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1.筑後川中流地区事業概要
2.農業水利開発の歴史的変遷
3.筑後川中流農業水利事業発足の背景,経緯及び効果
4.筑後川中流農業水利事業の概要

icon 1.筑後川中流地区事業概要



 本地区は筑後川の夜明狭窄部から久留米市までの両岸に広がる平野部に水稲を中心として苗木,植木,麦をはじめ, きゅうり,トマトのハウス栽培が盛んに行われており,福岡県下でも有数の農業地帯となっています。

 本地区の農業用水は,江戸中期に筑後川本流に築かれた大石堰,山田堰,床島堰からの取水を主水源としており, その他,筑後川に流れ込む小河川や地下水を補助水源として,かんがいが行われていました。

 各井堰掛かりの受益は筑後川に沿って上流から下流にかけて広がっており,末端受益地までかんがいするためには長大な延長の用水路を必要とし, 大部分が空石積みや土水路であったため漏水等による用水の配分や水路の維持管理に多大な経費を要していました。

 また,本地域の排水は,地域内排水河川が未整備であったため,しばしば湛水被害を起こし,更に用排兼用水路が多く, かんがい用水の反復利用も行われていたために,地区内に排水不良地帯を抱えていました。

 このため,本事業により各井堰掛かりの幹線用水路等の用水施設の整備と用排水の分離及び地区内に散在する取水施設の統廃合による用水系統の再編成を行うことによって, 水の効率的利用及び水管理経費の節減を図り,河川改修と関連事業であるほ場整備を行うことにより,湛水被害の解消と水田の汎用化を図ったものです。

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出典先 筑後川中流農業水利事業所「事業誌」をベースに一部加筆


icon 2.農業水利開発の歴史的変遷



 前述したように,本地区の水源は,江戸中期に築造されており,約300年から360年の歳を経ていますが,今日においても変わらぬ役割を果たしています。

 ここでは,本地区の主水源である大石堰,山田堰,床島堰(恵利堰)の歴史的変遷等を中心に述べることとします。

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出典先 筑後川水系農業水利調査事務所「筑後川農業水利誌」をベースに一部資料追加

(1)大石堰
 筑後川中流域の左岸には,筑後川と平行して耳納連山がそびえ,さらにこの間を筑後川の支流巨瀬川が平行して流れています。 巨瀬川と筑後川の中間地帯である中央台地は河川に挟まれていながら水利に不便な地域でした。特に生葉郡包末村から西, 竹野郡との境にある各部落は筑後川のほとりにありながら水利が極めて不便で,農民の困難は実にひどいものでした。 泣く泣く先祖伝来の土着の地を見限って,他の安住の地を求めて移る者さえありました。

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筑後川絵図(大石堰~山田堰附近) 文政2年(1819年)上流部の大石堰から左岸取水された大石用水は,写真中央部の隅上川の長野堰(現在は立体交差している)を経て角間地点で分流し,中流域左岸平野をかんがいしている。写真最下流部に山田堰が見える。(出典先 九州農政局筑後川水系農業水利調査事務所「筑後川農業水利誌」)

(五庄屋物語)
 今から350年ほど前,この地域の5人の庄屋(夏梅村庄屋栗林次兵衛,清宗村庄屋本松平右衛門,高田村庄屋山下助左右衛門, 今竹村庄屋重富平左衛門,菅村庄屋猪山作之丞)はこの有様に心を痛め,度々集まっては目の前に流れているこの筑後川の水を, 何とかしてこの平野に引く工夫はあるまいかと額を集めて思案しました。その結果,得られた案は次の様でした。 ここから10キロメートルばかり上流の左岸長瀬の入江から水を取り入れることにして,そこに水門を設け溝を掘り,川水を引いてきたならば今までの畑を水田になし, 今までの水田も水不足を補うことが出来て,住民の生活は楽になり,その結果久留米藩の税収入も大いに増すであろうと。

 丁度その年,寛文3年(1663年)の夏は日照り続きで,作物が日やけしたので,五庄屋は一層心配して,いよいよ水利工事の急を痛感しました。 その年の秋,郡奉行高村権内が郡内を見廻りの際に五庄屋の一人高田村の庄屋山下助左右衛門の家に泊まりました。五庄屋はこの時とばかりうち揃って奉行の前に出て, 今目の前で農民が苦しんでいる有様を訴え,かねてからの計画案を強く申し述べ,是非ともお許しを得たいと熱心に願い出ました。一部始終を聞き終わった郡奉行は, 「それはよい思いつきではあるが,事は誠に重大である。ただし何分藩の財政にも大きく響く問題であるから,或いはお取り上げにならないものでもあるまい。 その方共の申立ては,今のところ机上の空論に過ぎないように思われるから,どうかこれを実地について調査研究し,設計書をこしらえて願い出るように」と励まされました。 そこで五庄屋はたとえこの後どんな困難にぶっつかろうとも,命がけでこの願いを貫き通そうと,お互いに固く申し合せ誓詞血判までして,一大決心の程を表しました。 そして実地調査を行い,詳しい見積書や設計書,水路図等を作り上げ,大庄屋田代又左衛門に申し出て,藩庁に出願する手続きの指図を受けようとしました。 このことを伝え聞いた同じ田代組の支配下にあった金本村,末石村,稲崎村,富光村,安枝村,島村,竹重村,千代久村の8ヶ村6人の庄屋が, 我々もこの計画に是非加えてもらいたいと申し出てきました。

 こうして,結局同盟13ヶ村11人の庄屋は,いよいよ寛文3年(1663年)9月24日付水道工事請願書に名を連ね,設計書と水路図を添え,田代大庄屋の奥書をつけて, 郡奉行高村権内の手を経て久留米藩庁に願い出ました。  しかし,又ここに思いがけない大難題が起こりました。 水路の溝筋の予定地とされた上流の11ヶ村の庄屋が打ち揃って異議を申し立てました。「もし筑後川の水を引き入れたならば,平素はよいとしても, 一旦洪水にあった時は,溝筋に当たる我々の村の田畑は,多大の損害を受ける危険にさらされる」と主張しました。包末,溝口,能楽3ヶ村の庄屋もこれに同調して郡内の騒ぎはいよいよ大きくなりました。

 出願11庄屋はこれに対応して「設計通り工事を進めても,決して損害は及ぼさないと信ずる。万一損害を与えた場合は,誓って我々が責任を負い, どんな仕置きを受けてもいとわない」と書面で弁明したので反対派も手の下しようがなくなりました。

 こうして,ようやく藩論が動き,治水工事に最も詳しい普請奉行,丹羽頼母重次を派遣して実地調査に当たらせることになりました。重次は大工棟梁平三郎を連れて水路の実測を遂げ, 帰藩して「こんな大事業は庄屋などの手で成し遂げ得るものではない。宜しく藩の事業とされたい」との意見を上申しました。

 寛文3年(1663年)12月,11庄屋の切なる願いはやっと聞き届けられました。

 高村郡奉行は11庄屋を呼び出し「願書の設計に基づいて水路を掘り終えたあかつき,もし水が流れてこなかったならば,おまえ達の責任は逃れることは出来ない。 不幸にして左様な事態に立至ったならば,全員はりつけの極刑に処せられることは必定である。この場に及んでよもや不服はあるまい」と決めつけました。

 この時,主唱五庄屋が進み出て,「不幸にして不成功に終わり,全てが無駄折りとなるようなことがありましたならば,どうぞ私共を厳罰に処して世間にお示しください。 甘んじて厳罰に服し,御上や世の人々にお詫びいたします」と覚悟の程を示して固く誓いました。

 寛文4年(1664年)1月11日いよいよ工事が開始されました。

 工事に先立ち,藩は,見ただけでもぞっとするような5体のはりつけ台を取り寄せ,工事箇所の出入口の人目につきやすい場所に建て並べ,万一工事が不成功に終わったならば, 必ず五庄屋を厳罰に処するという気概を示したので,人々はこれに激励され「庄屋どんを殺すな」とばかりに,極寒の中,汗みずくで働きました。

 工事は意外にはかどり,予定より早く,同年3月中旬にはほぼ完成し見事に目的を達成しました。かんがい面積はおおよそ75町歩に及びました。起工から竣工まで僅かに60日余り, 人夫おおよそ延べ40,000人を要しました。願村11庄屋はいうまでもなく,民衆は小躍りし,或いはお互いに手を取り肩を抱き,涙を流して喜び合いました。早速郡奉行の命令で,5体のはりつけ台は,人々の喜びどよめく中で焼き捨てられました。

 その後,工事の成功を見知った各地の庄屋からの嘆願もあり,水路は次々と延長されていき,水田は次々と広がっていきました。そして延宝2年(1674年)にはそれまで水門しか設けられていなかった取水口に,筑後川を横断する大石堰も建設されました。

 大石堰の完成により,かんがい面積は当初の75haから貞亨四年(1687年)には,1,426haに達し,現在は2,227haとなっています。

 大正11年(1922年)12月,五庄屋の事跡が国定尋常小学校修身書第6学年用におさめられ,翌年4月から全国で使用されるようになったので,五庄屋は全国的に有名になりました。

 なお,平成9年(1997年)8月発行された時代小説「水神」(上,下)帚木 蓬生著(新潮社刊)はこの五庄屋物語を基にしたものです。

(2)山田堰

(誰もが感動を覚える斜め堰)

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筑後川絵図(山田堰下流部附近)  文政2年(1819年)
左岸用水路は大石用水,右岸は堀川(山田用水)である。
(出典先 九州農政局筑後川水系農業水利調査事務所「筑後川農業水利誌」)

 筑後川中流域に位置する朝倉市は,今でこそ肥沃な水田地帯となっていますが,かっては谷間から湧き出る小川などの水を利用した僅かな水田があるだけで, 湿地や原野,凹凸や傾斜の激しい石ころ混じりの砂地が広がる地域であり農民は度々起こる干ばつに苦しめられていました。

 寛文2~3年(1662年~1663年)に大干ばつが起こり,これを契機として,寛文3年(1663年)筑後川から水を引くための堀川用水工事が開始され翌年寛文4年(1664年) 春には150町歩余りの水田を潤す堀川用水が完成しました。それ以降も,改良改造が加えられましたが,水田面積の増加に伴い,堀川用水のかんがい能力は限界に達して, 堀川用水の恩恵にあずからないところでは常に干ばつに悩まされることとなり,年貢米も納められない厳しい状況となっていました。

 下大庭村(現在の朝倉市)庄屋古賀百工は,解決策として,堀川用水の拡張を藩に願い出ました。事前に提灯やタライを使った高低差等の測量を行い, 綿密に練った計画を持って願い出たことから,藩もこれを認め,5年後には「新堀川用水」は完成しました。

 百工70歳の時,根本的に水害,干害から住民,土地を守るためには,筑後川取水口の全面改修が必要であるとの思いから筑後川本流山田堰の大改修の計画を立てました。

 しかし,これにも難題がありました。湿害を被るとして,工事に反対の農民もいたのです。百工は日夜全力を挙げて説得に当たりました。 正に命をかけてこの事業を実現させようとする百工の思いは藩に届き,ついに寛政2年(1799年)完全な山田堰は完成する事となりました。 この堰で,最も水の抵抗の強い舟通しから右岸の石畳の設計は,特に百工の苦心したところでした。舟通し水路側の石積みを高くし, それからほぼ中央部までを低く,更に水門取入口附近へ向かって石畳を次第に高く勾配を付け,石畳表面の中央部にくぼみをつけました。 そのくぼみに余水吐の働きをさせ,堤体に強い水圧を加えず,しかも,取入口に十分な水量を送ることが出来るようにしたものです。 更に筑後川の急流に耐え得るだけの石畳の築造について,全智全能をしぼりました。計り知れない水の力に耐え得るためには,一定間隔毎に, 巨岩を川底深く埋め込み,その合間に大石を張り付けました。

 もう一つの苦心は,いかにして多くの水量を水門に呼び込むかということでした。

 南・中2ヶ所の舟通しのために,流量が,それに引き落されてしまっては,井堰の効果は半減し,その役目を果たすことができません。水門口へ水を吸い寄せるためには, どうしても水門の近くにもう1本の水路を作る必要がありました。しかもその水路は鈍角に曲げ,幅を狭く,かつ勾配を急としました。それにより上流から呼び込まれた水は, 急流となって水門口へ殺到する事になります。同時に,切貫水門内に土砂の流入するのを防ぐため,水門付近に,急勾配の土砂吐水路を作りました。

 図上あるいは現場において,種々検討し入り口左岸に,土砂吐兼用の水呼び水路を作ったのです。そしてこの吐口両面には,特に大きな「抱え石」を張り並べ, その石に水量調節のための板堰をはめる溝を掘りました。このようにして,大改修工事は遂に完成しました。工事の完成により, かんがい面積は新堀川開通直後の370町から一躍487町9反余歩となり,120町歩余りの新田が開発されました。

 山田堰から取水された水は堀川用水へ流れていきます。水路の完成により,水路の南に位置する一帯は,この用水の恩恵を受けられるようになりましたが, 北側にある菱野古毛周辺は水路より高い位置にあり,この水を何とか利用できないかとの思いから考えられたのが揚水用水車の設置でした。

 これらの水車は,平成元年に「堀川用水及び朝倉揚水車」として国の史跡文化財に指定されました。この山田堰は,今日まで地域の農業を支え治水, 利水技術等のモデルとして高く評価されています。

 ペシャワール会(アフガニスタンで井戸掘りと用水路建設などを通じ,復興支援する非政府組織)現地代表中村哲医師は2010年(平成22年)に 完成したアフガニスタンのマルワリード用水路を建設する際,取水口の設計に当たり,江戸時代に出来た山田堰(斜め堰)を大いに参考にされたそうです。

 このように山田堰は発展途上国の農地開発にも役立っているのです。

 平成19年(2007年)11月発行された中村哲著「医者,用水路を拓く」(石風社刊)にこの時のいきさつが述べられています。

山田堰と山田堰を参考に建設されたマルワリード用水路取水堰
         (出典先 水土里ネット山田堰ホームページ)

 また,山田堰土地改良区と市民有志は筑後川に水を引くため江戸時代に築造された山田堰の技術的価値を国内外に伝えようと, 国際連合食糧農業機関(FAO)の「世界農業遺産」への登録に向けて活動が進められています。
(3)床島堰(恵利堰)

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恵利堰で右岸取水された床島用水は百問堰,佐田堰を経て,江戸水路(床島用水路)に 流れている。用水路に合流している桂川,佐田川とは,現在では立体交差となっている。
(出典先 九州農政局筑後川水系農業水利調査事務所「筑後川農業水利誌」)

 筑後川右岸地域,特に旧三井郡一体の土地は川面より高く水田としては利用されず,荒地,荒畑のまま放置されており, 僅かな田畑も度々干害に襲われ,農民は飢餓に迫られる状態でした。この貧苦の農民を救済しようと生命を投げ打って床島堰を築造したのが 草野又六と三井郡の四庄屋(高山六右衛門,秋山新左衛門,中垣清右衛門,鹿毛甚右衛門)でした。草野又六は延宝6年(1678年)に山本郡川村(現久留米市大橋町)に生まれ, 現久留米市草野町小山田の庄屋草野家の養子となりました。土木工事に秀でた技術を認められた又六は久米藩の命を受け 筑後川中流域の右岸一帯の農業用水開発のため床島堰の建設に力を尽くすことになります。宝永7年(1710年)この年も干天に見舞われ, 農民の間では,離村,離農するものが多く,鏡町(現久留米市北野町)庄屋高山六右衛門は前記の庄屋達と協議し,同年10月に堰堤築造, 水路開設のための請願書を郡奉行に提出しました。

 この請願は,時の藩主有馬則維(のりふさ)の即決するところとなり,藩は普請総裁判(工事総監督)として又六を派遣して官山の伐採を許し, 銀を貸与して工事に着手しようとしました。このことを聞いた筑前(黒田藩)領民11ヶ村代表は,堰堤築造後の洪水時には, 筑後川沿岸の筑前領が水没することを理由に工事中止の抗議書を提出したため,工事は約1年中止されました。 その後,高山六右衛門の高良神社での断食祈願等の必死の運動が実を結び,水門口を約20町(約2,200m)ほど下流に移し, 工事が着手しました。時に正徳2年(1712年)1月のことでした。

 こうして始まった工事は堰の長さが170間(約310m)もあった上,この辺は水量も多く,急峻なため,困難を極めました。 水を正面から堰止めるのは大変な難工事であり,又六は困り果てましたが,母の励ましにより奮い立ったというエピソードが残っています。

 正徳3年(1713年)2月末,3,500人の人夫が川岸に集められ,俵に詰めた石を数十隻の古船に積み,河川中央にて転覆させ, 堰の基礎を築き上げた。その時に用意し た俵の数は50万個とも伝えられています。

 こうして,不完全ながらも堰止め工事は完成し,河川水が新溝に入り,各村々の水田を潤しました。その後も又六の指導のもと,修復工事を繰り返し,床島堰と用水路が完成しました。 30余村の水田にかんがい用水は行きわたり,現在でも約3,000町歩の田畑が恩恵を受けています。

icon 3.筑後川中流農業水利事業発足の背景,経緯及び効果



(1)事業発足の背景

 筑後川中流域は,古くから,地域農民の先進的な知恵と努力のもとに,水利施設整備がなされてきたことは,既に述べたとおりです。

 この地域は,水稲を基幹作物とし,副作物に植木,苗木,柿,ぶどう,裏作に麦及びトマト,キュウリ等のハウス栽培と人参,ほうれん草等の野菜栽培が盛んです。 この地域の農業用水は,これまで述べたように主として筑後川の大石堰,山田堰,恵利堰から取水し,反復利用されています。 一部においては,ポンプにより取水又は補水されていますが,これらの取水施設及び用排水施設は,建設後300年以上経過してきております。

 これらの堰や用水路は,長年にわたり農家の方々による維持管理が行われ,その機能が保持され続けてきていましたが,用水路は土水路や石積み水路であり, また,断面も大きく,用排兼用用水路が多いことから,農家数の減少などともあいまって,用水の配分や水路の維持管理には多大な経費を費やすこととなってきました。

 また,一部の支派線を水源とする取水施設にあっては,施設の統廃合による管理の効率化が必要となっていました。

 一方,地区内の排水河川の整備が遅れていたことにより,しばしば湛水を起こし,また,用排兼用水路により用水の反復利用も行われているため排水条件は極めて悪く,農地の汎用化が妨げられていました。

 このため,用水施設を管理する土地改良区では,水利用の合理化と維持管理費の節減を図るため,旧態の用水路を抜本的に改良するとともに, 農地の汎用化を図るためほ場整備事業の実施と合わせて,地区内排水河川の改修の機運が高まってきました。

 このような背景のもとで,国では,昭和50年度に直轄地区調査に着手し,用水路の改良等を行うことにより,水利用の近代化を図ると共に,農地の汎用化を図るため, 地区内の未整備河川の改修により排水改良を図ることを目的とした国営かんがい排水事業の計画を取りまとめ,昭和54年度及び55年度の全体実施設計を経て,昭和56年度には事業に着工しました。

 本事業では,水利用の近代化を図るため,10路線,約40kmの幹線用水路を改修するとともに,大石堰土地改良区上流からの反復水を有効利用するため,美津留川に設置されている雲雀堰の改築を行いました。 さらに,水管理の合理化のため,主要な地点の水位等を監視するための水管理施設を導入しました。

 排水改良のためには,排水河川である思案橋川及び美津留川の一部区間,約3.6kmの改修を行いました。

 これらの工事の実施に当たっては,事業計画に基づく農業用用排水の機能を適性に発揮させることはもちろんのこと,旧来からの地域用水の機能, あるいは親水空間としての機能といった多面的な機能との調和を図ることに心掛けてきました。

(2)事業発足までの経緯

①事業発足準備期(昭和47年11月~昭和50年3月)
  昭和47年11月 6日 筑後川中流域農業開発事業推進協議会設立総会開催
  昭和49年 5月25日 推進協議会から直轄調査地区採択について九州農政局へ申請
②直轄調査期(昭和50年4月~昭和54年3月)
③全体実施設計期(昭和54年4月~昭和56年3月)
④申請から着工まで(昭和56年1月~昭和56年10月)

(3)事業の効果等

 本事業の実施により幹線水路の改修及び一部排水河川の改修が行われ,これにより用水手当が容易になり, 用水の安定供給に大きく寄与しているとともに農業等湛水被害が軽減しています。併せて,管理用道路が整備されたことにより浚渫等作業を手作業から機械作業へ移行し, 清掃・賦役等の維持管理の軽減が図られています。

 一方,関連するほ場整備事業の実施により水田の汎用化が図られ,豆類,ねぎ,レタス,ほうれん草等野菜類の作付けが増加し,農業生産の維持拡大につながっています。 また,大型農業機械の導入による省力化が進み,生産性の向上や農業経営の規模拡大につながっています。

 また,地区内には,石積み護岸水路,3連水車等の親水公園等の設置により景観に配慮した地域財産の継承が行われています。

icon 4.筑後川中流農業水利事業の概要



(1)事業工期 
  昭和56年度~ 平成7年度
(2)受益市町村
  福岡県久留米市、甘木市、小郡市,北野町、大刀洗町,吉井町,田主丸町,浮羽
  町
  茂木町,朝倉町
   ※市町村名は事業実施時点。
(3)受益面積
  6,360ha
   (内訳)水田:  5,930ha
        普通畑: 160ha
        樹園地: 270ha
(4)主要工事
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参考文献等

・事業誌 筑後川中流農業水利事業(九州農政局 筑後川中流域農業水利事務所)
・筑後川農業水利誌(九州農政局 筑後川水系農業水利調査事務所)
・山田堰写真(国土交通省 筑後川河川事務所)
・朝倉市ホームページ(朝倉市)
・水土里ネット山田堰ホームページ (山田堰土地改良区)