top01

1.シラス台地
2.水のない不毛の地
3.大正大噴火と耕地整理
4.水さえあれば・・・。
5.笠野原の今

icon 1.シラス台地



 笠野原(かさのはら)地区は、鹿児島県大隅半島の中央に位置し、広大な肝属(きもつき)平野の北西部を構成しています。 鹿屋市と高山町(現、肝付町)にまたがる南北16km、東西12kmに広がる総面積6、300haの、九州南部において最も広いシラス台地と呼ばれる高台です。

  シラス台地は、九州南部に数多く分布している火山噴出物からなる台地です。シラスは、細粒の軽石や火山灰から形成されています。 保水力が小さいため、台地上に降った雨は速やかに地中に浸透してしまい、台地上には川や湖沼などの水源がほとんどありません。その中でも笠野原は、 台地の内部構造全体がシラスからなるという、最も代表的なシラス台地と呼ばれています。

  表層は1m前後の黒色火山灰に覆われ、その下に30mから80mにもなるシラス層があります。川は深い谷を作り、シラス特有の水を通しやすい(=貯めておくことができない)ということから、 地下水位が極めて低い状態となっており、農業用水や生活用水を得ることが困難な土地でした。作物に水分供給をすることが難しく、 少しでも日照りが続けば作物は枯れてしまいます。また、低い土地との高低差が100mほどあるため年間を通して風が強く、台風通過後は稲や粟などがなぎ倒され収穫がなくなりました。

  台地の開発には、江戸時代から先人のたゆまぬ努力が重ねられましたが、大正時代までは「水のない不毛の地」とよばれるほどでした。

icon 2.水のない不毛の地



 笠野原台地は、水源が乏しい上に土壌の保水力が低く、農耕が困難なため、江戸時代初期までは荒れ地でした。 次第に開墾が進み、江戸時代末までに台地上の約3割が畑となりましたが、当初から水の確保が課題でした。

 広い土地があるのに十分な水が無い為、一生懸命頑張っても限られた作物しか作れません。

  そのため、水がないシラスが厚く積もる笠野原台地では、よく深井戸が掘られていました。

 台地南部では、人の力で井戸水をくみ上げることができましたが、地下水面が深さ50mを超える台地中部では80m以上の深さの井戸を掘らなければなりません。 あまりの深さに、人の力で水をくみ上げることが出来ず、牛の力も使って水をくみ上げていました。

 鹿屋市の細山田地区には、鹿児島県指定史跡「土持堀(つっもっぼい)の深井戸」と呼ばれる、 江戸時代文政から天保の時代(1818年から1843年の間)に掘削された、直径約90cm、深さがなんと約64mもある井戸が残されています。

 台地北部では、もはや井戸から水をくみ上げることも困難で、 遠く数km離れた台地脇を流れる川から馬で水を運び上げなければならいなど、水の確保に相当な労力と時間を費やしたと言い伝えられています。

 貴重な水だけに、使ったあとも捨てられません。風呂も一回沸かすと、翌日はつぎ足してもう一度沸かしていました。これが二番風呂とよばれ、三番風呂まで使ったといいます。
 水不足により、住民の衛生環境も劣悪な状態でした。例えば、笠野原の小学校児童の41%が眼病患者であったことからも、 その惨状を知ることができます。
 カンショとナタネをたよりに、やっと生きているだけの農業。
 飲み水にさえ苦労する環境の台地農家の生活では、近隣の農村から嫁のきてがなく、「いやじゃいやじゃ笠野原はいやじゃ五十五尋(100m)の綱を引く」と歌にまで詠われたものでした。


icon 3.大正大噴火と耕地整理



 台地の開発は江戸時代から始まりましたが、明治・大正時代になっても耕地は台地の半分にも満たず開発は進みませんでした。 その主な原因は水が無いためです。飲料水にも不自由するほどでした。

 1914年(大正3年)、笠野原の北西約30kmに位置する桜島で起きた噴火(大正大噴火)のために、 多くの耕地が火山灰の被害を受けて荒廃し、これをきっかけとして耕地整理事業が始められました。

 1925年(大正14年)から耕地の整理に取りかかり、約10年の歳月をかけ昭和の初めに完成しています。1区画を約3haに区切り、直線道路を縦横に通し、どの畑にも車が横付けできるようになりました。

 上水道施設や耕地整理、開拓の各事業が実施され、ようやく昭和の初めに台地上での農業生産が可能になりました。しかし、台地の水は依然として足りず、 畑に水をかけるすべもありません。2週間も晴天が続けば干ばつになり、雨乞いをするような状況です。  そのため、農作物は干ばつに強い作物 (サツマイモ、ダイズ、アブラナ:シラス台地の三大作物)に限られるなど、不安定な農業を強いられていました。



icon 4.水さえあれば・・・。



 第二次世界大戦が終わると、食糧増産が国家的課題として掲げられ、笠野原台地に熱い視線が注がれました。

 水さえあれば…。その強い気持ちから鹿児島県は、高隈川の上流にダムを作って水をため、そこから開水路やパイプラインやトンネルなどを使って水を引き、 その水で笠野原台地の畑にかんがいをするという畑地かんがい事業が打ち出しました。
  そこで1955年(昭和30年)から国営笠野原畑地かんがい事業が実施されることになったのです。

 これは、全国における国営畑地かんがい事業第1号地区として実施されました。

  しかしその一方で、事業反対の組織化した反対運動が行われます。笠野原台地を2分した激しい推進と反対の闘争に明け暮れ、 隣保、婦人会、消防団の分裂、串良町の町政をマヒさせるまでの激しいものでした。
 これは、畑地かんがい事業での事業効果が十分確かめられていないことや、地元負担金への不安、畑地かんがいの散水方式の問題、 水没地の世帯数204戸と多かったことなど、国営第一号の畑地かんがい事業であり、将来の笠野原に期待するが故の闘争であったといえます。

 1967年(昭和42年)に高隈ダム(大隅湖)が完成し、大規模なかんがいが行われるようになってから野菜や飼料作物が栽培されるようになり、鹿児島県内有数の畑作・畜産地帯となっています。
 透水性の大きいシラス台地でのダムを用いたかんがい技術は、干ばつによる不安定な生産性の低い農業であった鹿児島の活路を見出した画期的な事業であったといえます。


icon 5.笠野原の今



 農家の畑は給水栓を開ければ、いつでも給水栓から水が出て営農に使えるようになりました。 以前の笠野原は人の住みにくい不便な場所でしたが、 畑地かんがい事業の整備とあいまって、地域の住環境が改善され、その結果現在では住宅が出来て人口も増え、学校も増設されるようになりました。

 今では、ダム湖は通称「大隅湖」と呼ばれ、カヌー競技の練習や競技大会の場として利用され、また、湖畔にはアジサイが植栽され、梅雨時には色とりどりの花が咲き誇り、訪れた人たちを楽しませています。

 待望の水が笠野原台地に通水された時から、粗放的な野菜栽培と畜産が中心であったシラス台地に、サトイモ、キャベツ、お茶、花木等の作物が新たに栽培され、規模が拡大されるなど徐々に営農形態が変化してきました。

 水が無い為に限られた作物を細々と作っていくしかなかった台地でも、人々の努力と畑地かんがいという水の力で、収穫量も作物の種類でも、今では鹿児島を代表する緑豊かな食料供給基地となっています。

icon 事業概要



(1)事業期間
 昭和34年度~昭和44年度

(2)受益地
 鹿屋市、肝属町

(3)受益面積
 畑 4,807ha

(4)農家戸数
 3,816戸

(5)主要工事
 高隈ダム(総貯水量1,393万m3)
 調整池4ヶ所
 揚水機場1ヶ所
 パイプライン(62.4km)等

(6)関連事業
 県営かんがい排水事業等(昭和42年度~昭和55年度)

012


icon 【引用・参考文献】



 1. 農林水産省九州農政局HP 2011/07/19
 2. 国土交通省九州地方整備局大隅河川国道事務HP 2011/07/19
 3.  Wikipedia-笠野原台地 2011/07/19
 4. 横山勝三『シラス学』古今書院2003年  
 5. 九州農政局笠野原農業水利事業所『かさのはら』1969年
鹿児島県 ―笠野原農業水利事業