水土の礎 キッズページ サイトマップ ご意見・お問い合せ
水土の歴史年表 地域の礎 水土の成り立ち 大地への刻印 国土を創造した人々 礎の歴史的展開 近代日本の礎 水土の巧
地域の礎
カテゴリトップへ
壮大な穀倉地帯が意味するもの -耳納山麓農業水利事業-
九州エリア
戦後の国営事業







奇想天外なアイデア



 話し合いの中で出た案とは、村より10kmほど筑後川をさかのぼった大石(浮羽町)から水を引いてくるというものでした。しかし、直接水路で引いてくることが不可能なことは誰にも分かっています。
 彼らは、当時としては奇想天外なアイデアを考え付きました。
大石地点で筑後川に堰を作り水門を設け る(大石堰)
大石堰より隈上川まで水路を掘る(大石
水道)
隈上川下流に堰を造り、筑後川からの水
を溜める(長野堰)
長野堰から村へ水路を掘る(長野水道)
 つまり、筑後川の水をいったん隅上川に流して溜め、隅上川から取水するという計画です。同じ流域、同じ水系の川ですから、下流に対しての影響も少ない。現在の水利事業でも充分に通用する秀逸なプランです。
 寛文3年(1663)、大旱魃が村を襲い、農作物が大打撃を受けます。「もう我慢ならない。」庄屋達の気持ちが限界に達したとき、有馬藩郡奉行高村権内が村を見回りにきました。彼らはこのときとばかりに、郡奉行高村に農民の現状と、話し合ってきた計画案を伝えます。
 必死の訴えを聞いた郡奉行高村は「藩の収入も豊かになるし、素晴らしいことだ。大変なことではあるが、綿密調査による設計書と見積りをつくって藩に願い出るように」と庄屋達を励ましましたといいます。
 高村の励ましを受け、庄屋達は「命をかけてでも、この事業を成功させよう」と血判でその決心の強さを示し、意気込み新たに調査を開始します。
 机上の論議だけでは、計画が実行可能か分かりません。庄屋達は高村の言うとおり、慎重に調査を重ね計画書を作っていきます。実際に10kmの道なき道を夜も徹して何度何度も往復したことが記されています。
 理論上では可能なことが分かりました。しかし、大型機械や計測器などない時代ですから、実際の工事がどれほど困難であるかは誰にも分かりません。
 計画書の中には、次の内容を意味する一文が添えられていました。「これらの工事にかかる費用は、すべて、私ども5人の庄屋が受け持ち、決してお上(有馬藩)には迷惑をかけません」。
 この熱い想いが、近隣にも伝わったのか、次々と別の村の庄屋達も名乗りをあげます。結局、13村、庄屋総勢11人でこの事業を行うこととし、藩へ請願書を送りました。


福岡県 ―耳納山麓農業水利事業