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1.川南原の国営開墾事業
2.南の軍馬補給部・落下傘部隊の開設
3.川南の陸軍空挺落下傘部隊
4.高鍋川南国営開拓事業
5.唐瀬原畑地灌漑事業
6.国営尾鈴土地改良事業
7.「畜産+畑作」の二本の軸足による地域振興へ
8.地域のこれから
9.事業概要

icon 1.川南原の国営開墾事業

クワ一本で不毛の原野に挑む



 日向灘に面した宮崎県の中央部に位置する尾鈴地区は、北から都農町、川南町、高鍋町の3町からなり、一級河川小丸川と二級河川名貫川にはさまれた丘陵地である。
 年間降水量は2,400mm程度で、年間日照時間も2,100時間と国内有数である。我が国の平均降水量は年間1,800mmであり、 2,400mmの雨が年間を通して均等に降るのであれば畑地灌漑の必要はないが、当地域では6、7月の梅雨期と9月の台風時に集中して降り、一方、春先や真夏にはほとんど降らず 無降雨日が30日以上続くこともまれでない。
 集中して降る雨は、ほとんど農作物に有効利用されずに海に流出してしまうため、干ばつの害をしばしば受けるほか、収益性が高くても乾燥に弱い作物の栽培が困難な状況にある。 また、この地域はハウス(温室)による野菜、果実、花などの栽培が盛んであるが、必要な用水は農家が個人で掘った小さな溜池に貯めた天水や地下水等に頼るなど、不安定で利便性も悪い。

 川南への移住は既に藩政の時代から、讃岐国(香川県)の移住者を受け入れたり、また周辺の村の住民を移して進められてきたが、開発されたのはその一部であった。
 1881年に石井十次(1865~1914、高鍋町出身、キリスト教の博愛精神による孤児救済に生涯を捧げる。日本で最初の孤児院「岡山孤児院」を創設、 以来、子供の将来を考えての「鍬鎌主義」の実践により、“働く喜び”を教えながらの教育で約1,200名の孤児を救済。)が川南の唐瀬原開拓を計画し工事着手したが、水の使用について名貫川下流住民の反対に遭い中止された。
 明治の初期に高鍋藩は、当時の士族40余名を小池地区に移住させて開拓に従事させ、用水路を築き開田を進め農業を営ませた。
 1887年に松浦健太郎が四国から七戸の移住者を入植させたのが唐瀬原開拓の端緒である。また、明治初期に十文字原所有の酒井正盛は、3~4戸の移住者にハッカの栽培をさせていたが、 1891年からは鹿毛信盛が耕地にハゼ(蝋の原料となる落葉小高木)を植え、その間の土地を雇用者に小作料なしで開墾させ、大正の中頃には30戸に増加していたが、 東京在住の深田謙介に譲渡。深田は、大農場経営方式で移住民を招き入れ、1936年には戸数60余戸に増加した。

 川南原国営開墾事業は1911年に第13代宮崎県知事有吉忠一により開田事業として計画され、1925年に国営大規模開墾事業として農林省に申請された。 当時は、人口稀薄で耕地面積も少なく、松林の点在した原野であったが、地元農家はもとより川南村、宮崎県当局の開田事業に寄せる意欲は並々ならぬものがあった。 1926年の第19代宮崎県知事時永浦三から内務・大蔵・農林各大臣宛の上申書には、「本県は、気候温暖で地味肥沃であり、土地は平坦にして広大、 水源もまた豊富であり、農作物の栽培に適しているが、総面積501平方里(7,727km2)、うち用地は43,500町歩余り、畑地は65,800町歩余り、計109,300町歩余りで、 わずかにその100分の15に相当する耕地を有しているに過ぎない。これを他府県の土地利用程度と比較する時、はなはだ寒心に堪えないところである。 けれども最近の調査によると、開田できる土地は、なお1万数千町歩余も残っている。これは、実に本県産業関係上唯一の資源であり、 児湯郡川南原、新田原および西諸県郡野尻原はともに規模が広大であり、本県下における最も重要な開田予定地である。」とある。

 1919年の開墾助成法施行以降、規模が小さく事業が容易な開墾は着々と実施されていたが、大規模開墾は府県または耕地整理組合などでは実施困難であったため、 1927年大規模開墾計画が策定され、全国の500ha以上の大規模開墾可能地を国が実施設計を行い、国営で事業実施することとなった。 この計画に含まれたのは全国17地区で、うち川南原を含む5地区が事業実施された。5候補地の着工は、各地からの陳情運動が激しく、容易に決定には至らなかった。

 1928年には、昭和天皇御即位の大典が京都御所で挙行されるに伴い、政府および中央の文武百官が京都に参集したのを契機に、 京都府は関係者に巨椋池開墾事業を猛烈に働きかけ、全国5候補地の中で第一着手となった。もっとも、巨椋池の着手は国営開墾の糸口を得ることとなり、 他候補地の関係者にとっても大きな喜びであった。
 引き続いての内務・大蔵・農林各大臣宛の陳情書において川南村長(第11代湯地伝吉)は、「目下、農家戸数1,400戸、1戸平均田8反3畝歩、 畑1町4反3畝歩となり、農業としての田畑面倍は均衡を失する状態にある。また、場所によっては、総水田880町歩の約3分の1が植え付け不能であり、 なお植え付けできる水田においても収穫半減の箇所が多いのに比べ、村内中央部を流れる平田川流域と、川南村と隣接する都農町との境を流れる名貫川流域地区の一部だけが干害の心配がない。 したがって、両川とも村内にその源を発する小川であるだけに、常に水田潅漑に対し、村内平田川並びに名貫川流域に水争いが絶えず、時には流血の惨を見ることもある。 そこで、一般移住者の多くは水田不足なので、このような村民たちが集まり計画し、開田実現に対し猛然と奮起し、国営事業としての開田方を陳情した。」とある。

 このような経線を経て、川南原国営開墾事業は1938年12月に5カ年事業(1939~43年)としての実施が閣議決定され翌年事業着手されたが、1944年に太平洋戦争激化のため国営事業は中止された。

icon 2.南の軍馬補給部・落下傘部隊の開設

軍用地としての歴史が、農業開発や灌漑事業などを遅らせる結果となった



 第一次大戦後、1918年富山県で米騒動が発生した。米騒動はこれが最初ではなく、明治維新後においても珍しいことではなかったが、 この時の米騒動は、その範囲が全国的で、しかも動員数が多く、鎮圧に軍隊の出動を要する重大な事態となった。
 政府はその対応に苦悩し、外米の輸入、及び販売米の供出促進等により米価の引き下げに努めたが、さらに根本対策として、 食糧増産のための耕地拡張を図る目的で1919年開墾助成法を公布した。これは、開墾当初の収益が費用を償うことのできない期間、 投下資本に対する金利を補給するため、年々一定の標準によって事業者に助成金を交付する制度で、交付を受ける事業主体は、 1人、数人共同、公共団体、耕地整理組合、会社、法人いずれでもよいとされた。
 その後、1929年に利子補給制度から事業費補助制度(事業費の10分の4以内)に法改正され、廃止される1942年までに4,741地区の116,327haの開墾を助成した。

 一方、1929年の世界経済恐慌発生時には、内地における食糧増産効果と植民地における増産とが合体して、 米価暴落と農家経済の維持とが共に重大な問題となった。このため、政府は米価維持対策に苦しみながら、他方では農村救済のための3カ年(1932~1934年)の 時局匡救出農業土木事業(1,613地区、116,266ha)を実施して耕地の拡張を図るという矛盾した政策をとらねばならなかった。
 1931年の満州事変、1933年の国際連盟脱退、1937年の日中戦争勃発と国際情勢が険悪化していき、やがて第二次世界大戦への突入も想定される中、戦争に備えた食糧確保が重要視されるようになっていった。
 1941年3月に、農地の造成と改良を促進しようという農地開発法が公布された。この法律は、食糧の自給強化と小農階級を中心とした農村経済の改善を 目的としたもので、大規模農地造成を実施する国家代行機関として土地収用と一部改良費用を受益者負担させる権限を持つ農地開発営団が設立され、 造成された農地の自作農創設団体である道府県、市町村、産業組合等への譲渡が義務付けられた。合わせて、1941年から10カ年間を第1期として500千haの造成と 1,720千haの改良を行う同法施行令、施行規則が公布され、主要食糧等自給強化10カ年計画が制定された。しかし、この計画は、激列な戦争経済下、 1943年には実施不可能となった。

 鎖国政策を採っていた徳川幕府が、1853年のペリー黒船の来港、1858年の日米修好通商条約調印を契機に倒れ、 明治新政府は富国強兵政策の一環として1873年に国民皆兵の徴兵令を発布し、フランス式軍隊を整備する方針を採用した。

1888年の陸軍乗馬学校開校に先駆け、司馬遼太郎の「坂の上の雲」での日露戦争の主人公(騎兵の父と言われた)秋山好古が1887年から足かけ 5年フランス留学したが、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)において兵糧弾薬の輸送並びに騎兵の奇襲作戦に軍馬の重要性が 深く認識され、当初鹿児島県に設置されていた軍馬の育成所が宮崎県内の高原に移り、1908年に軍馬補充部高鍋支部として昇格し開設された (現在の宮崎県農業大学校)。
 その所在地は高鍋町であるが、厩周辺の耕地、放牧地の大部分は川南に属していた。それら用地(4,075ha以上)の買収は、その後の川南の農業発展のための開発や灌漑事業などを遅らせる結果となった。

 1914年から始まった第一次世界大戦(~1918年)は飛行機参加の「立体戦争」となり、またこの頃登場した新兵器としての戦車は、近代陸戦の花形であり主役であった。

 それで1925年5月に「飛行連隊・高射砲隊・戦車隊」が日本陸軍の基本兵科に仲間入りした。そのため、膨大な軍用地のある川南が落下傘部隊の訓練用地に指定され、国道10号線の東が飛行場、西が降下訓練場となり、戦後の広大な開拓用地の基礎となった。

 1913年に香川県から3家族で移住し、25~26戸の豊原集落を興した鴨田家や、1914年の桜島大爆発により鹿児島県の国分・加治木方面から移住していた100戸余も、1941年の陸軍落下傘部隊飛行場の建設により強制買収され全戸移転した。
 事は急を要したので、川南村在郷軍人会約100名が川南小学校に宿泊して工事に協力し、村民も勤労奉仕作業出役の割り当てに駆り出され、近隣町村から連日約3,000人が労役に動員されての突貫工事であった。

icon 3.川南の陸軍空挺落下傘部隊

敗戦後、兵員や残留者の多くが開拓者としての道を選んだ



 明治・大正・昭和という時代の変遷に伴って戦争の方法も変化した。最初は、馬に乗って早く移動できる騎兵隊が主力で、その馬の飼育・訓練のため 川南の中心部の大半を国が軍用地として買い上げた。その管理の本部が置かれた場所が現在の県立農業大学校の敷地で、馬の管理・乗馬訓練のための 兵隊が騎兵隊と呼ばれ、国光原中学校の当初の建物が騎兵隊の兵舎であった。

 その後、戦争の方法は騎兵から戦車に変わり、遠方の基地から不意に敵軍近くに飛行機から飛び降り攻撃する落下傘部隊が編成された。 落下傘部隊は戦死確率が高い決死部隊であり、当時の兵隊の中でも若く、敏捷で、最も勇敢な者が選抜して集められ、「空の神兵」と呼ばれた。

 日本陸軍が本格的に陸軍挺身落下傘部隊の養成を始めたのは1940年で練習部は浜松飛行学校に設けられたが、1941年5月に満州の白城子に移された。 訓練環境としては恵まれてはいたが、創設後間もなく、しかも全く前例のない部隊が中央から遠く離れていることは何と言っても不便であった。

 日本を巡る国際情勢は、7月の南部仏印進駐を契機としてますます険悪となり、8月に入ると米国が対日石油禁輸を断行した。日本は南進して蘭印の石油資源を獲らなければジリ貧に陥る切迫した情勢となった。

 戦争に使わないつもりなら満州に放り出しておいてもよいが、使うなら一刻も早く内地に帰せということになり、部隊の帰還先として那須や川南の名前が挙げられた。 川南の唐瀬原は近くに新田原飛行場があり降下場として最適であるとの判断が下され、高鍋軍馬補給部川南分厩が廃止され陸軍挺身練習場として独立し、以後終戦まで新田原と唐瀬原が陸軍空挺部隊の根拠地になった。

 落下傘部隊が川南に駐屯したのは1941年9月初めで、当初は隊員は新田原飛行場内で起居して、飛行機から飛び降り訓練をした場所が川南の開拓地であった。 その後、多くの隊員は川南の兵舎に移動して居住し、幹部将校の多くは川南の民家で下宿生活をした。輸送機が新田原を離陸し唐瀬原上空には十数分で 到着するが、降下者をトラックで唐瀬原から新田原に輸送するには2時間もかかる。この点では白城子より不便であったので、ときには飛行場の一隅に降下させることもあった。

 東條英機陸相は白城子に固執したが、それは防諜上の理由であり、南方作戦を準備するにあたり、部隊を満州の片隅に置いておけば米英の眼をそらせると考えた。 川南に移ってからは、日豊線の窓にシャッターを下ろさせるとか、憲兵隊を強化して風評を探るとかの防諜施策が行われた。

 しかし、純朴にして大らかな日向の人々は、天孫降臨のこの国に素晴らしい軍隊が来てくれたと近隣の町村こぞって大歓迎し、特に若い娘は英気はつらつたる将兵に熱い眼差しを送り、防諜施策にいかほどの効果があったかはわからない。

 当時は小銃を持って降下するところまで降下技術は進んでいなかった。装備された“一式落下傘”は背負い式の自動開傘の主傘と胸掛け式の手動の予備傘からなる 安全性の高い落下傘ではあったが、主傘が完全に開くまでに体のどこかに絡みつき、予備傘で命拾いすることも稀ではなく、小銃を体に装着しての降下は 危険であった。また、拳銃以外の兵器は全て物量箱に入れて投下することになるが、物量箱には小銃分隊用、機関銃分隊用、通信機用、補給品用など 各種寸法のものがあり、何をどのように梱包すればよいか効率的な組み合わせも研究しつつ訓練しなければならなかった。このようなことで、降下訓練はできても それに続く地上戦闘訓練にはなかなか入れなかった。

 当時飛行機を持つ国々は一生懸命落下傘部隊を研究した。しかし、風まかせにゆっくり落下する落下傘の宿命にたたられて、最初に実戦投入したドイツを始め、ソ連、米国と兵員の5割近い損耗が明らかとなるにつれ、 ヘリコプターが登場するや、落下傘による兵員展開という発想はあっという間に消え去った。ただし、各国と同じく日本でも落下傘部隊の歴史は短いが、見事な成功もあった。

 1941年11月26日のハルノートによって対米交渉は潰え、12月1日の御前会議で12月8日対米開戦の聖断が下された。国内の石油不足を補う目的で蘭領東インドのスマトラ島パレンバンの 石油基地を確保する作戦は1942年2月14日に決行された。守る英蘭軍千人に対して、降下部隊は約300人。戦死者38名という低い損耗率で敵を制圧し作戦は成功した。 しかし、精製油はパラオに運ばれ連合艦隊の燃料として使われたものの、南シナ海に遊弋する米潜水艦からタンカーを守りきれず、国内への石油供給基地とする構想は潰えた。

 日本の輸送飛行部隊は陸海軍ともに極めて弱体だったため、空挺部隊の飛行戦隊は戦域内の一般の空輸に間断なく使われ、時には内地との緊急輸送にも任じるとともに、 重爆機による哨戒任務にも従事した。1942年8月頃には、降投下技術も進歩し、小銃や軽機を携行して降下できるようになり、投下用小型重機も試作された。 速射砲も車輪を小型化して投下可能となり、夜間投下訓練も行われるようになった。

 米軍は1944年7月にはサイパンを陥落させ、9月には絶対国防圏の要ペリリュー島(パラオ)、10月にはフィリピンのレイテに進軍した。レイテ空挺作戦は12月6日に決行され、 一時的に飛行場を制圧することがあっても米軍の圧倒的な物量の前に、大半の輸送機を失い、兵員もいきなり地上部隊の戦闘の渦中に投げ込まれ悲惨な結末となった。 川南で落下傘訓練した12,000人のうち飛び立っての戦死者は約1万人にのぼった。

 当時の法律では、健康な成人男子は約2年間兵役の義務を負い、僅かの煙草・菓子を買う程度の給与で無条件で招集された。 任期が済んでも戦争になれば、いつでも必要に応じて再招集される仕組みであった。しかし、職業としての軍人の道を選択する一部の人々には階級に応じた給与が国から支給され、 軍隊の一番階級が上の「大将・元帥」になることが当時の若者の憧れの人生目標の一つであった。生命を犠牲にする立場・職業であることから、 戦死した場合には当然自分の墓にも入るが、国と町によって町の「護国神社」にも祀られることとなっていた。日本中の軍人の戦死者を総括して祀る所が東京の靖国神社であり、当時の若者軍人はここに祀られることが国民としての最高の栄誉と理解していた。

 当時の法律では、健康な成人男子は約2年間兵役の義務を負い、僅かの煙草・菓子を買う程度の給与で無条件で招集された。 任期が済んでも戦争になれば、いつでも必要に応じて再招集される仕組みであった。しかし、職業としての軍人の道を選択する一部の人々には 階級に応じた給与が国から支給され、軍隊の一番階級が上の「大将・元帥」になることが当時の若者の憧れの人生目標の一つであった。 生命を犠牲にする立場・職業であることから、戦死した場合には当然自分の墓にも入るが、国と町によって町の「護国神社」にも祀られることとなっていた。 日本中の軍人の戦死者を総括して祀る所が東京の靖国神社であり、当時の若者軍人はここに祀られることが国民としての最高の栄誉と理解していた。

 当時の様子については、川南町史に「昭和20年8月15日の玉音放送は電波の乱れで判然としないものであったが、戦争終結のことは察知された。 幾多のデマが飛び交う混乱の中で、戦争終結の詔勅が下され、敗戦と同時に軍は解体され、落下傘部隊その他からの膨大な軍需物資の放出が行われて、 農協広場には衣料品・食料・事務用品などが山のように集積された。役場当局でその全ての配給計画を立てたが、混乱の極みに達し、 自暴自棄の村民の前に秩序立った配給の適正も望めなかった。」とある。

 いつでも死ぬ覚悟を持ちつつ終戦まで生き戦った兵員の多くが、目的を失い開拓者としての道を選んだのも当然の選択であった。 彼らには軍用地は自分たち軍の物との錯覚もあり、落下傘部隊等の残留者200余人、菊池部隊の残留者150余人が帰農入植者として優先入植することとなった。

icon  ~手記『高千穂降下部隊と女学生たち』 延岡市在住 藤原美々子氏記~



 真向かいの城山に木々の若葉が一斉に萌えたち始めた昭和19年5月はじめの土曜日放課後のことである。宮崎県延岡高等女学校(現:岡富中学校)の校門脇、 長いレンガ塀に沿って1台の小型軍用トラックが停まり、榊原中尉(当時)と7、8名の将兵が軽い足取りで降りてきた。いずれも20~22、23才、背が高く、 陽に焼けて、きりっと引き締まった顔に陸軍の軍服がよく似合う彼らは、川南・唐瀬原の落下傘部隊将兵で、休暇を利用して延岡にやって来たとのことであった。 「遠い所をようこそいらっしゃいました、さあどうぞ。」丸ぶち眼鏡の奥の瞳が人なつっこい温顔の綾哲一校長(故人)は、若い彼らをにこやかに校長室に迎えると、 音楽担当の池田玉先生を呼んで彼らを紹介された。

 実は、彼らの学校訪問については、友人である林医院の院長から前もって電話で相談を受けていたことであった。 死地に赴く部下達に何か思い出を作ってやりたいという榊原中尉の意向を汲んで、「女学生の清らかな歌声を聞かせてあげてはいただけないか」という林院長の 計らいに応えた綾校長の温情と勇気ある決断だったのである。相談を受けた綾校長はたいそう悩まれたが、戦地に赴き生還できないかもしれないこの若者達のことを 思うと、その筋からの処罰覚悟で快く彼らを迎え入れてあげたのだった。「池田先生、至急生徒を集めて、皆さんに歌を聴かせてあげてください。」、 「そうですね、皆で合唱をしましょう。」池田先生はしばらく考えてからそう答えたものの、既に放課後のことであり、果たしてどのくらいの生徒が集まるか心配だった。 その上、日本軍人とはいえ若い男達が遊びにやって来たことは、禁男の女学校にとっては未だかつてない出来事であり、その対応に先生は戸惑われた。 また、歌っている間に警報が出たら、生徒をどうやって避難させようかと、池田先生にはそれが何よりも気がかりであった。
 ほとんどの生徒は帰ってしまってガランとした放課後、どんな用事で残っていたのか覚えていないのだが、教室で帰り支度をしていると、 「校内にいる生徒はすぐ講堂に集まってください。」と池田先生の声で校内放送が流れた。「放課後なのに何かしら。」といぶかりながら、 私は小走りで講堂へ急いだ。こうして、学年・級を問わず、十人余りの居残り生徒が、急遽講堂に集められたのである。

~(中略)~

 何事かわからないまま、校内放送によって急遽集められた1年生から4年生までばらばらの私たち十余名は、講堂の入口まで来てびっくりしてしまった。 何とそこには、若くて雄々しい落下傘部隊の軍人さん達が、グランドピアノを囲んでにこにこしながらこちらを見ていたからである。「こんにちは。」、「こんにちは。」 恥ずかしさでもじもじしながら私たちもピアノの傍らに近づいたが、彼らも何だか恥ずかしそうでお互いにぎこちない挨拶を交わしていた。「君、何年生?」、 「はい、4年生です。」ひときわ明るい榊原中尉の問いかけに、小さな声で私はやっと答えたものだ。しかし、だんだんうち解けてくると、何だか無性に嬉しくなって、皆にこにこと振る舞っていた。
 何しろ、女学生ばかりの学校に、金筋に星一つや二つの肩章も凛々しい憧れの若い将校さん達が、大勢遊びに来てくれたのである。 その上、肩を並べて、今から一緒に歌おうというのである。校則が厳しく、男女交際が特にやかましかった女学校で、これはとても信じられない出来事であった。 「勇ましい歌が良いですか?」と池田先生が尋ねられた。「いいえ、女学生の歌う歌がいいです。」端正な顔立ちの榊原中尉が、ためらわずにはっきりと答えられた。 先生はしばらく考えておられたが、ゆっくりとピアノを弾き始め、彼らと私達は静かに歌い始めた。

“眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 心よき歌声に 結ばずや楽し夢”皆で歌うシューベルトの子守歌は、美しいピアノの音色に乗って、 静かに優しく辺りに流れていった。“眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 暖かきその袖に 包まれて眠れよや”

 この優しい子守歌を、彼らはどんな想いで歌ったことであろうか。それは、幼い日、しっかりと抱きしめてくれた母の手の温もりだったであろうか、 それとも、会うに会えない恋人への絶ちがたい想いであったろうか。どこか幼な顔の残る彼らは、軽く眼をつぶり皆に合わせて静かに歌っていた。 先生は、彼らのために心に残る歌を選び、私達は一生懸命それを歌った。軽やかな伴奏で「野ばら」、「早春賦」、「花」と和やかに歌は続き、やがて終わった。

 この時代、男子校はもちろんだが、女学校にも陸軍将校が配属され、軍事教練が義務付けられていた。ワラ人形を敵に見立てた竹槍訓練や、 梅干し一つの「日の丸弁当」での20km行軍、ある時は非常事態に備えて登校中一滴の水も飲まない訓練等々、女子の学校とはおよそ思えない雰囲気が漂っていた。 そうした日々の中で、この日は池田先生が心配された警報も出ず、心ゆくまで好きな歌曲を歌えた満足感で、どの顔も幸せそうに輝いて見えた。 彼らは丁寧にお礼を述べると、車上の人となって元気よく隊に帰って行かれた。それから一週間程たった放課後、榊原中尉が部下のメンバーを入れ替えて再度来校、 池田先生のピアノ伴奏で私達とまた歌を歌った。歌は、この前と同じ「シューベルトの子守歌」や「早春賦」だった。

 大変陽気で茶目っ気の多いこの都会的な青年将校は、悪戯っぽい目でにこにこしながら、今度はバスケットボール交歓試合を申し出られた。 「ええーっ、私達とバスケット?」榊原中尉のこの突然の申し出に私達は驚いた。しかし、そこは「うん、やろう。」ということになって、即席チームができあがり、雨天体操場の床板をきしませながら、早速バスケットが始まった。
 「こっちへ投げて。」、「ハイ、回して、回して。」互いに大きな声を掛け合って生徒達は走り回ったが、なかなかボールが入らない。しかし、背の高い彼らは、 ちょっとジャンプしては簡単にシュートを決め、その度に生徒達はキャアキャア言って口惜しがった。若く逞しい彼らは、巧みなパスボールを回し、防御しようと必死で腕を広げる生徒と派手にぶつかっては、あちこちで笑い声が絶えなかった。
 もう、汗びっしょり…、裏の堤防を越えて吹き込む五ヶ瀬の川風が、濡れた肌に何とも心地良かった。それは、短い時間だったが、兄のように頼もしい彼らと、妹のような多感な少女達に、辛く厳しい戦争の現実をしばしは忘れさせてくれた楽しいひとときであった。

 別室で素早く軍服に着替えた彼らが、私達の前に直立不動で並んだが、微動だにせず、正面を見据えた顔のなんと爽やかで頼もしかったことか…。「皆様にお礼を申し上げろ。」榊原中尉の張りのある声が響いた。 「有り難うございました。」彼らは一斉に挙手でお礼を言い、私達もはにかみながらこれに応えた。
 この時、彼らが半年後には「大東亜戦争」の天王山と言われたフィリピン・レイテ島に特攻隊として出撃、帰らぬ人になられるとは、私達には知る由もなかった。出撃を前に、死を覚悟した榊原中尉が、 自分自身に青春の証を刻みつけ、死地に赴く部下たちにも女学生との淡い思い出を作ってあげようと、あえて禁男の女学校に、部下のメンバーを替えて、二度来られたのだろう。 しかし、彼らの底抜けの明るさからは、それらをちょっぴりも垣間見ることはできなかった。南洋群島の激戦地、サイパン島が、日本軍の必死の抵抗もむなしく玉砕する2ヶ月前のことである。

 夕陽も西に傾き、別れの時が来た。「さようなら、お元気で。」、「さようなら。」先生と私達はトラックが見えなくなるまで手を振り続けた。「今日はどうも有り難う。」、「さようなら。」、「さようならぁ…」 別れを惜しんで帽子を振り続けるこの若い将校達は、快い興奮と淡い感傷を私達の心の中に残して、夕暮れの町を車のエンジン音と共に去って行き、再び、延岡高女の校門をくぐることはなかった。
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 数週間後、私達4年生(38回生)350人もまた、白鉢巻も勇ましく、先生、下級生に盛大に見送られて、兵器工場(現在の旭化成雷管工場)に向かうため、 校門を出て行った。学徒動員令により、敵機を撃つ25mm高射機関砲弾を造ることになったからである。そうして、その日を最後に、私達も再びこの美しい校舎で 勉強することを許されなかった。その後、下級生達も次々に工場へ動員され、学校には生徒のいない教室が数を増し、日本は坂道をころげるように敗戦へと向かって行った。

icon 4.高鍋川南国営開拓事業

広大な原野が解放されると入植希望者が殺到
開拓者の出身県は全都道府県におよび「川南合衆国」と呼ばれるようになる



 戦争による国土荒廃で1945年の米生産量は450万トンと平年作900万トンの半分となり、1946年の食糧緊急措置令による強権発動で政府が割り当てた昭和20年産米の供出も出てこない状況であった。
 1945年11月9日に政府は、逼迫した食糧の一大増産と職を失った戦災者、軍人、外地引揚者の帰農促進を図るため「日本の再興は国土の開拓から」を合い言葉とする緊急開拓事業実施要領を策定し閣議決定した。
 しかし、理想を高く掲げても国の経済は思うにまかせず、占領下の政治事情では強力な政策の実施も許されず、これは、敗戦による混乱と窮乏の中で最悪の 条件下にある開拓地へ裸一貫の開拓者を収容し、間に合わせの助成で大自然に挑ませるものであった。

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大草原の共同開墾(1946年)

 幸い1947年半ばを過ぎて政治も経済も終戦直後の混乱から立ち直り始めると、「緊急」の頭文字が外され、「国土資源の合理的開発の見地から開拓事業を強力に推進して、 土地の農業上の利用増進と人口収容力の安定増大を図り、もって新農村の建設に寄与することを目的とする」開拓事業実施要領に変更され、事業実施主体も国直轄と都道府県営事業に切り替えられた。
 これをもって、壮大な構想で発足した農地開発営団は、取得した未墾地面積20,616ha(公有水面含み)、造成面積14,538haと機能を発揮できないまま1947年に廃止された。
 緊急開拓事業では、対象が戦災者、軍人、外地引揚者であり必ずしも農業を生業とすることを考えていない者も多かったが、開拓事業では、 本当に農民となる適格者を厳選するとともに、農家の二、三男はもちろん、地元農家の増反者も入植対象として共同作業を通じて十分な生産力を持った自作農を作ることとされ、さらに適地適作主義の採用により畜産導入も重視されることとなった。
 道路、灌漑排水等の重要な建設工事は全額国費をもって国直轄で行うことを原則とし、特別の事情があるときは都道府県に行わせることにした。 開墾作業は、開墾者またはその組織する団体等に自主的に行わせ、これに対して一定の補助金を交付することとなった。
 開拓用地の取得を容易にするため、1946年12月に施行された自作農創設特別措置法のなかで、民有未墾地も国が直接強制買収する道が開かれ、 民有地118万ha、国有地79万ha、合計197万haを1947~1951年に取得しようとする未墾地取得5カ年計画が策定され、1949年までに120万ha、61%の取得実績となった。
 入植者に必要な住宅、共同作業場、衛生・教育施設等に対しては、国は相当額の補助金を交付するとともに、 住宅資金および営農資金の融通方法を整備拡充することとし、できるだけ綿密な調査に基づく合理的な計画を作成して開拓し、 入植者の安定を重視することを目指したが、そもそも新規に開拓される土地の多くは何らかの制約による耕作限界外地であり、 この急速な取得措置は必ずしも開拓適地とは言い難い土地も多く含む結果となった。

 全国の国営開拓事業地区のうち、青森県三本木原(現十和田市)、福島県白河矢吹(矢吹町)、宮崎県川南原(川南町)が日本三大開拓地と言われるのは、規模が大きく技術的にも難度が高かったためである。

 当時の川南村では、軍馬補充部、唐瀬原飛行場、落下傘部隊、落下傘降下場、菊池部隊などの軍用地が村の大半を占めていたが、 終戦直後これらの軍用地は農林省開拓財産に切り替えられ、「開田可能なる地域はこれを水田とするも主に開畑を行い、営農に必要なる採草地、 薪炭林をほどよく調整し、海外よりの引揚者、軍工場勤務者、復員軍人等の帰農希望者を取り込んで適正農業を経営させると同時に、 民有地既成耕地の不均衡をできるだけ合理化せしめ、農業経営の安定を図るとともに速やかに食糧の増産に寄与し、日本再建の一翼を担うこととする。」 を事業目的とする国営開拓事業が約10億円の費用を投じて1946年(~1959年)から実施され、810haの田、1,065haの畑が造成された。

 3,009haもの広大な原野が解放されると、海外からの引揚者を含めて全国からの入植希望者が殺到し、また県内町村の強い要望で分村的に集団入植した所も多く、 例えば南郷村から満州引揚開拓団が84家族、北川村から70家族、北方村から54家族が入植するなど、開拓者の出身県は全国都道府県におよび「川南合衆国」と呼ばれるようになった。 このため、川南の人口は、1930年の10,404人から開拓事業の実施に伴い入植者は激増し、1947年には18,424人に達した。
 入植者は旧兵舎を仕切って住居とし、1棟に10家族が同居した。また1年数ヶ月かけて旧兵舎の材料や営林署から払い下げられた風倒木を利用して150棟の住居も建設されたが、 多くの入植者は兵舎住まいのままで風雨に苦しみながらの生活であった。

 開田については、小丸川に水源を求め、既設川原発電所より専用水路として、9,450mの幹線用水路と18,900mの支線用水路を設け、5.87m3/sの水を導入して灌漑することとした。
 開畑については、農林省開拓本部機械開墾隊が一部改造した戦車での開墾を試みたが、細部の機能が悪く期待した成果を上げられず、結局人力に頼らざるを得なかった。
 伐採後の抜根にも試行されたが失敗した。開墾を奨励するために、開墾面積に応じた補助金交付と土地改変に応じた補助金交付が行われた。
 例えば、開畑で傾斜地を山成開墾すれば補助金を出し、それを階段畑に改変するときには再度補助金を出し、また、開田前に山林や原野を畑にすると開畑補助金を出し、その後田に改変すると開田補助金を出すなど、開墾意欲を高めるよう配慮された。

 なお、落下傘降下場を中心とした唐瀬原地区670haは終戦時の混乱で過剰入植となって1戸当たり1.2haしか配分されなかったこと、 また一帯は重力水の地下浸透の早い黒色火山灰土からなる台地で干害を受けやすく、ひどい年には収穫皆無となり農業経常が極めて不安定であったことから、 当初計画になかった青鹿ため池の築造とこれを水源とする420haの畑地灌漑を追加して農業経営の安定化を図ることとなった。
 末端部パイプラインは県営事業で実施され、畝間灌漑とスプリンクラー潅概を組み合わせた灌漑方式は、全国的にも神奈川県相模原に次ぐ2番目の導入となり、開墾畑かん事業の規模では全国第一位の大きさであった。

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青鹿ため池(ダム)工事風景

 畜力利用の農業方式を採る方針の下に、畜力利用と厩堆肥による地力増進を図り、併せて仔畜の生産による現金収入の道を開くため、入植農家1戸当たり牛馬各1頭を配分し、 また、自家消費薪炭用林の所有は農家経済上必須であることに鑑み、標高250m以上の開墾不適地であって、形状山林となっていた元川南牧場の一部を入植農家1戸当たり0.15ha配分することとされた。
 このように、入植農家1戸当たり田畑計1.4ha、採草地0.3ha、薪炭林0.15ha、宅地0.1haの計1.95haの配分を標準として、 計画では入植戸数805戸、増反760戸とされたが、1950年時点では入植戸数1,001戸、増反725戸と過剰入植となっていた。
 これは、完全な開拓計画を樹立できない終戦の混乱時に、土地と食糧を求めて殺到した希望者の入植を認めざるを得なかったためである。
 当初の入植者の構成比率は、帰農(農業以外から農業に転向)53%、復員軍人22%、引揚者13%、戦災者(軍需工場勤務者含む)12%であった。

 入植開始の1945年から毎年離農が始まったが、1946~47年が最も多かった。開墾という慣れない重労働、地力不足による低収量、 資金欠乏による生活苦、病気、結婚等が主な理由だが、もともと開拓農業に一生を捧げるつもりのない一時しのぎの人たちもいた。
 これら離農者の跡地は、新規入植者用のほか既入植者の増反用に充当され、過剰入植も多少調整されていった。

 県の中央に位置し、広大な面積を擁しながら、台地のほとんどを軍用地に占有され、貧しい一村に過ぎなかった川南は、終戦を契機に国営事業が再開され、全国各地から新天地を求めて多くの人々が入植し、大規模な開拓村となった。
 そして、人口急増で一時は町財政を圧迫することもあったが、入植農家は今では地元農家の中核的自立農家として営農の先端を行くまでに成長を遂げている。

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青鹿ため池(ダム)の完工碑
(昭和28年3月着工、昭和34年3月完工)


icon 5.唐瀬原畑地灌漑事業

青鹿ため池(ダム)を水源とする畑地かんがい農業が始まる



 当初、農林省及び県当局の水利用計画では、陸稲、甘藷等に5日に一回35mmの水を畝間方式で灌漑する計画であったが、 1952年に制度化された米国カリフォルニア州での9ヶ月間の国費農業研修に宮崎県を代表して参加し世界最新の畑地潅漑農業を実習して帰国した 藤野憲三氏(菊池部隊の残留帰農者で当時は川南町開拓協同組合監事)のスライド映写の帰国報告によって県当局は一部計画変更して スプリンクラー利用試験を導入した。

 しかし、青鹿ため池(ダム)よりいったん下に落とした水路からの落差では水圧不足であること、必要絶対量の不足で断続的にしか利用できないこと等からスプリンクラーは 一部陸稲の試験的利用にとどまり、地区の大半を占める牧草113ha、陸稲128ha、甘藷、野菜等210ha、果樹30haはレインガン方式の灌漑、その他210haは畝間ホース方式の灌漑を行う計画となった。

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青鹿ため池(ダム)

 スプリンクラー方式(4基)は、床締めをして開田された約50aの試験栽培区に設置され、水稲種子を畑地に播種する陸稲栽培試験の成果は 今日の唐瀬原陸稲栽培灌漑に活かされたほか、お茶の防霜対策には特に夜間のスプリンクラーでの連続散水が有効であることも確認された。
 その他のハウス栽培、いちご栽培等にも水が利用され、水利用の一部開始で土地改良区の賦課金徴収にも多少有利になり今日の組合運営に貢献しているのである。
 しかし、補助で導入されたレインガン方式は、四角の畑に丸い散水範囲でしか散水できなかったこと、その水圧で穂ばらみ期の陸稲の倒伏を促したこと、移動労力を要したことからその後ほとんど利用されなくなった。

 このように、当初の畝間灌漑から、一部計画変更によるスプリンクラー利用試験に切り替え、実際の運営方法としては各灌区5日に一回21mmの水を灌漑することとなった。

icon 6.国営尾鈴土地改良事業

青鹿ため池(ダム)改修及び送水路の全線パイプライン化の要望を受けて



 水に恵まれた青鹿ため池(ダム)の受益の茶農家は、水を茶の凍霜害の防止やハウス(温室)内の病害虫の防除に利用しその効果も実証されているが、灌漑施設を持たない地区内の茶農家が広く実践できる状況にはない。
 このため、灌漑施設が未整備の農家から畑地灌漑事業実施の要望が持ち上がった。


 青鹿ため池(ダム)の受益地については、ダムは建設時点では畝間灌漑を想定していたことから、青鹿ため池(ダム)の受益地のうち標高の高い約半分の 受益地では水圧が不足し自然圧ではスプリンクラーが使用できず、自然圧でスプリンクラーが使用できる受益地においても、開水路部や調整池での泥やゴミの混入によりスプリンクラーの目詰まりが発生する等の問題があった。
 また、青鹿ため池(ダム)の取水設備や送水路は建設から30年以上経過して老朽化が著しかったことから、青鹿ため池(ダム)の受益農家からは施設の改修及びダムの水圧が畑で利用できるように送水路の全線パイプライン化の要望が上がった。

 これらの要望を受け、国は国営事業実施の可能性を調査することになり、1983年~1989年に討画調査、1990年~1992年に実施設計を実施し、国営尾鈴地区として事業実施されることとなった。

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【問題と対策】
 (問題1)青鹿ダムの取水施設(斜樋)が老朽化し破損
 (対策1)取水施設(斜樋)を補修

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破損した取水施設(左)と新しい取水施設(右)

 (問題2)青鹿ダム掛りの既設コンクリート用水路が老朽化して破損し、漏水大
 (問題3)青鹿ダム掛りの既設コンクリート用水路が開水路なので、末端の畑で
       ダムの水圧を利用できない
 (対策2、3)既設用水路を全線パイプライン化

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大内ファームポンド
(パイプラインで畑に送水)

(問題4)新規に畑1,160haへ灌漑する必要
 (対策4)水源として切原ダムを新設し、用水路は全線パイプラインで新設

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越流中の切原ダム


icon 7.「畜産+畑作」の二本の軸足による地域振興へ

フロンティア精神と元気にあふれた受益3町



 畜産業は、宮崎県の農業産出額全体の57.6%と最も大きな部分を占めており、さらに、2007年に全国和牛能力共進会でグランドチャンピオンを 獲得したブランド牛「宮崎牛」や、長年にわたって品種改良が進められてきた「ハマユウポーク」、東国原知事の就任後に全国的なブームとなった「みやざき地頭鶏」の生産など、県農業推進の大きな牽引役ともなっていた。

 このような中、2010年4月20日、都農町において口蹄疫の発生が確認され、県では直ちに「宮崎県口蹄疫防疫対策本部」を設置し、国、市町村、関係団体はもちろん、獣医師、自衛隊、警察など県内外からの多大な支援協力を得ながら、一丸となって懸命な封じ込めに当たった。
 しかしながら、今回の口蹄疫は、10年前に発生した口蹄疫ウイルスとは異なる強力な感染力を有し、また畜産業が密集する地域において発生したことなどから爆発的に感染が拡大した。
 感染地域としては、当初、川南町、都農町内であったが、4月28日にはえびの市に、5月16日には高鍋町、新富町、5月21日には西都市、木城町に感染が拡大した。

 その結果、最終的には約29万頭にも及ぶ家畜を処分することとなり、最初の感染確認から約4ヶ月を経た8月27日にようやく終息宣言を行うに至った。

 この影響は、畜産業を含む農業関係にとどまらず流通、食品加工、観光など広範囲な県内経済・雇用に及び、以後5年間での県内経済の損失額は2,350億円にのぼると推計されるなど、宮崎県史上、未曾有の事態となった。
 畜産業に主軸を置いていた受益3町は、危険分散の観点からもう一本の軸足としてより一層の畑作振興を目指すこととし、国営事業に対する期待も更に高まることとなった。


 川南町、高鍋町、都農町の受益3町に新富町、木城町を加えた東児湯5町では、地域の食材を使用したオリジナル鍋料理の味を競う“東児湯鍋合戦”を 2008年から開催している。ここで開発されたオリジナル鍋料理は、各町内の飲食店のメニューに取り入れられ、地域振興に一役買っている。


 都農町では、2010年の鍋合戦で優勝した特産トマトをたっぷり使った「都農トマト鍋」が、飲食店のメニューに新しく加えられた。
 さらに都農町では、2012年2月に名産の金色のふぐ(シロサバフグ)を使って開発した「都農ふぐ丼」が県内3番目のご当地グルメとしてデビューした。
 地元で伝統的に食べ継がれてきた「やっきり」という炙りの調理方法をどんぶり用にアレンジし、3種類のタレ(特製ふぐだしダレ、地場産の梅ダレ、紅葉おろしダレ)をお好みでかけて食べるスタイル。
 コラ-ゲンたっぷりのふぐの皮が入ったふぐ汁、季節の副菜&香のもの付きの統一規格で町内の4店舗で提供され、デビュー以来1年間で約1万食の売上げと好評を博している。


 川南町では、町の中心商店街活性化の一環として、2006年9月から毎月の第4日曜日に、定期朝市「トロントロン軽トラ市」を開いてきた。
 町の南北約600mの目抜き通りに、地元の新鮮な農林水産物、加工品、菓子・軽食類を荷台に積んだ軽トラがずらりと並ぶ。月一回、午前の8:00~11:15のみの限定市ながら、 出店軽トラ台数約140台、17,000人の町人口に対し来場者数7,000~13,000人(天候により変動)と全国でも屈指の朝市に成長。 「川南町の成功に続け」とばかりに、軽トラ市は地域活性化の成功モデルとして宮崎県内にとどまらず全国にも広がり始めた。
 ルールは2つ。軽トラックか軽自動車で出店すること。2000円の出店料を払うこと。それ以外は、何をどう売ろうが縛りはなく、出店者も町内外不問である。

 さらに川南町では、2011年の鍋合戦で優勝した「復活肉うどん」に改良を加えた「浜うどん」が、2012年4月に県内4番目のご当地グルメとしてデビューした。

 日本屈指の漁獲量を誇る川南名物「シイラ」を粉末化して川南町・高原町産の小麦粉に練り込み、風味豊かなうどんに仕上げたもの。 製麺業者が「まず不可能」と尻込みした小麦粉と魚粉の練り込みを、不屈の精神と工夫で克服。既存の魚うどんは、すり身を麺状にしたものだが、 小麦粉と魚粉を混ぜ合わせた魚うどんは本邦初。

 それまであまり交流のなかった漁協、農協、商工会の元気な女性たちが、畜産の火が消えた苦しい現実を受け止めながらも、「川南には海がある。 牛豚が戻るまで、海の恵みを使って川南の元気をアピールできるものを作って立ち上がろう。」と“口蹄疫からの復興”を合言葉に力を合わせて開発した一品。
 町内6店舗で、汁うどんだけでなく、中華あんかけ風、パスタ風などいろいろなスタイルで挺供されている。


 高鍋町では、当事業の受益地でもある染ケ岡地区を中心に県内トップのキャベツ、白菜生産地を形成している。
 当地区では以前から、町内の畜産農家と連携して堆肥を利用した環境保全型農業に取り組んだり、緑肥作物を栽培したりしていたが、 非農業者も含めた地域一体で農村環境の保全・再生を図るため2007年に染ケ岡地区環境保全協議会を設立した。
 2010年には、緑肥効果があり、景観も良好なヒマワリを栽培して、保育所や放課後児童クラブの児童との交流を計画していたところ、 口蹄疫が発生し、直接の被害を被った畜産農家はもとより、町の活気が消え、子供たちの様々な活動も自粛を余儀なくされた。
 「何とか地域に元気を取り戻したい。」との思いで、一面のヒマワリ畑を会場として、キャベツ・白菜の収穫作業に使う台車を売台や休憩所に使い、 地域の農産物販売などを行うイベントを企画した。およそ75haに咲く1,000万本のヒマワリの景観は圧巻で、町内外から多くの来場者を集め、 キャベツの一大産地であることもアピールできた。イベントは8月の土日2日間にわたって開催されるが、ヒマワリはあくまで緑肥であるため、イベント終了次第、順次畑に鋤込まれていく。

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一面に広がるヒマワリ畑

 染ケ岡地区では、キャベツ・白菜が年間2~3回転で作付けされるため、ヒマワリの鋤込みが遅れると作付けの遅れにつながってしまう。このため、6月の収穫作業後、 梅雨の合間をみながらヒマワリの種を撒き、イベント終了後の盆過ぎには鋤込んで次作の定植作業に備えるという工程を年間の作付体系に組み入れている。
 補助金(農水省の農地・水保全管理交付金)も活用してイベントは年々発展し、町商工会議所、 町観光協会、JA児湯青年部、若手異業種団体、農家婦人グループ、民間企業が連携する町の一大イベントとなった。
 地区農家の「ヒマワリを見て元気になってもらおう。」という思いから始まった取り組みは、2012年からはヒマワリ迷路も加え、 「きゃべつ畑のひまわり祭り」と銘打った一層魅力的なイベントとなって町内外を元気づけている。

 高鍋町では、この特産キャベツをたっぷり使った特製ロールキャベツ丼が県内5番目のご当地グルメとして2O12年11月にデビューし、丼だけでなく香のもの、 汁ものともロールキャベツ尽くしの統一規格で町内の2店舗で提供されている。錦糸玉子の上に具入りのミニロールキャベツを配置して、ヒマワリの花をイメージした色彩鮮やかな丼である。

 受益3町のご当地グルメは、いずれも口蹄疫らの復興の取組みであり、かつ、地元特産の農・水産物(1次産業)を使用し、それを加工(2次産業)し、それを販売(3次産業)する6次産業化の取組みでもある。

icon 8.地域のこれから

農業と関係した企業レベルでの口蹄疫復興の取り組みも始まる



 2011年8月、西都市に(株)ジェイエイフーズみやざきの九州最大規模となる年間処理能力4,400トンの野菜冷凍加工施設が口蹄疫復興対策の国庫補助を受けて誕生し、 畑作の振興、畜産とバランスのとれた産業構造への転換、雇用創出による地域経済の活性化など口蹄疫からの復興への重要な役割が期待されている。
 施設内には、大量の野菜をカット処理する機械や冷凍設備がライン化して配置され、宮崎県産にこだわった冷凍野菜(ホウレンソウ、サトイモ、コマツナ、ゴボウなど)を製造し、 小売、給食、業務向けとして九州にとどまらず大阪、東京方面に販売を行っている。冷凍野菜は、調理しやすいようにカットされ、 鮮度を保持したままトンネルフリーザーで瞬間冷凍されるので、いつでも手軽に宮崎の旬の野菜を味わうことができる。
 同社の土づくりから収穫までの栽培マニュアルとフィールドコーディネーター(圃場指導管理者)の現場指導により、 主力商品のホウレンソウでは、2011年度の150haから葉タバコ転換農家等との契約を増やして2012年度の200haへと拡大。
 契約農家は、児湯郡中心に所在しており、本事業受益地内に設置したホウレンソウ実証圃での播種・除草、収穫作業の機械化、 加工向け品種の選定試験結果を踏まえて本事業受益農家の参入も増加中で、ハードの“潅漑施設整備”とソフトの“営農”との効果的連携が実現しつつある。

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主力商品のホウレンソウ

 また、都農町においてもサンアグリフーズ(株)が産地競争力強化のための国庫補助を受けて漬物製造工場を新設し、2013年5月より操業を開始した。
 同工場は、(株)ジェイエイフーズみやざきと同様、畑作の振興、畜産に依存しない産地・産業構造への転換、 雇用創出による地域経済の活性化など口蹄疫からの復興を目的に、地場産の高菜、白菜等の野菜を漬物に加工するものである。


 さらに、近年、尾鈴地区では茶の栽培面積が増えているが、課題となっていた防霜・防除対策の改善を図るため受益地内茶圃場および 宮崎県総合農業試験場茶業支場において対策の実証調査を行った。
 防霜対策としてのスプリンクラー防霜は、ファン防霜に比べて施設費は高い(ただし、補助を考慮すれば農家負担はほぼ同じ)ものの防霜効果は優れていた。 茶の害虫クワシロカイガラムシは、枝に寄生して樹液を吸い茶樹を枯らす体の表面が介殻で覆われている害虫だが、スプリンクラー散水は慣行農薬と同等の防除効果が確認され、農薬不使用による安全安心の向上も図られる。
 本来の活着・生育促進、干ばつ時の樹勢維持の効果に加えて、追加経費不要で優れた防霜・防除効果が得られることになり、スプリンクラー散水は茶栽培に極めて有益であることが確認された。

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茶園へのスプリンクラー散水状況

 このようにフロンティア精神と元気に溢れた受益3町は、畑かんで生産した農作物を市場に供給するだけでなく、地域活性化にも積極的に活用し、今後ますますの発展が期待されている。

icon 9.事業概要

国営尾鈴土地改良事業



(1)事業期間
 平成8年度~平成25年度

(2)受益地 
 宮崎県児湯郡 川南町、都農町、高鍋町

(3)受益面積
 畑 1,580ha

(4)受益農家数
 1,574人

(5)主要工事
 切原ダムの新設
 青鹿ダムの取水設備の改修
 ファームポンド 4ヵ所
 パイプライン 36.3km 等

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切原ダム(堤頂から見た湖面)


【引用・参考文献】
 1. 九州農政局尾鈴農業水利事業所『川南原開拓のあゆみ』
2. 一般社団法人農業農村整備情報総合センター『ARIC情報 第111号』
 3. 農林水産省九州農政局尾鈴農業水利事業所HP
宮崎県 ―尾鈴農業水利事業