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1.「佐嘉」と「栄」
2.日本一の干満差を持つ有明海
3.農民によって造られた平野
4.流域の限界
5.水利施設の総合展示場
6.「佐賀段階」と水利の限界
7.嘉瀬川農業水利事業
8.事業概要

icon 1.「佐嘉」と「栄」



 かつては「佐嘉」と称され、肥前国風土記には「樟(くすのき)の栄(さか)える国」と記されている佐賀県。元々「佐嘉」とされてきたのは、南部に広がる佐賀平野一帯です。縁起の良い文字が示すように、ここは古代から豊かな平野でした。
 佐賀平野からは、日本最大の弥生遺跡、邪馬台国( )をも彷彿とさせる「吉野ヶ里遺跡」が発掘されています。古代中国の影響を色濃く残した大規模な集落跡は、当時の豊かさの象徴であり、 また、有明海を窓口にした交易範囲の広さを証明するものでした。
 しかし、右の地図を見た人は、少し不思議に思うかもしれません。有明海を窓口に交易を行ったにしては、海岸から遠すぎはしないかと。実際、吉野ヶ里遺跡は、 現在の有明海の海岸線まで直線距離にして約20km。整備された道も自動車もない古代、吉野ヶ里の人々は、この距離を海まで歩いていたのでしょうか。

※・・・ 邪馬台国は、古代日本の様子が記された最古の文献、中国の『魏志倭人伝』に登場し、その所在地や後の大和政権との関係などが、多くの考古学者の興味を引き続けてきました。現在でも、吉野ヶ里を邪馬台国と確証づけるものは見つかっていませんが、物見櫓(ものみやぐら)や環濠、土塁跡といった遺跡群は、先の文献に出てくる邪馬台国の様子に酷似しているといわれています。

icon 2.日本一の干満差を持つ有明海



 実は、吉野ヶ里に大集落があった弥生時代、海岸線は、現在と比べ佐賀平野のはるか内陸部に位置していました。 当時の海岸線は、現在の国道264号線とほぼ一致しています。
 佐賀平野は、約2000年の年月をかけて、沖へ沖へとその面積を広げてきました。そして、この平野の拡大に大きく関わってきたのが、日本一大きな有明海の干満差( )です。

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当時の海岸線は、海抜4mの等高線沿い。現在の国道264号線とほぼ一致しており、この線に沿ってたくさんの集落遺跡や貝塚が見つかっています。


  佐賀平野では、東の筑後川、中央の嘉瀬川、西の六角川が、上流から大量の土砂を運び下流へと積もらせてきました。有明海の大きな潮の満ち引きは、 干潮時、この土砂をはるか沖へと運び、満潮時に海岸へと押し戻します。結果、沿岸部には広大な干潟が形成されることになります。
 干潟は、長い年月を経れば自然に陸化します。しかし、それだけで、平野が広がったわけではありません。佐賀平野は、大部分が「干拓」、 つまり農地の造成でできたものでした。上流から運ばれた肥沃な土砂が積もってできる干潟は、農業に最適な土壌となります。“50年に一干拓”という言葉を生むほど、この地での干拓は必然的なことでした。

※干満差: 満潮時の海水面の高さと、干潮時の海水面の高さの差。

icon 3.農民によって造られた平野



 佐賀平野で行われた記録に残る最古の干拓は、鎌倉時代までさかのぼります( )。しかし、これ以前、平安時代には、すでに現在の国道264号線より南に海岸線があったと考えられ、古代からごく小規模な干拓が行われていたものと想像できます。

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 戦国時代末になると、海岸線は現在の国道444号線の辺りまで進みます。江戸時代前半には、その先に「松土居」という大規模な堤防が築かれ、以後、干拓は本格化しました。
 この平野を治めた佐賀藩の干拓は、江戸期を通して約500か所、6300町にも及びます。その60%は5町以下の小規模なもの。藩財政の窮乏が著しかったため、ほとんどが農民の手による干拓でした。
 完成後に長期間の無税が保証され、肥沃な農地が手に入ることから、農民たちの意欲は高かったようです。結果、江戸末期、佐賀平野は、概ね現在の県道313号線の辺りまで進出していました。 しかし、干拓で農地が拡大していくにつれて、この平野は宿命的な問題を抱えることになります。

※・・・ 13世紀末の元寇直後に干拓が行われた記録が残っています。二度にわたる元寇は、戦後の食糧不足と、大量に動員された武士への恩賞(土地)不足を招きました。有明海に広がる干潟へ開発の目が向けられたのは、このような社会的な背景も関係していたのかもしれません。

icon 4.流域の限界



 佐賀平野で農業に利用できる川は、嘉瀬川のみといっても過言ではありません。東には九州最大の河川、筑後川が流れますが、 地形的な問題と異なる領主によって支配されてきた歴史から、水を引くことは困難でした( )。
 頼みの嘉瀬川も水源の山が浅く、降った雨はあっという間に海へと流れ出てしまいます。流域も広くありません。 通常、川から水田に水を引く場合、その川の流域面積は水田面積の10~20倍は必要といわれます。しかし、右図で明らかなように、嘉瀬川の流域面積は、 平野の面積とほぼ同じ。増え続ける干拓地をどこまで潤すことができるものなのか・・・。
 また、築後川や嘉瀬川など土砂の堆積が旺盛な川は、川底が上がりやすく頻繁に洪水を起こします。 加えて、この佐賀平野は、毎年、夏から秋かけて訪れる台風の通り道に当たる地域。台風の大雨と高潮が重なったら、低平な干拓地はどうなってしまうのか・・・。
 「照れば渇水、降れば洪水」という言葉は、佐賀平野のためにあるようなものでした。

※・・・ 筑後川は、ちょうど肥前国(佐賀県)と筑後国(福岡県)の国境にあたり、現在も両県の県境に位置しています

icon 5.水利施設の総合展示場



 この厳しい自然の制約に、農民たちは知恵と工夫で対抗します。彼らは“水利施設の総合展示場”と呼べるほど、佐賀平野に様々な水利方法をもたらしました。
 江戸時代以降、嘉瀬川には14もの堰が築かれ、少ない水を分け合う水利体系が確立していきます。これらの多くに関わり、また筑後川への堤防築造、干拓や排水改良など、平野の治水・利水を一体的に進めた成富兵庫茂安の偉業も忘れることはできません( ※1 )。築後川に近い水田では、満潮時に逆流した川の水を利用する「淡水(アオ)取水」が行われました( ※2 )。そして、干拓地が増えるにつれ、この平野には「クリーク」と呼ばれる水利施設が広がっていくことになります。

 網の目のように張り巡らされたクリークは、ため池のように水を貯め、水路の役割も担います。また、深く掘り込まれたクリークは、排水路にもなり、洪水調節にも大きな役割を果たしてきました。
 クリーク農業は過酷です。田植えに必要な水は、足踏水車(図参照)で汲み上げ、冬から春にかけては、冷たい泥水に足を埋めながら泥上げ( ※3 )をしました。この過酷な労働と引き換えに、クリークは、佐賀平野に実りを与えてきたといえるのかもしれません。


※1※2・・・ 「成富兵庫茂安」「淡水(アオ)取水」については、詳しくはこちらをご覧ください。
→「肥前佐賀の水土の知」
※3・・・・・・ クリークは、川から引いた水やアオを貯めるため、放っておくと泥土が溜まり、貯水、排水ともに機能が低下していきます。底にたまった泥土は、水田の大切な肥料になることもあり、古くから農民たちは共同で泥さらいを行っていました。

icon 6.「佐賀段階」と水利の限界



 過酷なクリーク農業は、大正から昭和にかけて一変します。大正12年(1923)、水の汲み上げに電気灌漑、つまりポンプが導入され、 農民は足踏水車の重労働から解放されることになりました。生産性は格段に上がります( ※1 )。この頃、化学肥料の導入が進んだこともあり、佐賀県は、昭和8年から10年にかけて、稲の反収(水田1a収穫量)が全国一位を記録しました。 全国の農村が指標にした、いわゆる「佐賀段階」です。
 しかし、一方で、この平野を潤す水の量は、限界を迎えようとしていました。明治、大正、昭和と干拓地が増え続けた嘉瀬川の左岸(東側)では、 水不足が顕著になります。右岸(西側)は、かつて佐賀藩の支藩(小城藩)であった歴史から、利水上どうしても不利な面がありました。 左岸で干拓地が増加したことにより、一層、取水は困難となっていきます。
 また、「佐賀段階」をもたらした農業の近代化は、反面、人々のクリークへの関わりを薄め、その荒廃を招いていました( ※2 )。

※1・・・ 幕末以降、足踏水車の過酷な労働を分散させるため、田植えは、早期(5月下旬~6月上旬)と晩期(6月下旬~7月上旬)の2回に分けて行われましたが、早期に植える苗は害虫の被害を受けやすかったといいます。ポンプの導入で田植えが晩期に一本化されたことも、生産性が上がった大きな要因です。
※2・・・ 化学肥料の導入が進んだこともあり、クリークに必要不可欠な「泥上げ」が積極的に行われなくなったことが大きな要因です。作業の効率化が、クリークを通して築かれた共同体意識のようなものを緩ませてしまったのかもしれません。

icon 7.嘉瀬川農業水利事業



 佐賀平野が迎えた水利の限界―――これを解消するため、嘉瀬川上流にダムを設ける構想が持ち上がったのは、昭和8年のことです。 翌9年の干ばつ、そして、昭和14年、西日本一体を襲った未曾有の大干ばつを経て、構想は具体化していきました。しかし、当時は、第二次世界大戦の真っ只中、 資材面の制約を受け、着工にはいたりません。
 状況が動いたのは、戦後間もない昭和22年のことでした。国は、最重要政策となった食糧増産とエネルギー源の開発を図り、ダム建設を決定します( )。
 北山(ほくさん)ダム―――昭和25年12月に着工され、同32年に完成したこのダムは、クリークに代わり、佐賀平野の農地約1万ha(完工当時)を潤す水源となりました。 昭和35年には、嘉瀬川に川上頭首工が建設され、江戸時代から現役であり続けた14の堰がその役目を終えます。そして、昭和48年、 川上頭首工から分かれる幹線水路が完成したことで、この平野は、すみずみまで水が行き渡る新たな水利体系を手に入れました。
 佐賀平野は、昭和40年代初頭に「新佐賀段階」として、再び米の反収、日本一の座に返り咲き、現在も日本有数の穀倉地帯として、その地位を守っています。

※・・・ 計画当初は、発電、治水、上水道を含めた多目的開発の予定でしたが、着工までの間にいずれも脱退しています。

icon 8.事業概要



(1)受益地
・佐賀郡久保田村、 東与賀村
 (いずれも現在の佐賀市)
 小城郡三日月村、牛津町、 芦刈村
 (いずれも現在の小城市)
・受益面積 1,159.3ha
(2)主要工事
・北山ダム(北山貯水池)の建設
  (流域面積5,463ha、
   有効貯水量2,200,000m3)
・川上頭首工の建設
・以下の幹線水路の建設
 右岸幹線水路(延長5,797.67m)
 西水~東水幹線水路(延長7,000.00m)
 久保田幹線水路(6,461.00m)
 大井手幹線上流部水路(2,385.00m)
 大井手幹線下流部水路(5197.00m)
 市の江~川副幹線水路(1,906.9m)
 鍋島幹線水路(5287.00m)


佐賀県 ―嘉瀬川農業水利事業