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1.はじめに
2.地域の概況
3.農業基盤の課題
4.総合開発計画の動きと筑後川下流土地改良事業の構想
5.筑後川下流土地改良事業の調査・計画の特徴
6.筑後川下流土地改良事業計画の概要
7.大規模な事業の推進方策
8.事業推進体制
9.事業の成果(効果)
10.筑後大堰の取水安定への取り組み(上流域のダム建設による不特定用水の確保)
11.おわりに


1.はじめに



 筑後川下流土地改良事業が展開された地域は、有明海の北部に位置し、福岡県と佐賀県にまたがる広大な低平地にある。ここでは全国的に類を見ない速さで形成される干潟において、江戸時代から干拓により農地が拡大されたが、水資源が限られており、不安定な淡水(アオ)取水、恒常的な水不足、狭くて不整形な農地やクリーク、頻繁に発生する湛水被害、白石(しろいし)平野の地盤沈下など様々な課題に悩まされてきた。
 これらの課題を解決するためには、筑後川と嘉瀬(かせ)川での新規開発水量を絡めた広域的な水利用を行う必要があることから、福岡と佐賀の両県にまたがる全国的にも最大級となる巨大プロジェクトが1976(昭和51)年度にスタートした。あまりに膨大な事業であることから、事業完了までに100年はかかるということで「百年事業」とも呼ばれた。以下に、本地域の概況、事業の経緯と計画、事業の推進方策、事業推進体制、事業の成果等を紹介する。


2.地域の概況



(1)本地域の成り立ち

 本地域は、有明海の北部にあり、福岡県側の筑後平野及び佐賀県側の佐賀平野と白石(しろいし)平野にまたがっている。筑後平野には筑後川と矢部川が、佐賀平野には城原(じょうばる)川と嘉瀬(かせ)川と牛津(うしづ)川が、白石平野には六角(ろっかく)川が流れており、上流から運ばれてきた土砂が有明海に流れ出ると、干潮と満潮の差が日本一の約6mにおよぶ潮汐により土砂は海岸線に打ち寄せられ、堆積しながら干潟が形成される。太古の昔から続くこの自然の作用により、100年に1㎞という全国的に類を見ない速さで干潟が成長してきた。
 江戸時代になると、干潟を利用した干拓が行われるようになり、昭和になって大規模な干拓が実施されると、有明海沿岸の全域で農地が拡大した。江戸時代には11,000ha、明治から昭和50 (1975)年代までには8,600haが造成され、しかも、極めて平坦で、その勾配は1/4,000~1/10,000であった。拡大する農地に対して水資源は限られていたため、恒常的に農業用水が不足する状態となった。
 図-1を見ると、オレンジの線は約1800年前の弥生時代末期の海岸線であり、ピンクの線が約300年前の江戸時代初期の海岸線である。青の線は1867年の江戸時代末期の海岸線であり、一部は干拓による農地造成も含まれている。さらに黄緑の線がその後の大規模干拓による農地造成も含んだ現在の海岸線である。
 本地域の地質は、潮汐による浮泥の堆積で形成された「有明粘土」と呼ばれる軟弱層が分布しており、全国でも有数の軟弱地盤地帯であり、層厚は15~20m、深い場所では40mにも及んでいる。このため、有明粘土地盤における建設工事では様々な検討や工夫が必要となった。

図-1 本地域の成り立ち(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

(2)クリークの発祥

 有明海の干潟は沖に向かって成長し、河川は干潟を蛇行しながらミオ筋を形成した。人々は干潟の中でミオ筋を深く掘ってクリーク(貯水機能を有する水路)を造ることで干潟の排水改良を行い、周辺を農地として利用してきた。江戸時代になると干潟の前面に堤防を造り、堤防内を排水して陸地化する「干拓」により農地を広げてきた。クリークは干拓地に張り巡らされたが、流れている河川は渇水時には極端に流量が減ってしまうため、河川から安定的に農業用水を確保することは困難であった。このため、土地の拡大とともに増大する用水需要に対して、クリークに雨水、河川水などを一時的に貯留することで用水不足を補うとともに、貴重な水を確保するため、クリークには常に満水状態で貯留してきた。
 クリークは、流れ堀や貯水堀とも呼ばれ、地域の農業と生活の水源として利用され、豊かな生態系も育んできた。一方で、クリークは、低平地の中で大きく蛇行し、不規則な形で存在していたため、農作業や生活の移動、農業機械の導入、農地の汎用化など、近代的な農業の実現に大きな支障を来していた。

写真-1 事業により整備される前のクリーク
(注)事業により再編整備されたクリークの写真は、9.事業の成果(効果)の写真-10を参照
(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)

(3)淡水(アオ)取水の仕組み

 淡水(アオ)とは、有明海が満ち潮になると比重の重い海水が河川水の下にクサビ状に入り込むことで押し上げられた河川水のことをいう。淡水は通常『タンスイ』と読み、塩分をほとんど含まない、まみず(真水)を指すが、この地域では、『アオ』と広く呼ばれている。このため、本文では、淡水(アオ)と書かせていただきたい。押し上げられた河川水を、樋門や樋管で取り込んだり、踏み車や揚水機で汲み上げたりすることを、淡水(アオ)取水という。淡水(アオ)取水は、河川の流量や有明海の干満の周期や潮位に応じて塩分が流入しないよう、熟練した水番が淡水の水疱(アワ)の切れ具合を見たり、長い柄杓(ひしゃく)で汲み取って舌で味わったりするなどにより、塩分の濃度を推定し、取水ゲートの開閉を判断していた。

図-2 淡水(アオ)取水のしくみ(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)

左:写真-2 淡水(アオ)の塩分を舌で確認 右:写真-3 ゲートからクリークへ取り込み
(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)


3.農業基盤の課題



(1)恒常的な農業用水の不足と取水のための過重な労働

 有明海の干満に応じた淡水(アオ)取水では、潮汐の時刻や周期の大きさによって取水可能量が変化するとともに、河川流量が少ないときは塩分濃度が高くなるため、不安定な取水を余儀なくされていた。また、クリークから水田への踏み車等による揚水やクリークの底泥のしゅんせつなど過酷な労働を強いられていた。その後、筑後川沿岸では明治期から、佐賀平野では大正期から、ポンプによる揚水も普及してきたが、揚水作業の労力と経費は地域の大きな負担であった。

写真-4 踏み車によるクリークから水田への揚水
(出典:池上康稔氏撮影、『有明海の記憶』弦書房)
写真-5 クリークのしゅんせつ
(出典:佐賀県農業試験研究センター)

(2)排水不良と湛水被害の頻発

 干潟の発達と干拓によって造られてきた広大で極めて平坦な低平地では、恒常的に不足する農業用水を補うため、クリークには水が満水状態で貯められていた。また、満潮位が平野の地盤標高より高い地域が多く、集中豪雨と有明海の満潮が重なると排水できず、数千haの湛水がしばしば発生し2~3日、長い時は1週間も水が引かないことがあり、地域住民は湛水被害に悩まされていた。

左:写真-6 佐賀平野の湛水状況 右:写真-7 小城市牛津町の冠水状況
(出典:平成2年7月豪雨による湛水・冠水被害  佐賀土地改良区)

(3)不規則なクリークによる作業効率の悪さ

 干潟が発達する過程でミオ筋を利用してクリークを造ってきたため、不規則に張り巡らされ、土地を分断して道路整備も遅れ、営農面や生活面での近代化を阻害していた。また、クリークは満水で貯水されていたため、地下水位が高く、有明粘土の軟弱地盤地帯であったため、トラクターやコンバイン等の農業機械の導入が困難であった。
 当時を知る人によると、農地は分散し、くねくねした狭い道路で、軽トラックでもクリークに落ちないように運転するのがやっとで、車で行けないところはバイクで行っていたそうである。

(4)白石平野の地盤沈下

 白石平野の農地は、ほとんどが干拓により造成された水田である。白石平野の中央部には六角(ろっかく)川が流れているが、川の上流部まで塩水が遡上する感潮河川であるため、その流水は農業用水に利用することは難しく、クリークやため池に依存せざるを得ない水不足地帯であった。このため、昭和初期から地下水を利用するようになり、平野全域で200本を超える深井戸が掘られた。過剰な地下水の汲み上げは、白石平野において、家屋の傾き、水田の陥没等の弊害をもたらした。昭和40年代に地下水採取に起因する地盤沈下が社会的な問題として大きく取り上げられるようになり、佐賀県は1974(昭和49)年7月に公害防止条例によって地下水採取を規制した。
 当時を知る人によると、道路は地盤沈下により沈下する一方で、道路を横断する水路ボックスは杭基礎で沈下しないため、2mほどの落差ができて道路が見通せなくなった。さらに、国道の舗装面は波打って、大雨が降ると波打つ谷間の部分は冠水し、大型トラックが立ち往生する状態にあったなど、地域の生活に相当の支障があったそうである。

写真-8 地下水の過剰揚水により進行した地盤沈下
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)


4.総合開発計画の動きと筑後川下流土地改良事業の構想



(1)筑後川総合開発の動き

 1960(昭和35)年代に高度経済成長期を迎えた北部九州(福岡市、久留米市、大牟田市、佐賀市等)の都市用水の逼迫、佐賀白石地区の農業用水の枯渇などが課題となり、筑後川の総合開発の推進の要望が湧き起こってきた。
 一方、筑後川下流域では、歴史的に不安定な水利用を経験している流域内の市町村や農業団体は、自分たちの貴重な水資源が流域外の大都市圏へ持ち出されることに危機感を持ち、永年にわたり叡智を結集して創り上げてきた本地域の淡水(アオ)取水のシステムを守り、将来に残すべきとの反対運動が起こった。
 しかし、福岡都市圏の人口急増による上水道対策が緊急を要する中で、流域内の反対運動に対して福岡都市圏等から批判の声が聞こえてくるようになり、旧態の水利用を続ける農業用水についても批判が出てきた。
 筑後川の河状係数(河川のある地点の一年間の最大流量と最小流量の比。河川流量の安定度を示すもので、利水面からは小さいほど良いといわれている)は、全国最大級であり、流域の既得水利権は既に低水量以上に張り付いていて、新規利水の入り込む余地はほとんどない状況であった。このため、速やかに地域の農業水利実態を把握し、慣行水利権を水量的に確立する必要に迫られた。
 このため、九州農政局では土地改良事業の実施により筑紫(つくし)平野(筑後平野と佐賀平野)を我が国最重要の食料基地の一つとして、農業を取り巻く情勢がどう変化しても十分対応できるよう、本地域のあるべき姿を早急に策定し、将来必要となる水資源を確保することとした。もし、農業の将来像も描けず将来の必要水量の目途も立たないままで都市用水の水利権のみが先に決定された場合、筑後川下流域が新規に水利権を取得しようとしても、先に設定された都市用水の水利権と競合して、昔から使用してきた筑後川の流水も利用することができなくなる恐れがあった。
 1961(昭和36)年に水資源開発促進法が制定され、国は、産業の開発または発展及び都市人口の増加に伴い用水を必要とする地域において、広域的な用水対策を必要とする地域を選定し、その地域を「水資源開発水系」として指定することとした。
 1963(昭和38)年10月に、利水の恒久対策の樹立及び治水、利水の合理的な開発管理を図るために必要な実施方策について連絡協議を行う「北部九州水資源開発協議会(北水協)」が組織され、九州・山口経済連、筑後川関係4県(福岡県、佐賀県、大分県、熊本県)、九州農政局、九州地方建設局及びオブザーバーの水資源開発公団(現:水資源機構)で構成された。北水協は筑後川の水資源開発水系への指定を国に働きかけ、筑後川は1964(昭和39)年10月、利根川、淀川に次ぐ全国3番目に水資源開発水系の指定を受けた。そして北水協は1965(昭和40)年に筑後川水資源開発構想を策定し公表した。1966(昭和41)年に水資源開発基本計画(フルプラン)が閣議決定され、国家的な水資源開発がスタートした。
 このような中で、九州農政局及び福岡・佐賀両県は、①既得水利権を尊重する、②流域内の需要については優先的に配慮する、③不特定用水の確保を図る等河川の環境保全に十分配慮する、④水産業、特にのり漁業に影響を及ぼさないように配慮する、の4項目を水資源開発の基本とすることを主張した。この主張が認められ、1974(昭和49)年に一部変更されたフルプランには、筑後大堰、福岡導水路事業について「この事業の実施に当たっては、筑後川下流部の水産業及び淡水取水に及ぼす影響について十分配慮するものとする」と記載された。

表-1 基礎調査から事業計画策定までの経緯(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)


5.筑後川下流土地改良事業の調査・計画の特徴



 昭和30年代に生産性向上と農業近代化を目指し、農業用水の安定化のための農業水利事業が課題となっていた。筑後川の総合開発の動きを受けて、農林省は、1960(昭和35)年度に基礎調査に着手し、1964(昭和39)年度には九州農政局筑後川水系農業水利調査事務所を開設して本格的に調査を開始した。1970(昭和45)年度から直轄調査、1972(昭和47)年度から全体実施設計を行い、1976(昭和51)年度に事業計画が確定した。事業計画の策定に向けた調査と計画の特徴となる事項を以下に紹介する。

(1)淡水(アオ)取水の実態調査

 1964(昭和39)年度から1967(昭和42)年度にかけて福岡県、佐賀県及び関係土地改良区等の協力と佐賀大学農学部の指導により実施した。調査対象範囲は、久留米市瀬ノ下より下流で、左岸側は久留米市ほか5市町、右岸側は佐賀市ほか9町村の3市12町1村にわたる筑後川本線及び支派川から、揚水機または樋門・樋管により取水している地域である。
 1965(昭和40)~1967(昭和42)年度における取水量調査によると、淡水(アオ)取水対象地域は約13,750ha、対象施設は揚水機場49ヶ所、樋管等92ヶ所であった。また、淡水(アオ)取水のかんがい期総取水量は、最大で1億3,600万m3(1967(昭和42)年)であった。1967(昭和42)年は、80年ぶりといわれる大干ばつであったこともあり、全体としてこれを上回ることはないと判断された。
 この調査におけるかんがい期総取水量1億3,600万m3及び1967(昭和42)年6月20日に観測された日平均取水量の最大25m3/sが筑後川既得水量として用水計画に反映されている。

(2)受益範囲(一定地域)の設定

 本地区の受益の範囲(一定地域)を設定するに当たって、1970(昭和45)年から9市29町3村(福岡県6市8町、佐賀県3市21町3村)の55,942haを対象に地区調査を行った。
 この調査によって、矢部川や城原(じょうばる)川での用水不足、淡水(アオ)取水の不安定性、白石(しろいし)平野での地盤沈下などの用水にかかわる課題が明らかになった。また、本地区内の河川の中で、農業用水を安定して取水できる可能性のある河川は筑後川と嘉瀬川のみであった。用水の課題を解決するためには、ため池などの既存の水源と筑後川と嘉瀬川での新規開発水量を絡めた広域的な水利用を図ることが必要であることから、福岡と佐賀の両県にまたがる対象農地面積は54,000haとなり、全国的に最大級となる広大な地域を受益の範囲(一定地域)に設定した。

(3)土地改良法改正による市町村特別申請

 本事業は、福岡県と佐賀県にまたがる40市町村に及ぶ範囲で、受益面積が54,000ha、関係農家数約70,000戸という広大な地域の農業振興のための基幹的施設を整備するものであり、関連する県営事業の事業計画が未確定なため、同意取得に相当の期間を要する。また、従来の法手続きである三条資格者の2/3以上の同意を得た上で事業を行う場合、農業振興計画の達成に大きな支障を来す恐れがあった。調査、計画の検討を行っていた1970(昭和45)年頃は、土地改良法の通常の手続きである、受益代表15人による申請によって行うよう準備を進めていたが、40市町村に及ぶ受益面積54,000haの広大な範囲であるため、市町村ごとに水利事情や排水事情が異なり、土地改良事業(かんがい排水事業やほ場整備事業等)の必要性、緊急性に対する認識の差から、同意が得られる状況になかった。
 この課題を解決するため、1972(昭和47)年の土地改良法の一部改正により市町村特別申請(市町村議会の議決により市町村が申請)が位置づけられた。本事業では、市町村特別申請で事業を実施するという方針に基づき、1973(昭和48)年から市町村議会の議決を求め、1974(昭和49)年3月に全ての市町村が議決を終えた。その後、関係土地改良区(福岡県30改良区、佐賀県52改良区)及び関係農業協同組合(福岡県20組合、佐賀県25組合)の意見聴取が行われた。同年10月に両県議会の同意を得て、1975(昭和50)年10月に関係40市町村長が農林大臣に施行申請を行った。申請を受けた農林水産大臣は、所要の審査を経て1976(昭和51)年8月に事業計画を決定し、公告縦覧・異議申立等の手続きを経て1976(昭和51)年12月に事業計画を確定した。
 なお、国営筑後川下流土地改良事業への三条資格者の参加意思については、土地改良法(85条)を踏まえて、その後の関連県営事業の同意取得を通じて確認している。


6.筑後川下流土地改良事業計画の概要



(1)計画全般

 1976(昭和51)年12月に確定した「筑後川下流土地改良事業計画」は、筑後平野、佐賀平野、白石平野にまたがる水田を中心とした地域において、用水改良と排水改良を目的に、合口による淡水(アオ)取水の安定利用、筑後川、嘉瀬川ダム(特定多目的ダム)での新規利水の確保、導水路、幹線水路、用排兼用水路等の整備による大規模な用排水系統の再編を行う。
 本地区特有のクリークを用いた農業用水は、上流から下流へと平野を徐々に流下しながら、反復利用され、有明海に注いでいる。クリークは、用水路であり、排水路であり、貯水池としての機能を有しており、これらの機能は地元関係者の緊密な連携のもとでコントロールされていた。なお、クリークの貯水池としての機能は、クリーク調査によると、福岡と佐賀の両県合わせて約4,000万m3あり、嘉瀬川上流に建設された北山ダム(1956(昭和31)年竣工)の有効貯水量2,200万m3の約2個分に匹敵していた。
 また、関連事業で区画整理等を実施し、ほ場の整形及び大区画化を行うとともに、必要な区域において暗渠排水を整備し耕地の汎用化を行う。当初計画の受益面積は、水田46,230ha、畑・樹園地8,150haの54,380haである。営農計画では、「水稲+レンコン」「水稲+畑作物(タマネギ、キャベツ、ニンジン等)」「水稲+い草」「畑作物+レンコン」の4種を設定し、大型機械を中心とした共同作業体系を目指す計画である。

(2)用水計画

 約200ヶ所に点在していた淡水(アオ)取水を筑後川大堰からの取水に合口するとともに、用水不足地域への安定的な用水供給、また、白石平野の地盤沈下を防止する目的で地下水取水から河川水への転換を図るため、嘉瀬川に設置される特定多目的ダムである嘉瀬川ダムと筑後川から送水する。その施設計画は、筑後大堰上流の左右岸にそれぞれ取水施設と揚水機場を建設し、筑後平野を横断する導水路と佐賀平野を横断する導水路を建設し、導水路から分岐する幹線水路を建設して地域全体に配水する計画である。
 左岸側は、筑後大堰上流の左岸に建設する筑後揚水機場から、筑後導水路と矢部川導水路により送水し、幹線水路8路線(青木(あおき)、中木室(なかきむろ)、昭代(しょうだい)、西浜武(にしはまたけ)、岩神(いわがみ)、下久末(しもひさすえ)、柳川(やながわ)、黒崎開(くろさきびらき))に分水して筑後平野に用水を供給する。
 右岸側は、筑後大堰上流の右岸に建設する佐賀揚水機場から、佐賀東部導水路と宝満導水路により送水し、幹線水路8路線(江口、三根(みね)、三田川、浮島・曾根、千代田、大詫間(おおたくま)、諸富(もろどみ)、徳永)に分水して佐賀平野に用水を供給するとともに、佐賀東部導水路に揚水機場を設置して山麓部の樹園地に用水を供給する。
 また、国営嘉瀬川農業水利事業(1949(昭和24)~1973(昭和48)年度)によって整備された市の江副幹線水路に佐賀東部導水路から注水し、同幹線水路から分岐する南里線によって佐賀平野南部に用水供給する。さらに、嘉瀬川ダムに新たに確保される用水を川上頭首工で取水し、佐賀西部導水路、多久導水路により西部山麓部に、また、佐賀西部導水路から河川(晴気(はるけ)川と牛津(うしづ)川)を利用し、白石平野に導水し、白石平野では、地下水を揚水して農業用水を確保していたものを表流水に転換することにより、用水不足と地盤沈下を防止する計画である。

(3)排水計画(クリークの排水機能の強化)

 筑後川と嘉瀬川から、導水路と幹線水路を経由してクリークに安定的に農業用水が供給されることから、クリークの水位を満水位から1m下げた管理ができるようになり、地下水を下げて耕地の汎用化を図る。また、クリークの満水位までの空き容量を洪水時の調整容量として利用することで湛水被害の軽減を図る計画である。

【国営筑後川下流土地改良事業の主な工事量(本事業の完了時点)】
 ○揚水機場  3ヶ所  (佐賀県)
 ○導水路   23.9km (佐賀県)
 ○幹線水路 208.5km (福岡県137.6km、佐賀県70.9km)
 ○補助排水機場 10ヶ所(福岡県7ヶ所、佐賀県3ヶ所)

図-3 筑後川下流地区計画平面図(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

(4)関連する事業

 ①関連県営事業
 本事業で造成される幹線水路は、用水機能、貯留機能、排水機能を兼ね備えた用排水兼用のクリーク水路であり、不規則に分布するクリークの再編整備と一体的に県が行うほ場整備事業等による区画整理を行い、区画の形状を改善するとともに、必要な区域において暗渠排水を整備し、耕地の汎用化を図るものであった。

 ②筑後大堰建設事業(1978(昭和53)年度~1984(昭和59)年度)
 水資源開発公団(現:水資源機構)が、河道の洪水疎通能力の増大と河床の安定、既得かんがい用水取水の安定、塩害の防除、福岡・佐賀両県の都市用水の取水を目的として建設した。筑後川下流土地改良事業の水源の一つであり、筑後大堰の上流の左右岸に取水施設を建設した。

 ③筑後川下流用水事業(1979(昭和54)年度~1997(平成9)年度)
 筑後川下流土地改良事業の進捗を早めるため、1979(昭和54)年度に水資源開発公団に承継されたものであり、筑後川の左岸側に揚水機場3ヶ所と導水路2路線・27.9㎞、筑後川の右岸側に機場4ヶ所と導水路21.6km、幹線水路14.0kmを建設した。

 ④嘉瀬川ダム建設事業(1973(昭和48)年度~2011(平成23)年度)
 国土交通省が、洪水調整、流水の正常な機能の維持、かんがい用水、水道、工業用水の供給及び発電を目的とした多目的ダムを建設した。【重力式コンクリートダム、堤高97m、堤頂長480m】

 ⑤筑後川下流白石土地改良事業(1979(昭和54)年度~1999(平成11)年度)
 水源の一つであった国土交通省が建設する六角川河口堰の進捗に合わせるため、1979(昭和54)年度に筑後川下流土地改良事業から、財政投融資資金を導入する特別型事業に分離した事業である。
 当初は、六角川河口堰を活用し河口堰の締め切りにより淡水湖を造成し、そこに貯留された水に合わせて、特定多目的ダムである嘉瀬川ダムから注水することによって水源を確保する計画であった。
 また、地区内の用水路(パイプライン)及び排水路・排水機を整備し、併せて関連事業である県営土地改良事業等により農業生産基盤を整備し、用水不足と排水不良の解消を行うとともに、地盤沈下の防止を図る計画であった。
 しかし、河口堰の締め切りによる利水計画について関係者との調整ができず、農業用水の利水が困難になったことから、嘉瀬川からの直送により用水を供給するべく、2000(平成12)年度に計画変更した上で事業を完了し、同年度に次の筑後川下流白石平野地区に着手した。【用水路3路線・10.8km、排水機場3ヶ所、排水路1路線13.0km】

 ⑥筑後川下流白石平野土地改良事業(2000(平成12)年度~2014(平成26)年度)
 当該事業は、筑後川白石地区の水源の一つとして計画していた六角川河口堰の利水運用が困難になったことから、新たに嘉瀬川ダムに確保した農業用水を直接受益地に直接送水する事業として着工した。【揚水機場1ヶ所、導水路3路線・18.7km】
 特定多目的ダムである嘉瀬川ダムに農業用水を確保し、「国営筑後川下流土地改良事業」と「国営筑後川下流白石平野土地改良事業」によって造成する施設を「国営筑後川下流白石土地改良事業」で整備した施設と連結させて事業目的を達成するものであり、2012(平成24)年度に直送を開始し2014(平成26)年度に事業を完了した。

 ⑦国営総合農地防災事業筑後川下流左岸地区(2008(平成20)年度~2018(平成30)年度)
 2001(平成13)年頃から、整備したクリークに法面の崩壊が見られるようになり、2003(平成15)年度から本格的な原因調査が行われ、2005(平成17)年度までに崩壊のメカニズムが解明された。それによると自然的・社会的な変化としては、1980(昭和55~1993(平成5年までの年間渇水日数(取水制限で利水ができなかった日数)は概ね10~20日であったが、1994(平成6)年の大渇水時には年間渇水日数は167日となり、その後も約40~100日と多い日数で推移し、クリーク法面が乾燥する機会が増大した。また、クリークには幹線水路からの補給や降雨によって農業用水を管理水位まで貯めるため、クリーク法面が乾燥と湿潤を繰り返す機会が多くなった。クリーク法面の土壌は非常に軟弱な有明粘土であり、有明粘土は乾燥と湿潤を繰り返すと法面の表面にスレーキング(土壌粒子が乾燥と湿潤を繰り返すと粒子間の結合力が失われて次第に崩壊する現象)が起こり、クリーク法面が少しずつ崩壊していくことが判明した。
 これらの現象は、近年の気象変化や地域の土壌特性によるものであり、農家の営農とは関係のない他動的な要因であるため、国営総合農地防災事業により対策を行うこととした。福岡県側の4市1町の受益面積5,425haを対象に、ブロックマットによる法面保護を70.3kmで施工した。
 この法面保護により、クリークにおいて急激な水位変動が可能となったことから、クリークの空き容量を活用した洪水時の調整がより安定してできるようになり、地元からの評価は高まってきている。
図-4 基本構造(出典:国営総合農地防災事業筑後川下流左岸地区 事業誌)

写真-9 ブロックマット(出典:国営総合農地防災事業筑後川下流左岸地区 事業誌)

 ⑧国営総合農地防災事業筑後川下流右岸地区(2012(平成24)年度~実施中)
 上述の筑後川下流左岸地区と同様の状況にある佐賀県側の3市3町の受益面積10,822haを対象に、国営総合農地防災事業として、ブロックマットによる法面保護を173.4kmで施工している。

 ⑨その他の関連事業
 筑後川下流土地改良事業は、広範囲にわたる事業であることから、そのほかにも数多くの事業と関連している。これらを全て紹介するのはスペースの都合上できないため、詳細はそれぞれの事業誌に譲り、ここでは事業名と工期のみを紹介する。国営総合農地防災事業佐賀中部地区(1990(平成2)年度~2010(平成22)年度)、国営総合農地防災事業嘉瀬川上流地区(2011(平成23)年度~2019(平成31)年度)、国営施設機能保全事業筑後川下流福岡地区(2017(平成29)年度~実施中)。


7.大規模な事業の推進方策



 筑後川土地改良事業は、1976(昭和51)年度に、関係市町村40市町村(9市30町1村)、受益面積約54,000haという全国最大級の国営事業としてスタートした。その後、1979(昭和54)年度、1995(平成7)年度、2005(平成17)年度と3回の計画変更を行い、2009(平成21)年度には筑後大堰がかりが施設完了し、その後、2018(平成30)年度には佐賀西部地域嘉瀬川ダムがかりが施設完了し、43年の長きにわたった本事業は完了した。
 このような膨大な規模の事業をいかにして推進していくかが重要な課題であり、水資源機構への事業承継、特定工事の指定などを駆使して事業を促進してきた。以下に、主な推進方策を紹介する。

(1)水資源開発公団(現:水資源機構)への事業継承

 筑後大堰を建設する「筑後大堰建設事業」は、治水、都市用水、農業用水に関係する事業であるため、水資源開発公団が建設することとした。
 また、国営事業は農業用水専用の幹線水路の工事を進めていたが、受益者から農業用水の安定取水を早期に実現するよう強く要望されたことから、事業の促進を目指して、1979(昭和54)年度の第1回計画変更において、筑後川導水路、佐賀東部導水路、矢部川左岸導水路、大詫間(おおたくま)幹線水路を水資源開発公団に承継し、筑後川下流用水事業として実施することとなった。

(2)特定工事の指定

 1988(昭和63)年以降は、農水省では大区画ほ場整備事業など生産性向上のための農業基盤整備事業の取り組みが強化されていた。しかし、この時期の国営土地改良事業は、国の財政再建のための公共事業費の抑制、労務費・資材費の高騰等により、全国的に工期を延伸せざるを得ず、事業効果の発現が遅れる状況にあった。
 本事業では、基幹となる4路線を水資源開発公団に承継し、残りを国営事業として実施することになっていたが、一般会計予算の制約から国営事業と関連する県営事業の間で進捗度合いが異なり、このままでは事業完了が遅れ、事業効果の発現が大幅に遅れる恐れがあった。
 このため、財政投融資資金を導入して事業を促進するため、1985(昭和60)年度に佐賀県側の諸富(もろどみ)線と徳永線を特定工事「佐賀地区」に指定するとともに、1988(昭和63)年度に福岡県側の田川城島(たがわじょうじま)線、大溝(おおみぞ)線、中木室(なかきむろ)線を特定工事「三潴(みづま)地区」に指定し、事業を促進することとした。


8.事業推進体制



 本事業の推進体制としては、全体の組織として筑後川下流土地改良事業推進連絡協議会、福岡県に福岡県筑後川下流域農業開発事業促進協議会、佐賀県に佐賀県筑後川土地改良事業推進協議会が組織された。本事業のように福岡県と佐賀県にまたがる膨大な事業量、受益面積54,000haと40市町村にわたる広大な受益地域において、多くの関係者の意見を調整しながら、長い年月を一つの目標に向かって推し進めることができたのは、これらの推進体制の合意形成システムがあったためといっても過言ではないと考える。
 当時を知る人たちによると、①国、県、公団そして関係市町村が、常に一枚岩となって取り組んできたことが筑後川下流事業の推進に大きな役割を果たしたこと、②各市町村にはそれぞれ事情があり、意見も異なり調整がつかないこともあったが、各市町村には下流全体のまとまりを大事に思う気持ちが底流にあって、最終的には全会一致で解決に至ったとのことである。

表-2 協議会の概要(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

図-5 推進体制図(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)



9.事業の成果(効果)



(1)豊かな農産物の提供

 事業前は、低平地で排水不良であったため、栽培されていたのは米とい草(畳表の材料)がほとんどであった。事業実施による農業用水の安定供給と排水改良により、水田の地下水位が下げられるようになり、畑作物も栽培できるようになった。関連事業である県営のほ場整備と農道整備により、大型農業機械の導入が進み、米・麦・大豆の大規模なブロックローテーションが行われるようになった。また、区画整理の進捗により稲作労働時間が大幅に減少したことから農業労働力を畑作物の生産に振り向けられるようになり、イチゴ、レタス、アスパラガス、ブロッコリー、タマネギなど、多種多様な農産物の生産が盛んになり、日本一の耕地利用率を誇るまでに成長している。さらに、地域内には農産物直売所が多数できており、消費者の求める新鮮な農産物や農産加工品が提供されている。
 事業がスタートした1975(昭和50)年と事業終盤の2016(平成28)年の農業産出額の割合を比べると、米が減少し、野菜等が大幅に増加している。また、2016(平成28)年の耕地利用率は、全国平均が91.7%に対して、佐賀県が131.7%で全国1位、福岡県が112.0%で全国2位となっている。

図-6 農業産出額の比較、耕地利用率、区画整理の進捗に伴う労働時間の軽減効果
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

(2)クリークの統廃合による湛水(洪水)被害の軽減

 断面が小さく不規則に湾曲しているいくつかのクリークを、断面が大きく直線的なクリークに再編整備した。国営事業のクリーク再編整備と、県営事業のほ場整備と農道整備は互いに連携をとり、拡大するクリークの掘削土を、廃止するクリークに持っていき、土砂の運搬を最小限にしながら、効率的な施工を行った(ステップ1)。

図-7 クリークの再編整備(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)

写真-10 事業により再編整備されたクリーク
(注)事業前のクリークの写真は、2.地域の概況の写真-1を参照
(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)

 再編整備したクリークには、筑後大堰からの水が安定して供給されるため、クリークを満水にしておく必要がなくなったことから、水位を田面より1m下げて管理することにより、畑作もできるようになり水田の汎用化が図られた。さらに、クリーク水路に空き容量が生まれたため、大雨のときはこれに一時貯留できるようになり、農地及び地域の湛水(洪水)被害を軽減することができるようになった(国営で整備したクリーク全体の空き容量は、福岡ドーム(176万m3)の約8杯分(総量約1,400万m3)に相当)(ステップ2)。

図-8 クリークの再編整備後(出典:筑後川下流 事業のあゆみ)

 地元の人によると、近年は異常気象により時間雨量が100mmを超えるような大雨が度々発生するようになったが、幹線クリークや排水機場により排水能力が向上し、満潮時でも湛水被害が軽減されている。さらに大雨が予想されると先行排水を行って、空き容量を事前に確保することで集落内の浸水や農地湛水を未然に防止している。大雨予想が外れても筑後川から導水路による補水があるので、安心して先行排水ができるようになったとのことである。

(3)地域の利便性の向上

 地域内に不規則に散在していたクリークが、ほ場整備と一体的に整理統合され、農道も整備された。その際、農家の協力を得て、道路、河川、公共施設等の用地を生み出すことができた。本地域では、国道385号線の新設により都市へのアクセスが向上するとともに、佐賀江川(さがえがわ)など河川の直線化により洪水被害が軽減された。
 地元の人によると、現在、佐賀平野では、熱気球の国際大会であるバルーンフェスタが毎年開かれているが、農地が区画整理され、農道や地方道が整備されたことにより、熱気球が安全に着陸し、車による回収が容易にできるようになった。これも、広域的な、ほ場整備による区画整理と農道や地方道の整備による効果だともいわれている。

図-9 ほ場整備による道路や公共施設用地の創出、屈曲した佐賀江川の直線化
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

写真-11 佐賀インターナショナルバルーンフェスタ
(出典:佐賀市環境協会 フォト・ムービーギャラリー)

(4)生物多様性、農村景観を活かした多面的な機能の向上

 本地域のクリーク網は、流水型水路(流れ堀)と止水型水路(貯水堀)が連結し、魚類を育む多様な生息環境を創出している。絶滅が危惧されるヤリタナゴ、ニッポンバラタナゴなどが確認されている。
 景観の面では、広大な田園空間となっており、麦の収穫期を迎える初夏には黄金色に染まる麦秋を見ることができる。また、古くから「50年に1干拓」といわれており、干拓が海側に前進するにしたがって、旧干拓堤防の上には道路や集落が連なり、今日に至る歴史を伝えている。
 このような地域資源を活用して、クリークを使ったイベント、環境学習会が行われている。また、関連施設を活用した地域学習も行っている。地域住民は、クリークのある生活に親しんでおり、観光にも利用され、クリークには筑後大堰の水が注がれて水質の浄化にも役立っている。

写真-12 クリークを活用したイベント「大木町 堀んぴっく」、環境学習会、ダム探検隊、親水公園の整備
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

(5)白石平野の農業振興

 嘉瀬川ダムに確保した農業用水を直接送水する施設を整備する「筑後川下流白石平野土地改良事業」によって、2012(平成24)年6月1日に嘉瀬川ダムの水が初めて白石平野に届いた。
 地元の人によると、通水式の時、クリークの茶色っぽい水に青くきれいな嘉瀬川ダムの水が注がれた瞬間に周囲に歓声が広がった。それ以来、毎年の通水開始日には見学の人々からの歓声が聞かれている。また、農業用水の安定供給と排水改良が進んだことから、キャベツ、レタスの露地栽培のほか、イチゴ、アスパラガス、キュウリ、花などのハウス栽培が盛んになった。さらに、嘉瀬川ダムの水は冷たいので夏場の稲の高温障害が出なくなったそうである。白石町の耕地利用率は、2014(H26)年に160%であり、全国1位の佐賀県平均の131%を大きく上回っている。
 また、白石土地改良区には石碑が建てられており、そこには『潤水思源(じゅんすいしげん)』と書かれている。この意味は、白石平野の田んぼが潤っているのを見たら、この水の源を思いなさいということである。田んぼを潤している水の源は、嘉瀬川ダムの建設のために集落を失うことを受け入れていただいた富士町の方々のおかげなので、いつまでも感謝の気持ちを忘れないために、この石碑を建てたそうである。


10.筑後大堰の取水安定への取り組み(上流域のダム建設による不特定用水の確保)



(1)豊かな農産物の提供

 筑後大堰の建設時の1980(昭和55)年には、福岡県、佐賀県、大分県及び熊本県の知事等の了解のもとに、瀬ノ下地点(筑後大堰の約2.2km上流にある河川流量等を観測している地点)において、筑後大堰の流量40m3/sを取水制限及び貯留制限の基準とすることが確認された。これは、水資源の開発及び利用に当たって、適正な河川流量を保持することによって河川環境の保全、下流の既得水利、水産業に影響を及ぼさないように配慮したものである。国土交通省において、筑後川では、1983(昭和58)年から松原・下筌(しもうけ)ダムの再開発により、瀬ノ下地点における河川流量40 m3/s の確保に努めている。また、その後の筑後川水系におけるダム建設においても、ダムに不特定用水容量を設定して、筑後川の流水を安定させる取り組みがなされている。不特定用水容量は、寺内ダム70万m3(1978(昭和53)年供用開始)、大山(おおやま)ダム470万m3(2012(平成24)年供用開始)、小石原川(こいしわらがわ)ダム1,170万m3 (2021(令和3)年供用開始)となっている。
 また、農業用水の取水が6月中旬に集中することへの対策として、2001(平成13)年度から松原ダム(1984(昭和59)年供用開始)の洪水調整容量の一部を活用した弾力的管理試験を実施し、河川流量の確保に努めている。

図-10 筑後川水系水資源開発計画位置
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)

表-3 筑後川の不特定用水容量
(出典:国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌)


11.おわりに



 筑後川下流土地改良事業は、1976(昭和51)年度に、全国最大級の国営事業としてスタートし、その後、1979(昭和54)年度、1995(平成7)年度、2005(平成17)年度と3回の計画変更を行い、2009(平成21)年度には筑後大堰がかりが施設完了し、2018(平成30)年度には佐賀西部地域嘉瀬川ダムがかりが施設完了した。「百年事業」と言われた巨大プロジェクトは43年間を経て2018(平成30)年度に完了し、完了時点では、福岡と佐賀の両県の関係市町村は平成の合併を経て20市町(13市7町)となり、受益面積は農地の転用や樹園地の除外等により40,899haとなった。
 本事業は、国、福岡県・佐賀県、関係市町村、水資源機構、関係土地改良区、関係団体、受益農家等における多くの先人達が熱心な話し合いと協力により合意形成を図りながら、幾多の困難を克服し続けて創り出されたものである。これらの高生産性な農業生産基盤と農業水利システムの活用によって、本地域が九州を代表する我が国の優良な食料供給基地として発展し、地域社会と経済を支えていくことを心から願うものである。



引用文献
1.『国営かんがい排水事業筑後川下流地区 事業誌』九州農政局筑後川下流農業水利事務所、平成31年3月
2.『筑後川下流 事業のあゆみ』九州農政局筑後川下流農業水利事務所、平成30年10月
3.『筑後川水利・序章【福岡県編】』九州農政局筑後川下流農業水利事務所・筑後川下流左岸農地防災事業所、平成31年3月
4.『筑後川水利・序章【佐賀県編】』九州農政局筑後川下流農業水利事務所、平成31年3月
5.『国営総合農地防災事業筑後川下流左岸地区 事業誌』九州農政局筑後川下流左岸農地防災事業所、平成31年3月
6.『魅力いっぱい筑紫平野(パンフレット)』 九州農政局筑後川下流農業水利事務所、平成29年


2023年2月1日公開