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1.「吉野川・紀の川」この豊かな水を豊かに使う
2.大和豊年米食わず
3.大和平野への分水計画
4.紀州の思い
5.「紀の川に注ぐ水は、たとえその一滴たりとも余人の勝手は許さず」
6.農は国家の礎なり
7.豊かな紀の川を豊かに使う
8.そしてプルニエ協定へ
9.十津川・紀の川土地改良事業概要

icon 1.「吉野川・紀の川」この豊かな水を豊かに使う



 国営十津川・紀の川土地改良事業は、いわゆる「吉野川分水」と呼ばれる広域利水開発事業であり、昭和25年に着工し、以来30有余年の歳月を経て完成しました。
 事業地域は、奈良・和歌山両県の大和平野、紀伊平野にまたがる面積約21,000haの水田地帯です。大和平野は、盆地の中央を流れる大和川が主な水源ですが、流域が小さいうえ年間降雨量が1,300mm程度と大変少なく、大和平野を潤すことが困難でした。一方、紀伊平野は、上流に我が国でも最も降雨量の多い大台ヶ原を集水域とする紀の川を水源としていますが、度重なる洪水による水害に苦しめられたり、取水施設の不備などにより用水不足にも苦しめられていました。
 このような深刻な用水不足を解消するためには、豊富な流量をもつ十津川・紀の川を総合的に開発し、貴重な水資源を高度に活用することが必要でした。
 目の前を流れる豊かな水量の吉野川・紀の川、奈良・和歌山両県の農民達の300年に渡る苦闘の歴史は、まさにこの川の水の分配を巡る争いでした。
 この事業は、十津川・紀の川をダムによって水源開発し、流域変更をともなった総合的な水配分により紀伊・大和両平野へ供給するという壮大かつ画期的な大事業でした。これにより長年の苦闘の歴史に終止符が打たれることになりました。



icon 2.大和豊年米食わず



 このことばは、大和の天候が順調であると他の地方は雨が多く不順な年となり、他が豊作であれば大和は干ばつに苦しむ、つまり、大和平野の農業用水の水不足をいいあらわしています。
 この地方は、もともと少雨地帯であり、大きな河川に恵まれず、水源のほとんどを溜め池に頼ってきました。ところが、山ひとつ隔てれば、日本有数の大河・吉野川(紀の川)が流れています。しかも、大台ケ原など最も雨の多い流域は奈良県。そこに降った雨のほとんどが紀州(和歌山県)に流れていく。なんとか吉野川の水を大和平野へ引けないものか(分水という)。これが大和平野の農民のかなわぬ夢でした。



icon 3.大和平野への分水計画



 この吉野川分水計画は、すでに江戸初期(元禄年間)、高橋佐助によって提案されています。寛政年間(1700年代後半)には角倉玄匡(すみのくらはるまさ)による実地調査、また、幕末に立てられた下渕村の農民や辰市祐興らの分水計画を元に、明治政府が現地調査も行っています。
 まさに、吉野川分水は江戸から昭和にいたる300年の間、浮かんでは消え、消えては浮かんだ大和平野の歴史的悲願だったのです。



icon 4.紀州の思い



 「冗談じゃない」というのが紀州の言い分でした。降る雨は奈良県のものかも知れないが、洪水の被害をこうむるのは紀州だ。
 紀の川(吉野川)は、歴史に名高い暴れ川でした。一年に二度の割合で大洪水が和歌山城下を襲い、幾万という人が亡くなっていました。それに紀の川は河況係数が3,740(最大流量と最小流量の割合)と日本一大きい川でした。降れば大洪水、日照れば大渇水。
 十万人の農民が鐘を打ち鳴らし庄屋を襲ったという文政6年(1823)の百姓一揆は、干ばつに苦しめられてきた農民の怨嗟が爆発したものです。
 「渇水に苦しんできたのは大和だけではない。こちらは、水害と渇水の両方に耐えてきたのだ」。
 大和の悲願、紀州の苦闘。それは永遠に歩み寄ることもできそうにない歴史的矛盾でもあったのです。


icon 5.「紀の川に注ぐ水は、たとえその一滴たりとも余人の勝手は許さず」



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和歌山県側、吉野川分水地を実地視察
(昭和4年4月18日付大阪毎日新聞)

 奈良県は、明治のはじめになると吉野川分水の代案である宇陀川分水(木津川水系)の計画を立て工事を開始しますが、事業半ばで挫折します。再び、明治18年には、分水の調査計画が県会で議決されたほか、日清、日露、第一次大戦を経てますます食糧増産の機運が高まるなか、大正4年、大正15年、昭和4年、昭和16年と度重なる提訴運動を繰り広げ、第1次水紛争から第4次水紛争へと展開しました。
 何としても大和平野へ水を引きたいという悲願、余剰水でも洪水時の水でいいから分けてもらえないかと再三にわたる交渉を重ねますが、いずれも根強い反対、金融恐慌による財政事情等により計画は頓挫しました。しかし、奈良県側も諦めません。反対を唱える紀伊平野の農民の実情を知ることが必要と考え、紀伊の水需給を調査します。その結果、大和平野と同じように、慢性的な水不足で悩んでいることが判明。計画が持ち上がる毎に、ムシロ旗を立てて反対してきた農民の真意が判りました。紀伊平野の農民も大和平野と同じ苦しみを味わってきたのです。
 このことから、「吉野川分水」は、大和だけではなく、紀伊平野の用水不足をも解決する総合的な利用計画でなければ実現は不可能であるという認識に達したのです。



icon 6.農は国家の礎なり



 国やぶれて山河あり。終戦後の国土復興には食糧の増産と資源の開発が急務となりました。
 昭和22年、復興国土計画要綱に、全国12水系における水資源の総合開発が盛り込まれます。この12水系のなかに十津川および紀の川が含まれていました。 水量の豊かな十津川および紀の川を、総合的な利用計画に基づいて開発する。この計画の目的は、アメリカのテネシー川流域開発(T.V.A)における輝かしい近代土木技術の成果を国内に導入することにありました。
 当初この事業も和歌山県側の反対にあいます。しかし、県境を越えた総合利水の立場から計画が進められ、両県の話し合いが進展、ついに「十津川分水計画共同委員会」の発足をみたのです。この「十津川・紀の川総合開発計画」は、やがて、大和・紀伊両平野の農業用水不足の解消に加え、水力発電、さらには上水道用水、工業用水などを確保するという高度利用が図られ、国家の一大プロジェクトとして位置づけされることになります。



icon 7.豊かな紀の川を豊かに使う



 十津川・紀の川総合開発計画は、水源施設として、紀の川水系に「大迫ダム」「津風呂ダム」「山田ダム」を築造。さらに、熊野灘に流れている十津川水系に「猿谷ダム」を建設し、このダムの水をトンネルで山を越えて紀の川に流しこむ(流域変更)。あわせて、紀伊平野の取水施設を近代的な堰に改修統合(井堰の統合)することで水資源の有効化を図るというものです。一方、大和側の用水は、吉野川の水を下渕頭首工で分水し、トンネルで大和平野に運ぶという稀有壮大な計画でした。
 小説「紀ノ川」(昭和39年)では、主人公が、洪水対策に奔走する夫に「豊かな紀ノ川を豊かにつかわんで、水が怒るんと違いますかのし」と語る場面があります。小説家ならではの奇抜な表現ですが、確かに水量の多い紀ノ川を「豊かに使えば」洪水も防げるはずです。
 「十津川・紀の川総合開発計画」は、その後の日本における水資源総合開発の手本ともなった秀逸な計画でした。



icon 8.そしてプルニエ協定



■事業年表
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 3カ年の調査期間を経て、いよいよ事業の開始が迫ってきます。この間数回に渡って協議会が開かれ、事業の施工順位などが取り決められました。そして、昭和25年6月、ついに正式調印されることになったのです。
 この会議は京都の元京都祇園演舞場(プルニエ)で開かれたことから、ここでの協定は「プルニエ協定」と呼ばれています。300年の悲願達成。まさに歴史を動かした一瞬でした。


icon 9.十津川・紀の川土地改良事業概要



■事業概要図
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■受益地・受益面積

奈良県
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和歌山県
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■主要工事
ダム4カ所
大迫ダム:有効貯水量26,700,000m3 河川名:紀の川(吉野川)
津風呂ダム:有効貯水量24,600,000m3 河川名:津風呂川
山田ダム:有効貯水量 3,370,000m3 河川名:野田原川
猿谷ダム:有効貯水量17,300,000m3 河川名:十津川
※国土交通省所管

頭首工6カ所
下斑頭首工、西吉野頭首工、小田頭首工、藤崎頭首工、岩出頭首工、新六カ頭首工