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1.愛知川地域の水利環境
2.稲作社会は「水社会」
3.永源寺ダム事業化の曲折
4.永源寺ダムによる恩恵
5.補助水源として登場した愛知川頭首工
6.国営愛知川農業水利事業等の効果
7.国営湖東平野農業水利事業に着手
8.大規模ほ場で展開するブランド農業
9.永源寺ダムとほ場整備に感謝
10.先人の遺産を未来に継承
11.事業概要

icon 1.愛知川地域の水利環境



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位置図
 愛知川地域は、水利的にみて二つの地域に大別される。一つは、愛知川中下流沿いに開ける比較的低い沖積平野の地域(下の段)であり、一つは愛知川の上流から扇状に開ける沖積平野より10〜30m高い洪積台地・段丘(上の段)である。前者は低地であるが故に、水が得やすく早くから水田が開かれていた地域である。ここに、いわゆる10ヶ井堰と呼ばれる池田井・外井・高井・青山井・鯰江井・駒井・吉田井・愛知井・黒内井・安壺井があり、なかでも駒井、高井などは朝鮮からの帰化人によって築造されたものといわれている。これらの井堰も愛知川の洪水によって度々流され、安定した取水を行うのは容易ではなかった。後者は、台地上に立地するために、古くから水利の便が悪く、水田が開けたのは江戸時代以降といわれ、近年まで大豆、茶などの畑作と稲作とが輪作で行われている。ここには数多くの溜池が存在するが、これは、彦根藩の築造によるものが多いとされている。
 湖東平野は、日本でも有数の水田地帯である。畑の割合が極端に少なく、大部分が水田であるという点で、水利事情はまことに厳しい。とくに、愛知川が平野部に開口する永源寺ダム地点で、131k㎡の山地流域をもつのに対し、灌漑すべき水田は約8,000haといわれている。この水田面積に対する山地面積の割合は約1.5倍強となる。
 愛知川流域は、このような自然環境と稲作中心の営農形態であるが故に、水利の条件は全国的に見てもとくに厳しい地域といわなければならない。ちなみに、一日にどれだけの用水が使えるかという減水深をみると、永源寺ダムが当初計画された時点で11mm/日、ほ場整備済みの計画変更後で19mm/日、現在(平成24年時点)で20mm/日である。


icon 2.稲作社会は「水社会」



 畑作農業と異なり、自然流下型灌漑方式をとる水田では、地域の上下流によって、水利用の難易・優先順位が定まり、上流は常に下流に対して優位に立ち、このために下流側は水利的には常に不利な立場に立たされる。一方、古く開発された水田は、新しく開発された水田に対し、水利的に常に優位な立場に立つことができる。この上流優位、古田優先の原則は、水田開発が進むにつれ、より強固なものとなるが、同時に下流地区・新田地区からの水に対する要求も強くなり、種々の約束が行われることとなる。これがいわゆる「水利慣行」の成立である。この慣行は、程度の差こそあれ、わが国の水田地帯ではどこでも見られる一般的な慣行であり、時として水利条件の厳しい状態になると、これらが破られ、水利紛争に発展するのである。稲作社会では、この水利慣行に縛られて種々の人間関係が形成されてきたのである。 このような、水利開発が基本となって、基本的なわが国の政治・経済体制が形成されてきたと考えられる面が強い。農業水利問題を単に技術的な問題としてではなく、文化的・社会的・経済的な立場から広く研究しておられる王城哲教授らは、これらの稲作における水利慣行が基底となって社会の発展の基本的役割を果たしているとし、「水社会」と呼んでいるのである。
 水利環境の改善は、単に水田用水を確保し、土地及び労働生産性の向上に寄与するばかりでなく、広く地域社会の発展、更には人間関係の改善、人格の矯正にまで有効に働くことが理解できよう。まことに水利環境の改善の効果は偉大なのである。このことこそ、水利開発の最も大きな役割として評価する必要があるのではなかろうか。

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ダム送水までは大切に使われていた堀井戸
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ほ場整備前の水田



icon 3.永源寺ダム事業化の曲折



 この地は、山脚部から平野に開けた水田地帯で、近江米の主産地としての大きな役割を果たしてきたが、この地域の農業の土地基盤からみた環境は決して好ましいものではなかった。すなわち、河川の流水は、洪水時には河川から氾濫し水田に被害を及ぼしながら一時に琵琶湖に流入し、渇水時には伏流して河道から姿を消してしまい、また、この伏流水は平野部の各所に沸出し、冷水障害と過湿状態を招くという農業用水としては極めて利用し難い状態であった。このような農業環境のもとで米作を続けるため、干ばつのたびに井戸が掘られ、溜池が築かれ、ついに井戸の数が2,600ヶ所を越えるようになった。 こうした不安定な水利事情から脱却するため、終戦直後より国等の関係機関に要請し、昭和27年(1952)には国営事業の開設を見るに至った。 以来、ダムの位置や工法等の再検討、水没3集落213戸の移転対策など紆余曲折、幾多の難関を克服しながら同40年(1965)にはダム定礎式が行われ、同48年(1973)から国、県、団体営の施工済用水路を利用して、部分的ながら受益地域に送水かんがいの恩恵を受けて今日で40年を迎える。

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永源寺ダムサイト原景

icon 4.永源寺ダムによる恩恵



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昭和47年(1972)に完成した永源寺ダム
 この厳しい水利環境のために、独特の人間関係・社会関係が形成されてきたように思われる。例えば、井堰関係に長年たずさわっている古老の話によると新郷井では、川上と川下では縁組は全く行われなかったようである。同一井をめぐる上下流の対立の厳しさが社会制度に影響した実例といえる。このように不安定な水源では水争いが絶えなかったため、安定水源を確保し食料増産を図る必要から、昭和27年(1952)に永源寺ダム建設計画が樹立された。このダム湖底には佐目、萱尾、九居瀬、相谷集落の213戸の家屋が水没となり、大昔より住み慣れた故郷を離れるには忍びがたいことであったが、格別の理解と協力によって隣近所それぞれ移住先は異なったが移転された。
 そのおかげで昭和47年(1972)に大貯水湖「永源寺ダム」が完成し、水利環境は改良され水事情は一変した。それまで愛知川の10ヶ井堰から取水していた用水は、永源寺ダムから統一して送水され、愛知第一・第二・蒲生・神崎の4幹線水路によって末端の水田まで送水されることとなり、全域のほ場整備 も完了した。水利環境の改善は、単に水 田用水を確保し、土地及び労働生産性の 向上に寄与するばかりでなく、広く地域 社会の発展、更には人間関係の改善、人 格の矯正にまで有効に働くことが理解で きよう。まことに水利環境の改善の効果 は偉大なのである。このことこそ、水利 開発の最も大きな役割として評価する必 要があるのではなかろうか。

icon 5.補助水源として登場した愛知川頭首工



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愛知川頭首工
 国営付帯県営かんがい排水事業は、国営事業の第1回計画変更と同時に法手続きが進められ、昭和43年6月、事業計画が確定した。このなかに、永源寺ダムの補助水源として愛知川頭首工が、本総合開発計画のなかに初めて登場し、用水補給量の増大に対処することとなった。県営支線水路は国営幹線水路の大幅に変更された形態に合わせ、35路線、総延長119kmが計画された。またそれに付属して末端の補助水源としての集水渠4ヶ所、河川からの揚水機1ヶ所、および溜池2ヶ所(新設、改修)なども計画された。
 昭和43年の国営事業は、永源寺ダムの水没者移転が遅延したことから、築立を一時中断し、幹線水路4本に一斉に着手した段階であったため、支線水路の着工はよく44年に持越 し、県営事業の初年度は愛知川頭首工から着手することとなり、43年12月11日に起工式挙げた。
 国営事業第2回の変更計画によると、愛知川頭首工の役割は、全受益地の年間補給量183,683千㎥のうち、永源寺ダム98,820千㎥(54%)につぐ29,241千㎥(16%)を供給する重要施設であり、永源寺ダム下流流域45.1k㎡の表流水を取水しようとするものである。全受益地7,957haのうち3,363ha(42.4%)の地域に対し、頭首工から最大約3.1㎥/sを取水し、これを左右両岸の県営連絡水路で国営神崎幹線および同愛知第二幹線に導水するものであり、愛知川の時流を最大限に活用することによって永源寺ダムからの供給量を節減する計画であった。

icon 6.国営愛知川農業水利事業等の効果



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写真 大幹線大分水工
(パーシャルフリューム型)
 永源寺ダム及び県営愛知川頭首工の建設、並びに175kmに及ぶ幹支線水路など、大規模な水利施設の出現によって、過去の慢性的な用水不足から解放され、基幹作物の水稲や野菜等の営農活動の自由度が増し、収量の安定や品質の向上が図られている。
 また、用水の安定供給は、ほ場整備の事業化など基盤整備の促進を加速させ、農政の課題である「担い手・経営体の育成」や「集落営農の推進」が進められている。
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写真 愛知第1幹線水路
(宇曽川水管橋)
 水利施設の維持管理面においても、これまで愛知川の地域の水源毎に伝承されてきた水利秩序は大きく変革しました。
 国営事業の実施により、これら施設並びに用水の管理は昭和33年設立された愛知川沿岸土地改良区の管理に移行し、地域の管理労力が大幅に節減され、その余剰労力は近傍の工場等に投入され、農外所得の増加にも貢献しています。
 農業用ダム管理の結果として、間接的に洪水調節の機能についても期待され、かんがい用水の安定送水による地下水の涵養は、かんがい用水としての再利用と上工水への活用を通して企業活動を支援しています。

icon 7.国営湖東平野農業水利事業に着手



 愛知川沿岸土地改良区での農業用水対策は、1950年(昭和25年)に滋賀県愛知川総合開発の調査が始まり、1952年(昭和27年)に国営愛知川事業が着手され、永源寺ダム建設によりスタートしました。
 ダム湖内には3集落213戸の水没家屋があり、大昔より永く住み慣れたふる里を立ち退きして頂くことに格別の理解と協力を頂き、1972年(昭和47年)に一万農家が待ち望んだ永源寺ダムが完成し、翌年度から受益地の一部に送水が始まりました。同じくしてほ場整備は急ピッチで進み、品質改良や営農形態の変化と共に近代農業が始まり、今日まで近江米の産地湖東平野2市2町の水田7,000haは、守られてきました。
 農業用水は地下水をかん養し、上水や工業用水の源となるほか、防火用水や生活用水、親水空間の保全などにも利用されています。また、水田は、洪水時には貯水池の役割を果たし、洪水被害の軽減にも寄与しています。このように、農業用水は地域において、多面的な役割を持ちあわせています。
 ところが、水田の汎用化に伴う用水量の増や、品質向上米生産のためのかんがい期間の延長などで水需要が増大し、さらに地球温暖化の影響による小雨化や猛暑などで用水不足となっていますが、近江米の美味しい米づくり、売れる米づくりには安定した用水が必要です。
 一日も早く用水不足の解消を図り安心して水田農業を営むことが出来るように本事業が計画されました。
○国営事業(末端支配面積500㏊以上)
【事業量】
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○関連事業(末端支配面積500㏊未満)
【事業量(県・団体営)】
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icon 8.大規模ほ場で展開するブランド農業



 永源寺ダムからほど近い、愛知川左岸の市原地区。長年懸案だった新蛇砂川の実現で8集落がみごとに団結し、広域営農を実践中です。
 この市原地区では、昭和54年(1979)に市原土地改良区が設立され、ほ場整備事業に適応した市原支線用水路の延長や灌漑排水事業に精力的に取り組んできた。そして、この基盤のもとに生まれた土地改良区営農部会が平成16年(2004)、市原地区布引営農組合として新時代の営農を志す新たなスタートを切った。「土地改良区で皆が熱く語り合い、手がけてきた事業の根本精神が、営農組合に引き継がれたからこそ今日がある」と組合幹部らは口々に語る。「市原米」「布引メロン」など、売れる産品づくりへの取り組みも進んでいる。農家の兼業化が進み、後継者不足に悩む農家も多かったが、ほ場整備のおかげで大型農業機械、無人ヘリなどを導入した営農が展開されている。こうしたオペレーション業務の主体は若者が担うようになっており、若い後継者が育とうとしている。
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営農組合がすすめるメロン栽

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無人ヘリを利用した近代的な営農が推進されている


icon 9.永源寺ダムとほ場整備に感謝



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 愛知川右岸愛荘町東円堂地区には明治時代、東円堂では「三日天気が続けば、はねつるべ」といわれ、水利は「はねつるべ」によって地下水を人力で揚水するのが常であった。そのために水田三、四枚ごとに必ず井戸があり、「はねつるべ」を用いた。「1日に1cm位の減水の場合、1畝あたり50〜200回の水汲みを必要とした」(『愛知川水利史』)というから、大変な労力であった。
 地域の古老はいう「いま振り返れば、稲作に従事するわれわれには、水利に関して二つの大革命がありました。一つは永源寺ダム完成による用水整備のおかげで大規模なほ場整備が進み、併せて安壷川の改修、中部排水路の整備により安心出来る集落となり、農業も大きく変わった。これに遡る最初の大革命は、動力による灌漑用の揚水ポンプができたこと。大正時代の末頃でしょうか。あの大変な『はねつるべ』から解放されたのですから、どんなにありがたかったことか。昭和6年か7年にきつい大旱魃があって、日照りで次々と割れていく水田に小学校全生徒が総出で、やかんに水を入れてヒビ割れにかけたそうです。旱魃の最中、その程度では何ほどの足しにもならないですが、しかし気持ちはよくわかります」と。
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ほ場整備前の東円堂全景(昭和36年5月)
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ほ場整備後の東円堂全景(昭和59年3月)


icon 10.先人の遺産を未来に継承



 内野地区は近江八幡市のなかで愛知川の水を利用しているただ一つの地域です。地形的にこの地は地盤が高く、愛知川の水を使う最後の集落です。そのほかは琵琶湖の用水を利用しています。昔から養蚕業が盛んで、県下で一番の収穫量を誇っていました。ですからあたりは桑畑ばかりでした。しかし逐次、水田として開墾が進められていきましたが、水が確保できませんでしたので、八日市の小脇というところの湧水が唯一の頼みでした。
 その地下水を利用して稲作をしました。干ばつのときに夜昼問わず水当番の役を決めて、順番にお世話をしてきました。ダム用水と舟岡集水渠の施工により用水が確保され、そのおかげでほ場整備事業が完成しました。 どの地域も直面していることだと思いますが、やはり後継者がいないのが一番大きな問題です。水確保のために先人が蓄積してきた遺産を大切に受け継ぐことが、これからの農業の担い手を作ることにつながるのではないでしょうか。
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船岡集水渠

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内野地区集落

icon 11.事業概要



(1)関係市    東近江市、近江八幡市、愛荘町、豊郷町
(2)受益面積  6,877㏊
(3)主要工事  永源寺ダム: 重力式コンクリートダムとフィルダムとの複合ダム
              堤高 93.5m  
              堤長 392.0m 重力部272.0m フィル部120.0m
              有効貯水量21,984,000㎥
              計画洪水流量1,840㎥/s
          愛知川頭首工:コンクリート固定堰(土砂吐ゲートあり)
              堤高 1.2m
              堤長 可動部105.10m 固定部42.1m
              取水量 3.07㎥/s
              計画洪水流量 2,800㎥/s
(4)実施時期   国営かんがい排水事業愛知川地区 昭和27年度~昭和58年度
        国営かんがい排水事業湖東平野地区 平成26年度~平成34年度
                                            (完了予定)
○写真提供(出典) 愛知川沿岸土地改良区:
          愛知川沿岸土地改良区編「えちがわ-60年の歩み-」