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1.サンゴ礁の島
2.川のない土地
3.台風か干ばつか
4.命の水―「ガー(泉)」
5.人頭税(にんとうぜい)による支配
6.サトウキビ栽培の開始
7.世界初の大規模地下ダム
8.国営宮古土地改良事業
9.事業概要

icon 1.サンゴ礁の島



 沖縄本島から南西におよそ300km、ちょうど沖縄本島と台湾のほぼ中間のところに、宮古島を中心とする宮古諸島は位置しています。
※1)「宮古島」という名称は、「ミャーク」もしくは「ミヤク」という音に当てられた言葉のようで、現在、池間島地方などに残された方言によると、 「人の住む地域・集落」という意味を持っていたようです。
 直角三角形のような形をしたこの島は、周囲100kmの小さな島で、サンゴ礁が隆起してできたものです。全体に平坦な台地となっているのが特徴です。
 亜熱帯性気候に属しているため、気候は年中温暖で、平均気温は23℃、湿度は80%、雨も多く、高温多湿です。年中、亜熱帯性の花が見られ、 美しいサンゴ礁に囲まれた宮古島は、一見、気候や自然に恵まれた南国の楽園のようにも見えます。
 事実、山のない平坦な地形は、農業にも適し、現在では島の総面積の57%が耕地として利用され、年に110億円を超える農産物を生産しています。 (※2)  しかし、宮古島がこのように豊かな農業の島として発展を始めたのは、近年のこと。それまで、人々は干ばつ、台風などの厳しい自然条件のもと、苦難の歴史を辿ってきました。

※1・・・ 日本で唯一亜熱帯海洋性気候に属する沖縄県は、県最北の硫黄鳥島(いおうとりしま)から、最南端の波照間島(はてるまじま)まで南北に400km、東端の北大東島から最西端の与那国島(よなぐにじま)まで、東西に1,000kmという、本州の約3分の2を飲み込む広大な海域を持っています。県域には、約160の島々が点在し、そのうち46の島で人々が生活しています。
これらの島々は、沖縄本島を主島とした沖縄諸島と、宮古島を主島とする宮古諸島、石垣島を主島とする八重山島に大別されています。

※2・・・ 宮古島の平良市・城辺町・下地町・上野村の4市町村の農業粗生産額は、毎年110億円から120億円の規模で推移しています。平成10年度の農業粗生産額は116億円で、生産額の構成割合は、さとうきび45.4%、葉たばこが23.4%、野菜8.7%、果実1.6%、いも類0.8%、花き0.5%、その他1.4%、養蚕0.1%、肉用牛15.4%、その他の畜産2.7%となっています。


icon 2.川のない土地



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出典:沖縄ビジターズハンドブック
 宮古島の平均降水量は年に2,200mmと、全国平均である1,700mmを大きく上回っています。一見すると水不足とは無縁のように見えますが、 特殊な地質を持つ宮古島での水利用は、容易ではありませんでした。
 宮古島は、島の土台ともいえる粘土の層の上に、サンゴ礁が風化してできた琉球石灰岩の層が広がり、さらにその上に、人々が耕作を行う表土の層が重なった三層で成り立っています。
 このうち、琉球石灰岩は首里城などの城壁に使用されたりと、沖縄ではなじみの深い岩ですが、その表面をよく見ると、 細かな穴が空いているのがわかります。このザルのように隙間の多い構造は、非常に水を通しやすく、宮古島の地表に降った雨は、地面にしみ込むと、 この層を通り抜けていってしまいます。その量は、降水量のおよそ4割にも及び、この水の地下浸透のため、宮古島の地表には川らしい川がありません。
 吸い込まれた4割の水は、最下層にある粘土の層に突き当たりますが、この地層は水を通しにくい性質のため、水は琉球石灰岩の中を低い方へと流れ、やがて海へと流れ出ていきます。(
 それに加えて、島の強い日差しで、降水量のおよそ5割の水は蒸発してしまい、地表に残る水は、残りのわずか1割程度しかありません。上の表を見ても、 いかに全国平均と大きく異なっているかがわかります。つまり、降水量が多くとも、それが地表に留まらないために、ほとんど活かすことができないのです。
 さらに、宮古島の水利用の難しさは、降雨の時期の偏りにも問題がありました。

※・・・ この海面下で湧水となって流出する水の量は、1日およそ20万m3にもおよびます(昭和55年の調査時)。地表を流れる川ではなく、この透過した地下水のみが流れ出るため、宮古島の海は沖縄の中でも有数の美しさを誇っています。


icon 3.台風か干ばつか



  宮古島の雨のほとんどは、梅雨と台風の時期に集中してもたらされます。
 頻繁に台風による被害を受ける宮古島は「台風銀座」とも呼ばれ、家の周囲に築かれた石垣、白い漆喰でとめられた瓦の独特の景観も、この台風の対策から生み出されてきました。
 しかし、島の人々にとって、台風は同時に、大量の雨をもたらす自然の恵みでもありました。先述したとおり、琉球石灰岩でできた宮古島の地表には川がなく、 活かすことのできる水は、非常に限られていたためです。猛威を振るう台風の被害に怯えながらも、一方で、大量の雨をもたらす台風は島にとっての貴重な水源でした。
 人々は、雨の来ない時には、村々の広場などに集まって、雨乞いの踊りで神に祈りを捧げました。軽やかなリズムに乗せて手足を動かし、 陽気な掛け声をかける「クイチャー」と呼ばれる宮古島の伝統の踊りも、始まりは雨乞いのためだったといわれています。
 台風が多いと風雨の被害を受け、少ないと干ばつに見舞われる。年ごとの降水量の変動は激しく、宮古島は安定した農業を営むには、ほど遠い条件のもとにありました。

icon 4.命の水―「ガー(泉)」



 川がなく、降雨も不安定な島で、人々の生活を支えたのは島のところどころで湧き出る地下水でした。
 島に降った水は、地表を通って琉球石灰岩の層にしみ込み、その後、海に向かって流れていきます。 そのため、海の近くでは、表面に表れた琉球石灰岩の層から、水が押し出され、湧き水が発生することがありました。
 この湧き水(自然の洞井、掘り井戸の両方を含める)のことを、宮古島では古くから「ガー」と呼んでいます。「ガー」は、 人々が頭上に水がめをのせて行き交い、時には立ち止まって交流する生活の場であるとともに、飲料水や生活用水、 かんがい用水の全てをまかなう「命の水」でした。古い集落は、島の中心部よりも、海岸近くの「ガー」のある場所に残されています。
 宮古島の最初の史書『擁正(ようせい)旧記』(1727年)には、約60箇所もの「ガー」の名前が記録されています。現在でも、大和井(ヤマトガー)、 成川井(ナズゥガー)、ヒダ川(ヒダガー)、野加那泉(ヌガナガー)、野城泉(ヌグスクガー)、友利あま井(トモリアマガー)、ムイガー、保良ガー(ホラガー)など、 島のあちこちに「ガー」を見ることができます。暗い石段や手すりは、どれもツルツルに磨り減り、重労働であった水汲みの苦労が感じられますが、この水汲みは、 近年になって水道が引かれるまで、島の人々の大事な日課でした。
 しかし、この「ガー」の地下水も、時間が経つと海へと流出していくため、干ばつ時には、地下水位が低下し、取水は困難でした。
 こうした自然条件のもと、島では、アワ、カンショ(サツマイモ)など干ばつに強い作物を中心に畑作が展開されていきます。


icon 5.人頭税(にんとうぜい)による支配



 宮古島で、アワやカンショ(サツマイモ)を中心に農業が行われたのには、また、社会的な側面もありました。
 もともと、地理的にも隔絶した位置にある宮古島は、本土や奄美・沖縄諸島とは異なる文化を育んできました。 (※1) 稲作や鉄器が伝わってきたのはおよそ9~10世紀ころ、鉄製農具が普及したのは14世紀と推定され、本土に比べ、ほぼ8世紀もの遅れがみられます。 農耕の伝播とともに、共同体が形成されるようになると、より農耕に適した土地を求めて集落間で争いが起こり、強力な権威を持つ豪族たちが現れました。 宮古島では、この豪族たちのことを「豊見親(トミヤー)」と呼び、「名高き親」という意味が込められています。
 しかし、在地の豪族による統治は長くは続かず、15世紀ころ、沖縄本土の琉球国が強大になると、宮古島もその勢力下に組み込まれていきます。 そして、1609年、琉球国が薩摩藩の侵略に敗れ、支配下に置かれると、薩摩藩からの厳しい税の取り立てに危機を迎えた琉球政府は、体制維持のため、 宮古島に「人頭税(にんとうぜい)」と呼ばれる重税を課します。 (※2) この人頭税の制度では、15歳以上になると、収入の差に関わらず、男はアワ、女は上布によって一定額の納税が義務づけられました。
 もともと水がなく、生産性の低い暮らしの上に、上納のためのアワや綿花(布の原料)の生産までもがのしかかり、人々の生活は窮乏を極めました。 自らはカンショ(サツマイモ)で飢えをしのぎ、相次ぐ台風や干ばつによる飢饉に苦しむ島民の暮らしをよそに、役人たちは規定以上に税をとりたて、私腹を肥やしました。
 驚くべきことに、この人頭税の制度は、明治に入り、廃藩置県を迎えた後も、そのまま残され、宮古島は長く収奪の苦しみのもとに置かれることになります。

※1・・・ 上野村のピンザアブ洞穴で発見された人骨などにより、少なくとも2万年前から人類が居住していたことがわかっていますが、シャコ貝で作った独特な貝斧が出土するなど、むしろ南太平洋諸島や東南アジアのフィリピンなど、南方の国々の影響を強く受けていたようです。

※2・・・ 当時、琉球は、朝鮮や中国、南方諸国の中間の位置にあることを利用し、貿易によって莫大な利潤をあげており、琉球を侵略した薩摩藩のねらいもそこにありました。豊臣秀吉の朝鮮出兵以来、日明貿易は明によって禁止されていたため、沖縄を実質的に支配した薩摩藩は、奄美諸島だけを直轄領とし、沖縄本島以南は琉球王国として存続させます。沖縄を通じた対明貿易で薩摩藩が得た利益は莫大なもので、後に薩摩藩が徳川幕府打倒の中核となる実力を備えることができたのは、この琉球からの収奪によるとさえ言われています。


icon 6.サトウキビ栽培の開始



 人頭税の撤廃のため、宮古島の人々は激しい戦いを繰り広げました。明治26年、各戸のカンパで上京した代表者たちは、 新聞各紙を始め、近衛篤麿、大隈重信など有力議員を訪問して窮状を訴え、さらには、直接帝国議会に請願書を提出します。当時の読売新聞は、 「沖縄県下宮古島民苛政に苦しむ」と題し、大々的にこれを報じています。こうした島民の苦闘の結果、人頭税は明治37年、ようやく撤廃へと至ります。 課税が始まった1637年から数えると、実に二百五十年以上もの間、島民はこの不当な税に苦しめられたことになります。
 人頭税が廃止されたことで、ようやく、現在、宮古島の基幹作物であるサトウキビの栽培も本格的に始まります。明治以前、砂糖は薩摩藩の専売品であり、 奄美・沖縄本島地域のみで栽培され、宮古島は栽培を禁止されていました。廃藩置県後2~3年でサトウキビは導入されますが、人頭税のアワをつくるだけで 精一杯であった人々には、とてもサトウキビ栽培を行う余裕はありませんでした。人頭税が廃止になって、ようやく商品作物として利益の大きいサトウキビ作を 始めることができるようになったのです。
 大正12年には、下地町に一日に250トンを産する砂糖の大型工場がつくられ、6年後の昭和4年には、県下最大の500トン工場へと、さらに拡張されます。 戦後の米国占領下の一時期には、10~30トンの小型工場が、全部で200あまりも作られました。
 こうして、基幹作物のサトウキビを始め、畑の耕地面積が増え、農業の近代化が進んでいくと、先に見た宮古島の水不足の状況は、さらに大きな課題として立ちはだかるようになりました。
 沖縄気象台の資料によると、明治24年以降、約4年に1回の割合で干ばつが起こっており、昭和38年には、サトウキビなど主要作物の平均反収が平年の半分以下に落ち込むという大被害に見舞われています。
 しかし、終戦後の米国の占領下における混乱の中、沖縄返還の悲願のかなう昭和47年まで、この状況は続くことになります。

icon 7.世界初の大規模地下ダム



  昭和46年、悲願の本土復帰を目前に控えたこの年、宮古島は未曾有の大干ばつに見舞われます。 3月から9月までの6ヶ月間の降水量はわずか162mm、サトウキビの生産量は、5分の1まで落ち込み、島の農業は壊滅的な打撃を受けました。
 昭和47年の本土復帰と同時に、国は、ただちに大規模農業用水地下水調査を開始します。この調査によって、先に述べた宮古島の地層である琉球石灰岩の隙間には、 スポンジのようにかなりの地下水が貯えられていることが明らかとなりました。そこで、地下から海へと流れ出ているこの水を、地中に埋め込んだコンクリートの壁によって 下流でせき止め、そこに水を貯めるという画期的な解決策が提案されます。いわば、地下の土壌全体を天然の井戸として使う、 これまでに例を見ないダイナミックな発想でした。通常の地上ダムのような貯水に伴う水没がなく、決壊災害の心配もないなど、多くの利点があります。
 しかし、当然のことながら、このような大規模な地下ダムの構想は世界初であったため、入念な地質や地下水などの調査、実験地下ダム建設における技術手法の確立が必要でした。


icon 8.国営宮古土地改良事業



  昭和52年、地質や地下水位、透水性などの詳細な調査の上、「皆福(みなふく)実験地下ダム」が着工されます。 昭和54年、この地下ダムの成功によって、地下ダムの基礎技術が確立されました。
 いまだ世界に例のない大規模地下ダム、「砂川ダム」と「福里ダム」の建設(総貯水量は、それぞれ950万トン、1000万トンにも及ぶ)、 両ダムを水源施設とする国営宮古土地改良事業がスタートしたのは、昭和62年のことです。2年後の平成元年には、事業の早期実現を図るため、 緑資源公団に建設事業が継承され、「国営宮古土地改良事業」と「公団営宮古農用地保全事業」とで、事業は進められました。
 2つのダムの建設とともに、この地下ダムから水をくみ上げるポンプ、くみ上げた水を貯めるファームポンド(貯水タンク)、 各地区の畑へと配水を行う用水路の建設も行われました。この管路タイプの農業用水路は、総延長130kmにも及びます。 また、スプリンクラーを利用して散水できるように、あわせて畑地のほ場整備も行われました。
 平成13年、着工以来14年にわたる事業が完了し、宮古島の畑地面積の90%を占める8400haにも及ぶ農地のかんがいが可能となりました。
 現在、宮古島は長年の干ばつ被害から解放され、サトウキビだけではなく、野菜、熱帯果樹、花などを含めた農業の島として、さらに発展を続けています。
 また、こうした地下ダム開発の技術は、中国の大連やインドネシア、メキシコなど、世界の水に苦しむ多くの地域で、貴重な先行事例として教授されています。


icon 9.事業概要



(1)事業概要
市町村名 平良市 城辺町 下地町 上野町
受益面積 2,500ha 3,490ha 1,260ha 1,150ha 8,400ha
受益農家 2,087人 2,115人 790人 693人 5,685人


事業主体 事業内容
公団営 地下ダム(取水施設を含む) 2ヶ所
国営 用水路  135.1km
加圧機場  2ヶ所
ファームポンド  6ヶ所
水管理施設  1式
県営 末端畑地かんがい施設  8,394ha
団体営 圃場整備  3,140ha

(2)水源計画
水源名 砂川流域 仲原地域 福里流域 皆福流域
地下ダム 砂川主ダム 福里主ダム福里副ダム1.2 皆福ダム
流域面積 7.2km2 12.4km2 1.2km2
満水面積 4.89km2 7.00km2 0.90km2
総貯水量 9,500千m3 10,500千m3 700千m3
有効貯水量 6,800千m3 7,600千m3 400千m3
利用量 8,800千m3 3,600千m3 11,000千m3 600千m3 24,000千m3

(3)用水計画
作物 かんがい期間 最大単位用水量
さとうきび 6月~9月 4.5mm/日
飼料作物 6月~9月 4.5mm/日
6月~9月 4.5mm/日
熱帯果樹 3月~8月 4.5mm/日
葉たばこ 1月~4月 3.0mm/日
野菜 1月~12月 4.5mm/日

沖縄県 ―宮古土地改良事業