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難治の国、八代平野を穀倉地帯に 熊本県 -八代平野農業水利事業-
九州エリア
戦後の国営事業







難治、肥後



 干潟は上流から運ばれた肥沃な土砂が積もったものであり、干拓した土地は農業に最適な土壌となります。しかし、反面、干拓で出来た平坦な土地は、洪水という、農家にとっては死活問題ともいえる問題をあわせ持つことになります。
 断層までの急流は、極端にこう配がなくなる平野部に出たところで、行き場を失い、濁流となって度々水田や民家を襲いました。洪水常襲地帯となった八代地域は、“難治の国”と言われ、この地域を治めるためには、治水が絶対条件となったのです。
 そしてもうひとつ、この地域を難治と言わしめることがらがあります。熊本県の気質は「肥後モッコス」と表されます。モッコスとは、頑固者、強情、偏屈などという気質をあらわした熊本弁です。熊本の数少ない平野部は山で分断され、他との交流が少なかったことが、独特な気風を生み出したのでしょう。
 洪水と肥後モッコスという特殊な風土。歴史を見てみると、このように難治と呼ばれた肥後の地を任されたのは、実力のある武将達でした。
  1500年、豊臣秀吉が九州征伐を終え、肥後の地は佐々成政が任されます。しかし、土着の豪族、菊地一族との激しい争いや、まもなく起こった土豪による国人一揆により、責任をとって改易されます。成政は、織田信長の家臣のころから猛将で切れ者と、高く評価された武将でしたが、この地の風土を治めることは出来ませんでした。
 次に肥後の地を任されたのが、秀吉の家臣、加藤清正と小西行長でした。清正は肥後国の北、行長は南を任されましたが、関ヶ原の合戦による行長の失墜で、全て清正領となります。秀吉の右腕であり、猛将で知られる清正でしたが、彼は力をもってこの地を治めようとはしませんでした。清正は、この地の最大の課題であった、治水、干拓、水利事業を行いました。つまり、農政によってこの地を治め、農民の信頼を勝ち得るため、肥後モッコスという特殊な風土と、洪水という大問題に立ち向かったのです。



熊本県 ―八代平野農業水利事業