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1.受け継がれる最北の弥生水田
2.気候の変動
3.ケガヅの悲劇
4.歴代津軽藩主の新田開発
5.用水不足と水争い
6.3年に1度の洪水発
7.国営浅瀬石川農業水利事業
8.浅瀬石川農業水利事業の概要

icon 1.受け継がれる最北の弥生水田



 昭和30年代、青森県南津軽郡田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡において土器と共に黒く焼け焦げたようなコメの痕跡が多数見つかりました。この地方では明治時代より、縄文晩期から弥生前・中期の遺跡において、多数の土器が出土していましたが、実際のコメの痕跡が見つかったことで全国的な話題となりました。当時、ほとんどの学者は、このコメは南の暖かい地方から運ばれてきたもので、この地方で生産したものではないと考えていました。しかし、昭和56年、同遺跡において、弥生時代中期の水田跡が発見され、さらに、昭和62年には弘前市三和の砂沢遺跡から垂柳遺跡のものより200年も古い弥生前期の水田跡が発見されたことにより、最北の弥生水田として大きな話題を呼びました。
     弥生時代の津軽地方は稲ができるほどの温暖な気候であり、豊かな暮らしぶりであったことが想像できます。


icon 2.気候の変動



 戦国時代、津軽為信がこの地を統一した頃、この地方では稲作を中心とした水田社会が広がり始めましたが、これと時を同じくして地球は寒冷期に入り、小氷期と呼ばれる時期が江戸時代を含む16~19世紀まで続きました。江戸時代以前の気温の変化を見ると、縄文時代の中後期は地球規模で2~5度高く、その後徐々に寒冷期となりましたが、8~10世紀で回復し、13世紀以降には再び気温が下がり寒冷期に似た気候になり始めています。 江戸時代の津軽地方ではこの寒冷な気候が、後で述べる深刻な被害の引き金となりました。

icon 3.ケガヅの悲劇



 深刻な被害とは飢饉(津軽地方ではケガヅと言う)であり、この元凶の大半は冷害です。特にこの地方では梅雨時から夏にかけて吹く「ヤマセ」と呼ばれる北東風が、異常な低温をもたらし、農作物の成長を妨げ収穫ができなくなるという現象がおきていました。
 津軽では、江戸時代の元和(1615年)、元禄、宝暦、天明、天保が5大飢餓と呼ばれ多数の餓死者を出しています。元和(1615年)の凶作は、八月の大霜(雪)が原因だといいます。その翌年も多数の死者をだしたと記録にあります。元禄8年(1695年)の飢饉では餓死者10万人、天明(1780年代)の飢饉では「天明凶作記」によれば「死絶明家3万5千余軒、餓死10万2千余人、時疫による死者3万余人」とあります。また天保(1830年代)の飢饉ではその惨状が「青森県土淵史」に記されており「家畜類を食い尽くし、遂には親を殺し、子を喰らう」というほど残酷なものでした。この冷害は江戸年間にほぼ5年に1回の割合で起こっていました。

icon 4.歴代津軽藩主の新田開発



 その対策として津軽藩歴代藩主達は次々と新田を築いていきました。右のグラフは津軽藩の内高の推移です。内高とは領民に年貢を課す際の算定基準として用いられた石高のことで、新田開発などに伴って藩内を検地して割り出された数字であるため、実際の収穫高ではありません。津軽為信が豊臣秀吉から津軽3郡の本領安堵の朱印状を拝領した1593年の津軽藩内高は4万5,000石でしたが、1645年(正保2年)には内高が10万2,000石、1664年(寛文4年)には内高15万7,000石余、1694年(元禄7年)には内高29万6,000石余となっており、驚異的なスピードで新田開発を行っていったことがわかります。


icon 5.用水不足と水争い



 ところが、当然のことながら水の絶対量は限られていますので、新田開発が進めば用水不足という危機がおこります。そのうえ、当時の農民はヤマセの害を避けるため、早稲、中稲、晩稲を植えリスクを分散したり、稲の品種改良を行ったりしていましたが、これには厳密な水管理が必要不可欠であり、より多くの水を必要としていました。用水が不足しているのにも関わらず続けられた新田開発は無理に無理を重ねた開発といえます。農民達はこのような用水が不足している状況にあっても、『何とかして米を作らねば』という思いから「ヤマセには逆らえないが、水は奪い合える」と、近代まで流血の惨事に発展するほどの水争いをしていました。

icon 6.3年に1度の洪水発



 飢饉とともにこの地を襲った天災が洪水です。浅瀬石川が合流する岩木川(位置関係は地図参照)にみられるように、津軽地方は、上流部では河床勾配が急で水が一気に平野部へ流れ落ちますが、逆に平野の下流部では河床勾配が緩く水がなかなか流れないという特徴があります。データによれば1/1500mという緩い勾配となっています。さらに岩木川が流れ込む汽水湖である十三湖は水の出口が狭く、さらなる排水不良を引き起こしていました。このような特徴であるため、ひとたび雨が降れば洪水が頻繁に起こりました。津軽平野では1615年から1940年の325年間で計108回の洪水を数え、およそ3年に1度の割合で、洪水被害に見舞われていたことになります。
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icon 7.国営浅瀬石川農業水利事業



 国営浅瀬石川農業水利事業は、昭和50年に着工し、20年の歳月をかけて平成7年に完工しました。この事業には用水不足から来る水争いに終止符を打ち、洪水の被害から津軽を守るという期待がこめられていました。
 水源は藩政時代から豊富な十和田湖の水を利用するという計画が検討されていましたが、財政面、技術面から困難なほか、既得水利権との兼ね合いもあり実行には至りませんでした。このため用水源を流域内に設けることが悲願となり、事業では経費の約半分である390億円を投入した二庄内ダムを建設することで水源が確保され洪水の被害も激減しました。

 戦前まで沖縄を除く46都道府県中45位であった青森県の米の反あたりの収穫量は、戦後の近代土木技術による水利システムの構築によって生まれ変わり、用水不足、さらにはケガヅから開放され、ようやく米で食べていける時代を迎えました。そして遂に平成14年には水稲の10a当たり収穫量で全国3位の座を獲得しました。
 何万人もの餓死者を出していた津軽の国は、現在では日本でも指折りの米の産地としてその名を轟かせています。

icon 8.浅瀬石川農業水利事業の概要



(1)受益地
青森県黒石市、五所川原市、南津軽郡藤崎町、尾上町、浪岡町、平賀町、常盤村、田舎館村、北津軽郡板柳町、鶴田町

(2)受益面積
水田8,270ha 畑300ha 合計8,570ha

(3) 主要工事
二庄内ダム建設
頭首工(温湯頭首工、滝井頭首工、五幾形頭首工、青荷頭首工)
揚水機場(五幾形揚水機場、滝井揚水機場)
幹線用水路 42.9km
排水機場(相原排水機、相原第2排水機、中泉排水機)
排水路 17.6km
中央管理所