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国内初の国営干拓事業 ―京都府 巨椋池干拓事業
近畿エリア
戦後の国営事業





秀吉による開発



巨椋池の流域面積
古代〜秀吉伏見築城以前の巨椋池
 
秀吉伏見築城〜江戸期の巨椋池
 巨椋池が大きな変貌を遂げるのは、安土桃山時代の1594年、豊臣秀吉によって伏見桃山城の築城が始まって以降のことです。関白の座を秀次に譲った秀吉は、伏見に巨大な城を築くと、そこへ移り住み、全国の大名の屋敷まで城下に建設しました。現在も、伏見の桃山には、毛利長門、井伊掃部、鍋島など当時の大名の名が地名として残っています。
 この伏見での築城は、軍事的にも商業的にも、京都と大阪をより緊密な関係で結ぶ戦略であったことは言うまでもありません。伏見から大阪までの淀川の勾配は極めて緩く、水量も多いため、川を整備すれば、大きな船もここまで入ってくることが可能でした。
 さらに、伏見の町を洪水から守るために、幾筋もの河道に別れて、いったん巨椋池へと流入していた宇治川を巨椋池と切り離す大事業が行われます。図が示すように、宇治川は槙島堤によって北へ迂回する形となり、巨椋池とのつながりは、淀付近のみとなりました。さらに、伏見城下の南には現在の観月橋が渡され、太閤堤の上には京都と奈良を結ぶ大和街道が造られました。
 秀吉は、この工事の後、四年ほどで他界しますが、その後の伏見は高瀬川の開削などによってさらに整備され、幕末まで、西国と京都を結ぶ港として極めて重要な役割を果たしました。稀代の土木家でもあった秀吉の最後の大事業が、現在の河川景観の基礎を築いたといえます。



京都府 ―巨椋池干拓事業