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1.地域の沿革
2.水利開発のはじまり
3.事業地域の概況
4.総合農地開発事業の経緯
5.総合農地開発事業の概要
6.工事の実施状況
7.終わりに

icon 1.地域の沿革



 八戸地域は、港と広大な平原を併せ持つ地域で、農林業、水産業、製造業、海運業が盛んな地域として発展して来たが、厳しい気候・気象条件に加え、水利条件が劣悪で古代から現代まで苦難と悲惨な歴史が繰り返されて来た地域でもある。特に、水利開発は幾多の試みにも拘らず、地形・地質等に阻まれてきた歴史が残っている。

 (1)古代~平安時代

 八戸地域では、数千年前の多数の遺跡が発見され、点在する集落跡から出土した土器等の生活具から、意外に豊な古代の人々の暮らし振りがあったと推測されている。縄文時代の大きな遺跡は、八戸では新井田川沿い上流域の世増(よまさり)ダムの築造により湖底に沈んだ「畑内遺跡」と下流域の「是川遺跡」、「松ヶ崎遺跡」等がある。また、馬渕川沿い下流域には奈良時代や平安時代の大きな遺跡が断続的に存在する。さらに飛鳥時代に建造された「鹿島沢古墳」や南北朝時代の「根城」もこの下流域に構えられており八戸の拠点となった地域である。
 歴史時代になると、史書には大和政権による度々の北征が記されている。大化の改新(645)後に斎明天皇 から蝦夷要人へ冠位が授与され、神亀元年(724)には藤原宇合が陸奥の国司として多賀城に鎮守府を置いている。

 神護景雲元年(767)、迫川上流に伊治城が築城され多数の殖民が行われた。やがて、征服者への不満から伊治公呰摩呂の反乱が起きる。その後、坂上田村麻呂の征討によって平定、延暦21年(802)胆沢城を築造し鎮守府を移転、厨川柵あたりまで中央の勢威が及ぶ。その以北については、弘仁元年(810)陸奥出羽の按察使となった文室綿麻呂が北上川を遡り、馬淵川筋から一戸~九戸と制圧して巡ったと言われている。
 平安時代になり、安倍氏の陸奥北部一円の支配が約200年続くが、国府と対立し前九年の役が起る。その後、安倍氏に代わった清原氏の内紛から後三年の役が起こるが、源頼義・義家らによって寛治元年に終結し、地元において功のあった藤原清衡が鎮守府将軍に、そして秀衡の代には陸奥守にも任ぜられ奥州一円を治め、平泉藤原氏三代隆盛の礎を築く。

 (2)鎌倉時代~戦国時代

 鎌倉時代なると、藤原氏は文治5年(1189)源頼朝に攻められ泰衡の死によって滅亡。征伐に功のあった南部光行が、源頼朝から奥州惣地頭職権により糖部郡の守護地頭に任じられ、南部氏支配の一歩を踏み出す。承久元年(1229)には 南部氏2代の実光が九戸四門の制を定め、一族を要地に配置している。
 鎌倉幕府が倒れ、建武元年(1334)、新政の下で地頭の交代が行われ た。南部氏は師行の代にあたり、八戸に根城を築城、五代に亘り勤王南部の名を挙げ八戸地方の基礎を築いた。しかし、南北朝合体後は、武家側に付いた三戸南部が主流となり、根城南部の信光は所領を手放し八戸に帰着している。

 室町・戦国時代になると、康生3年(1457)、下北田名部の討伐が行われ、根城南部13代の政経がこの戦い勝ち下北半島3千石を支配下に治めた。南部氏は天文年間(1532~)には津軽諸郡を制圧し、鹿角・仙北に進出、北上川流域の工藤氏、斯波氏を駆遂し、葛西領にも進出する勢いであった。その後、領内の跡目争いや離反独立の難局もあったが、26代の信直はこれらの危機を克服し、近世大名の地位を固め、南部中興の名君とされている。

 (3)江戸時代~

 徳川の時代になり、28代重直は、寛永10年(1633)、 不来方(こずかた)と呼ばれていた盛岡に築城を完成して移転、家臣の知行整理を行い、翌寛永11年、領内10郡(陸奥国北、三戸、九戸、鹿角、閉伊、岩手、紫波、稗貫、和賀各郡)538ケ村につき表高10万550石余と上申して公儀から公認され、南部藩の基礎を固めた。

 (4)藩政下の農村と村々の暮らし

 寛文4年(1664)、盛岡藩主南部重直が死去し、幕府の裁定により盛岡藩と八戸藩とに分割される。この時の八戸藩の範囲は、三戸郡と九戸郡の大部分、それに盛岡付近の紫波町の一部を含みかなり広大であった。
 八戸の城下町は馬淵川・新井田川の河口部に、久慈町は久慈川・長内川の河口にそれぞれ良港を備え、海運に恵まれた藩で漁業や製塩業が栄え、大量に獲れた鰯の〆粕は金肥として日本各地に出荷されていた。近世は、製鉄・造船業が栄え、船と鉄、それが八戸港の繁栄に繋がった。
 農業は、広大な土地を抱えながら稲作は不適なため、大豆が大規模に生産され、豆腐料理、味噌・醤油の原料として主に関東方面に出荷され藩の財政に寄与した。そうした一方、江戸時代中期以降、寒冷気候に襲われ、元禄・宝暦・天明・天保の大飢饉で餓死・困窮を極め、数々の農民一揆も起こっている。

icon 2.水利開発のはじまり



 八戸平原における本格的な水利開発の始まりは、安政6年(1859)の八戸藩士蛇口伴蔵の白山上水事業(開田を目的とした利水事業)と言われている。ただ、この事業は、水路勾配が緩く周辺の地質が火山灰土のため、漏水が著しく、期待した水量が得られず完成後わずか1~2年で失敗に終わっている。
 その後に行われた蒼前平上水事業も大地震や洪水によって水路が決壊し、成功しなかった。明治以降になっても蛇口伴蔵の意志を継ぐべく、水利(開田)計画が何度も持ち上がっているが、地形的な限界を克服出来ずに終わっている。

 因みに、蛇口伴蔵が描いた水利開発構想は八戸藩総合開発計画とも言われ、次の五つの事業から成っている。
  ア 母袋子上水事業
(新井田川を水源とし、板橋・類家の開発)
  イ 相内上水事業
(馬淵川を水源とし、虎渡・剣吉の開発)
  ウ 下洗上水事業(白山上水とも呼ばれる。)
(頃巻川を水源とし、大杉平・糠塚の開発)
  エ 蒼前平開発事業
(寺下川・大渡川を水源とする)
  オ 小軽米上水事業
(玉川を水源とし、小軽米の開発)
 これらのうち、下洗上水と蒼前平開発以外の事 業は資金を使い果たし継続を断念しているが、伴 蔵の事業にかける情熱は安政4年、寺下観音に奉 納した願文によって窺い知る事が出来る。


icon 3.事業地域の概況



 (1)自然条件
 本地域は、青森県東南部、岩手県北東部に位置する標高20m~ 310mの比較的起伏の少ない丘陵台地で、関係市町村は青森県の八 戸市、階上町、南郷村及び岩手県軽米町の1市2町1村である。
 年平均気温は9.5℃で、かんがい期(4月~10月)の平均気温も夏 季に起こる本地域特有の気象であるヤマセ(偏西風)の影響もあり 15.7℃と低く、年間を通し冷涼な気候である。降水量は、年平均 992mm(かんがい期の平均748mm)で少ない。
 地質は火山噴出物のローム質火山灰からなり、土壌は火山噴出物  の風積及び洪積黒ボク土壌が主体で、透水性は良いが春先の強風等 による風蝕を受けやすい特性を有している。
 地域内には、二級河川の新井田川と松館川が八戸市中心部のある 北部の低地に向かって流れている。東部の階上岳~太平洋岸種差海岸は県立自然公園になっている(平成25年三陸復興国立公園に編入された)。

 (2)社会経済条件

 地域の道路状況は、国・県道等の基幹道路網と東北自動車道に繋がる八戸自動車道が整備されている。人口24万人の八戸市域を中心とした八戸工業経済圏に属し、東北地方の主要消費地はもとより首都圏の消費地へと通ずる高速輸送体系が整った有利な社会経済条件にあると言える。

 (3)地域農業の概要

 地域内の農業は、野菜を主体として水稲、たばこ、果樹、畜産を組み合わせた複合経営が営まれている。一戸当たりの経営面積が平均1.1haで、専・兼業別農家のうち兼業農家の割合が87%を占めている。零細な経営規模に加え、作物生育期間の降水量も少なく、耕地が分散し農道や畑地かんがい施設も未整備なため、生産性の低い不安定な農業経営を余儀なくされている。そして当地区おいても、国際化の進展などの社会経済情勢の変化により、兼業化の進行や農業従事者の減少・高齢化が著しいため構造的脆弱化が課題となっていた。

icon 4.総合農地開発事業の経緯



 (1)総合農地開発事業発足の経緯

 地域の自然的・経済的条件の特性を活かし、野菜・工芸作物・果樹・畜産などの土地利用型農業を中心とした農業の発展が期待されるこの地域では、早くから開墾と用水施設の整備などについて事業化の努力が続けられてきた。昭和30年代末、事業の発端となった世増ダムの建設と八戸平原地域の開田事業計画構想が持ち上がり、青森県による農地開拓調査が開始されている。そして、八戸市、階上村、南郷村による八戸平原総合開発促進協議会が設立され地元体制が整う中で、岩手県との協議が行われ、昭和42年に両県知事から北三陸平原地域総合開拓パイロット事業開拓基本計画樹立(地区面積5,000ha、開田面積3,500ha)の申請が提出され、昭和43年8月に大規模開拓パイロット事業開拓基本計画樹立地区の決定がなされている。
 このようにして、国による地区調査(昭和43年度~48年度)が開始され、全体実施設計(同49年度~51年度)が行われて、昭和51年度に総合農地開発事業として待望の八戸平原地区(農地造成1,078ha、農業用用排水1,004ha、区画整理(1,004ha農業用用排水と重複))が発足したものである。
 なお、この間の昭和45年に、米の生産過剰により開田計画を開畑計画に変更して、八戸平原地域総合開拓パイロット事業開拓基本計画樹立(地区面積6,100ha、開畑面積4,850ha)の再申請がなされている。

 (2)世増ダムの共同事業の経緯
 水源施設である世増ダムは、数度に亘る共同事業者の変遷を 経て、洪水調節、畑かん用水補給及び水道用水供給を目的とし て二級河川新井田川の上流に建設したものであるが、当初から 共同事業として計画されたものである。
 その共同事業化の経過を見ると、昭和52年に「国営八戸平原土地改良事業、青森県工業用水事業及び八戸市上水道第三期拡張事業の実施に関する覚書」を締結してスタートしている。
 そして、青森県工業用水が撤退し治水が参加、岩手県都市用 水の参加、岩手県種市町上水の参加、岩手県都市用水の変更、 八戸市上水から八戸圏域水道企業団事業への変更等の経過をた どり、平成元年12月に新井田川総合開発事業(青森県知事)、国営八戸平原土地改良事業(東北農政局長)、八戸圏域水道水源開発等施設整備事業(八戸圏域水道企業団長)、種市町水道事業(種市町長)の4者による「世増ダム建設工事に関する基本協定書」を締結し、共同事業者が確定している。
 その後、ダム建設により水没する島守発電所の廃止補償交渉の中で、東北電力から発電参加の意向が示され協議が行われたが、妥当割れや電力事業の経営環境の変化により発電参加は取り下げられている。

 (3)事業の推進組織

 世増ダムを基幹施設として、総合農地開発事業と同時に、上水道事業、治水事業を行う地域の一大プロジェクトでもあったことから、地域の関係機関が結集して推進体制が組織された。

①土地改良区の設立

 総合農地開発事業により造成される施設を維持管理するため、昭和55年1月、青森県八戸市、階上村、南郷村の事業区域を範囲とする八戸平原土地改良区の設立準備委員会が発足し、同59年2月に設立、一方、岩手県軽米町の事業区域は、昭和57年に設立された軽米町土地改良区に順次編入されている。

②八戸平原総合開発促進協議会の動き

 昭和41年に八戸市、階上村、南郷村により八戸平原総合開発促進協議会が設立され、同43年に種市町、同47年に軽米町が新たに加入している。そして、広域かつ総合的な開発事業であるため、両県の出先行政機関、関係市町村の議会・農業委員会、地域選出県会議員他が参画し、地域一体となって推進にあたった。

icon 5.総合農地開発事業の概要



 (1)八戸平原地区の概要

 八戸平原地区は、青森県東南部と岩手県北東部に位置し、八戸市、階上町、南郷村、軽米町の1 市2 町 1村に跨る畑作地帯である。このため、事業は、山林等未墾地の農地造成(畑)とこれに隣接する既耕地の区画整理(畑)を一体的に行なうとともに、これらの開発地と既耕地を合わせた1,518haの畑地かんがい用水施設を整備する等、畑地基盤を総合的に整備したものである。

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図―7  八戸平原総合農地開発事業計画概要図

 (2)営農計画
 ア 経営方式 個別経営
 イ 作付体系 水稲十野菜、たばこ十野菜、 野菜十肉用牛、水稲十花き、水稲十果樹、水稲十ホップ等
 ウ 作業体系 集落営農を基本に大型機械の共同利用
 エ 家畜飼育方式 乳用牛:搾乳牛主体の個別飼育、肉用牛:肉用専用種の個別飼育
 オ 集出荷体系 共同集荷・系統出荷が主体で、たばこ・ホップは契約栽培による出荷

 (3)用水計画と主要工事計画

 昭和53年1月27日に確定した国営八戸平原土地改良事業計画は、その後、農業従事者の高齢化、農業後継者の不足、農産物価格の低迷など、農業情勢や社会経済情勢の変化により2回の計画変更が行われている。
 第1回計画変更(平成8年6月確定)では、農地造成の大幅な縮小(1,078ha→383ha)等受益面積の見直しと末端かんがい配水施設の県営事業への移行等主要工事の見直し、また、第2回計画変更(平成14年12月確定)では、受益面積の見直しと揚水機場の一部ポンプや概ね20haに一箇所設置するファームポンドの県営事業への移行等を行っている。以下は、第2回計画変更後の計画内容である。

 ①用水計画

 下図は、八戸地域の降水量と畑作におけるかんがい必要水量を示したもので、用水計画の諸元は以下のと おりである。

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図―8 地域の降水状況

ア 計画基準年 昭和48年(昭和42年~平成6年までの28ケ年のダム確保量の第2位)
イ かんがい諸元 かんがい方式:散水かんがい
 かんがい期間:散水かんがい
 かんがい期間:3/21~10/15(183日
 風食防止期間:3/21~5/15(56日)
 日消費量:畑地かんがい3~5㎜/day
 風食防止:5㎜/day
ウ 水利使用計画 有効雨量:5mm/day以上の80%で上限はTRAM
 かんがい効率:80%
 かん水面積率:導入作物個々についての作付け体系と生産計画により、旬別にかん水面積率を考慮
 水計算面積:1,802ha
エ 水源使用計画 消費水量:15,100千m3
 有効雨量:3,200千m3
 純用水量:14,900千m3(粗用水量:11,900千m3)
 有効雨量:3,200千m3
 純用水量:14,900千m3(粗用水量:11,900千m3)
 水源依存量(世増ダム):14,900千m3

 ②主要工事計画

 主要工事の内容は以下のとおりである。

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 ③世増ダム共同工事の概要

 1)共同他事業の内容
ア 新井田川総合開発事業
  新井田川沿岸地域の洪水被害の軽減を図るとともに、新井田川の流水を保ち河川環境を守る。
  *100年に1回の割合で発生する洪水を対象とし、ダム地点の計画高水流水量1,230m3/sのうち820m3/s(約7割)の洪水調節を行う。
  *下流既得用水の補給及び河川流水の正常な機能の維持と増進を図る(ダム直下2.4m3/s)。
イ 八戸圏域水道水源開発等整備事業
  八戸圏域「青森県11市町村(八戸市、六戸町、下田町、百石町、三戸町、南部町、名川町、福地村五戸町、階上町及び南郷村)」に日量100千m3の水道用水を供給する。
ウ 種市町水道事業
  岩手県種市町に日量4,730m3の水道用水を供給する。

 2)費用の負担割合
* 新井田川総合開発事業(青森県知事) 43.1%
* 国営八戸平源土地改良事業(東北農政局長) 28.5%
* 八戸圏域水道水源開発等施設整備事業(八戸圏域水道企業団長) 27.1%
* 種市町水道事業(種市町長) 1.3%

 3)施工区分と管理主体
ア 工事の施工主体は東北農政局(ただし、ダム管理設備工事は青森県)
イ 工事完成後のダムの管理は青森県

 4)容量の配分

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図―9  世増ダム容量配分図


icon 6.工事の実施状況



 総合農地開発事業は、昭和51年度の着工以来、総事業費515億円と28年の年月をかけて、平成15年度に完了したものである。

 6-1 農地開発、用水施設の整備

 (1)農地造成、区画整理等を先行実施

 昭和53年1月の国営土地改良事業計画確定を待って、農地造成、区画整理と幹線道路等の農地開発工事に着手、平成4年度までに全30換地工区の農地造成346ha、区画整理228haの工事を完了。いずれの工区も山林原野の未墾地と既畑が錯綜しているため、農地造成と既耕地の区画整理を一体的に施工し、平成10年度に換地処分を完了している。
 開発地は礫が殆どなく、土層の厚さ、土質、樹径のいず れもが機械による施工が可能であったため、標準区画を 30a(75m×40m)として、改良山成工法で造成。造成勾配は、 大型営農機械作業の効率性及び安全性を考慮して5.7°以 下としている。
 併せて、開発に伴い流出量が増加し、地区外低位部に湛水被害発生の恐れがあるため、幹線排水路2路線、  延長4.2kmを整備、また、通作や農作物の等の搬出入の道路が十分に整備されていないため、支線道路67. 8km、支線道路を結ぶ幹線道路17.7km、これらの道路と国、県道を結ぶ主幹線道路22.6kmを整備した。

(2)用水施設の段階的整備
 畑地かんがいの対象面積は、農地造成、区画整理及びかんがい単  独受益を合わせた1,518haである。区域はその中央を貫流する新井 田川によって、右岸地区(八戸団地)と左岸地区(軽米団地)に区 分される。どちらも、新井田川周辺の高原地にあり、水源の標高よ りもかなり高く、高揚程のポンプアップが必要である。

本地区の用水施設計画の特徴は以下のとおりである。
ア 用水の水源は全て多目的ダムである世増ダム(県管理)に依存している。
イ 用水系統は世増揚水機場掛かりの左岸地区、巻の下揚水機場掛かりの右岸地区に大別される。
ウ 送水方式は、全て世増揚水機場及び巻の下揚水機場により吐水槽まで揚水し、吐水槽からファームポンドまでは自然圧式のクローズドタイプで樹枝状配管のパイプラインにより送水する方式である。
エ 揚水機場からファームポンドまでの送水系施設は国営事業、ファームポンド以降末端給水栓までは関連事業により整備する計画とした。
オ ファームポンド及び揚水機場ポンプの一部について、国営事業から県営事業へ移行し、畑地かんがい営農の進展に合わせて、段階的に関連事業により整備する計画とした。

 取水は世増ダム地点(世増揚水機場)とそれより8.0km下流の巻の下頭首工(巻の下揚水機場)の2ヶ所からの分割取水方式とした。そして、左岸団地及び右岸団地の一部(不習団地)は、世増揚水機場から別系統で2ヶ所の吐水槽に揚水、また、右岸八戸団地は巻の下揚水機場から1ヶ所の吐水槽に揚水する。
 事業計画では、「揚水機場~送水路~吐水槽~主幹線用水路~(幹線用水路)~支線用水路~ファームポンド~配水パイプライン~ほ場のシステム」を用水システムの完成形としている。
 しかし、国営事業の完了から末端施設を整備する関連事業の完了までには相当の期間を要することから、ファームポンドの建設を関連事業に移行して、国営事業では、早期の用水供給の実現を図るため、暫定施設として給水栓を設置した。

 すなわち、ファームポンド機能のうち、時間差調整容量を省略し、調 圧機能を活かして支線パイプラインの低圧化を図る調圧水槽を設け、用水 ブロック(概ね20ha)毎に給水栓を設置したもので、給水栓は給水車に 用水を供給可能な構造としている。
 幹支線用水路は、施工性や施設の維持管理を考慮し、また、農業用施設 や農作物などに出来る限り影響を及ぼさない、道路敷を中心とした路線配 置とした。そして、工事完成後に、用水系統ごとに通水試験を行って、施設の安定性と機能を確認した。
 工事は、用水路については平成8~15年度に、巻の下頭首工ついては同11~12年度に、世増揚水機場ついては同12~14年度にそれぞれ施工している。

 6-2 世増ダム工事の実施経過

 世増ダムは、重力式コンクリートダムで、集水面積398m3、湛水面積1.8m3、総貯水量36,500千m3の貯水効率(貯水量/堤体積)が極めて良いダムである。
 昭和52年3月に水源地域対策特別措置法に基づく指定を受けているが、農業情勢や社会経済情勢の変化による土地改良事業計画の見直しや共同事業者の変更に加えて、家屋移転を含む複雑な用地交渉に時間を要したことから、水没物件調査開始から22年余、事業の調査開始から実に35年の歳月を要して完成したものである。

 (1)ダム工事着工までの流れ

 ①水没地の用地交渉

 水没する世増、畑内、水吉、大島地区は、島守盆地の4~6km上流に位置している。青森県、岩手県に跨 り、集落の中央を流れる新井田川流域に沿って住居が形成された自然環境に恵まれた里で、水没集落周辺から 発掘された石器、土器の特徴から縄文時代頃、既に人が住みついていたと推察されている。また、平家の落人 伝説も語りつがれてきた古い歴史を持つ里でもある。

水没地域では、事業計画策 定のための調査の開始に合わ せて、世増ダム反対期成同盟 会が設立された。  この会は後に世増ダム対策調査研究協議会に改称されたものの、地権者間の意見に隔たりもあり、3組織に改編されたりしている。
 そうした状況の中で、昭和 43年4月に最初の住民説明 会を実施し、昭和49年には代 替地取得を確約する等、それぞれの段階において協議を重ねて、地権者等の了承、同意を得ながら、ダム地形 測量(昭和47年度)、ダム地質調査(昭和49年度)、水没物件調査(昭和55年度)、水没境界測量(昭和57年 度)を進め、昭和58年10月から水没補償交渉を開始。
 関係者も多く難しい複雑な交渉を余儀なくされたが、数度に及ぶ他地区の現地視察や各種研修を行うなどし て交渉の進展を図り、昭和63年に世増ダム水没者協議会(53戸内水没者50戸)、世増ダム地権者協議会(11 戸(内水没者11戸))及び世増ダム一般水没者協議会(52戸(内水没者10戸))と八戸平原開拓建設事業所長 との間で、「世増ダム建設に伴う損失補償基準基本協定」を締結している。そして、平成元年3月に事業用地の 譲渡契約が成立、71戸の水没家屋は、南郷村(56戸)、八戸市(10戸)、階上町(1戸)、軽米町(10戸)を 移転先として、平成2年3月に移転を完了。この補償基準に従って補償した金額の総額は84億円余に上っている。

 ②内水面漁業の補償

 新井田川には岩手県の西部九戸河川漁業協同組合と青森県の新井田川漁業協同組合、島守漁業協同組合の内水面漁業権が設定され、アユやヤマメの放流も行われていたため、漁業補償を行った。

 ③島守発電所の廃止補償
 東北電力株式会社所有の島守発電所は、ダム水没区域内に取水工を設け、下流約1km地点において発電していたものである。ダムの建設に伴い、取水工が水没して取水できなくなるため、廃止することとし金銭補償を行った。
 因みに、この発電所は、現存する水力発電所としては青森県内最古のものであったため、貴重な産業遺産として東北電力株式会社から南郷村に無償譲渡されている。敷地一帯は旧島守発電所保存公園として整備 され、公園内の発電施設・設備は、平成21年には国土の歴史的景観に 寄与しているとして、登録有形文化財に登録されている。

 ④町村道付替道路の建設

 岩手県軽米町の町道4路線(幅員4~5m、延長6.8km)及び青森県南郷村の村道7路線(幅員の5m、延長8.7km)を付替え、総延長約17.2km(橋梁6か所)の付替道路を建設した。

 ⑤埋蔵文化財の調査

 新井田川流域周辺では多くの縄文遺跡が発見されている。貯水池や 付替道路区域内でも、軽米町区域内で6か所、南郷村区域内で4か所 の縄文遺跡の発掘調査を実施。中でも貯水池中央部に位置する畑内遺 跡Ⅳからは、大量の土器や石器類、土製品とともに、動植物の残しが 発掘され、遺物の量は段ボール箱にして五千箱に達し、青森市の三内丸山遺跡に次ぐもの言われている。

 ⑥環境への影響調査

 世増ダムの区域は河川の中流域に位置付けられ、新井田川にはウグイ、ヤマメ、ドジョウなどが生息してい る。周辺にはコナラ林、アカマツ林、畑地等があり、鳥類ではホオジロ、哺乳類ではニホンリス等の里山の環境に生息する動物が分布している。
 当ダムは、平成9年に全体計画が認可されていたため、環境影響評価法の対象に該当しないが、湛水面積が広く同法の第1種事業規模(100ha)の相当することから、植物及び動物の調査を実施して、重要種に対する影響が小さい、あるいは影響が無いことを確認した。

 (2)構造設計と河川協議の経緯

 治水事業等との共同工事でもあることから、ダムの実施設計は、河川管理者との打合せを逐次並行して進めながら取りまとめを行った。平成3年12月にダム基本設計会議「ダム軸、ダム形式」の審議、平成8年9月に洪水吐基本レイアウト土木研究所の審査、平成10年1月にダム基本設計会議「実施設計(1回目)」の審議を経て、河川法95条協議を申請、平成10年2月に同意を得ている。

 (3)ダム工事の概要

 工事用道路工事は平成4年から、付替道路工事は平成5年から開始した。河川区域内の工事は、ダム基本設 計会議「実施設計(2回目)」の審議を了した平成10年3月から仮排水トンネルに着手、そして、本体工事は、平成10~11年度に基礎掘削、平成12~13年度にコンクリート打設、平成14~15年度に堤体天端橋梁、管理設備及び周辺整備を行った。そして、平成15年2月から試験湛水を開始、5月に終了している。

 ①転流処理

 河川幅が比較的広い(約60m)ため、半川締切方式との比較を行い、全体工程の短縮や基礎掘削工事のし易 さから、仮排水トンネル方式を採用、地形・地質や工事費等の面から右岸側に配置した。対象流量160m3/s(1回/年相当)、延長288m、断面2R=5.4mの標準馬蹄形の設計で、下流坑口より全断面発破方式のNATM工法で施工、平成11年3月に転流している。

   ②基礎掘削

 ダムサイトの地質は、先白亜紀の岩泉層に属するチャート、粘板岩、輝緑凝灰岩、石灰岩を基岩としている。基礎岩盤の岩級は軟岩Ⅱ~硬岩と判断された。節理の発達が見られ、上部掘削に伴う応力の開放により、岩盤面の表層剥離、節理沿いのスベリ等の発生に注意が必要であるため、本体部の主要掘削は、ダム天端上部の掘削、法枠工、抑止工(アンカー)を施工して法面の安定を図って、河床部まで掘り下げた。

 ③基礎処理

 基礎岩盤の掘削による緩み部の変形性の改良、一体化を図るコンソリデーショングラウチングと基礎岩盤等からの浸透を軽減するためのカーテングラウチング、リムグラウチング等を実施。このほか、廃止した島守発電所の既設の導水トンネルが基礎掘削線(右岸側)に近接するため、トンネルの緩み範囲(3D)区間をコンクリートで充填して閉塞処理を行った。

 ④堤体コンクリートの打設

 ダムの堤体積は約220千?である。拡張レア工法を採用して打設したもので、施工にあたっては特に以下の点に配意した。
 ア コンクリート骨材が、ダムサイト下流約1.2kmに位置する採石場からの製品骨材購入であったため、骨材の製造過程をダム施工企業体が直接管理できないことから、骨材品質の受入れ場所での確実なチェック。
 イ 実打設期間が17か月(平成12年4月~平成14年4月)と 短く、また、コンクリートの打設設備(軌索式ケーブルク レーン(15t吊))が一系統のため、綿密なリフトスケジ ュールに基づく工程管理と堤体・減勢工のコンクリート打 設工程の調整による作業量の平準化など。


icon 7.終わりに



 人は、水を治め、水の恵みを受けて生きてきた。
 幕末の時代、八戸藩士蛇口伴蔵が全私財を投入して取り組んだ事業は、地形や地質等を克服することが出来ずに終わっているものの、その開発計画構想の理念は生き続け、地域の人々の強い思いと科学技術の進歩によって、1世紀半の時を経た平成の時代に、ようやく八戸平原の水利開発が実現したのである。

 開発農地では、ながいも、にんじん、ねぎ、葉たばこ、果樹等の多品目の作物が栽培されている。大豆、梅、ブルーベリー等の地域特産物をはじめとして、園芸作物、土地利用型作物の導入が進み、多くの営農集団が育ってきている。世増ダムを水源とする用水施設を活かした、施設園芸や高収益の露地野菜の導入等、天候に左右されない高品質、高生産性農業の一層の発展が期待されている。
 また、世増ダムは、人々の暮らしを支え、洪水から地域を守る重要な役割も発揮している。更に、貴重な観光資源として、地域の人々の 憩いの場としても地域の発展に寄与している。

 功績を偲んで建立された蛇口伴蔵の像が、世増ダム湖畔の展望台から見下ろす四季折々に美しい景観を作り出すダム湖は、「青葉湖」と呼ばれている。
 水没した地域に、平重盛公が父清盛公への諌言が受け入れられず、この地に逃れてきたという伝説があり、平重盛公が持参したとされる「青葉の笛」に因んで命名されたもので、人々から喜ばれ、親しまれる湖の愛称として340人の応募の中から選ばれたものである。

1.国営総合農地開発事業八戸平原地区事業誌「八戸平原を拓く」
 東北農政局八戸平原開拓建設事業所発行
2.世増ダム工事誌 東北農政局八戸平原開拓建設事業所発行
3.八戸平原総合農地開発事業完工記念誌「八戸平原を拓く」
 東北農政局八戸平原開拓建設事業所発行
4.世増ダムパンフレット 東北農政局、青森県、八戸圏域水道企業団、種市町発行
5.八戸平原開発だよりVOL.36 八戸平原土地改良区発行
6.図―2,3 八戸市博物館HP
 (http://www.hachinohe.ed.jp/haku/hiroba.html
7.図―4 八戸市総合教育センターHP
 http://www.hachinohe.ed.jp/kids/hebi1.htm
8.写真―6 文化遺産オンライン
 http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=120694&imageNum=1
9.写真―8 青森県郷土館ニュース
 http://kyodokan.exblog.jp/7989084/
10.写真―12 八戸市内移動カメラ
 http://www2.odn.ne.jp/dey/otenkikamera.html