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1.本庄川流域
2.本庄南用水路
3.立ち上がった8人の義民
4.兵器局の人夫となって
5.県営綾川総合開発事業
6.国営綾川農業水利事業
7.国営土地改良事業 綾川II期
8.綾川II期土地改良事業事業の概要

icon 1.本庄川流域



 宮崎市の中央部を流れる県内随一の大河・大淀川。その支流・本庄川の、そのまた支流が綾北川(地図参照)。これらの川の流域に位置する綾町、 国富町一帯は、年間平均降雨量約2,500mmという多雨地帯であり、全国でもトップクラスの日照時間という天候的には極めて恵まれた温暖な地域です。 にもかかわらず、この台地は火山灰性土壌と「赤ホヤ」「黒ニカ」と呼ばれる悪質下層土で形成されており、保水力が著しく少ないために、古来、 旱魃の被害に苦しんできました。また、収益性の高い野菜などの栽培もできず、サツマイモなどの農作物で生計を立てることを余儀なくされていました。
 恵まれた気象条件にもかかわらず、はねつるべの野井戸に水を頼るしかなかった苦しい村々。綾北川からの水路の開削は、本庄村(現国富町)にとって、悲願中の悲願でした。
 明治時代、この水路の開削に挑んだ8人の義民の物語は、地元の郷土史研究家・柄本章氏による「国富の歴史」(国富町広報誌連載)や「国富町郷土史」に詳しく描かれています。

 ここでは、それを参考にしながら、まず先人たちの苦難の歴史を偲んでみたいと思います。

icon 2.本庄南用水路



 宮崎県が初めて設置された明治6年(1873)。県の係官・藁谷英孝が本庄村に来村、「今日県下において公利を興す事業」を村民に問いました。 この時、膝を乗り出すように答えたのが、本庄で「稽衆園」という塾を開いていた儒学者の高妻五雲(たかづまごうん)でした。「本庄村は土地高く灌漑[かんがい]にすこぶる不便です。 農夫達は一たび干天にさらされれば野井戸に頼る外なく、昼は炎暑、夜は蚊に襲われ、露にぬれ病におかされる始末です。この上流の森永より溝を引けば水勢は盛んで宮崎までもわけなく達します。この水路ができますなら、公を益すること計りしれないものがあります」。

 五雲の計画は、綾北川が本庄川と交わる手前の森永から水を取り、大地に水を引いてくるというものでした(右図参照)。これを聞いた県官・藁谷はすぐに県庁に報告。 県では水路の開墾に向け詳しい調査が行われ、水路の工程、費用まで決定しました。しかしながら、明治9年宮崎県が鹿児島県に合併されるという県政の混乱から、せっかくの大計画も実現不能という悲運にみまわれたのです。


icon 3.立ち上がった8人の義民



 しかし、計画が頓挫してからも、住民からの水路の必要性を説く声は止みません。そしてついに、 明治13年、井上亀太郎という人物を中心に8人の有志が立ち上がり、おのおのの私財を投じて志を貫くことを決意、兄弟の契りを交わしました。
 8人は反対する五雲を説き伏せ、設計書を添えた費用拝借書等の願状を依頼、郡役所に提出します。しかし、鹿児島県はすげなくこれを却下。 唯一「水路用材の官木払下げ」に望みをつないで、8人は県内の杉木を探し歩いて、3万6千本の払下げを願い出ました。
 翌年、督促願いで対応した県技手の「君等のわずかな力では、この事業の完遂は思いもよらぬ」との言葉に、 8人のひとり宮永八百治は「われらがこの大願をやりますのは、もとより生死を越えてのこと」と左手の小指を切断。熱涙にむせびながらも村の惨状を訴え、事業実現に向けての必死の覚悟を示しました。
 8人の誠意は次第に県を動かし、実施調査、計画案にこぎつけます。そして、ついに明治14年、自費開削の許可が降り、4月24日、待望の工事着工となりました。
 しかし、それが同時に、苦難の始まりとなりました。

icon 地獄の日々



 8人は、歓喜勇躍しながらも、杉材の払下げを待ちました。苦心惨憺の末4千円(時価約6千万円)を借り集め、伐採許可を待ちわびましたが、どういうわけか、 お達しは「杉材払下げの儀は聞き届け難し」。すでに開墾地さえでき始めています。資金も半ばに達し、借財は8千万円(時価1億2千万円)という巨額に膨らんでいました。
 土地家屋は売り払い、粗末な藁小屋に住み、債主に責められる地獄のような日々に耐えながら、それでも工事を続けました。
明治15年、工事はおよそ8割の成功を収めながらも8人の窮乏はその極みに達し、ついに10月18日の夜、死をもって県と債主への謝罪を決意。 まさに自害に及ばんとしたそのときに、縁者から知らせを聞きつけた五雲が駆けつけ、彼らの短慮を諭し、「死んだ気になってことにあたれ」と諌めたといいます。
 その後も、県へ借用の願いを続けるのですが、ことごとく断られてしまい、ついに8人は中央政府への嘆願を決意します。債主の目から逃れるように朝霧にまぎれての旅立ちでした。
 都城、鹿児島、熊本と回り、別府から船で神戸へ。そして、神戸からは節約のため徒歩で東京に向かいます。あるときは野宿、あるときは村の祠堂に宿をとり、 飢えに耐え、粗末な食事を分けあい、道端の湧き水で喉を潤すという生死をかけた旅でした。明治15年、12月5日、東京着。着いた時の彼らの所持金はわずか28銭だったといいます。

icon 4.兵器局の人夫となって



 地元からも戸長がかけつけ、8人は以前、県御用係の藁谷英孝に会います。彼こそは明治6年、「公利を興す事業」を村民に問い、水路計画を県に建言してくれた最初の人でした。
 これまでの経緯と8人の覚悟を聞いて驚いた藁谷は、借家や薪炭を提供し、懸命の働きによって兵器局の人夫や工場の仕事を世話します。そして、彼らの必死の嘆願活動が始まりました。
上京した宮崎県令、鹿児島県令、農商務省大臣・品川弥二郎、内務卿・山形有朋、勧業議官・前田一郎・・・。しかし、奔走むなしく日々は過ぎ、万策尽き果てました。県吏・藁谷は2包の金子を与え、帰郷を促します。
 在京、実に50余日。志成らずも国へ帰らざるを得ない8人でした。帰れば、死よりも辛い借金の催促が待っています。
明治17年1月25日。宮崎着。親戚の倉庫に身を潜めて県吏・藁谷の処置を待ちました。

icon ついに完成



 朗報は同年2月26日、鹿児島県令からの連絡でした。政府よりの貸下げ1万円(時価1億5千万円程度)の沙汰。県からの借財9千円をこれで返し、 利子返済の目途も立ちました。さらに県吏・藁谷は各地の債主に、水路完成後の増米で年賦償還を取り計らうよう百方取りなして、ようやく局面の打開を図りました。
 勇躍した8人は、昼夜を問わず督励して工事を進め、ついに明治17年8月、積年の大願であった本庄南用水路は一応の完成を見ることになりました。 そしてその後、2度の大洪水を経て、同22年、ようやく真の完成を、迎えることとなりました。
 水路全長10,190m、幅2.3~3m、随道(トンネル)6ヶ所2,446m。
灌漑[かんがい]区域(本庄台地)300町歩、収穫米800余石(約2万俵)、工事費4万2千円(時価約6億円)。

功績をたたえ、犬熊御才薗の高台突端に「本庄村水路開渠記念碑(写真)」が建てられました。そして、明治25年、8人に対して、藍綬褒章が授けられたのでした。

●写真は「伝えたいふるさとの100話」(財団法人地域活性化センター)のサイトより転載。


icon 5.県営綾川総合開発事業



 井上亀太郎ら8人が事業を成し遂げてからも、本庄川流域では、様々な灌漑[かんがい]事業がなされてきました。
 しかし、昭和に入ると戦争で荒れた国土を建て直すため、各地で総合開発の機運が高まってきました。戦後復興時において山の木が大量に切り出されたため山が荒れ、 毎年のように洪水災害が発生しました。また、敗戦後の復興のためには、産業活動の基盤となる水資源および電力エネルギー等の開発が必要でした。 そして、なにより食料の増産が国の最大課題でもありました。
 昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、空前の特需ブームとなり、沈滞していた日本の産業界は一気に蘇生しました。同年に「国土総合開発法」が制定されます。
国土総合開発計画とは、
 一  土地、水その他の天然資源の利用に関する事項
 二  水害、風害その他の災害の防除に関する事項
 三  都市及び農村の規模及び配置の調整に関する事項
 四  産業の適正な立地に関する事項
 五  電力、運輸、通信その他の重要な公共的施設の規模及び配置並びに文化、厚生及び観光に関する資源の保護、施設の規模及び配置に関する事項
などの事項に関して、国土を総合的に利用、開発、保全していこうというものです。
 すでの昭和22年、「吉野川総合開発計画(いわゆる吉野川分水)」の調査をはじめており、同24年にはこの計画が決定しています。

 宮崎県でも、昭和26年、県営による綾川総合開発事業を計画していました。これは、綾南川(本庄川)、綾北川等の上流に大ダム郡を築造して、 本庄川や大淀川河口方面の洪水調節を行って、洪水被害を軽減するとともに、綾町、国富町、宮崎市一帯にわたる高台荒蕪地を開田し、 下流流域における旧田も改良して食料の増産を図り、さらに発電ダムによって生み出される電力約8万kwを県内産業用電力にあてて工業の発展を図るなど、 県経済の振興を図るというものです。さらに、綾南、綾北地区における豊富な森林資源を利用した木材工業の発展を促すという計画も盛り込まれていました。
 このうち、農業水利事業に事業については受益面積が3000ha以上に及ぶということで、国営事業としての申請がなされ、翌年より調査が開始され、昭和32年、国営綾川農業水利事業が承認。翌33年、着工の運びとなりました。


icon 6.国営綾川農業水利事業



 この事業は、宮崎県による治水および発電事業を目的として建設された綾北ダム、綾南ダム、古賀根ダムによる貯水を共用圧力隧道にて綾川第2発電所まで導水し、 農業用水専用のペンストック(水圧菅)で毎秒6.09tを取水し、導水路19.87km、幹線水路31.59kmと計51.46kmの隧道・開渠・菅路により、 綾町、国富町、西都市、佐土原町の計3,042haの田畑を灌漑するというものです。昭和32年より着手、14年の歳月を経て完了しました。
 この工事では、各水路の分水装置、オートメーションによる流量計測、調節装置など全国初の高い技術が導入されました。
 この事業の効果は大きく、とりわけ昭和42年の大干ばつではその効果を遺憾なく発揮(農業収益が増大)しました。
受益面積3,042haのうち、2,044haが畑地灌漑です。これは同時期に着工された笠野原農業水利事業(S34~S44)とならんで、九州における大規模畑地灌漑の代表的事例となりました。



 「本庄南用水路」の話は、昔の事業がいかに大変であったかを雄弁に物語っています。先人の死をかけた闘いには、少なからぬ驚きと感動を覚えます。
 一方、戦後の国営事業の記述はまことにあっさりとしたものです。国の財政が豊かになったこと、法制度や事業の仕組みが整備されたこと、大型土木機械の導入で工事がはるかに容易になったこと、 工法も近代化されたことなど、多くの理由があげられます。しかし、決定的な違いは、近年の国営事業には、ほとんど人間(個人名)が登場してこないことでしょう。
 公共事業ですから、やむを得ないといえばそれまでですが、例えば都庁の建設では建築家の名前が公表されます。土木工事に設計者の名前や功労者の名が記されることはほとんどありません。
 しかしながら、忘れてはならないでしょう。これらの近代的工事もまた、多くの人々の悲願、必死の請願活動、国や県の巨額の費用、受益者の償還金等々の上に実現されたものであることを。 そして、工事に際しては、徹底的な学術的調査と、事業誌にも記されぬ様々な障害、それを乗り越えた技術者達の懸命な努力があったことを。

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綾川地区全景・・・右手前より森永、高田原、川上原、岩郷原、六つ野原、長園原、小豆野原、台地を経て日向灘を望む。



icon 7.国営土地改良事業 綾川II期



 綾川地区は、国営事業の前と後とで大きく変わりました。事業前は収益性の低いサツマイモ等が農作物の主流を占めていましたが、事業後は野菜や葉タバコ、 ピーマン、キュウリなどの施設野菜、露地野菜のダイコン、そして花卉類の栽培も行われるようになりました。 国富町は千切りダイコンと葉タバコ生産日本一を誇り、 照葉樹林の町づくりで名高い綾町の農産物も平成13年度には市町村では初めて有機 JAS登録認証機関として認可されるなど有機農業の町として名を高めています。 西都市ではピーマンが日本一、また佐士原町は水田の占める割合が約73%と高く、早期水稲のコシヒカリが栽培されるなど、 受益地区内では収益性の高い営農が展開されています。  しかし、事業の完了からすでに30年以上が経過し、施設の老朽化が顕著になってきました。 そこで、施設の更新を目的とした綾川・期事業が導入されることになりました。


icon 8.綾川II期土地改良事業事業の概要



(1)地区の現況
 本地域は、宮崎県宮崎市の北西に位置し、西都市、佐土原町、国富町及び綾町の1市3町にまたがる面積約2,100haの地域です。 綾町錦原を西端として北東に向かう平坦な高台で、畑地を主体にした農業が営まれています。 水利状況は、綾川総合開発事業(事業主体:宮崎県、昭和26年度~昭和32年度)で築造された治水、 かんがい及び発電を目的とした綾北ダムを水源とし、古賀根橋ダム、共用圧力陸運を経て、国営綾川土地改良事業(昭和33年度~昭和45年度)及び関連事業で建設された農業分水工、 導水路、幹線水路等により地区内に配水されています。 その後、施設の機能の維持及び安全性の確保を図るため国営綾川地区土地改良事業 (国営造成土地改良施設備事業:昭和50年度~昭和55年度)により一部改修され今日に至っています。 本地区の営農は、これらの事業で確保された 安定的な用水を活用した露地野菜、施設野乗、工芸作物及び飼料作物等の生産が行われ、宮崎県内の先進的な農業地域となっています。

(2)事業の目的
 本事業は、基幹施設である国営綾川土地改良事業、国営綾川地区土地改良事業で造成された用水施設が老朽化により、用水の確保が困難となっていることから、補修等の維持管理に多大な労力と費用を支出しているため、 施設の改修(56km)を行うことにより維持管理費の低減を図るとともに農業生産の維持及び農業経営の安定を図るものです。

(3)事業実施期間
着手 平成13年度   完了予定 平成22年度

(4)事業目的別面積

100

(5)市町村別受益面積

200

(6)主要工事の概要
・用水路
300

・調整池
400

(7)事業計画一般平面図

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事業計画一般平面図


宮崎県 ―綾川農業水利事業