大分県北部の国東半島の付け根に位置する宇佐平野。大分県は、県土の大部分が山で占められており、全般的に平野が少ないという特徴がみられます。
しかし、この地域は、駅館川(やっかんがわ)によって上流部から運ばれた大量の土砂が下流部に堆積し、県内最大の平野が形成されました。
しかし、図を見ても明らかの通り、この平野は全てが低地ではなく、左岸にくらべ、右岸は20mほど高い台地となっています。このわずかな地形の差が、歴史にも大きな影響を与えることになります。
平野の中央を二級河川駅館川が流れており、駅館川の両岸には、約7,600haの水田と約2,200haの畑が広がっています。この面積は、大分県の耕作地の約17%にあたり、
県内最大の穀倉地帯となっています。このうち、約6,000haを持つ宇佐市※のほぼ全域が国営駅館川農業水利事業の事業区域です。(右上図)
今でこそ県内最大の穀倉地帯となっている駅館川流域ですが、その穀倉地帯を造りあげるまでには、先人達による血の滲むような苦労の歴史がありました。
※宇佐市: もともとの事業区域は、宇佐市、宇佐郡院内町・安心院(あじむ)町と3つに分かれていましたが、現在では、市町村合併により、宇佐市の1市となりました。
宇佐市は周りを山で囲われており、平野の海岸線は瀬戸内海と面しています。 九州というよりは、どちらかというと瀬戸内海の奥地としての特性が強く、気候区分は温暖な瀬戸内式気候に属しています。
九州の年平均降水量が1,800mm~2,200mm(日本平均:約1700mm)であるのに対し、この地域の年平均降水量は1500mm程度と決して多くありません。
これは、図のように南や北からの湿った空気がどちらも高い山にさえぎられてしまうことが影響しています。特にこの地域では、灌漑用水が大量に必要となる春から夏の時期に降雨量が少なくなる傾向があり、干ばつの被害を受けやすい地域でした。
それだけではありません。駅館川流域の上流部は、表土が薄く、いたるところで露出岩が見られます。このため、山の保水力が極めて小さく、山に降った雨はすぐに川となって下流へと流れてしまいます。
平常時でも川を流れる水の量は少なく、ひとたび日照りが続くと、川の水は枯れ、人々は度々干ばつの被害に苦しめられました。少ない水を少しでも取り入れるために、
川にはたくさんの堰が造られました。山間部では、農地100haに対して、水を取り入れるための堰が20箇所以上も築かれたといいます。
この地の農の歴史は「少ない水をどのようにして、平野全体にいきわたらせるか」という難問との戦いだったといっても過言ではありません。
駅館川下流に広がる、広大な平野の湿地帯は、古代の人々にとって魅力的な土地だったのでしょう。そのことを示す数多くの遺跡が、平野部の各所で発見されています。
駅館川の河口から4㎞ほど上流の右岸にある川部遺跡や、その上流の東上田遺跡からは、大規模な環濠集落が発見されました。同じく川部・高森古墳群からは、3世紀~6世紀頃の古墳が6基見つかっています。
なかでも、赤塚古墳は県内最古の古墳で、奈良の大和国で見られる前方後円墳の形状となっています※。(※他の5基も、前方後円墳)
また、川部・高森古墳群や東上田遺跡の周りから、弥生時代中期を中心とした、数百基にも及ぶ小規模の古墳が見つかっています(野口遺跡)。その他、別府遺跡、上原遺跡、小向野遺跡からは、銅鐸や銅鏡などの青銅器他、多数の遺物が発見されました。(右図)
これら遺跡群の発見によって、駅館川流域には、弥生時代全期にわたって有力な豪族によって支配されていたことが明らかとなっています。
この地域は周りを山に囲まれているため、-他の九州地域との交流はそれほど盛んではなく、どちらかというと、瀬戸内海を通じて本土との交流が深かったと考えられています。
そのことは、上で述べた、大和によくみられる古墳の形状、様々な青銅器の発掘が、雄弁に物語っています。
瀬戸内海奥地という地理的な背景から、古代大和政権の九州進出の拠点とされていたといわれています。宇佐地域は本土と関係の深かく、それは中世に入っても続きました。
朝廷の力を最大限に利用し、九州の一円支配に乗り出した寺社。全国に約4万ある八幡宮の総社として、全国的に有名な宇佐神宮が誕生します。
奈良の大仏建立の神託や、天皇即位を狙って共謀した道鏡の宇佐八幡宮神託事件などによって、徐々に朝廷の信頼を獲得していき、8世紀始めには国家神としての地位を確立しています。
その後、藤原氏、源氏など、その時代時代の権力者の協力を得ることに成功した宇佐神宮は、九州全域に荘園を持つ強大な権力にまで発展しました。
前述したように、この地域では降雨量が少なく、川を流れる水の量も少ない、水には恵まれない土地でした。そこで、宇佐神宮をはじめとする荘園領主達は、土木技術が高くない中世末期でも、
比較的容易に水を引くことができた平野部の開発を進めていきます。その過程で造られたのが大分県に現存する最古の堰、平田井堰です。
平田井堰が造られたのは1185年。当時、駅館川左岸の低地に位置した33ヶ村、654町歩を灌漑していたと記録にあります。
木杭にソダ(小枝)をからませた程度の堰でしたが、土木技術の進歩によって、徐々に強固になり、後の時代には、新田開発が行われる要因にもなりました。
しかし右岸はというと、駅館川より20メートル以上も高いの台地になっていたため、水を引き入れることが容易ではありませんでした。
また、下流と上流でも地形は大きく異なります。先に述べたとおり上流部は山が入り組んでおり、山間部の合間の農地に水を行き渡させるためには随道(トンネル)が必要となり、多大な労力と技術を要しました。
以上のような地形的な理由により、平野部左岸の平野部を除いては、なかなか思うように開発が進みません。後述しますが、左岸上流部の台地が潤されるのは、平田堰の完成から500年以上もあとの桂掛水路の完成、右岸にいたっては、700年以上もあとの明治時代まで待たねばなりませんでした。
中世において広大な荘園を有し、九州全土に影響を与えた宇佐神宮ですが、中世末期には、豊後国より支配を伸ばしてきた戦国大名、大友氏の兵による焼き討ちなどによって、
徐々に権威は衰えていきました。近世に入ると、豊臣秀吉の九州平定によって、領地は完全に没収されてしまいます。
全国統一を目前にした秀吉は、それまで大友氏によって支配されていた地に、あらたに大小さまざまな大名を配置しました。この地には、秀吉の右腕、黒田孝高が配置されています。
その後、黒田孝高らが宇佐宮の再興にあたっていますが、結果的には、寺社領(朱印地)わずか1,000石が認められただけでした。
秀吉は、豊前、豊後国一帯を自らの直轄領、太閤蔵入地としています。太閤蔵入地とは、武将などへの恩恵供給源の土地であり、
つまりは給料のような位置付けのもとで支配したということになります。こうした位置付けに定められたのも、厳しい地形により、統治しにくかったこと、
そして、荘園領地とはいうものの荒地のまま開発されなかったところも多かったということが影響していると考えられます。
江戸時代に入ってからも、土地利用方法は秀吉の時代と同じで、恩恵供給源の土地として利用されました。その結果、豊前国や豊後国では、小藩分立の支配体制が確立されていくことになります。
右の図は、江戸時代の宇佐における分割支配を示した図ですが、藩領、幕府領、旗本領、神領などに細かく分かれているのがよくわかります。
江戸時代は、土木技術の発達が著しく、農業用の大規模な施設が各地で作られました。しかし、この地域では、小藩分立により、各領地との利害関係や水利権、資金不足などの問題によって、
ほとんど作られていません。代わりに、この地域には小規模の堰が無数に造られました。そのとき形成された複雑な水利網は昭和に入るまで続き、
本地域だけで125箇所にものぼる井堰があったことが記録に残っています。つまり、小藩分立がこの地の農業の繁栄を遅らせるきっかけともなったのです。
一方で、細かく分けられた藩は、大きな藩に比べて支配者による圧力もそれほどなく、比較的自由な学問の風土があったようです。後に、慶応義塾の創始者福澤諭吉、
数千人が学んだとされる私塾『咸宜園(かんぎえん)』を日田に開いた儒学者廣瀬淡窓、そして後にこの地を救うこととなる、土木技術者南一郎平など、多くの優秀な人材を世に輩出しています。
中世から近世にかけて、大きな開発が行われなかったこの地域。農民の暮らしは、決して裕福とはいえませんでした。
しかし、そのことが、大分特有の地形や自然条件とかさなり、全国的に有名な、大分の石工集団を形成します。
当事業の受益地である、旧院内町は、「日本一の石橋の町」と言われています。江戸時代の終わりから昭和の初めにわたって70基以上にものぼる石橋が架けられました。
今もそのほとんどが残っており、これらの橋を架けた石工集団の技術の高さが伺えます。
小藩分立の背景にあった、入り組んだ山々。そこには、幾本もの細かな川が流れています。隣町への移動は、橋がなければできない。
しかし、木で橋をかけても、すぐに流されてしまう。そして、試行錯誤の末に生まれたのが、今に残る石橋というわけです。また、この地域には、阿蘇山の噴火によって堆積した、
加工しやすく比重の軽い火山岩が豊富にありました。これも、石工が発達した大きな要因の一つといえるでしょう。
そしてこの石工の技術は、この地域でよく見られる石橋や石仏に留まらず、水を引くための技術としても生かされ、それまでは困難とされてきた右岸の台地の開発を進め、後に駅館川流域を県下最大の穀倉地帯へと導くこととなります。
前述しましたが、駅館川より20m以上高い右岸の広大な台地に水を引き入れ、新田を開発することは、中世より続いた農民の夢でした。
しかし、そのためには、上流の山間部に堰を築き岩山を掘り抜くなどして水路を台地まで通さなければなりません。
台地へ水路を通そうとする計画は、古くは1750年頃からがあったといいます。その計画は恵良川と津房川の合流地点より、
津房川上流2.5kmほどのところに堰を作り、山を貫いて台地まで水を運ぼうとするものでした(※右図)。しかし、技術的、資金的な理由により、
以後100年以上もの間、何人もが挑んでは敗れの繰り返しで進展のないまま年月だけが過ぎていきます。しかしついに、
その一大事業を成し遂げる人物があらわれます。大分の偉人、日本三大疏水で有名な南一郎平です。
南一郎平は、金屋村の庄屋の息子として生まれました。一郎平の父、宗保もまた、台地に水路を引き入れるために尽力した一人で、一郎平が小さい時から、右岸に水を引き入れるための井堰の重要性を説いて育てました。
父、南宗保は、水路を通すことまでは成功させたものの、いざ水を流すと、いたるところに欠陥がみられ、さらにはトンネルの崩壊も重なってしまい、結局完成を見ないまま、志半ばにして他界してしまいます。
父が残した「農民を塗炭(とたん)の苦しみから救え」という遺言を胸に秘め、一郎平は1865年、26歳の若さでこの難題に立ち向かうことを決心します。
一郎平はまず、当時藩内改革を進めていた日田の豪商広瀬久兵衛に資金面の援助を申し入れます。広瀬久兵衛は、儒学者、廣瀬淡窓の6つ下の弟で、志が非常に高く、聡明で、一郎平の熱意を瞬時に見抜きます。
大量のお金を無利子で貸すに留まらず、小川徳兵衛や児島佐左衛門ら最高峰の石工も紹介しました。
広瀬久兵衛から大量の資金援助を受けた一郎平でしたが、相手は100年間だれも成功し得なかった難攻不落の計画。10m進んで1cm下げる精巧さを要する水路。1日掘りつづけて数十cmしか進まない随道の掘削作業。
成功したかと思えば、随道や水路が崩落してやり直しと、作業は困難を極め、ついには、その資金もついに底をついてしまいます。
一郎平は多方から借金をして、急場をしのごうとしますが、途中、その借金が返せずに、工事中止まで追い込まれてしまいます。
しかし、決死の覚悟で送った嘆願書が長崎府の目にとまり、明治2年(1869)、当時日田県知事だった松方正義のはからいによって、政府の事業として続けられることになりました。
その後は、工事も順調に進み、明治3年(1870)、ついに広瀬井手は完成します。それは、1750年に初めて計画が立ち上がってから、120年目のことでした。
通水後も各所で水路の補強工事をしなければならなかったのですが、国からの援助は、通水時に打ち切られてしまい、
あとは実費で行わなければならないという状況に追い込まれてしまいます。一郎平は、家財道具や家までも売りはらい、自らは無一文となって完成させました。
一郎平の心意気、技術に深く感動したのが、後に首相となった松方正義です。
一郎平は、明治8年(1875)に、政府高官となっていた松方に招かれ、東京へ行くことになり、以後、疏水事業に従事することとなります。日本三大疏水として挙げられる、那須疏水(栃木)、安積疎水(福島)、琵琶湖疏水(滋賀)。
その全てに最高技術者として携わって完成へと導き、日本の疏水事業の先鞭をつけたのでした。
中世に造られ、左岸へ水を引き入れた平田井堰。そして、不可能だと思われた右岸台地への通水も、一郎平ら先人の尽力によって可能となりました。
しかし、それでも宇佐平野末端までを潤すまでには至りません。平田堰は、灌漑面積はこの辺りの堰では最も広く、長い間、農地を潤しつづけてきましたが、
分水地点や水路網が複雑に入り組み、合理的に水を分水することはできませんでした。山間部に造られた無数の井堰も同様に、
水利問題など灌漑に多大な労力を投じていました。しかも、この地域の、雨が少ない、川を流れる水の量が少ないといった水不足の問題は根本的に解決されていません。
大正、昭和と時代が変わっても、依然として農民達の願いは、安定した水を得るということにありました。昭和12年には、当時37町村による駅館川水利統制期成同盟が発足するなど、水を得るために農民達による努力は続けられます。
そうしたところに、大きな転機が訪れます。戦後復興のための、国土総合開発計画、それに続いて食糧増産の機運が、国レベルで高まりを見せ始めました。
早くから嘆願に嘆願を重ねていた宇佐の地は、昭和33年に国営直轄地区として採択されます。偶然にも、翌年に西日本を襲った大干ばつにより、
地域住民の国営事業に対する関心が一気にふくらみ、多方から協力を得る形で順調に計画は進みました。そして、昭和39年、悲願であった国営事業がスタートします。
国営駅館川総合開発事業は、国営駅館川農業水利事業と、国営農地開発事業の2つからなります。農業水利事業は、山間部に2つのダムを築造して水を確保し、その水を平野の6,000haに行き渡らせる。農地開発事業は、山間部に600haの農地を造成し、そこに必要な灌漑用水を確保するための事業として行われました。
特に農業水利事業の特筆すべき点は、この地に古くから築き上げられてきた水利資産と、近代水利技術が融合していることです。
新しくつられた、恵良川上流の日出生(ひじゅう)ダムと、津房川上流の日指(ひさし)ダムによって、非灌漑期に大量に水を貯えられるようになりました。
そして、その水は、南一郎平の広瀬井堰、大分最古の平田井堰からも取水されています。
広瀬用水は、昭和7~10年にすでに全線にわたって改修され、その後も災害により破損した部分の改修は行われてきましたが、全般的に水路の損失ロスが大きいため、
この事業によって、全線に渡って改修工事が行われました。
平田井堰(平田頭首工)に関しても、ソダ堰が逐次改修され、戦後昭和25年にすでに大改修が行なわれていましたが、更に本事業で取水施設、
土砂吐の新設、躯体補強等の改修が行われました。また、近隣の辛島堰、江島井堰の両堰は、老朽化し維持管理費が多大であったので、この時、平田井堰に統合されています。
また、山間部には、近代的な水利ネットワークが形成されました。(右図)
日出生ダムから恵良川に放流された水は、西椎屋頭首工で取水され、山間を縫うようにして造られた幹線水路を通って、地域に配水されます。また、非かんがい期には、
山ノロ1 号、2 号、寒水の新たに新設した各頭首工から取水された水が、幹線水路を通って、日指ダムにも貯溜されるという画期的な水利ネットワークです。この水利ネットワークにより、
恵良川、津房川の両河川の水を一体的に管理することができるようになり、昔では考えも及ばなかった山間部にまでも、安定した水が行き渡るようになりました。
その他にも、恵川中流では、それまで左岸平野の上流部を灌漑していた桂掛井堰とそこにかかる幹線水路の老朽化のため、桂掛井堰を廃止し、宇佐西部頭首工を新設しています。また、同時に、幹線水路に関しても新設及び改修が行われました。
昭和39年に始まったこの事業は、総額170億円、16年の歳月を経て、昭和55年に完了を迎えました。ダム2つ、頭首工4つを新設し、それまであった堰や水路を一体的に整備。それにより、農地6,000haと新たに造られた600haの農地に対し、安定した水を配ることが出来るようになったのです。
こうして、長年にわたって人々を悩ませ続けてきた、絶対的な水不足という問題から、ようやく開放されることとなり、大分県最大の穀倉地帯が形成されました。
日出生(ひじゅう)ダム
堤高 |
: |
48m |
堤頂長 |
: |
196.3m |
堤体積 |
: |
534千m3 |
総貯水容量 |
: |
8000千m3 |
有効貯水容量 |
: |
7160千m3 |
日指(ひさし)ダム
堤高 |
: |
40m |
堤頂長 |
: |
263m |
堤体積 |
: |
431千m3 |
総貯水容量 |
: |
4800千m3 |
有効貯水容量 |
: |
4510千m3 |
西椎屋頭首工
山の口1号頭首工
山の口2号頭首
寒水頭首工
宇佐西部頭首工(桂掛井堰を全面改修)
道水路 (計:60,888m)
山間部 |
: |
29,565m |
広瀬幹線水路 |
: |
11,948m |
寄藻幹線水路 |
: |
2,510m |
宇佐西部幹線水 |
: |
12,184m |
平田幹線水路 |
: |
3.320m |
辛江幹線水路 |
: |
1,361m |
・豊田寛三ほか 『大分県の歴史』 (山川出版社 1997)
・外園豊基ほか 『街道日本史52 国東・日田と豊前道』 (吉川弘文館 2002)
・九州農政局駅館川農業水利事業所 『駅館川工事誌』 (株式会社富士マイクロサービスセンター 1980)
・大分県ホーム-ページ 先人の軌跡(Viento ~おおいたの風~ 2004 Spring Vol.4)
・OBS大分放送 大分歴史事典
・九州農政局 NN事業紹介 国営駅館川地区
大分県 ―駅館川農業水利事業
標高900m~1,500mの鶴見岳、由布岳、福万山などの山々から流れ出たいくつもの河川が、津房川、恵良川となり、それら2つの河川が合流し、駅館川と名前を変えて周防灘へとそそぎます。