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川南原開拓のあゆみ 〜「川南合衆国」と呼ばれ、日本三大開拓地のひとつに〜 -尾鈴農業水利事業-
尾鈴農業水利事業
九州エリア
戦後の国営事業






川南の陸軍空挺落下傘部隊

敗戦後、兵員や残留者の多くが開拓者としての道を選んだ

 明治・大正・昭和という時代の変遷に伴って戦争の方法も変化した。最初は、馬に乗って早く移動できる騎兵隊が主力で、その馬の飼育・訓練のため川南の中心部の大半を国が軍用地として買い上げた。その管理の本部が置かれた場所が現在の県立農業大学校の敷地で、馬の管理・乗馬訓練のための兵隊が騎兵隊と呼ばれ、国光原中学校の当初の建物が騎兵隊の兵舎であった。

 その後、戦争の方法は騎兵から戦車に変わり、遠方の基地から不意に敵軍近くに飛行機から飛び降り攻撃する落下傘部隊が編成された。落下傘部隊は戦死確率が高い決死部隊であり、当時の兵隊の中でも若く、敏捷で、最も勇敢な者が選抜して集められ、「空の神兵」と呼ばれた。

 日本陸軍が本格的に陸軍挺身落下傘部隊の養成を始めたのは1940年で練習部は浜松飛行学校に設けられたが、1941年5月に満州の白城子に移された。訓練環境としては恵まれてはいたが、創設後間もなく、しかも全く前例のない部隊が中央から遠く離れていることは何と言っても不便であった。

 日本を巡る国際情勢は、7月の南部仏印進駐を契機としてますます険悪となり、8月に入ると米国が対日石油禁輸を断行した。日本は南進して蘭印の石油資源を獲らなければジリ貧に陥る切迫した情勢となった。

 戦争に使わないつもりなら満州に放り出しておいてもよいが、使うなら一刻も早く内地に帰せということになり、部隊の帰還先として那須や川南の名前が挙げられた。川南の唐瀬原は近くに新田原飛行場があり降下場として最適であるとの判断が下され、高鍋軍馬補給部川南分厩が廃止され陸軍挺身練習場として独立し、以後終戦まで新田原と唐瀬原が陸軍空挺部隊の根拠地になった。

 落下傘部隊が川南に駐屯したのは1941年9月初めで、当初は隊員は新田原飛行場内で起居して、飛行機から飛び降り訓練をした場所が川南の開拓地であった。その後、多くの隊員は川南の兵舎に移動して居住し、幹部将校の多くは川南の民家で下宿生活をした。輸送機が新田原を離陸し唐瀬原上空には十数分で到着するが、降下者をトラックで唐瀬原から新田原に輸送するには2時間もかかる。この点では白城子より不便であったので、ときには飛行場の一隅に降下させることもあった。

 東條英機陸相は白城子に固執したが、それは防諜上の理由であり、南方作戦を準備するにあたり、部隊を満州の片隅に置いておけば米英の眼をそらせると考えた。川南に移ってからは、日豊線の窓にシャッターを下ろさせるとか、憲兵隊を強化して風評を探るとかの防諜施策が行われた。


“空の神兵”と呼ばれた川南落下傘部隊
 しかし、純朴にして大らかな日向の人々は、天孫降臨のこの国に素晴らしい軍隊が来てくれたと近隣の町村こぞって大歓迎し、特に若い娘は英気はつらつたる将兵に熱い眼差しを送り、防諜施策にいかほどの効果があったかはわからない。

 当時は小銃を持って降下するところまで降下技術は進んでいなかった。装備された“一式落下傘”は背負い式の自動開傘の主傘と胸掛け式の手動の予備傘からなる安全性の高い落下傘ではあったが、主傘が完全に開くまでに体のどこかに絡みつき、予備傘で命拾いすることも稀ではなく、小銃を体に装着しての降下は危険であった。また、拳銃以外の兵器は全て物量箱に入れて投下することになるが、物量箱には小銃分隊用、機関銃分隊用、通信機用、補給品用など各種寸法のものがあり、何をどのように梱包すればよいか効率的な組み合わせも研究しつつ訓練しなければならなかった。このようなことで、降下訓練はできてもそれに続く地上戦闘訓練にはなかなか入れなかった。

 当時飛行機を持つ国々は一生懸命落下傘部隊を研究した。しかし、風まかせにゆっくり落下する落下傘の宿命にたたられて、最初に実戦投入したドイツを始め、ソ連、米国と兵員の5割近い損耗が明らかとなるにつれ、ヘリコプターが登場するや、落下傘による兵員展開という発想はあっという間に消え去った。ただし、各国と同じく日本でも落下傘部隊の歴史は短いが、見事な成功もあった。

 1941年11月26日のハルノートによって対米交渉は潰え、12月1日の御前会議で12月8日対米開戦の聖断が下された。国内の石油不足を補う目的で蘭領東インドのスマトラ島パレンバンの石油基地を確保する作戦は1942年2月14日に決行された。守る英蘭軍千人に対して、降下部隊は約300人。戦死者38名という低い損耗率で敵を制圧し作戦は成功した。しかし、精製油はパラオに運ばれ連合艦隊の燃料として使われたものの、南シナ海に遊弋する米潜水艦からタンカーを守りきれず、国内への石油供給基地とする構想は潰えた。

 日本の輸送飛行部隊は陸海軍ともに極めて弱体だったため、空挺部隊の飛行戦隊は戦域内の一般の空輸に間断なく使われ、時には内地との緊急輸送にも任じるとともに、重爆機による哨戒任務にも従事した。1942年8月頃には、降投下技術も進歩し、小銃や軽機を携行して降下できるようになり、投下用小型重機も試作された。速射砲も車輪を小型化して投下可能となり、夜間投下訓練も行われるようになった。

 米軍は1944年7月にはサイパンを陥落させ、9月には絶対国防圏の要ペリリュー島(パラオ)、10月にはフィリピンのレイテに進軍した。レイテ空挺作戦は12月6日に決行され、一時的に飛行場を制圧することがあっても米軍の圧倒的な物量の前に、大半の輸送機を失い、兵員もいきなり地上部隊の戦闘の渦中に投げ込まれ悲惨な結末となった。川南で落下傘訓練した12,000人のうち飛び立っての戦死者は約1万人にのぼった。

 当時の法律では、健康な成人男子は約2年間兵役の義務を負い、僅かの煙草・菓子を買う程度の給与で無条件で招集された。任期が済んでも戦争になれば、いつでも必要に応じて再招集される仕組みであった。しかし、職業としての軍人の道を選択する一部の人々には階級に応じた給与が国から支給され、軍隊の一番階級が上の「大将・元帥」になることが当時の若者の憧れの人生目標の一つであった。生命を犠牲にする立場・職業であることから、戦死した場合には当然自分の墓にも入るが、国と町によって町の「護国神社」にも祀られることとなっていた。日本中の軍人の戦死者を総括して祀る所が東京の靖国神社であり、当時の若者軍人はここに祀られることが国民としての最高の栄誉と理解していた。

 1945年3月米軍は沖縄攻撃を開始した。沖縄が陥落した場合、宮崎平野は飛行場の適地が多く、首都攻撃の前進基地として米軍上陸が予想されたことから、4月に久留米出身者を中心に編制された自活決死の菊池部隊2万人が都農町と川南村に配置されたが、広島・長崎への原爆投下とソ連参戦で日本は無条件降伏し、本土決戦を待たずに終戦を迎えることとなった。

 当時の様子については、川南町史に「昭和20年8月15日の玉音放送は電波の乱れで判然としないものであったが、戦争終結のことは察知された。幾多のデマが飛び交う混乱の中で、戦争終結の詔勅が下され、敗戦と同時に軍は解体され、落下傘部隊その他からの膨大な軍需物資の放出が行われて、農協広場には衣料品・食料・事務用品などが山のように集積された。役場当局でその全ての配給計画を立てたが、混乱の極みに達し、自暴自棄の村民の前に秩序立った配給の適正も望めなかった。」とある。

 いつでも死ぬ覚悟を持ちつつ終戦まで生き戦った兵員の多くが、目的を失い開拓者としての道を選んだのも当然の選択であった。彼らには軍用地は自分たち軍の物との錯覚もあり、落下傘部隊等の残留者200余人、菊池部隊の残留者150余人が帰農入植者として優先入植することとなった。

 〜手記『高千穂降下部隊と女学生たち』 延岡市在住 藤原美々子氏記〜


 真向かいの城山に木々の若葉が一斉に萌えたち始めた昭和19年5月はじめの土曜日放課後のことである。宮崎県延岡高等女学校(現:岡富中学校)の校門脇、長いレンガ塀に沿って1台の小型軍用トラックが停まり、榊原中尉(当時)と7、8名の将兵が軽い足取りで降りてきた。いずれも20〜22、23才、背が高く、陽に焼けて、きりっと引き締まった顔に陸軍の軍服がよく似合う彼らは、川南・唐瀬原の落下傘部隊将兵で、休暇を利用して延岡にやって来たとのことであった。「遠い所をようこそいらっしゃいました、さあどうぞ。」丸ぶち眼鏡の奥の瞳が人なつっこい温顔の綾哲一校長(故人)は、若い彼らをにこやかに校長室に迎えると、音楽担当の池田玉先生を呼んで彼らを紹介された。
 実は、彼らの学校訪問については、友人である林医院の院長から前もって電話で相談を受けていたことであった。死地に赴く部下達に何か思い出を作ってやりたいという榊原中尉の意向を汲んで、「女学生の清らかな歌声を聞かせてあげてはいただけないか」という林院長の計らいに応えた綾校長の温情と勇気ある決断だったのである。相談を受けた綾校長はたいそう悩まれたが、戦地に赴き生還できないかもしれないこの若者達のことを思うと、その筋からの処罰覚悟で快く彼らを迎え入れてあげたのだった。「池田先生、至急生徒を集めて、皆さんに歌を聴かせてあげてください。」、「そうですね、皆で合唱をしましょう。」池田先生はしばらく考えてからそう答えたものの、既に放課後のことであり、果たしてどのくらいの生徒が集まるか心配だった。その上、日本軍人とはいえ若い男達が遊びにやって来たことは、禁男の女学校にとっては未だかつてない出来事であり、その対応に先生は戸惑われた。また、歌っている間に警報が出たら、生徒をどうやって避難させようかと、池田先生にはそれが何よりも気がかりであった。
 ほとんどの生徒は帰ってしまってガランとした放課後、どんな用事で残っていたのか覚えていないのだが、教室で帰り支度をしていると、「校内にいる生徒はすぐ講堂に集まってください。」と池田先生の声で校内放送が流れた。「放課後なのに何かしら。」といぶかりながら、私は小走りで講堂へ急いだ。こうして、学年・級を問わず、十人余りの居残り生徒が、急遽講堂に集められたのである。

              〜(中略)〜

 何事かわからないまま、校内放送によって急遽集められた1年生から4年生までばらばらの私たち十余名は、講堂の入口まで来てびっくりしてしまった。何とそこには、若くて雄々しい落下傘部隊の軍人さん達が、グランドピアノを囲んでにこにこしながらこちらを見ていたからである。「こんにちは。」、「こんにちは。」恥ずかしさでもじもじしながら私たちもピアノの傍らに近づいたが、彼らも何だか恥ずかしそうでお互いにぎこちない挨拶を交わしていた。「君、何年生?」、「はい、4年生です。」ひときわ明るい榊原中尉の問いかけに、小さな声で私はやっと答えたものだ。しかし、だんだんうち解けてくると、何だか無性に嬉しくなって、皆にこにこと振る舞っていた。
 何しろ、女学生ばかりの学校に、金筋に星一つや二つの肩章も凛々しい憧れの若い将校さん達が、大勢遊びに来てくれたのである。その上、肩を並べて、今から一緒に歌おうというのである。校則が厳しく、男女交際が特にやかましかった女学校で、これはとても信じられない出来事であった。「勇ましい歌が良いですか?」と池田先生が尋ねられた。「いいえ、女学生の歌う歌がいいです。」端正な顔立ちの榊原中尉が、ためらわずにはっきりと答えられた。先生はしばらく考えておられたが、ゆっくりとピアノを弾き始め、彼らと私達は静かに歌い始めた。

“眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 心よき歌声に 結ばずや楽し夢”皆で歌うシューベルトの子守歌は、美しいピアノの音色に乗って、静かに優しく辺りに流れていった。“眠れ眠れ母の胸に 眠れ眠れ母の手に 暖かきその袖に 包まれて眠れよや”

 この優しい子守歌を、彼らはどんな想いで歌ったことであろうか。それは、幼い日、しっかりと抱きしめてくれた母の手の温もりだったであろうか、それとも、会うに会えない恋人への絶ちがたい想いであったろうか。どこか幼な顔の残る彼らは、軽く眼をつぶり皆に合わせて静かに歌っていた。先生は、彼らのために心に残る歌を選び、私達は一生懸命それを歌った。軽やかな伴奏で「野ばら」、「早春賦」、「花」と和やかに歌は続き、やがて終わった。
 この時代、男子校はもちろんだが、女学校にも陸軍将校が配属され、軍事教練が義務付けられていた。ワラ人形を敵に見立てた竹槍訓練や、梅干し一つの「日の丸弁当」での20km行軍、ある時は非常事態に備えて登校中一滴の水も飲まない訓練等々、女子の学校とはおよそ思えない雰囲気が漂っていた。そうした日々の中で、この日は池田先生が心配された警報も出ず、心ゆくまで好きな歌曲を歌えた満足感で、どの顔も幸せそうに輝いて見えた。彼らは丁寧にお礼を述べると、車上の人となって元気よく隊に帰って行かれた。それから一週間程たった放課後、榊原中尉が部下のメンバーを入れ替えて再度来校、池田先生のピアノ伴奏で私達とまた歌を歌った。歌は、この前と同じ「シューベルトの子守歌」や「早春賦」だった。

 大変陽気で茶目っ気の多いこの都会的な青年将校は、悪戯っぽい目でにこにこしながら、今度はバスケットボール交歓試合を申し出られた。「ええーっ、私達とバスケット?」榊原中尉のこの突然の申し出に私達は驚いた。しかし、そこは「うん、やろう。」ということになって、即席チームができあがり、雨天体操場の床板をきしませながら、早速バスケットが始まった。
 「こっちへ投げて。」、「ハイ、回して、回して。」互いに大きな声を掛け合って生徒達は走り回ったが、なかなかボールが入らない。しかし、背の高い彼らは、ちょっとジャンプしては簡単にシュートを決め、その度に生徒達はキャアキャア言って口惜しがった。若く逞しい彼らは、巧みなパスボールを回し、防御しようと必死で腕を広げる生徒と派手にぶつかっては、あちこちで笑い声が絶えなかった。
 もう、汗びっしょり…、裏の堤防を越えて吹き込む五ヶ瀬の川風が、濡れた肌に何とも心地良かった。それは、短い時間だったが、兄のように頼もしい彼らと、妹のような多感な少女達に、辛く厳しい戦争の現実をしばしは忘れさせてくれた楽しいひとときであった。
 別室で素早く軍服に着替えた彼らが、私達の前に直立不動で並んだが、微動だにせず、正面を見据えた顔のなんと爽やかで頼もしかったことか…。「皆様にお礼を申し上げろ。」榊原中尉の張りのある声が響いた。「有り難うございました。」彼らは一斉に挙手でお礼を言い、私達もはにかみながらこれに応えた。
 この時、彼らが半年後には「大東亜戦争」の天王山と言われたフィリピン・レイテ島に特攻隊として出撃、帰らぬ人になられるとは、私達には知る由もなかった。出撃を前に、死を覚悟した榊原中尉が、自分自身に青春の証を刻みつけ、死地に赴く部下たちにも女学生との淡い思い出を作ってあげようと、あえて禁男の女学校に、部下のメンバーを替えて、二度来られたのだろう。しかし、彼らの底抜けの明るさからは、それらをちょっぴりも垣間見ることはできなかった。南洋群島の激戦地、サイパン島が、日本軍の必死の抵抗もむなしく玉砕する2ヶ月前のことである。

 夕陽も西に傾き、別れの時が来た。「さようなら、お元気で。」、「さようなら。」先生と私達はトラックが見えなくなるまで手を振り続けた。「今日はどうも有り難う。」、「さようなら。」、「さようならぁ…」別れを惜しんで帽子を振り続けるこの若い将校達は、快い興奮と淡い感傷を私達の心の中に残して、夕暮れの町を車のエンジン音と共に去って行き、再び、延岡高女の校門をくぐることはなかった。
      
 数週間後、私達4年生(38回生)350人もまた、白鉢巻も勇ましく、先生、下級生に盛大に見送られて、兵器工場(現在の旭化成雷管工場)に向かうため、校門を出て行った。学徒動員令により、敵機を撃つ25mm高射機関砲弾を造ることになったからである。そうして、その日を最後に、私達も再びこの美しい校舎で勉強することを許されなかった。その後、下級生達も次々に工場へ動員され、学校には生徒のいない教室が数を増し、日本は坂道をころげるように敗戦へと向かって行った。



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