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九州一のカルデラ湖「池田湖」を調整池にするという壮大な計画が南薩地方を不毛の台地を、緑なす肥沃な畑作大地へと変貌をさせました。 鹿児島県 -南薩農業水利事業-
九州エリア
戦後の国営事業







明治時代の池田湖疏水事業



池田湖南岸の掘り割り
池田湖南岸の掘り割り
 薩摩藩は77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ大きな藩でしたが、籾高ではなく米高に直すと37万石程度であったといわれています。また、4人に1人は士族で、藩の経営は当然苦しいものでした。藩士の多くは、農業に携わりながら定期的に軍事訓練を行い、争いが起きればそのまま武士となって戦う集団となる、いわば兼業農家であり、屯田兵の役割もしていたことになります。武士集落を構成して地域の行政を執り行なった外城制度の名残である「外城」「麓」などと呼ばれる武家屋敷が、今も薩摩地方に数多く残っているのはこのためです。
 この南薩の台地は、広大な農業用地がありながらも、この地域を形成している火山岩類による劣悪な土壌条件により、幾度となる干害に悩まされていました。渇水時の水汲みに、往復7Kmもかかった集落もあったことが文献にも記されています。
 池田湖の水を農業に利用する計画が具体的に動き出したのは、安政4年(1852年)薩摩藩主、島津斉彬の時でした。米の増産を目的に工事が始まり、途中、明治維新により中断しますが、時の県令大山綱良が引き継ぎ、士族救済の事業として明治5年(1872年)から5年の歳月をかけ、池田湖の疏水工事を行い、干地として37,9haの開拓地が完成しています。その時の池田湖の水位は、海抜70mといわれ、水門の掘削により約3m低下し66〜67mの水位となりました。この低下した水位のため、後に上述した三河川の余剰水導水による調整池利用という発想が生まれることになります。


鹿児島県 ―南薩農業水利事業