1.1 地理的条件
本事業地区は宮崎県の中心部を流れる大淀川右岸下流域に位置し、上流域から田野町、清武町、宮崎市の1市2町、東西約17km、南北9kmの範囲内に分布する地域であり、清武川水系沿いの低・平部水田地帯とその周辺部につながる標高約10m~270mの丘陵地上の畑からなる地区面積約2,000haの農業地帯である。
水源施設である天神ダムは北諸県郡山之口町(現都城市)と宮崎郡田野町(現宮崎市)の町境を流れる境川に建設された。
1.2 地形と地質
本事業地域及びその近傍の地形は、①西部から南部にかけて分布する山地、②地区中央部の丘陵地、③大淀川、清武川及びこれらの支流によって形成された①及び②の間を埋める段丘面(台地)および低地、④日向灘に面して海岸沿いに発達する被覆砂丘及び砂堆の4種に分類される。このうち、人間の生活に密接に関係する段丘面は大きく3段に区分され、その中位がほぼシラス台地に相当する。3段丘面のうち、上位面は、境野丘陵の背後地に断片的に分布するほか、北方丘陵の背陵部にかなりの面積で分布する。
中位部を占めるシラス台地は、洪積中期のいわゆるシラスで構成され、大淀川および本庄川の河岸部に沿うものと、田野盆地を主とする清武川流域に広く分布するものがある。
下位面は、シラス台地を侵食して、下部の基盤岩上に厚さ1~5mの砂礫層を堆積した面(清武川沿い)と沖積低地との比高が1~2mで、宮崎市街地などに広い範囲で分布する旧谷底平野あるいは旧三角州が隆起によって段丘化したものと推測される。
水田は谷底平野、海岸平野(デルタ)および一部下位面に分布し、畑地は沖積低地のうち扇状地、自然堤防、各段丘面(下位面・中位面・上位面)および山地丘陵の緩斜面に分布する。
西部から南部にかけて分布する山地を構成するものは、頁岩・砂岩・一部輝緑凝灰岩およびそれらの互層からなる古第三紀から一部白亜紀の日南層群である。
地域中央部の主として丘陵地を構成するものは、泥岩、砂岩、礫岩およびそれらの互層からなる新第三紀の宮崎層群であり、また、大淀川、清武川及びこれらの支流によって形成された段丘面を構成するものは、最上部はロームによって覆われた砂礫層であり、中位面はシラスである。このシラスの厚さは数mから20余mで、清武川沿いは下部が溶結している。これらのシラス及び溶結凝灰岩は姶良カルデラ噴出物で、大隅軽石流と呼ばれるものである。
大淀川、清武川及びこれらの支流によって形成された低地は未固結の河川氾濫堆積物および海岸性堆積物であり、礫・砂・シルト・粘土が不規則に入りまじって堆積している。これらの段丘面および沖積低地の堆積物の厚さは、前者では数mから20m位で宮崎層群に達し、後者は深度40m位までに宮崎層群に達する。地形面と地質との関係を模式的に下図に示す。
2.1 田野名物の大根風
11月ともなると、町内至る所に漬物用の大根干し棚がかけられ、田野独特の風物詩になっている。以前は千切り大根を、各方面に出荷していたが、今では漬物用大根で全国的に有名になった。漬物用大根は乾燥度合が、最も大切な要件である。他の大根の先駆者といわれる長老の話によると、田野は乾燥の立地条件が最高である。凍らない程度の気温の中で、西風の力によって乾きやすい条件に恵まれているとのことである。
2.2 全国的に有名な田野の漬物
田野は昭和の初めころから戦後の一時期まで、宮重大根(青くび大根)を原料とした千切大根の大生産地であった。高台の原には千切棚が立ち並び、白と緑がダンダラ模様を呈し冬の風物詩であった。「田野の空っ風」(西風)という代名詞もあるように、霧島連山を超えて吹き降ろす西風が、田野に乾いた「空っ風」をもたらす。観測データでは冬場の西風の出現率は44パーセントで県内第1位。大根が凍らない程度の気温と共に、大根の乾燥には最高の立地条件を備えている。また黒ボクと呼ばれる火山灰土が大根の肉質を柔らかくする特質を備えている。
昭和35年ごろから町外漬物業者が田野に着目し、生大根を買い付けて直営方式により大々的に干大根の生産を始めた。そのころから七野・片井野・楠原・屋敷地区の一部の農家は、生大根で販売する方式を改めて、直接自営によって干大根に仕上げ、製品を漬物業者に納入する形態をとるようになった。昭和41年道本澱粉が本格的漬物工場を建設し、当初は工場直営方式で操業していたが、昭和43年の暖冬異変による品質低下を招いたのを契機に、以後は極力生産者に対して直接乾燥作業を行うよう指導を加えていった。その理由としては農家の作物に対する愛情は何物にも変え難く、管理・技術・研究面において到底企業の及ばないすばらしいものを持ち合わせていることが証明されたことにほかならない。
その後、しだいに干大根生産が町内の全農家に普及し、冬期の耕地は大根一色となり、林立する大根やぐらは田野名物の一つに数えられるようになった。昭和48年第二次農業構造改善事業により田野町農協漬物工場(51年増設)が完成し、田野の干大根は「宮崎たくあん」と共に全国的に有名になった。販路は関東・関西方面を主体にほぼ全国を網羅し、一部はサンフランシスコ・ロサンゼルス等にも輸出されている。
57年度の漬物用大根の作付面積は738ヘクタール、干大根で8、118トンを生産、他の漬物工場と5つの民間工場に卸して11億9300万円を売り上げ、農家所得は県内で最高、九州管内でも上位にランクされていた。
3.1 土地基盤整備事業
本地域の土地基盤整備事業は、遠くは明治の末期頃より耕地整理が実施されてきた。当時の施工方法は現在のような機械力による訳ではなく、そのほとんどが手作業であつたため施工は容易ではなかった。多くの田畑が区画は不整形、狭小しかも道路もほとんど無く、また水路は用排水兼用の土水路で漏水が多くその維持管理も苦労していた。
やがて、昭和の時代に入り役牛馬が動力の中心となったが、やはり現在では想像もできない苦労の多い基盤整備であつた。やがて昭和の中期頃までは必要な基盤整備は手掛けることもなく、食糧増産に開拓努力を重ねた。昭和の後期に至ると農業に急速な機械化が進んだ一方、社会情勢の変化に伴って、少子化、農業従事者の転業、更に高齢化が進み、後継者不安等の現象が出はじめた。
また、当地域の農業は天災に左右されることが多く、そのため、水田の用排水路の整備、機械化によるほ場の整備と畑地かんがい施設の整備の外、農用地開発、山林原野の畜産利用、農業用水の確保など、近代農業が要請する当面の緊急課題が多くなってきた。
国は昭和50年度から、かんがい排水、ほ場、農道、農地等の施設整備をはじめ、諸事業を積極的に大規模な土地改良事業として取り組み、食糧供給基地としての完成をめざしてきた。即ち、大淀川右岸事業もその一つであり、田野町においては天神ダムの建設と基盤整備は将来安定した農業経営につながると期待された。
一方、農地の土壌は火山灰で降雨による浸食が激しく崖面崩壊、陥没、更に表土の流失は作物に多大の被害を与え農業意欲を阻害していた。不整形な農地の整備に加えてかんがい、排水と農道の完備は近代農業の要求する緊急の課題であった。近年農業従事者の減少と大型機械の導入に伴って必然的に大規模な土地改良事業が必要となった。今までは土地基盤整備は農家の収益を増大し、かつ、食糧供給基地としての役割も果たす重要な事業となっている。
4.1 天神ダムの建設(大淀川右岸地区土地改良事業)
天神ダムは宮崎市・清武町・田野町の1市2町の農地を対象に、農林水産省九州農政局・宮崎農業水利事業所が主管する国営土地改良事業の一つとして建設された。その受益面積は表のとおりである。
着工は昭和56年で平成12年完成した。この事業の発想は着工より10数年以前に遡る。天神ダムは、どんな人々が如何なる構想をもって考えだされたのか。その初動の時点から記述しておきたい。
昭和42年2月に、1市2町の関係者が集まり「大淀川右岸地区土地改良事業促進期成同盟会」が結成された。さらに50年6月、期成同盟会を発展的解消して「大淀川右岸地区土地改良事業促進協議会」(以下協議会)が設立され、その初代事務局長に田野町の長添繁富氏が選任された。この時点では具体的に着手し得るものは未知数でゼロからの出発であった。草創期の事業につきものの諸問題が山積していた。同氏は先ず 「協議会」の諸企画を、国に積極的に働きかけ、当局とともに必要な折衝を消化しつつ、ようやく着工にたどり着いた。要となる事務局に田野町の歴代耕地課長(現・農業整備課長)が協議会の事務局長を兼任し、大淀川右岸土地改良事業の重責を担っている。
昭和42年~43年は近年では稀にみる干ばつの年で42年6月(第1回)及び8月(第2回)に干ばつ対策本部が設置され、ついで翌43年3~4月にも早期水稲干ばつ対策本部が設置される等異常気象に追い回された年であった。
その間、県においても県下全域の被害実態調査を続け、その水源対策についてもいろいろ検討がなされた。
一方、県下有数の畑作地帯で、昭和32年着工された国営綾川地区土地改良事業が昭和42年6月に通水開始し、県下における大規模畑地かんがい事業は実用化の第一歩を踏み出した。また、昭和43年5月には、国営一ツ瀬川地区土地改良事業の調査が開始された。
このような一連の機運にあって県下(中南部)の関係市町村より、綾川・一ツ瀬地区のような大規模の農業基盤整備を前提とした諸調査を進めて欲しい旨の陳情要請が県や国に行われた。その経緯からダム建設の動機となったものが2つあることが分かる。
① 昭和42年~43年頃に続いた干ばつが水源対策の必要性を急がせたこと。
② 綾川や一ツ瀬川の土地改良事業が機運を高めたこと。
長い年月を同じ土地と取り組み、幾度となく深刻な災害にあってきた農業者にとって、天災への対応は消極的なものが普通である。その根底には常に限られた資本力という制約があった。治山治水には莫大な資金がいる。更に今回の事業資金は、地元負担が20%で残りは国庫負担であるが、20%と言っても200億円の総事業費とした場合40億円を負担しなければならない。従って、干ばつが続いても金を動かすことに億劫な思いが先にたつのである。協議会の当面の課題は、まず関係する農業従事者の同意を得ることが、陳情と直結する大きな仕事であった。
協議会としては、農業委員を中核として説明会等を精力的に開き、徐々に理解を得るよう努力した。もちろん資金面は無視できない問題で、併行して昭和51年6月~52年1月には、地元選出国会議員、及び知事に対して「地元負担率の軽減と国庫補助率のアップについて」陳情を行ってきた。
さらに、水没する地区の同意を如何にして得るかという懸案があげられる。当時、ダム建設の影響下に入る地域の建物は田野側に12戸(内1戸は公民館)、山之口側に6戸あった。このうち田野側は了解を得たが、山之口側はなかなか同意が得られなかった。
このころ青井岳地区では公民館自治会(青井岳・五十山・飛松・無頭子地区)を中心に天神ダム建設反対の動き活発化し、最初は説明会を開いても誰も集まらない状態が続いた。反対の主な理由は、地元地区にはなんの恩恵もないということである。そして、昭和48年3月に開催された山之口町議会(第4回定例議会)は青井岳区民(83戸)より提出された天神ダム建設反対の請願を採択決議している。この議会の議決は事業の推進に大きな障害となり、事実上山之口側の天神ダムについての協議は門戸を閉ざされる形となった。これに対して長添事務局長を始め、協議会の役員や国・町当局等の代表が、山之口側に長期間に亘って働きかけた記録が各所に記載されている。
また、関係河川流域の補償交渉は、主として県の内水面漁業組合を窓口としてなされた。そもそも大淀川右岸事業の根幹をなす天神ダムについては、構想・計画が地元天神地区の意向は配慮せず先に走りだしたため、地元対応は困難を極めた。毎年国のダム調査予算の配分は受けるのであるがその執行ができず、ダム建設計画は一時頓挫するかに見えた。
難局が打開され始めたのは現町長である丸目氏が農林課長に命じられ事務局長を兼務したころからである。農林課の倉永主幹が当時の土地交渉と深くかかわった。その倉永氏に当時の事を振り返ってもらった。
時期としては昭和50年代後半になる。この時期、山之口側を国営事務所が、田野側を田野町農林課(現・農業整備課)が分担することになった。倉永氏が担当された初年度は、ほとんど国や協議会と地元民との折衝を見聞することに終始した。そうした中で、問題点が多岐に亘り明確化されないことに気づいた。そこで地元民の不安や悩み、要望などを解決して理解を得るためには個々の問題点を明確化すること、地元民とのコンセンサスを得るためには相互の信頼関係を築くことが必要であると痛感するようになる。そのために国営事務所長と交渉して「全面的な関係者代表」の資格を付与する保証を取り付けた。地元民の要望を聞き、国と討議し、時には強硬に主張して地元民の気持ちを訴えたりする中で、徐々に地元民との信頼関係も形成され、少しずつ問題点を打開していった。
ここで土地補償の内容で特異な点を記述しておきたい。「一律補償」がそれである。こうした公共事業の対象となる土地補償は、地目別・地利性別に何階級かに分けて補償額を算定するのが一般的手法である。しかし天神地区の場合には徹底的な問題点の協議という結果から「地目別一律補償」とした。こうすることによって交渉後にあとを引きがちなトラブルなどを起こさないように配慮した点は特記してもいいだろう。
以上概略的に交渉進展の経過を記述したが、その他にも当然解決すべき多くの課題があった。その一つに関係河川流域の補償問題がある。交渉は主として県の内水面漁業組合を窓口としてなされ種々の対策が講じられた。昭和60年10月、それぞれの地権者交渉や漁業補償等一切が妥結してようやく決着をみた。
多くの人々の献身的な努力や地元民の理解によって日の目をみた。
昭和42年の協議会発足から実に18年の歳月を要した大事業である。このダムがこれらの経緯の上にできたことを伝え、広く住民の生活を支え、地域の発展につながることが期待されている。
「天神ダム」は土塁を築く方式のいわゆる「ロックフィルダム」であるが、その形態を選択した主因は岩盤の強度にあった。宮崎層群という岩盤のため、補強工事に多くの労力と資金を要したのである。堤体断面図で見ても、高さ62.5m、地表基面より30mまで掘り下げて補強してある。この中心堤体から両方に傾斜をつけて、基盤面の裾野の幅は約330mある。両岸をつなぐ堤長は442m、貯水量620万m3で最大1.2倍の余裕を持たせてある。この堤体本体の工事は平成3年着工された。
水没した田野町側の11戸(公民館を除く)の内6戸が移転しその4戸は田野町南東台地の前平地区に移転し、1戸は田野町内の他地区に残る1戸は都城市に移転している。残る5戸は高齢を迎え墳墓の地を去るに忍びないとして地元に残留した。山之口側は全戸同町他地区に移転している。
かくして平成12年の通水後は、当地区に満々としたダム湖が出現することになる。
5.1 農業の変化
5.1.1 水利用型農業の導入
天神ダムの完成に伴い平成13年度より水利用型農業が実施される運びとなった。町では平成元年を「ハウス元年」と位置づけ平成の新農業の展開を試みている。
これは、干ばつ時、水田用水取り入れ口への補水、畑地ではスプリンクラー等による灌漑、或いはハウス栽培等多面用水の活用が各作物に活力を与えるものであって、昭和63年度より田野町字南原に研究ほ場を設置し、畑地かんがいによる試作研究に成果をあげ、天神ダムの完成に合わせて本格的な取り組みをしている。
永い歴史を持つ本町の漬物大根も連作障害や食生活の変化等により、産地くずれの不安も出ている。町では漬物大根にかわる第2、第3の加工産品の開発を平成4年から進めている。品目としては現在のところ食用甘藷が中心で里芋、タカナ、カボチャ、ゴボウ等の開発計画もある。
5.1.2 近代的ハウス設営
平成元年をハウス元年と位置づけた田野町は、平成6年の前平地区ほ場の一部に近代的ハウスを設置することにした。当初の経営を軌道に乗せるため町は側面的に協力を行い、現在トマトの栽培に力をいれている。
6.1 事業工期
昭和56年度 ~ 平成16年度
6.2 受益市町村
宮崎県宮崎市、清武町、田野町
※市町村名は事業実施時点
6.3 受益面積
6.4 主要工事の概要
【引用・参考文献】
・大淀川右岸事業誌(平成17年3月 九州農政局宮崎農業水利事務所)
・田野町史上巻 (昭和58年 3月 田野町)
・田野町史下巻 (昭和59年10月 田野町)
・田野町史続編 (平成12年 3月 田野町)
・国営土地改良事業大淀川右岸概要書(平成16年度版 九州農政局宮崎農業水利事務所)
・大淀川右岸概要書 (平成27年度版 大淀川右岸土地改良区