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都城盆地の農業用水開発の歴史
1.都城盆地の成り立ち
2.都城地域の開発の歴史
3.南九州地域広域農業開発調査
4.国営都城盆地農業水利事業

icon 1.都城盆地の成り立ち



 いまから2万4千~5千年前ごろに、鹿児島県の錦江湾奥のカルデラの大爆発によって生じた火砕流などによって、都城だけでなく南九州一帯が埋め尽くされました。この時の火山灰は偏西風に乗って東北地方まで飛ばされており、非常に大きな爆発だったことがわかります。よく目にする「シラス台地」は、この爆発によって出来たものです。
 この頃都城一帯は湖でしたが、このシラスによって湖の大部分が埋まってしまい、やがて現在のような窪んだ地形になったと言われています。その後都城盆地の中心部に人が住むようになりました。

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※中央の山は桜島、中央の窪地が姶良カルデラで右上が都城盆地

 今の宮崎県は「日向国」と呼ばれ5つの郡に分かれており、都城市は「諸県郡」に属していました。この頃、都と諸国を結ぶ道路には、30里毎(1里は約540m)に乗り換え用の馬や宿泊施設を備えた「駅」を置くことになっており、都城盆地内には「水俣駅」と「島津駅」が置かれていました。「水俣駅」は山之口町、「島津駅」は郡元付近にあったと言われています。
 都城盆地では、万寿年間(1024年~1028年)、大宰府の役人であった平季基(たいらのすえもと)が荒れ果てた土地300町を開墾したと言われています。季基はこの頃政治の実権を握っていた関白藤原頼道(ふじわらのよりみち)にこの土地を寄進しました。これが「島津荘」の始まりです。島津荘の範囲は、都城市と三股町のほぼ全域、曽於市財部町・末吉町の一部で、のちに8000町にも及ぶ日本一の荘園になりました。まさに都城は島津荘発祥の地といえる場所です。
 1185年3月、壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼし実権を握った源頼朝は、全国に守護・地頭を置く権限を獲得し、島津荘の下司職(荘園の管理人)に惟宗忠久(これむねただひさ)を任命します。その後、忠久は日向・大隅・薩摩三カ国の守護と島津荘の地頭となりました。忠久は自分が治める荘園の名前をとって島津と名乗るようになりました。これが都城が島津家発祥の地と言われる理由です。

icon 2.都城地域の開発の歴史



2.1 江戸時代末期までの開発と水利用
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関之尾の滝
 都城盆地の歴史は相当古く、縄文時代早期の五十市式縄文土器などから始まり、弥生時代の稲作を証明する大岩田黒土遺跡、高崎及び高城古墳群と続いている。
 この地域の水利開発もやはり、平安時代の頃までは低湿地地帯から山よりの自然湧水や谷頭を堰で区切ったため池、河川の上流の堰を利用した小規模なものに限られていたが、その後平安時代中期の平季基が墾田開拓を進めた島津荘の開発の頃から、高度の土木技術と経済力が必要な大規模な河川利用の水田開発が進められ、今日に至っている。
 また、島津荘の開発が島津忠久により進められた160年ほど後、都城盆地は島津分家である島津資忠の領地となり、山田町中霧島古江の薩摩迫に館を建て治所とし、当時の都城の豪族であった宮丸蔵人道時は、その所領を資忠に譲り開墾を始めた。この時(1350年頃)造成されたのが都城市内中央部の柳河原川の麦田堰からの1kmほどの用水路で宮丸掘と呼ばれている。また、その上流の横川堰から出ている1kmほどの用水路が1470年頃に造成された秋永掘である。
 室町時代から戦国時代の郷村制のなかで、造成されたかんがい施設としては、1575年高崎町大牟田の荒場川の荒場用水組合による工事が記録にある。ここは現在でも16haの水田にかんがいしている。
 江戸時代中期には新田開発が進み、都城市志和池地区の岩満町の水田一帯で 、用水路の一部のトンネルが470m以上もある大工事を行った岩満新田(1672年)や国道221号線の大淀橋を越えた志和池城跡の台地の下の300haの水田を庄内川長岡から野乃美谷、上水流を経る延長8kmもの水路で開発した水流名新田(1680年)、これより20年遅れて始められた丸谷川南側の上大五郎、下大五郎の地域の70haの水田開発のため、山田町大古川用水路を開削した大五郎新田(1700年)などが挙げられる。
 さらに庄内川関之尾滝の右岸上流からトンネル等により、現在の川崎、平田、乙房の130haの水田にかんがいする南前田用水路(1685年)は、岩山をくり抜いた難工事であることや明治時代の坂本源兵衛、前田正名等の関之尾用水開発の先駆を成すもので注目に値する。
 その他1707年に開通した高崎町の田平、縄瀬用水路、1720年頃に水田補給として造成した高城町の松山、中池、定満の池(現在の観音池)などや、江戸時代後期の大淀川本流上流部にある都城市梅北堰(1788年 大正時代に県下唯一の水利株式会社組織で運営されている)、さらに1849年の山之口町花之木上流に造られたため池や、1850年に完成した島津藩3大工事の一つといわれる高千穂開墾田の用水路を利用して造られた高崎新田など多数存在する。
2,2 近代の開発と水利用
 2.2.1農業振興に尽くした人物
 (1)有吉忠一(ありよしちゅういち)
 有吉忠一は、1911年に宮崎県知事に任命されました。忠一は遅れている宮崎県を全国平均まで引き上げるために、県内の100町村のほとんどを視察して、初年度から積極的な県政を展開しました。
 忠一と都城との関係は、高木原の開田事業にあります。高木原は南に沖水川、西に大淀川が流れていますが、どちらの川からも畑に水を引くことができませんでした。忠一は資本家による事業展開をあまりよく思わず、住民の利益を優先すべきと考えていました。そこで県の耕地整理課を使って開田給水工事を県営事業として行うことにしました。
 1914年に始めた高木原の開田事業の工事は、はじめ川内川から取水する計画でしたが、鹿児島県側からの同意がもらえず、大淀川の上流から取水することになりました。今町の有里に井堰を造り、丘陵にトンネルを掘り、川には水路橋やサイフォンを設置するという工事でした。
 特に沖水川に鉄管を埋設する工事や都城町内に堤を築く工事に時間と労力を取られました。さらに1915年6月には大洪水により、暗渠や鉄管水管橋がくずれるなど、工事は困難を伴いました。水路工事が進む中で、高木原の人々は耕地整理組合を作り、1914年から開田事業をはじめ、翌年には82町歩を植えつけました。

 (2)小野田長左衛門(おのだちょうざえもん)
 小野田長左衛門は、1877年7月実泰の長男として生まれました。長左衛門の生まれた山之口の麓・六十田地区は、水量豊かな東岳川流域にありますが、台地上にある田畑は水を手に入れることが大変難しく、雨が少ない時には飲み水にも苦労する状況でした。そんな状況を見かねた長左衛門は、農業用水路を造ることを決しました。1905年から用水路の工事が始まりました。東岳川と野の宇都川が合流するところに取水口を造り、山裾に水路を掘って行きました。しかし岩石などが多くて工事は中々進まず、資金も乏しくなりました。そこで長左衛門は私財を処分しながらお金を工面して工事を続け、約7年掛けて遂に一本松までの用水路を完成させました。しかしせっかく造った用水路もその後の台風や大雨でたびたび壊れ、長左衛門は用水路の補修に終われました。彼が苦労した工事の跡は、岩盤をくり抜いたトンネル水路や石積水路橋などで現在も見ることができます。

 (3)坂元源兵衛(さかもとげんべえ)
 坂元源兵衛は、1840年に西岳村田野で生まれました。源兵衛は1886年に庄内川から川崎地区に水路を通して、6町歩の開田に成功しました。
 川向うの川崎地区での成功を見た関之尾地区の人々は、これを大変うらやましく思い開田を強く希望しました。なぜならこのころの関之尾地区には田んぼが無かったからです。そこで源兵衛は滝の上流にトンネルを掘ることにしましたが、当時は掘削機械も無く岩石やくずれ落ちる土砂に工事は難航を極めたようです。1896年に水路は完成し、関之尾地区に20町歩の水田ができました。
 しかし志半ばにおいて、資金が底をつき、後述する前田正名が彼の跡を引き継ぐことになります。

 (4)前田正名(まえだまさな)
 前田正名は1850年、薩摩藩の漢方医だった前田家の6男として生まれました。1869年から7年間フランスに留学し、帰国後は殖産興業政策に積極的にかかわりました。
 1888年に山梨県知事、農商務次官などを歴任し、全国を回って農業の指導や産業の育成を行いました。その後人口が少なく土地が豊かな宮崎県で開田事業を行おうと考え、宮崎を訪れた時に、資金不足で開田事業を中断していた坂元源左衛の話を聞き、事業を引き継ぎます。
 正名の工事は、ダイナマイトなどを使った新しいもので周囲の人々を驚かせました。

2.2.2 明治時代
 明治時代になってからも政府の開墾政策により、全国各地で開墾が奨励された。当時の開田疎水事業としては、明治5年(1872年)の三股町沖水川水系の海戸用水、明治23年の高崎町高崎川水系の松ケ水流堰、明治27年の三股町三股用水等がある。
 しかし明治時代の水利開発では、企業開田である関之尾用水開発の前田用水路を忘れる訳にはいかない。
 当時の庄内地方はシラス台地の畑作のみで貧困に喘いでいたが、西岳から庄内に移住してきた坂本源兵衛がこの現状を憂い、開田を思い立った。江戸時代の南前田用水路に続いて、川崎用水路を建設し川崎地区16haの水田を開田した(明治22年)。引き続き下流の100ha以上の開田を計画したが、資金難で工事が中断したが、これを引き継いだのが当時農商務次官を辞職し、開田計画に意欲を持っていた前田正名である。
 前田は1850年鹿児島県指宿市山川町に生まれ、フランス留学後内務省に奉職、山梨県知事等を歴任後、農商務次官を最後に退官した。以来全国農事会等での興農勧業思想普及に努め開田計画を持っていたところ、明治30年に坂本源兵衛の開田事業計画を受け継ぎ、東京に前田一歩園本部を設け、山田町谷頭に一歩園日向疎水部を設け事業に着手した。明治34年に幹線水路7249m、支線水路6268mの水路が完成し、明治39年に150haのシラス台地に開田をみた。
 その後も貴族院議員の身分で地方産業振興運動を続けながら、大正10年に死去した。この前田用水路による開田には、前田が指導協力を依頼した元秋田県農会長石川理之助の尽力によるところも大きい。
 また前田用水路は江戸時代1680年の水流名新田取水口の上流に堰を設けることとなったため、用水不足をおこすことから、その交換条件として丸谷川の水を引くこととなったが、この水路はシラス対策を要する難工事で、坂本源兵衛の意見に従い、シラスを流水で流し掘削していく、この地方独特の「水流し工事」に変更し、志和池堀切工事の難工事を克服していった。
 明治30年~40年代は、宮崎の土地の広さと人口の少なさから、移住民を招致して開墾を行う県政策をとっており、県内の主な開田予定地について調査書をまとめ全国に配布し、企業開田家の便を図るとともに移住者の誘致に努めている。このとき県がまとめた概略設計地区には、山之口町の富吉地区も含まれていた。

2.2.3 大正時代
 大正時代になると開田、耕地整理事業がさらに推進された。これは県営開田事業の創設と開墾助成法(大正8年)の制定によるところが大きい。
 都城盆地においても、高木原地区が採択(大正3年、1914年)され、大淀川上流の都城市今町と鹿児島県末吉町の境の有里を水源とした都城市で最長の18kmの高木原用水路が建設され、550haの開田が行われた。
 このほか、高崎町の谷川用水が大7.7正時代に企業開田として挙げられる。これは江戸時代の1707年に通水した田平用水の田平堰の上流4kmの高原町との境に谷川堰を設置し、左岸沿いに7.7kmの用水路を開削、大牟田、縄瀬原の台地をかんがいするものである。大正4年の福岡県三池土木㈱の企業開田によるもので、水源は高原町の霧島山麓にある御池で、ここに設置した放流水門から高崎川に放流後、谷川堰で取水するようになっている。このほか耕地整理事業や開墾助成等により水田開発は推進され、昭和20年頃まで続いた。
 大正時代も開墾地移住奨励策は取られ、宮崎県は移住案内、調査書を全国に配布している。このときの移住適地としては高崎町が入っている。また、大正3年の桜島大爆発による被災民の移住もあり、北諸県地方には219戸881人の移住があったとされている。

2.2.4 昭和時代
 昭和に入ると農地の造成及び改良を促進するため農地開発法(昭和16年)が制定され、耕地整理事業が行われるようになった。また数次にわたる食料増産計画などで耕地整理事業は引き続き進んできた。
 この頃の水利開発としては、都城市の沖水川筋用水、三股町の樺山用水などがある。沖水川筋用水は昭和9年県営農業水利事業として完成したが、沖水川の地下伏流水を取水するための集水暗渠堰を県内で始めて築造したものである。当時の沖水川は左右岸に30箇所の簡易な自然取入れ口があったが、渇水時には河川水の大部分が伏流水となり、取水できず干ばつに悩まされていたところ、付近の高木原用水路掘削工事現場において、地面下3mの箇所に地下湧水をみたことから、地下水利用の計画が始まったものである。
 このような努力の積み重ねにより、河川沿いの水田開発は進み、戦後を迎える。一方畑地については、相変わらず天水に頼った営農が続けられていた。
 水田を主体とした水利開発の動きを利水施設の状況調査から見ると、80%以上が井堰からの取水となっており、揚水機による地下水利用は昭和31年以降進んだことが伺える。

2.2.5 戦後の緊急開拓
 終戦を迎え復員軍人軍属、外地引き揚げ者及び戦災者の入植と食糧増産の絶対要請により、国の緊急開拓事業により田畑の開墾が進められた。このとき都城盆地で事業が進められたのは、都城飛行場、旧都城市梅北、西岳演習場、旧高城町八久保、田辺であるが、急な開発の中、水利手当ての困難さから田52ha、畑610haというように畑を主体に開墾された。 

2.3 災害との戦い
 日本に来襲する台風は、ほとんど赤道前線地帯に発生し、その大多数は発生後始めのうちは西に移動し、次第に進路を北に転じ、北緯26度(沖縄を通過する緯度)で北西から北東に転向するものが多く、その過半数は南九州に上陸するか、あるいは強い影響を与えている。宮崎県は地理的地形的条件からその都度甚だしい災害を受けており、例えば台風、豪雨災害による被害程度等の記録は、昭和2年頃から昭和49年までに90回もあり、昭和33年には全県域が台風常襲地帯に指定されている。
 なお国が農地などの災害復旧に関して助成措置を取るようになったのは、大正12年の関東大震災からであるが、この地域では災害を受ける毎に耕地復旧の努力を続けてきた。宮崎、都城盆地において台風災害が大きい理由としては、台風の常習地帯であることに併せ、シラス等の特殊土壌地帯であることも大きな要因である。
 昭和24年は、台風の当たり年で6,7,8月と連続して大きい台風被害があった。特に都城盆地等の県南部のシラス地帯に被害が大きく、旧都城市の野々美谷、大谷頭、小谷頭におけるシラス台地の大崩壊は顕著であった。この3つの台風での降雨量は1,057mmに達し、それまでの6~8月の年間平均降雨量の約1.7倍の雨量となった。
 農林省農地局はこの大災害を重視し、調査を進め10月には「シラス地帯の災害防止対策について」中間報告を発表、宮崎県を12月には「宮崎県シラス地帯土壌浸食防止計画」をまとめ、鹿児島県と協力し、昭和27年「特殊土じょう地帯災害防除及び振興臨時措置法」の制定にこぎつけた。
 この結果、災害防除事業として農地保全事業(シラス対策土じょう保全)などが取り上げられることになった。
 シラス対策農地保全事業の第1号は、昭和24年の台風により大災害を蒙った旧都城市の谷頭付近の小谷地区で、昭和26年に完成している。
 また、宮崎の農業に対する災害では、その降雨携帯の特徴から避けられない災害についても触れる必要がある。
 昭和9年の全国21県を襲った干ばつは、かってないもので宮崎県では水田の60%の3万ha
 その後は昭和35~37年、39~43年と大規模な干ばつが頻繁に発生しており、特に昭和42年は宮崎気象台始まって以来の記録的干ばつで、これが南九州の畑地かんがい事業の大きな契機のひとつになっている。
 昭和42年の干ばつの状況を県の「災害の記録」から抜粋すると次のとおりであった。
「6月に入ると少雨傾向が続き、早期水稲に1億円の被害があり、6月30日~7月上旬には県南部で梅雨前線による刺激による大雨が施設作物に被害をもたらした。7月10日には北郷町に局地的な集中豪雨がり、通信、鉄道などに1億円余りの被害が出た。7月24~26日には台風10号が来襲し、農作物に被害があった。8月に入ると県下一円は全く降雨がみられず、高温の日が続き9月に入ると深刻となり、農作物や林産物に48億円を越す未曾有の干ばつ被害に見舞われた。」
 この年の8月は旧都城市でも平年比8%の降雨しかなく、都城盆地地域でも2億円弱の干ばつ被害が出ている。

icon 3.南九州地域広域農業開発調査



3.1 南九州地域広域農業開発調査の開始まで
 都城盆地地域の水利開発は、ほとんどが水田用水確保であり、災害に対する復旧努力も水田を対象としたものが多い。しかし昭和24年の台風大災害等を契機として、南九州全体の地域格差解消という動きが活発になり、昭和25年に制定された国土総合開発法により南九州特定地域に指定された頃から本地域の計画が始まった。
 国土総合開発法では低開発地域、特に災害の防除を必要とする地域で、その開発効果を挙げうる可能性のある地域の国土保全と資源開発が行われることになり、昭和28~37年度までの計画期間で各種の事業を促進することとなった。南九州特定地域では、農畜産物や林産物をはじめ、電源の開発等を総合的に行う必要性が認められ、治山・治水・シラス土壌浸食防止等の国土保全事業が強力に進められた。
 しかしながら、気象、土壌条件等からかんがい施設の整備されてない畑は、土地の生産性が低く収益性にも乏しく、農家経済は常に不安定であったことから、宮崎県は昭和34年から宮崎県防災営農計画を打ち出し各種の対策を講じた。一方、国においても食糧増産政策から農業生産の選択的拡大を目指した農業基本法を制定した昭和36年に、南九州防災営農改善対策を打ち出し、宮崎・鹿児島両県における畑の総合的事業を実施することとした。この事業は昭和37年からの構造改善事業に引き継がれた。
 宮崎県はさらに国に対する特別対策の要望を続けた。そして昭和41年農林省に南九州畑作振興対策調査室が設置され調査が進められた。この結果、昭和43年には基盤整備に関する特別対策と して特殊農地保全整備事業が創設されるとともに、営農資金に対する特別措置である南九州畑作営農改善資金融通臨時措置法が制定され、これにより畑地の圃場整備が進みだした。
 このような中、地元では昭和42年の大干ばつを契機に、昭和43年7月地元推進組織である都城盆地農業水利総合開発事業促進協議会が設立された。
 そして遂に昭和44年、南九州地域広域農業開発調査が開始されるとともに、南九州地域広域農業開発調査をバックアップし各地区間の連絡調整を図るため、宮崎県南九州地域農業開発事業促進協議会が設立された。なお、昭和44年5月に閣議決定された新全国総合開発計画において、南九州は大規模畑作振興地域として位置づけられている。
 そして昭和45年4月には、南九州地域総合開発調査事務所が旧都城市に開所された。

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特殊土壌である南九州のシラス

3.2 南九州地域広域農業開発調査
 南九州地域広域農業開発調査は、南九州地域に展開する広大な畑地帯を対象に農業振興を図り、食糧基地を目指した総合的な農業開発を行うための調査で、新たな水源を開発して台地上の畑に水を引く畑地かんがいに関する調査を根幹とした地域開発構想又は計画を策定することを目的としていた。この調査の発想の源は、当時鹿児島県で完了間近の国営笠野原農業水利事業の二期事業としての大隅中部地区開発構想と綾川地区(昭和45年完了)、一ツ瀬地区(当時調査計画中)に続く、都城盆地及び小林盆地を中心とした宮崎県の開発構想が一体となった南九州の9万haにおよぶ開発構想である。
 調査では、①水系、県境を越えた水資源の最大有効利用を図ること(大淀川等の上流部は両県へ交錯している)、②当時から盛んであった畜産を主軸とした営農の確立を図ること等を基本に進められた。 

icon 4.国営都城盆地農業水利事業



(1) 事業の背景
本地域は、宮崎県の南西部に位置し、周辺を霧島連山と鰐塚山系に囲まれた盆地状台地で都城市・三股町にまたがる約4,400haの畑地農業地帯である。
畑地は火山灰性特殊土壌に加え、かんがい施設が未整備のため、生産性は低く、農業近代化の阻害要因となっている。このため本事業により、木之川内ダムを築造して畑地かんがい用水を確保し、計画的な水利用による農業生産性の向上を図り、合わせて関連事業により圃場整備等の基盤整備を行い、農業経営の近代化を図るものである。
(2) 事業の経緯
 本事業は、総事業費390億円で昭和62年度に着手したが、その後地域農業を取り巻く社会情勢の変化等により受益面積に変更が生じるとともに、詳細調査により主要工事計画にも変更が生じた。このため、平成13年2月に受益面積、主要工事計画、事業費等の計画変更を行っている。
 受益面積は、地区除外や転用等による減少、新たな取り込みによる増加があり、当初4,360haから4,008haに変更になった。
 貯水池は、木之川内ダムの掘削量や築堤量の増、荒川内頭首工の廃止があった。
 導水路は、路線変更に伴うトンネル延長増やサイフォンの延長増があった。
 幹・支線水路は、路線変更に伴い揚水機場や加圧機場やファームポンドの施設に変更があった。
 上記に伴い事業費は、当初390億年から930億円に540億円の増額があった。
 上記に伴い工事の完成時期は、当初平成10年度から平成24年度に延長された。 
(3) 事業概要
① 事業工期  
昭和62年度~平成24年度(施設機能監視期間の3年間を含む)
② 受益市町村(合併後) 
都城市・三股町
③ 受益面積  
4,008ha
④ 主要工事
木之川内ダム
 有効貯水量 6,000千m3
 堤高64.3m
 堤長409.7m
 堤体積1,501千m3
田野頭首工
 型式 フィックスドタイプ
 堤高2.2m
 堤長11.0m(可動部)
揚水機場 8ヶ所
用水路 L=141.4km
⑤ 事業費 93,000百万円
(4) 関連事業
① 県営特殊農地保全整備事業
事業主体 宮崎県
受益面積 580ha
事業内容
 用水路 19km
 区画整理 580ha
 排水路 農道
② 県営畑地帯総合整備事業
事業主体 宮崎県
受益面積 3,460ha
事業内容
 用水路 71km
 区画整理 430ha
 排水路 農道
③ 非補助事業
事業主体 土地改良区
受益面積 3,966ha
事業内容 畑かん施設(散水器)
 ※平成27年4月現在において、関連事業の着手率は53%となっている。
「参考文献」
国営都城盆地農業水利事業誌
都城の歴史と人物
都城盆地土地改良区だより
宮崎県農村整備課


国営都城盆地土地改良事業概要図

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