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1.国内2番目の規模を誇る大規模な畑地かんがい事業
2.島津氏と薩摩
3.明治時代の池田湖疏水事業
4.昭和初期の水位の低下
5.畑地かんがい事業を契機に、高生産性優良農業地域になった南薩台地
6.南薩農業水利事業の概要

icon 1.国内2番目の規模を誇る大規模な畑地かんがい事業



国営南薩農業水利事業は、昭和45年に着工し、昭和59年に完成するまで、15年の歳月をかけた壮大な畑地かんがい事業です。
 戦後の大規模畑地かんがい地区の例としては、愛知県、静岡県にまたがる豊川用水の9,800haに次ぐ、国内2番目の受益面積を誇る事業で、 鹿児島県薩摩半島南端、南薩台地のうち、指宿市ほか2市4町、総受益面積6,072haもの畑地をかんがいし肥沃な大地に生まれ変わらせたというものです。
 それは、池田湖を調整池として利用し、6,072haを潤す水利ネットワークを構築するという壮大な発想でした。池田湖は水面積1,062ha、 水深230mに及ぶ貴重な水源であり、さらに水面の海抜は64m~66mとかんがい用水の水源として高い可能性をもった貯水池でした。

しかし、集水域は1,234haしかなく、土壌特質からくる漏水が大きいため、広大な畑地を潤す取水は不可能でした。
 この広大な面積をかんがいするために必要な用水量(年間約3,000万m2)を確保する方法として、池田湖流域以外の馬瀬川、高取川、 集川の三河川の余剰水や洪水時の水を池田湖に導水し貯水する、すなわち池田湖を巨大な調整池として活用するというものでした。また、用水の単年度計画を長期に切り替えて水収支を考える、柔軟な発想がこの壮大な計画を支えたことも見逃せません。

icon 2.島津氏と薩摩



 場所は鹿児島県薩摩半島南端に位置する南薩台地、南北12km、東西24km。指宿市、山川町、開聞町、頴娃町、知覧町、 枕崎市の2市4町にまたがる、総面積約13,000haの広大な畑作地域です。この地域は、現在も継続している火山活動によって噴出した火成岩類からなる台地できています。
 江戸時代の雄である島津氏は、3代久経までは鎌倉に在住しており、のちに、蒙古の再来を警護するため薩摩へ赴任します。以後、 島津氏は薩摩の土着豪族となっていき、その後、南北朝、室町、戦国の時代を駆け抜け、近世大名へと名をあげていきます。 特に、島津氏歴代君主のなかでも出色の名君と讃えられた斉彬は、明治維新で活躍する多くの人材を輩出したことで有名です。
 また、薩摩は古くからわが国と大陸を結ぶ要所であり、室町幕府の時代には琉球の領主として認められ、南方との交易に力を入れていきます。 半農半漁の苦しい薩摩藩の財政を救ったのも、この貿易によるところが大きいのではないかと推察できます。

icon 3.明治時代の池田湖疏水事業



 薩摩藩は77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ大きな藩でしたが、籾高ではなく米高に直すと37万石程度であったといわれています。 また、4人に1人は士族で、藩の経営は当然苦しいものでした。藩士の多くは、農業に携わりながら定期的に軍事訓練を行い、 争いが起きればそのまま武士となって戦う集団となる、いわば兼業農家であり、屯田兵の役割もしていたことになります。 武士集落を構成して地域の行政を執り行なった外城制度の名残である「外城」「麓」などと呼ばれる武家屋敷が、 今も薩摩地方に数多く残っているのはこのためです。
 この南薩の台地は、広大な農業用地がありながらも、この地域を形成している火山岩類による劣悪な土壌条件により、 幾度となる干害に悩まされていました。渇水時の水汲みに、往復7Kmもかかった集落もあったことが文献にも記されています。
 池田湖の水を農業に利用する計画が具体的に動き出したのは、安政4年(1852年)薩摩藩主、島津斉彬の時でした。米の増産を目的に工事が始まり、 途中、明治維新により中断しますが、時の県令大山綱良が引き継ぎ、士族救済の事業として明治5年(1872年)から5年の歳月をかけ、 池田湖の疏水工事を行い、干地として37,9haの開拓地が完成しています。その時の池田湖の水位は、海抜70mといわれ、 水門の掘削により約3m低下し66~67mの水位となりました。この低下した水位のため、後に上述した三河川の余剰水導水による調整池利用という発想が生まれることになります。


icon 4.昭和初期の水位の低下



 幾度となく来襲する台風や干ばつなど、厳しい自然条件と戦いながら、また、本来農業に適しているとは言い難いシラス・ボラ・コラなどの火山性の特殊土壌をねばり強く改良し、 長い年月と何万人におよぶ農民の労力をかけて拓かれてきた財産である農地。
 しかし、大正14年頃から降雨量が減少し、干ばつが続いたため、池田湖の水位は年々低下し、用水路の水は枯れ、昭和2年頃には田植えや芋植えが出来ないほどの状況になります。 また、保水力の小さい火山灰土壌のため干害がひどく、農作物は枯死の危機にさらされます。
 昭和33年にはさらなる水位の低下により、十町・仙田地区50町歩のうち3分の2の受益面積がかんがいできなくなり、開聞町土地改良区は干ばつ対策として、揚水施設を設置して対策を講じます。
 昭和24年に枕崎市、知覧町、頴娃町の抜本的な対策である土壌改良、水資源の確保の要望を受けて、農林省では24年、25年、28年の3回、さらに36年、 37年と深層地下水調査を行いましたが、結果はいずれも期待を裏切るものでした。また、溜池による用水確保の願いも、その土壌特性であるコラ層(地質不良透水性地盤)ゆえ断念せざるを得ませんでした。
 このかんがい施設の不備のため、主要作物はさつまいもなどの耐干性の作物に限定され、この地方の人々は半農半漁に近い苦しい生活を強いられてきました。 戦後の食糧難の時代でもあり、この地方の農民は安定した農業用水の確保は積年の願いでありました。


icon 5.畑地かんがい事業を契機に、高生産性優良農業地域になった南薩台地



 南薩地方は畑地かんがい事業の前は、さつまいも、麦、なたね、飼料作物が主な作物でしたが、畑地かんがいを契機にして、 えんどう、そらまめ、かぼちゃ、すいかなどの果菜類や、にんじんなどの根菜類、キャベツなどの葉菜類まで、収益性の高い新しい営農の展開が可能となりました。
 さまざまな生命を育てる南薩の台地。私たちの先人は、長い時間を掛けて風土の特性を生かした農地を作り上げてきました。このかけがえのない大地が、 これからもずっと豊かな実りを約束してくれるように、農業用水や有機性資源の循環を守っていくことが私たちに課せられた義務でもあります。


icon 6.南薩農業水利事業の概要



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(1)受益地
宿市、山川町、開聞町、頴娃町、知覧町、枕崎市の2市4町

(2)受益面積
6,072ha

(3)主要工事
頭首工3カ所(馬渡川頭首工、高取川頭首工、集川頭首工)
池田湖 有効貯水量42,480千m3、利用貯水量42,480千m3、最大取水量5,30m3/s
揚水機場 西部揚水機場、西部第1揚水機場、西部第2揚水機場

(4)用水路
導水路:8,7km、送水路:3路線36,6km、幹線水路:19路線54,5km

※掲載の一部写真は、鹿児島県土地改良事業団体連合会のホームページより転載させて頂きました。

鹿児島県 ―南薩農業水利事業