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1.日本三大急流 ― 球磨川
2.不知火海の堆積作用
3.難治、肥後
4.加藤清正
5.遙拝堰の築造
6.干拓陸地造成の隆盛
7.用水の問題
8.堰上げかんがいによる取水
9.八代平野農業水利事業
10.事業概要

icon 1.日本三大急流 ― 球磨川



 山形県の最上川、静岡県の富士川と並び、日本三大急流の一つに数えられる、熊本県の球磨川(くまがわ)。 球磨川は、山間部に広大な流域を持ち、県南部の人吉盆地を流れた後、再び山間部の渓谷へと入り、不知火海へと注ぎます。
 本事業の舞台はその球磨川下流部に開けた、八代平野。右の地形図を見てもわかるように、 ほとんどこう配のない真平らな八代平野の背後には、南北に日奈久断層崖が走り、この崖を境に、山々が広がっています。
 八代平野は、現在では熊本県でも有数の穀倉地帯が形成され、安定した農業が営まれています。しかし、本格的に農業が営まれるようになったのは、 江戸時代以降。江戸時代以前の八代平野は、農業はおろか、平野すら少ししかなく、その大部分は海の底でした。
 古代・中世における八代の海岸線は、この地域で発見された遺跡からうかがい知ることができます。八代平野からは、10箇所もの縄文時代の貝塚が発見されました。 それら貝塚はすべて標高5mの等高線沿いに分布しており、この等高線が古代の海岸線であったことが推測できます。
 その後、八代平野は長い年月をかけて、沖へ沖へとその面積を広げていきました。


icon 2.不知火海の堆積作用



 八代平野には、球磨川ほか、たくさんの小河川が流れ出ています。これらの河川は、上流部の山々から大量の土砂を運び、山から日奈久断層崖を出たところで、海側へ積もらせてきました。 この河川の堆積作用に加え、平野の拡大に大きく関わってきたのが、八代海の4~5mにも及ぶ干満差です。
 不知火海の大きな潮の満ち引きは、干潮時、この土砂をはるか沖へと運び、満潮時に海岸へと押し戻します。その結果、沿岸部には広大な干潟が形成されることになります。
 干潟は、長い年月を経れば自然に陸化します。しかし、それだけで、平野が広がったわけではありません。八代平野は、大部分が「干拓」、つまり農地の造成でできたものでした。

icon 3.難治、肥後



 干潟は上流から運ばれた肥沃な土砂が積もったものであり、干拓した土地は農業に最適な土壌となります。しかし、反面、干拓で出来た平坦な土地は、 洪水という、農家にとっては死活問題ともいえる問題をあわせ持つことになります。
 断層までの急流は、極端にこう配がなくなる平野部に出たところで、行き場を失い、濁流となって度々水田や民家を襲いました。 洪水常襲地帯となった八代地域は、“難治の国”と言われ、この地域を治めるためには、治水が絶対条件となったのです。
 そしてもうひとつ、この地域を難治と言わしめることがらがあります。熊本県の気質は「肥後モッコス」と表されます。モッコスとは、頑固者、強情、 偏屈などという気質をあらわした熊本弁です。熊本の数少ない平野部は山で分断され、他との交流が少なかったことが、独特な気風を生み出したのでしょう。
 洪水と肥後モッコスという特殊な風土。歴史を見てみると、このように難治と呼ばれた肥後の地を任されたのは、実力のある武将達でした。
  1500年、豊臣秀吉が九州征伐を終え、肥後の地は佐々成政が任されます。しかし、土着の豪族、菊地一族との激しい争いや、 まもなく起こった土豪による国人一揆により、責任をとって改易されます。成政は、織田信長の家臣のころから猛将で切れ者と、高く評価された武将でしたが、この地の風土を治めることは出来ませんでした。
 次に肥後の地を任されたのが、秀吉の家臣、加藤清正と小西行長でした。清正は肥後国の北、行長は南を任されましたが、 関ヶ原の合戦による行長の失墜で、全て清正領となります。秀吉の右腕であり、猛将で知られる清正でしたが、彼は力をもってこの地を治めようとはしませんでした。 清正は、この地の最大の課題であった、治水、干拓、水利事業を行いました。つまり、農政によってこの地を治め、農民の信頼を勝ち得るため、 肥後モッコスという特殊な風土と、洪水という大問題に立ち向かったのです。

icon 4.加藤清正



  賤ヶ岳の戦いや、関が原の戦いでの武功、朝鮮での虎退治など、武辺者として有名な加藤清正ですが、 熊本城や江戸城、名古屋城などの建築に携った、優秀な土木技術者だったことはあまり知られていません。
 清正は土木の神様ともいわれ、その卓越した技術は、難治熊本を治めるにあたって、いかんなく発揮されました。
 球磨川にかぎらず、いたるところで洪水の被害になやまされていた肥後の国。清正は、そういった地域に一つ一つ治水工事をほどこし、 以前に比べ格段に安定した農業を営むことが出来るようにしていきます。清正が肥後藩に入国した当時54万石だった石高は、75万石、実に40%もの伸びをみせました。
 洪水の苦しみから救ってくれた、清正に対する感謝の念は、熊本県民が加藤清正のことを「せいしょこさん」と呼ぶことからもわかります。 これは、「清正公」を音読みし、最後に親しみを込めて“さん”をつけたものです。
 また、加藤清正とその子忠広によって肥後国が統治されたのは、わずか44年間。一番長いのは、 その後肥後国を治めた細川氏で1632年から1871(明治4年)年までの239年間です。細川氏のほぼ1/5しかこの地を統治していないにもかかわらず、 加藤氏の名をこの地のいたるところで目にするのは、清正の偉大さたるゆえんでしょう。一説によると、長い間肥後をおさめた細川氏も、 自らこの地の英雄清正の偉業を認め、褒め称えることによって、農民の信頼を勝ち得たといいます。
 清正は、八代平野でも土木技術の手腕を発揮しました。八代平野で行われたのは、治水と利水を兼ねた一大事業、遙拝堰や堤防の築造でした。


icon 5.遙拝堰の築造



 清正が目をつけたのは、球磨川がちょうど八代平野へ出る、現在の八代市豊原上町あたりです。以前からその場所には、川に数本の木の杭を打ち込んだだけの杭瀬がありました。 しかし、川に木を打ち込んだだけの堰では、大雨の際、上流から流れ出る大量の水には耐えられません。洪水の度に堰は壊れ、その機能を果たすことが出来なくなることも多々ありました。

  清正は、この杭瀬を改修し、新たに、石を用いた強固な堰の築造を計画します。
 しかし、洪水時の水の圧力に耐えうるものはそう簡単に造ることはできません。そこで、清正は流れの急な球磨川の水の圧力を直接うけないようにするため、 石は流れに向かってななめに詰む工夫を施しました。石積みの堰の長さは400mにも及んだといいます(右写真)※。
 また、中央部は、船の往来を妨げないようにするため、45mほどあける工夫も取り入れられました。
 清正は同時期に、下流の村を洪水の被害から守るため、遙拝堰の下流には萩原堤、はぜ塘(ども)、前川堤、なども築造し、治水事業にもあたっています。 これらの堤防は、水かさを増した急流が堤防を破壊しないよう、“石刎(いしばね)”という流れを和らげるための独特の工法が用いられました。
 工事にはたくさんの人夫が携りました。清正は人夫が農作業を行う時間を極力削らなくてもいいように、必要以上の労役を課すことはなかったといいます。また、作業にあたった人夫へは、 きちんと給金も払われました。こうして、清正は、農政によって農民からの信頼を得ることに成功し、しいてはこの地を治めることに成功しました。


icon 6.干拓陸地造成の隆盛



 前述したように、八代平野の大部分は干拓によって造られました。この干拓の歴史の先鞭をつけたのも清正です。清正は、八代の北、 千丁町(現八代市)の新牟田あたりを干拓し、球磨川から水をひいて農地を新たにつくりました。この新たに作られた農地に必要な水は、 遙拝堰から引いた水でまかなわれました。
 一方、球磨川では、堤防が築かれたことにより、より多くの土砂が下流部へと流れ出るようになり、 堆積作用が強まっていきます。結果、干潟はどんどんと拡大していきました。
 こうして、八代平野の干拓の歴史が幕をあけます。
[八代平野 干拓の歴史]
※八代平野農業水利事業誌より
 八代平野では、清正以来300年の間に10,000町歩を超える新陸地が造成されました。17世紀中後期の肥後藩では、 八代をはじめとした肥後藩各地で行われた干拓などの農地造成によって、人口が二倍にまで膨れ上がったといいます。

icon 7.用水の問題



 江戸時代、干拓によって、石高は飛躍的に増加しました。しかし、一方では、干拓の進展に伴って、致命的な問題が浮上します。
  加藤清正が築造した遙拝堰の取水能力は2,000町歩程度。当時はそれで十分でしたが、干拓が進むにつれて、干拓農地に必要な水の量が増え、 地域一帯に安定した水を供給できなくなってきました。特に、遙拝堰下流の右岸に土砂が堆積しやすく、右岸側の農地にうまく水を引くことができません。 遙拝堰の取水口を100m上流に延長することも試みられましたが、すぐに土砂が堆積してしまい、うまく機能せず、上流からの取水は断念せざるを得なかったといいます。 農民は試行錯誤の末、遙拝堰下流に、前川堰、八の字堰などを築造しました。干拓後期につくられた、郡築水島などの右岸側新干拓地2660町歩は、 この両堰より専用水路によって取水されています。しかし、下流部に作られた堰はいずれも取水位が低く、思うように水を引き入れることができません。 また、下流に堰が複数つくられたことにより、水利体系の複雑化を招いてしまい、用水管理などの農民の負担は増加していきました。

icon 8.堰上げかんがいによる取水



 水不足の問題は、明治、大正と続きます。昭和に入ってからも、幾度となく遙拝堰改修による水利体系の合理化が叫ばれました。 しかし、太平洋戦争などによる森林伐採で山々が荒廃し、土砂の流出が激しくなり、下流部での土砂堆積が遙拝堰改修計画を阻むことになってしまうなど、なかなか進展をみせません。
 干拓地末端では、堰からの水が全く届かないか、届いても少量であったため、水を得るために苦悩を強いられることになります。末端部の農民は、 苦肉の策として排水路を簡易的に堰き止め、水位を上昇させて、田へ水を入れる方法(堰上げかんがい)をとって、なんとか急場をしのいだといいます。
 干拓地の約50%が標高1m以下の低地です。末端の低位部で排水路の水位を上昇させたところに、一度大雨がふると、田は全て水につかってしまう。 しかも、水はその後何日間も引かずに停留しつづけ、甚大な被害を及ぼすことも多々ありました。
 また、堰上げかんがいも困難な地域は、ポンプの導入を試みていますが、年間2000万以上の維持費用を費やしても、用水不足を解消するにはいたりませんでした。

icon 9.八代平野農業水利事業



 もともと豊富な水量をもつ球磨川です。取水の合理化と用排水路網の整備をおこなうことさえできれば・・・農民のこうした想いは、昭和30年ごろピークを迎えます。
 ちょうどその頃、日本は高度経済成長期へとはいり、全国各地で国営事業が行われていました。そのような中、ついにここ八代平野でも、 農民の想いが受け入れられ国営事業を行うことが決定します。
 昭和39年工事は着工されました。遙拝堰は、築造からゆうに400年以上を経過し、老朽化にともないその機能を十分に果たせていなかったため、 前面改修されることになり、遙拝頭首工へと生まれ変わりました。また、同時に下流の前川堰、八の字堰は、遙拝頭首工に統合されることとなり、 維持管理の節減に加え、下流地域へ安定した水が配られるようにもなりました。
 ほかにも、用排水水路も一体的な見直しが行われ、幹線用水路35km、排水路5kmが新設・改修されています。
 頭首工と、用排水路の整備により、6340haにも及ぶ農地に安定した水が供給されるようになりました。
 清正に始まった八代平野での治水・利水の戦い。江戸、明治、大正と、とても長い間水不足や洪水に苦しめられ、その都度、 耐え忍んできた農民たちの苦悩の戦いは、昭和48年、八代平野農業水利事業が完成によって、ようやく、終止符が打たれることとなりました。

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icon 10.事業概要



(1)頭首工新設
頭首工遙拝堰

(2)用水路
・南岸導水路新設一部改修 ・北岸導水路新設
・日奈久幹線用水路新設 ・植柳幹線用水路改修
・不知火幹線用水路改修一部新設 ・八代幹線用水路新設
・昭和幹線用水路改修 ・郡築南部幹線用水路新設
・郡築北部幹線用水路新設 ・文政幹線用水路改修

国営用水路延長 32,235m
県営用水路延長 27,910m
団体営用水路延長 100,930m

(3)排水樋門【県営施設】
・明治新田5 号樋門 ・前川樋門
・郡築8 番町樋門 ・旧大鞘樋門
・北新地樋門 ・三番割樋門

(4)排水路
流藻川 3,268m(改修)
敦川内川 1,000m(改修)
前川排水路 3,000m(新設)
海士江排水路 3,350m(新設)
八千把川 2,070m(改修)
夜狩川 3,400m(改修)
山王川 3,160m(改修)
江口川 1,897m(改修)
長溝川 2,375m(改修)
同仁排水路 270m(新設)
鮟鱇川 3,860m(改修)
北新地排水路 770m(新設)
鏡川 640m(改修)
三番割排水路 2,100m(改修)
県営排水路計 7,390m(新設) 23,770m(改修)
団体営排水路 2,280m(新設) 116,879m(改修)

icon 画像転載元



・不知火 写真・・・・・・・・・・・・ 熊本県ホームページ
・加藤清正 肖像画 写真・・・ 熊本市立 熊本博物館
・遙拝頭首工・・・・・・・・・・・・・ 本県庁農政部農村計画課

熊本県 ―八代平野農業水利事業