すでに計画から70年目の歳月が流れていました。
この地方は地中海式気候地域であり降雨が極端に少ないことは紹介しましたが、それに加えて、各河川の水源地流域は樹木が育ちにくい花崗岩、石英粗面岩、流紋岩の土壌でできており水源涵養の能力が極めて乏しい自然環境でもありました。農業での水不足はもとより、昭和の30年代以降の人口増加に伴って、水道用水の不足が各市町村で深刻化してきました。このような時代背景のもと、この国営事業は当初より水道用水との共同開発が前提となって計画されることになります。
東播用水は、ため池群をベースに、篠山川、東条川、美嚢川の三川上流にそれぞれ川代ダム、大川瀬ダム、呑吐ダムの三つのダムを築造し、三川それぞれ分流(流域変更)し、導水路でつなぎあわせるという、希有卓越した広域水利開発事業でした。
天の授かりものである「水」。それは、辛苦に耐えた蒼氓の民にとってはまさに血の一滴に等しい宝物。一滴の水さえおろそかにしてはいけないという住民の叡智と協調、和合の精神が、この複雑な水利権を解きほぐし、東播用水という強くて太い一本の大河を創造したのでした。まるでそれは、豊かな水が永遠に巡るメビウスの輪のようでもあります。
この広域水利ネットワークと緻密な水管理システムにより、7,650haの受益地をくまなく潤すとともに、神戸市をはじめとする7市6町、約50万人の水道用水として供給するという壮大な地域総合開発事業でもありました。人々はこの東播用水を「新たな加古川」と呼び、完成を喜んだことは言うまでもありません。
約10年に及ぶ綿密な調査のもと、昭和45年着工、平成5年の完成まで実に23年間という長い歳月と1,400億円を越える巨費が投じられました。
■日本で初めて鋼管を使用した農業用水路「御坂サイホン水路橋」
淡河川疏水は、途中三木市内で志染川と交差する谷を越えなければなりません。そこで農業用水路としては、国内で初めて鋼管を使用したサイホン工法が採用されました。この工事はイギリス人パーマーが設計監督にあたり、明治19年(1888年)着工、明治24年に完成しました。この時サイホンに使用した鋼管はイギリスに注文して制作したもので、管の直径は96cmの巨大な鉄管を使用しています。また、水路橋の外装には間知石を用いたアーチ式の美しい造形美を誇っています。その姿は現在も東播台地の農地と景観を潤しています。
受益地
神戸市(一部)、明石市、加古川市、
三木市、吉川町、稲美町
受益面積
水田7,510ha・畑地140ha・
山林の開畑、水田の区画整理390ha
主要工事
川代ダム、大川瀬ダム、呑吐ダム
北神戸第一段揚水機、北神戸第二段揚水機、
大沢第一段揚水機、大沢第二段揚水機
用水路(総延長110.3km)
その他かんがい施設
道路
農用地造成工