head 
1.地下水豊富な沖縄本島南部
2.悲惨な沖縄戦
3.水運びの苦労
4.くり返される干ばつ
5.水あり農業に向けて
6.国営かんがい排水事業「沖縄本島南部地区」 事業概要
7.畑地かんがいの効果


1.地下水豊富な沖縄本島南部



平成18年に具志頭村は東風平町と合併し「八重瀬町」となる

 沖縄本島南部地域は「島尻(しまじり)」と呼ばれている。島尻とは「シマ治り」のことだとされており、シマは集落・地域を指し、治りは治める、統治するところという意味がある。この語源を裏づけるように島尻は豊かな歴史をもち、かつて沖縄の政治的中心の一つであった。
 本地域は、東は太平洋、西は東シナ海に面し、那覇市から豊見城市を南下し、糸満市、具志頭村(現八重瀬町)へは約15㎞の位置にある。地勢を見ると西側から東側にかけて、標高200m以下のゆるい起伏をもった台地で、地質は地域全体が隆起サンゴ礁である琉球石灰岩で覆われており、年間降水量は2,000㎜と豊富であるにもかかわらず、年間を通じて平均的にもたらされるのではなく、梅雨期と台風期に集中し、月ごとの降雨は大きく変動している。
 この石灰岩台地は、段丘と海岸に発達する裾礁(きょしょう)が特徴で、水系が未発達で河川らしい川は見あたらず、透水性が高く降った雨の多くは地下水となり、地層の境目から湧き出して湧水となり海へ流出している。
沖縄では、こうした湧水のことを「ガー」※1といい、古くからの集落はムラガー(共同井戸)の近くに多く見られる。日照りが続くと、昔から各地で雨乞いの行事が行われてきた。糸満市や具志頭村(現八重瀬町)の年中行事である大綱引きも雨乞い祈願を兼ねたものである。そのときに謡われるものの中にも「雨を恵んで下さい」という切ない願いが込められているものがある。また、水の確保は「水の奪い合いは兄弟げんかも引き起こす」といわれてきたように、様々なトラブルの原因となった。

※1 昔から本地域の水資源として欠かせないのが、ガー(湧泉)の存在である。ガーにはムラガー(共同井戸)のほか、ウブガー(産水を汲む井戸)、精進ガー(みそぎの井戸)、祝女ガー(神女、特にノロ専用の井戸)などがあり、聖なる場所として信仰の対象でもあった。
 ガーは精神的なよりどころでもあり、人々の暮らしを支える大切な共有財産であった。ガーの水を利用できる限られた農地では、野菜などの作物も栽培され、また、豊かな水量のガー周辺では、過去に稲作も行われていた。一方、ガーに恵まれない多くの農地は雨水を頼りにしながら、干ばつに強いサトウキビ栽培が主で、限定された農業が展開されていた。
 水は人間の暮らしを営む上で不可欠で、古代文明は大河のほとりに生まれたが、河川に恵まれない地域では、古くからの集落はガーの近くに立地した。
 八重瀬町港川で発見された化石人骨は、今から1万8千年前のもので「港川人」と命名された。おそらく港川人が暮らした周囲には豊かにこんこんと湧き出るガーがあったと思われる。

昭和35年頃の嘉手志ガー(糸満市)
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌P19」)

ガーは聖なる信仰の場でもある(糸満市)
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌 P18」


2.悲惨な沖縄戦



 明治から様々な行政の変遷を経ながらも、南部地域では糸満市を中心に交通・生活基盤が整備され発展していったが、昭和19年(1944年)から始まる太平洋戦争末期の沖縄戦では、沖縄を本土防衛の最後の拠点とする一方、連合国軍は、日本本土に攻め入るための基地として沖縄諸島を攻略しようと試みた。地上戦となった沖縄戦では一般人の犠牲者も多く、県民の4人に1人が命を落とす惨禍となり、特にこの地は摩文仁(まぶに)の丘など追い詰められた多くの尊い命が失われた地でもある。
 今は平和祈念公園やひめゆりの塔などへ多くの人々が訪れ哀悼を捧げる。本土防衛のため、唯一地上戦となった沖縄戦最後の激戦地であった摩文仁の国定公園の広大な敷地内には戦没者墓苑、平和祈念資料館などがあり、慰霊の日※2である6月23日には慰霊祭が行われる。平成7年(1995年)に建てられた平和の礎(いしじ)には、沖縄戦で亡くなった24万人余りの名前が刻まれており、現在も調査が継続され犠牲になった名前が順次追加されている。


平和祈念公園(糸満市)
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌 P7」)

 ※2 組織的な戦闘が終結した日が昭和20年6月23日。その日を「慰霊の日」として定めて、沖縄戦の犠牲者を偲び、追悼式などが行われるほか、最後の激戦地となった摩文仁の平和祈念公園には朝早くから遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎」の前で花を手向けたり、手を合わせたりしている。


3.水運びの苦労



 上水道が普及する昭和30年代頃までは、水汲みは女性や子供たちに課せられた仕事であった。毎朝5時に起きて1日数回、ガーとの間を往復するのが日課で、頭の上に大きな木で作られた桶をのせ水を運ぶ。それが毎日繰り返される重労働であった。
 水運びはガーによっては過酷なもので、鍾乳洞窟のガーは険しい山道を越えて行かなければならなかった。また、海に近いガーでは塩水が浸入しないよう干満にも気をつかう必要があった。ガーは飲料水や農業用水としての役割のほかに、オアシスとしての役割もあった。家庭に風呂場がない頃は子供たちの水遊び場として、また一面を囲って女性専用に水浴び場が設けられたこともあった。このように大変な苦労をして手に入れた水は、日常の生活を潤し農作物を豊かに育てるかけがえのない存在であった。
 その水源をおろそかにし、また、政略に使った伝説が伝えられている。沖縄本島は大きく北部、中部、南部に分かれ、14世紀後半、それぞれの地域に小王国が生まれた。それぞれ北山、中山、南山といい、この時代を「三山時代」と呼び、本地域は南山に属し、他魯毎(タルミイ)という王の支配下にあった。後に琉球最初の統一政権を樹立した中山王の尚巴志(ショウハシ)は、物欲の強い南山王(他魯毎)に金の屏風と湧泉の嘉手志ガー(カデシガー)との交換を申し入れた。嘉手志ガーは今でも豊かな水量が湧出し、干ばつの時も涸れることがない。
 尚巴志は自らに従うものだけに泉の使用を許し、たちまち人々の心は南山王を離れ、尚巴志になびいていった。この出来事が南山を滅亡に導く原因になったと伝えられている。この嘉手志ガー伝説は「水」がいかにかけがえのない「宝」であったかを伝えている。

左:水汲みをする女性 右:洗濯する女性と子供たち
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌P22」)


4.くり返される干ばつ



 人々は地下水の湧泉や井戸などのガーを大切に守りながら、水の不足を補ってきた。しかし、一方では度々干ばつに見舞われ苦しい生活を強いられた。明治37年(1904年)の干ばつは、春から初冬にかけて約8ヶ月間も雨が降らず、農作物は皆無という状態に陥り、人々は飢餓に瀕し、毒性を承知でソテツの実を食べざるを得ない状況に追い込まれた。
 このような惨状は「ソテツ地獄」として後世に伝えられています。ソテツの実は有毒成分も含んでおり、そのまま食べると激しい中毒症状を起こして命を落とすこともある。しかし、干ばつなど食糧不足の際には、飢えをしのぐため盛んに食べられ、しばしば犠牲者を出した。
 干ばつはその後も続いている。近年の昭和に入ってからも主な被害だけでも3例があげられる。
 昭和38年(1963年)に、72年ぶりという日照りのため2ヶ月以上にわたって1日おきの断水が続き、鹿児島県などから船で水が運ばれた。また、飛行機を使って人工的に雨を降らそうとしたが、断水解消にはほど遠く、それこそ焼け石に水でしかなかった。
 昭和46年(1971年)には、梅雨時期に雨が降らず台風も近づかなかったことから1日おきの断水が長く続いた。
 さらに、昭和56年(1981年)7月から翌年6月まで延べ326日にわたる断水を記録している。これは日本記録となる長期間の断水であった。

左:干ばつ被害を受け枯れたサトウキビ(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部 農業水利事業「事業誌P23」)
右:ポンプ車によるサトウキビへの散水(出典:内閣府沖縄総合事務局農林水産部ホームページ「農業農村整備事業」)

左:断水により給水を待つ住民 右:給水制限時の自衛手段として設置された民家の屋上タンク
(出典:復帰後の沖縄における水事情について「沖縄総合事務局開発建設部ホームページ」)


5.水あり農業に向けて



 本地域は県都にして大消費地である那覇市へ約15km、また、物流の窓口となる那覇空港へは約10kmという距離にあり、農業地帯として恵まれた地理的条件下にありながら、過去の長年にわたり恒常的な干ばつに苦しめられ、保水性の乏しい土壌条件と相まって農業生産は天候に左右され、生産性の向上、高収益作物の導入が図れず、せっかくの地理的優位性を生かしきれず、不安定な農業経営を余儀なくされてきた。その間、水道施設については昭和47年(1972年)の本土復帰以降、沖縄総合事務局では沖縄本島の水事情を改善するため、琉球列島米国民政府によって施工途上にあった福地ダムの建設承継を皮切りに、本島北部を中心に多目的ダムが建設され、頻繁に発生していた断水は徐々に解消されていった。
 その頃、宮古島では島の地質構造を生かし、地下水を農業用水とする新たな水資源の開発が計画され、昭和62年に国営かんがい排水事業「宮古地区」が着工されました。これは画期的で世界初の本格的な地下ダム建設による一大プロジェクトとして、宮古島の住民・農業者に確かな展望を与えた。
 こうした地下水を活用した農業を目指すための地下ダム技術が向上し、宮古島同様に琉球石灰岩で形成する沖縄本島南部地域でも、地下水を水源とする地下ダム建設要請に対する地域住民・農業者の熱意から、平成4年(1992年)に国営かんがい排水事業「沖縄本島南部地区」が着工し、糸満市から具志頭村(現八重瀬町)にまたがる受益面積1,352haの畑地に、地下水盆を活用するとともに地下ダム2ヶ所を建設することで水源を確保し、幹線用水路等施設整備と併せて関連事業による圃場整備及び末端用水路の整備を行い、地下ダムで蓄えた地下水で潤し、この「ぬちぐすい(命の水)※3」が地域住民や農業者の共有財産という認識のもと、生産性の高い農業が展開されることになった。

(1)地下ダムの概念図

(出典:地下ダムの水で豊かな農業(冊子)「内閣府沖縄総合事務局 農林水産部 農村振興課」)

(2)琉球石灰岩の特徴
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部 農業水利事業「事業誌P41」 )

 琉球石灰岩は約120万年~30万年前のサンゴ礁堆積物が、その後の地殻変動によって隆起台地化したもので、空隙の発達が激しい。

(3)地下ダムの特徴

 地下ダムは堤体も貯留域も地下にあることから、地上ダムと比べて次のような特徴がある。



6.国営かんがい排水事業「沖縄本島南部地区」 事業概要



沖縄本島南部地区計画一般平面図
(出典:国営完了地区 沖縄本島南部地区「内閣府沖縄総合事務局 土地改良総合事務所 ホームページ」)


(1)受益地
  糸満市、八重瀬町(旧具志頭村)の1市1町

(2)受益面積  1,352ha
 (糸満市  1,051ha、八重瀬町 301ha(旧具志頭村))

(3)受益者数 4,175人

(4)主要工事計画
  地下ダム      2ヶ所(米須(こめす)地下ダム、慶座(ぎーざ)地下ダム)
  取水施設      6ヶ所
  揚水機場      2ヶ所
  ファームポンド   3ヶ所
  用水路       42㎞(送水路8条 17㎞、幹線用水路12条 25㎞)
  加圧機場      2ヶ所
  水管理施設     1式

(5)工期
  平成4年度~平成17年度

地下ダムが満水となり止水壁天端から越流する水(慶座地下ダムの水位水質観測施設)
(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業 事業誌)


7.畑地かんがいの効果



 サトウキビや野菜の収量は、気象条件によって差が見られますが、実証圃場でのデータによると、畑地かんがいの導入により、サトウキビで約3割の増収が見込まれる結果が出ている。

(出典:内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌 P70」)

水あり農業で営農形態に施設園芸など高収益作物が導入され、大きく変貌した受益地(八重瀬町)
(2021年8月撮影)

※3 天地の恵みの「命水(ぬちぐすい)」を頂き、地域農業の一層の発展を念じた記念碑。沖縄の方言で「心身にいいもの」という意味で、長年、水に苦しめられてきた沖縄本島南部地区の農業にとって、地下ダムからの水は豊かな農業の「ぬちぐすい」にほかならない(糸満市)
(内閣府沖縄総合事務局 沖縄本島南部農業水利事業「事業誌」)



引用文献
1.沖縄総合事務局沖縄本島南部農業水利事業所 事業誌
2.沖縄総合事務局農林水産部 地下ダムの水で豊かな農業 ~地下に眠る命の水~
3.沖縄総合事務局農林水産部ホームページ 農業農村整備事業
4.沖縄総合事務局土地改良総合事務所ホームページ 亜熱帯の沖縄農業の展開を目指して
5.沖縄総合事務局開発建設部ホームページ 復帰後の沖縄における水事情
6.内閣府沖縄戦関係資料閲覧室ホームページ 沖縄戦の概要


2023年2月1日公開