top01

都城盆地の農業用水開発の歴史
1.肝属南部
2.大隅地域の開発
3.過去の主な農業農村整備事業
4.肝属南部総合農地開発事業
5.事業効果の発現状況

icon 1.肝属南部



1.地形
 肝属南部地区は、九州最南端の大隅半島の南部に位置し、鹿児島県肝属郡錦江町(平成17年3月22日に大根占町と田代町が合併)と南大隅町(平成17年3月31日に根占町と佐多町が合併)の2町にまたがっており、地形的には、大隅半島を縦走する肝属山地が中央にそびえ、標高500m~900mの山々が連なっている。肝属山地が半島東部にあるため、肝属山系を源とする河川は西側に発達し、神ノ川、雄川などが錦江湾へ注いでいる。
 東は太平洋、西に錦江湾、南は本土最南端の佐多岬の近くまで東西20km、南北25kmの広範囲に及んでいる。
 地形は、標高10m~605mの中山間地に位置し、河川沿いに水田が展開する低位部と山林、畑が錯綜する台地部から形成されている。
2.気象
 気候は、温暖多雨(年平均気温16°C、年間降雨量2,620mm)であるが、地形が半島であるため河川の発達が乏しく、また11月~2月の降雨が少なく、干ばつを受けやすい現状にある。
3.交通
 本地域は、空港、鉄道や高速道路といった広域交通網から非常に遠いところに位置しており、地域の中心部から県都の鹿児島市へ車で陸路を通ると約2時間40分、錦江湾のフェリーを利用しても約2 時間要する。鹿児島空港へも約100km離れており2時間以上かかる。この地域の交通の中心は道路で、半島の西海岸を南下する国道269号線が基幹となっており、内陸部を国道448号が半島を西から東へ横断し、肝属広域農道( グリーンロード) が北から南へ縦断している。海路は南大隅町から指宿市( 旧山川町) へそれぞれ1日4~5往復している。

001

4.土壌
 本地域の土壌は、北部に広がるシラス地帯、その南部から東部に広がる中新世の花崗岩類や日南層群に属する水成岩を基岩とする山岳地帯、山岳地帯の西に広がる熔結凝灰岩を基岩とする台地状の丘陵地帯、及び海岸平坦地や河川流域に細長く分布する沖積地帯の四つに大別される。 シラス地帯や丘陵地帯は大部分が火山灰によっておおわれ、黒ボク土や火山抛出物に由来する未熟土が広く分布している。
5.社会経済条件
 関係2町の総面積は377km2で、鹿児島県全体の9,132km2の4.1%を占めているが、人口、総世帯数、就業者のシェアはそれぞれ約1.2%で面積比に較べ密度は1/3程度と低い。
 総面積の大半は林野で79.2%となっており、耕地率は9.3%で、小河川と海岸沿いに水田、台地上に畑地が点在している。
 人口は、地理的条件に恵まれず産業基盤が弱いことから過疎化が年々進み、最近10ヵ年で21,630人(平成12年)から17,797人(平成22年)へと17.7%減少しており、特に学卒者の地域外への流出が続き、高齢化の一因にもなっている。
 産業別就業人口の構成は、第一次産業が36.5%で鹿児島県の12.0%、全国の6.0%に比べ極めて高く、うち農林業のみでも33.8%で、農林業への依存度が大きい地域である。
6.事業実施以前の農業の現状
 農業は、露地野菜を主体に畜産、たばこ、茶等を組み合わせた複合経営が営まれており、一部には温暖な気候を生かした施設野菜等の導入も図られつつあったが、農家の経営規模は零細で耕地は分散していたため、農業経営は不安定であった。
 また、畑は火山灰性特殊土壌で覆われ、かんがい施設も未整備のため、生産性の低い営農を余儀なくされている状況だった。
7.事業の目的
 本事業は、山林等の未墾地401haの農地造成と隣接する既耕地143haの区画整理を一体的に施行し、併せて造成地及び既耕地の農業用用排水施設の整備を行うことによって、経営規模を拡大し、農業生産性の向上と経営の安定化を図るものである。

002
003

icon 2.大隅地域の開発



 政治・経済の中心から遠く離れている鹿児島県は、戦後開発の速度が遅れ、特に地理的、社会的条件から大隅地域の開発は、県内でも遅れている地域であった。
 昭和25(1950)年国土総合開発法の制定に伴い、直ちに総合開発特定地域の指定を受けるため、地元、県一体となって激しい要請等の運動を展開した。そのかいがあってか、昭和26(1951)年12月に大隅熊毛地域と宮崎県南部地域が南九州地方総合開発特定地域に指定された。
 昭和27(1952)年8月には、南九州地方総合開発審議会が発足し、具体的計画について調査審議が進められ、県では昭和28(1953)年3月に南九州特定地域総合開発計画を国に提出した。
 国土総合開発審議会の答申を経て、昭和29(1954)年6月、同計画が閣議決定され、昭和28(1953)年を初年度とした10カ年計画(鹿児島県関係分総事業費154億円)がスタートした。
 肝属地区の主な事業は、肝属川改修をはじめ、砂防、治山、造林、道路改良、港湾、漁港などの整備、生産面ではかんがい排水、開墾、農地保全、林道建設、その他都市計画、上水道事業であった。
 特に本計画の根幹となる事業として、笠野原畑地かんがい事業、隼人大泊間鉄道建設、肝属畜産農業協同組合連合会の設立、国道の改良格上げが揚げられた。

icon 3.過去の主な農業農村整備事業



1.戦前の代表的な整備事業
 肝属南部地区でわりに早くひらけたところは川からも海からも便利であった雄川と神川の両流域であったと言い伝えられている。
 水田の開発は沼等の利用による小規模な稲作から始まって、水利の便が容易なところから順次広がって行ったものと思われる。小規模の開発から組織的な事業へと展開したのは、沿革史等によると寛文元(1661)年頃からである。
 当時、藩財政の最大の基礎は、農地からの貢祖であり幕府、諸藩とも新田開発を奨励した。もちろん薩摩藩でも新田開発は盛んに行われ、特に国分、串良、大根占、高山などでは大規模な開発が行われた。

2.戦後の土地改良
 戦後の農地改革や緊急開拓事業の実施を経て、昭和24(1949)年に土地改良法が制定され、数次にわたる食糧増産計画に沿って事業が進められた。本地域でも戦後先ず、耕地面積拡大のための代行開墾や開拓道路などの農用地開発事業が実施されている。
 その後昭和30年代に入ると水田用水確保のためかんがい排水事業が拡大し、本地域の代表的な事業である両根占地区の県営かんがい排水事業が実施されている。
 昭和40年代は、各種事業の創設、充実に伴い地域の特徴からか農道、農地防災、農地保全の各事業が多くなり、本地区唯一の県営ほ場整備両根占地区が実施されている。
 昭和50年代は、本地域の基幹事業である肝属地区広域農道に着工、各種の農道、農地保全等の事業が引き続き実施される。
 昭和60年から平成にかけては農道、農地防災、農地保全のほか、畑地帯総合整備、農村総合整備等の総合整備事業が展開された。
 なお、農用地整備(緑資源)公団営の畜産基地建設事業、肝属第一、肝属第二の両区域が昭和56年度から昭和63年度の8ヵ年にわたり南大隅2町を主に(一部垂水市を含む)実施されている。

3.主なかんがい事業
 (1)横別府前田用水路(南大隅町根占)(明治33~34年)
  横別府前田用水路について根占郷土史には次の記載がある。

 横別府用水路建設に力を入れた滝崎助右衛門は篤農家で、水利事業、開田事業には特に熱心だった。助右衛門は川南水路の総見守時代から、横別府台地(約百ヘクタール)に大竹野川(上流は佐多分水嶺をなす)から水を引いて、開田することが念願であった。ある日、自ら工夫してこしらえた一種独特な測量器を携行して、大久保、栗野脇、小中原から大中原の、そのずっと上手まで丘を越え、谷を渡り測量した。農民の中には助右衛門の日々の行動について、嘲り笑う者もいたが、それを少しも意にしなかった。農民は、「助右衛門のオヂは気がちがわせんどかい、妙な諸道具を持って、この辺をのんぼったり、下んだったいしやいが」と笑ったらしい。
 しかし、それが間もなく次のようなことが実現した。開田事業を起こすには独力ではとてもやれない、誰かにやらせねばならないと考えた。そこでかねてから親子の契りを結んでいた、村内でも識見の高い池端清聡氏に相談した。池端氏は関係部落民の賛成を得た結果、藩主島津氏に頼んでみたらということで、島津家から家扶の川原次右衛という人がきて、駄馬に乗って横別府一帯を実地踏査した。そこで、白羽の矢がたったのが前田正名翁であった。
 前田正名翁は鹿児島市小川町出身でフランスに留学し、農商務事官をつとめた。明治17年鹿児島、宮崎、大分、福島の四県下にわたり、その所有地を合わせて一歩園と称し、本部を神戸におき、支部を六ヵ所、横別府にも一歩園支部をおいて、開田疎水事業を始めた。
 工事は山の岩を砕き、延々12キロに及ぶ難工事で、工費も水路に当時の1円札を並べるほどの高額になったといわれる。なお今でも恩恵を受けている栗之脇部落では、毎年正月水利組合を開いて先輩諸氏、前田翁の遺徳をしのんでいる。…

005
前田用水路
006
竣工記念碑

(2)笹原水田用水(錦江町大根占)(明治40~昭和9年)
 笹原水田の用水開発について、大根占町史には次の記載がある。

 笹原集落は大根占町役場より約10km離れた山村畑作地帯であった。
 明治40 年(1907 年)当時、米は経済の基礎であり、全ての物価のバロメーターの役目で、物納の場合も米価で換算されていた。畑作のみで米のない笹原部落の人々には黄金の如く貴重品であった。又一定面積の収穫高も、田高は常に畑高をはるかに凌駕し、自然災害に対しても畑作物に比べて、安定作であった。そのころの笹原は戸数21戸で、地勢は割に平坦で、どの畑も大きなはぜの樹に取り囲まれた畑作農家で、はぜの実がささやかな換金で、自給自足の貧しい弧村であった。
 この台地を東から西に、谷に沿って流れる神之川上流の豊富な水を上流の半下石集落から引いてこの台地を水田にしたら、夢に描く米がとれて現在の畑作の数倍の価値を発揮して豊かな恵みがどんなにもたらされるだろうかと集落民の一致した心の願いであった。
 それには半下石川に堰を築き、山の北側に沿って水路を1里25町(6.5キロ)つくることになるが、この間にはトンネルを幾つか掘削しなければならない。また、畑地を水田化するには、等高線に従い水をたたえるようにし、農道などの整備が必要で、そのためには莫大な資金が必要である。しかし部落民の出資ではやれない。そこで部落民は小作人になってもよいから資本家にやってもらおうということになり、出資者を鹿児島市の染川治太郎氏に依頼することになった。染川氏に対する条件は部落民有地の47%を工事費として渡すこととし開田面積45町8反、水路1,540メートルを含む工事契約が成立した。いよいよ工事着工に当たり当面した問題はトンネルを必要とする箇所が多く、また他の箇所も山の中腹であるため、雨のたびに土砂崩壊が重なりして、最初の予算を膨大に突破したが、工費7,200円でようやく完通した。
 しかし、水路が粗雑な土水路で毎年、天気の時でもなお雨の多い梅雨期は水田作付後十数回も崩壊し、集落民は無償でその復旧に当たり、冬期に入ると水路や隧道修理に出て、水のかからない秋の稲田は雑草が稲より繁茂し、カゴをさげて稲の穂をすごくなど、ごくわずかな収穫を得ていた。そんなことで生活が苦しくなり、鹿児島農工銀行から生活資金を借入しなければならなかった。ところが償還できず、担保物件の田畑、山林、原野を次々に手放す人もあり、まったく苦しい生活が続いた。
 …(中略)
 昭和4年、笹原耕地整理組合が設立した。苦難の末せっかく獲得した自分たちの土地をより立派にすることは、用水路の完備と田畑を整理し、豊富な水を引き、増収作への活用とともに、更に開田拡張に立ち上がることに集落民の考えは一致した。…… 

(3)川北・川南用水路(1661~1676年)
 川北・川南用水路の建設にについて、根占郷土史には次の記載がある。

 藩は寛文年間(1661年)より、藩の経済興隆を目的に、県下各地で新田の開発事業をすすめることとなり、雄川という豊富な水量を有する根占も新田開発候補地の一つに選ばれた。そのころから農民-井手-水神との関係が始まったと推察される。
 そこで、寛文年間より始まった用水路工事は、隣町大根占城元に至る延長約8キロにわたる川北用水路工と同じく雄川から根占町山本新町尻に至る川南用水路の二本の幹線水路開発であった。
 …(中略)
 この水路の難工事は一時中止され、後伊東祐良、古後秋安に命じて続行され、延宝4年(1676年)に至ってはじめて完工したものである。工事は約8キロの道程に隧道を掘り通したり、堤防を築いたりの難工事で、前後8年を費やした。これによって開田したもの数百ヘクタール。両根占の農民は長くその恩恵に浴しているものである。測量技術の進んでいない当時、夜間提灯をとぼし水路の高低を測るため、遠く海上よりこれを望見して測量したなどと、今でも当時の苦労が語り伝えられている。これだけの大工事を成功させた功績は、近代の学者たちを驚嘆させるものがある。
 特に、鬼丸神社の東脇之田付近は、当時沼地でここに土手を築き、水路を通すのに大変苦労したらしく、粘土をしき杭を打ち、ついに人柱までもたてたと伝えられている。そこで、浦や川原のこの付近の人々は、鬼丸神社に祈願をこめ、工事の完成を祈った。そこで、土手の完成を見たとき、神社に田を寄進し、その後この神社を井手神として尊敬したと伝えられる。…(中略)
 トンネル工事は最大の難工事で、その犠牲者の墓が樋之口トンネルの入口に3基、坂口トンネルの所に7基ある。長年月の単調な難工事に、奉行も人夫も完成を待ちわびていたと見えて、大根占では当初、塩屋の上を経て城ヶ崎に通ずる計画であったらしいが、だんだん工事を進めていくうち、今の菅原神社の下二百数十メートルばかりの所で大石を掘り当てた。これを見た奉行は拍手して喜び、予定の工事を変更し、下流は水流のため崩壊するにまかせ、開口を塩屋に設けたと云われている。…                               

 川北用水路と同じく雄川から根占山本新町尻に至る川南用水路も同様に難工事であったことが記念碑でうかがえる。
 延宝4年(1676年)に完成した川北・川南の両用水施設は、当時300年を経過して老朽化が進み、災害に伴う施設の復旧もその都度行われ、また、一部改良も加えられてきた。しかし、部分的な補修改良では用水の確保が困難となり、また、施設の維持管理に多大の労力と費用を要することもあって、抜本的な改良事業の機運が高まり、受益面積411haの両根占地区県営かんがい排水事業(S31~S41)として、昭和31年度に着手された。
 雄川の左右岸にそれぞれ取水していた川北堰(上流)川南堰(下流)を統合し、頭首工を新設して右岸取水に一本化した。取水後は川南堰付近において両岸の幹線水路に分水、川南水路へは、雄川を水路橋によって越えて導水、併せて両幹線水路の全面改修を行ったものである。
 工事の主なものは、用水路のライニング8,537m(うちトンネル1,683m)頭首工1カ所(H=3.05m L=44.5m)、水路橋(157m)放水路などである。事業は、11年を要し、総事業費約2億円で昭和41年度に完成した。

010
両根占頭首工
011
田の神様

(4)馬込開田(代行開墾建設工事ほか 昭和21~33年)
 昭和の初め、南大隅町佐多馬籠に地元の先覚者野尻金兵衛氏が開田の構想を立案したが、当時の状況からその機熟せず、戦後の食糧増産の必要性から代行開墾事業等として実施された。 大川上流の別府に頭首工を築造して取水し、約5.5kmの導水路(開水路、トンネル)で馬籠地区の開田46.7ha をかんがいするものであり、併せて開畑1.0ha の開墾と道路約5.9km、防風林等を約2千万円の工事費で完成している。
(5)大中尾開田(代行開墾建設工事ほか 昭和26~38年)
 開田計画は、昭和25年菖栄開拓の入植計画当時から要望されていたが、水源の確保が困難で一旦中止された。
 しかしその後も開田に対する熱望が強く、再調査を行ったところ、可能性があり、水利権の調整もできたので、昭和38年度に県の代行事業で幹線水路922mが実施された。
 開田は、昭和41年度県単農業構造改善事業で4.6haが実施され併せて農道402mも整備して待望の水田が取得でき、地域経済に寄与するところが大きかった。

icon 4.肝属南部総合農地開発事業



1.事業導入の背景
 本地域は、鹿児島県大隅半島の南部に位置する2町からなる畑作が主力の地帯である。
 地域の営農は、野菜を主体に畜産、たばこ、いも類等を組み合わせた複合経営が営まれているが、経営面積の狭小及び基盤整備の遅れ等により農業所得が低く、経営の近代化と生産性の向上が阻害されていた。
 さらに農業状勢等の変化により農外所得を求めるため、農業就業人口も年々減少の傾向にあった。農家の一戸当たりの平均経営耕地面積は県平均0.9haに比べ0.7haと小さく、ほ場も一筆が狭小で傾斜が急など、機械化の対応も厳しい条件といえる。
 気候は、温暖多雨であるが、地形が半島であるため、河川の発達が乏しく、降雨も梅雨期と台風期に集中して干ばつの被害を受けやすい現状にある。
 以上のような条件から基盤整備の必要性はあったが、地形や団地のまとまりが悪いことから、大隅地域で耕地がまとまっている笠野原等の開発に先行され遅れをとった感があった。
 広域農道肝属地区や農用地整備(緑資源)公団事業肝属地域の着工により、農産物の流通の改善や畜産の基盤整備も図られることになり、開発が遅れた農地の開発整備が一段と望まれ、国営事業着工の一因ともなった。
 このような状況を改善するため、地域の山林原野等の開発整備を積極的に推進し、優良農地を確保すべく大規模な農地開発の気運が高まり、昭和54年3月に「国営農地開発基本計画」の樹立申請が提出され、同年4月に基本計画樹立地域として決定された。その後、地区調査、全体実施設計を経て昭和61年度に国営総合農地開発事業肝属南部地区として着手した。
 この計画は、地域に賦存する未墾地の農地造成593ha(受益面積)と併せてこれに隣接錯綜する既耕地の区画整理357ha並びに畑地かんがい1,045haを一体的に実施し、農家の経営規模を拡大し、農業生産性の向上と経営の安定化を図るものであった。

2.事業概要
 本事業では、山林等の未墾地401haの農地造成、隣接する既耕地143haの区画整理を一体的に施行し、併せて造成地及び既耕地の農業用用排水施設の整備(畑地かんがい事業)を行うことによって、経営規模を拡大し、農業生産性の向上と経営の安定化を図るものである。

(1)当該事業
① 地区名: 肝属南部(国営総合農地開発事業)
② 関係町:
  錦江町(旧大根占町、旧田代町)、
  南大隅町(旧根占町、旧佐多町)
③ 事業費: 377億円
④ 工事期間: 昭和61年度~平成14年度
⑤ 受益面積: 648ha
⑥ 受益者数: 1,393戸
⑦ 主要工事:
農地造成401ha、区画整理143ha、
頭首工2箇所、揚水機場1箇所、加圧機場2箇所、幹支線水路106.8km、
調整池10箇所、水管理施設一式、畑地かんがい施設471ha、
道路工45.4km、防災施設一式、排水路16.1km
(2)関連事業
県営中山間地域総合整備事業 576ha
3.畑地かんがい事業
(1)かんがい用水計画
肝属南部地区のかんがい用水計画は、水源の頭首工(2ヶ所)で取水された用水を、大半の受益地が自然流下により、幹線用水路から10基の調整池に送水し、調整池に貯留した後、支線用水路により各団地に配水するもので、主要造成施設は以下のとおりである。
・半ヶ石頭首工
 フロ-ティングタイプ固定堰、
 L=10.0m、H=1.40m
 取水量 Q=0.195m3/s、
洪水量 Q=80.0m3/s
・別府頭首工
 フロ-ティングタイプ固定堰、
 L=14.0m、H=1.90m
 取水量 Q=0.127m3/s、
 洪水量 Q=107.0m3/s
・調整池 10ヶ所
 (V=4,000m3~55,700m3)
・幹線用水路 46.4km
 (φ500㎜~φ100㎜)
・支線用水路 60.4km
 (φ700㎜~φ100㎜)
・水管理施設 中央管理所
 1棟、水管理制御施設 1式(親局1局、子局14局)
・畑かん施設 471ha
・揚水機場
 揚水1ヶ所、 加圧2ヶ所

012

(2)畑地かんがい水利システムの概要
 地区全体の水利システムは半ヶ石頭首工掛りと、別府頭首工掛りからなる。この両掛りとも、頭首工で河川を堰き上げて取水して、これより幹線用水路により一旦調整池へ送水し、この調整池から支線用水路により各団地へ、そして団地内の末端用水路により各ほ場へ水を配水するシステムになっている。送配水は、9割の畑地へ自然圧を利用し、残り1割の畑地へはポンプにより行う。
 調整池10基のうち、7基が円形PCタンク構造、3基がRC擁壁構造で、貯水容量は、4,000m3~55,700m3となっている。調整池の容量は、水収支計算から求められた基準年の総必要貯水量を各調整池で抱える受益面積に比例配分して決定している。
(3)主要施設の機能
 各施設の機能を施設別に整理すると以下の通りとなる。

 ①半ヶ石頭首工
013
 河川からの取水は最初、川底に設置したバースクリーンから取り入れる(渓流取水方式)。この直下に取水ピットがあり、ここで維持放流用の放流口から責任放流水を出す。この後、沈砂池で土砂を沈砂させ、うわ水を調整水槽へ流入させる。この調整水槽は合計して12,000m3の容量を持っている。

 ②調整池
 調整池は半ヶ石水系に8個所設置している。この水槽の役目はダムの機能と、末端畑地かんがい用のファームポンドとしての機能を持つ。また、茶園の防霜時に必要なファームポンド容量も兼ねている。ダム機能は、渇水期等に安定した河川からの取水が出来ないために、取水できる時期にストックをするためのダムの役割である。

014
鳥浜城元調整池
015
門木調整池

icon 5.事業効果の発現状況



1.農業の担い手の確立
(1)認定農業者
 事業によって農業生産基盤が整備され規模拡大が進んだことや効率的な営農が可能となったことにより、事業実施地区内の認定農業者は、平成12年以降、138人から180人と30%増加しており、地域19%の増加率より高い。
 なお、地域における本地区の認定農業者の占める割合は、52%から58%に増加しており、農業を職業として選択し意欲と能力のある農家の育成・確保が進んでいる。

016

(2)農業生産法人
 事業によって農業生産基盤が整備され規模拡大が進んだことや効率的な営農が可能となったことにより、平成19年度時点で地域内には合わせて36農業法人が設立されており、事業実施地区内に関係する法人は18と5割を占めている。関係法人の経営品目を見ると、茶や果樹といった永年作物が6割を占めており、長期的に農地を活用する経営が展開されている。また、法人数は増加傾向にあり、高齢化が進むこの地域において新たな担い手として期待されている。

017


2.新たに生まれた農地を活用した農業経営の改善
 農地造成により、農道・農業用用排水施設が完備され、区画形状が整った約400haにも及ぶ広大な農地が創出されたことから、多くの農家が造成農地を利用して経営規模の拡大を図っている。

3.区画整理による作業効率の向上
(1)労働時間の節減
 水田や既畑の一部で行われた区画整理により、ほ場区画が事業実施前より大区画に整形(10a未満→30a)され、各ほ場に通じる耕作道も完備されたことにより、大型機械の搬入、使用が容易になったことから、大型機械を利用した効率的な農作業が展開されている。

(2)農地の利用集積の進展
 区画整理に併せて実施された換地により、従来は分散していた耕作地の集積・連担化が図られ、耕作地間の移動時間の節減が図られている。また、区画整理により、用排水路、農道が完備され、区画形状の整った作業効率の良いほ場に生まれ変わったことにより、借地を希望する農家も多く、農地の貸し借りや農作業の受委託を進めていく上でも役に立っている。

4.農業用用排水施設の整備による効果
(1)農業用水の安定供給
 農業用用排水施設の整備により、新たに畑地での作物栽培に必要な農業用水が確保され、干ばつ時においても安定した用水供給が可能となり、計画的な営農の展開が可能となっているとともに、水手当てが欠かせないマンゴーやピーマン等の施設作物をはじめとして様々な農作物の栽培が容易になることから農家の作物の選択肢も拡大している。

(2)労働時間の節減
 農業用用排水施設が整備され、各ほ場まで農業用水が供給されるようになったことで、かんがい用水や防除用水をほ場への運搬に係る労働時間や経費が節減されている。また、スプリンクラー等の散水施設を利用してかん水が行われるようになったことから、かん水に係る労働時間も大幅に軽減されている。

(3)単収・品質の向上
 畑に農業用用排水施設が整備されたことに伴い、計画的な播種、定植が可能となり、作物の生育ステージに応じた適期のかん水が可能となったことにより、栽培作物の収量、品質の向上が図られている。

5.産地形成の促進
 事業によって農地の集積による団地化が進んだことや、農業用用排水施設の整備によって水の安定供給が可能になったこと等から、良品質の農作物をまとまった量で供給できるようになり、作物の産地形成が図られた。   

【引用・参考文献】
・肝属南部開拓事業誌 (九州農政局肝属土地改良建設事業所 平成15年3月)
・国営総合農地開発事業「肝属南部地区」評価書基礎資料 (九州農政局 平成21年8月)
・大根占町史   (大根占町役場,1971.11)
・根占郷土史   (根占町役場,1960.11)

018