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1.日本で唯一の親子ダム!
2.慢性的な用水不足
3.27堰の歴史
4.南部藩と八戸藩の分割と水利問題
5.頻発する水論
6.明治の大水論
7.山王海地区の発展
8.山王海水利事業の概要

icon 1.日本で唯一の親子ダム!



 12m3 12m3 12m3  岩手県のほぼ中央に位置する紫波平野の国営山王海農業水利事業は、昭和53年に着工し一期・二期事業合わせて24年の歳月を経て、平成14年3月に完了しました。
 この事業で特筆すべき点はトンネルで二つのダムの水をやりとりする親子ダムを建設したことです。トンネルでやりとりを行う親子ダムは、全国でも唯一のものです。この事業では、現況の水源施設である滝名川水系の山王海ダムと、新たに新設する葛丸川水系の葛丸ダムを二本のトンネルで結びました。葛丸ダムは規模が小さく、必要な水をまかなうのには限界があるので、冬の間(非かんがい期)に葛丸川流域で集めた水を導水トンネルで山王海ダムへおくり(年間約1000万トン)、かんがい期にはトンネルで同じ量の水を葛丸ダムへ戻す仕組みになっています。山王海ダムと葛丸ダムがまるで一つのダムになったかのような働きをすることで、山王海地域と葛丸地域の農業水利条件を大きく向上させました。

icon 2.慢性的な用水不足



 グラフは盛岡と名古屋の月別降水量のグラフです。盛岡の年間降水量は1,265mmで全国的に見ても少雨地帯に属しています。そのうえ、グラフの比較からもわかるように初夏から夏の雨が少なく、冬は雪が降ることで降水量が多くなっています。稲の発育が盛んな初夏から夏が大事な時期であるのにもかかわらず、雨が少ないため水を確保することが困難でした。また、この山王海地方を潤している最大の用水源は滝名川ですが、この川は、北上川に流れ込む小河川であり、流量が乏しいため、さらなる慢性的な用水不足を招いていました。
 そのような状況であるため「一滴の水も無駄にはするまい」と、かつて江戸時代の滝名川には27個もの堰が存在していました。最も上流の堰から最も下流の堰までの間が、わずか10kmに満たない距離でしたので、その間隔は1kmのうちに3個ほどの堰がひしめくほどの狭さでした。

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icon 3.27堰の歴史



 27の堰は上流から順番に作られていったと考えられています。これはこの水系をめぐる水利慣行が「上流優先が原則」であったという点から読み取れます。上流優先に至った理由は、水田開発過程の新旧の差によるものと考えられています。用水路の開発過程は新田開発にはなくてはならないものですから、この水田の開発過程は同時に用水路の発展の過程ともいえます。
 すなわちこの地域では、上流部から順に開発が進んでいき、上流優先という約束を絶対としながら、その際最も下流にあった堰の下流に堰を築き、余った水をもって下流へ下流へと用水圏を拡大していったと考えられています。
 この27堰の建設は、江戸時代初期にはすべて完了していたと考えられ、この地方の新田開発は末期を迎えていました。滝名川用水協定によれば、寛文12年(1672年)、27堰のかんがい面積は約822haであったと伝えられています。その後昭和28年(1953年)の旧山王海ダム建設当時の受益面積は1,051haであり、およそ280年間の間で229haの増加しかありません。このように用水源の絶対量が乏しく、江戸時代初期には既に新田開発は限界に達していたため、この頃から水をめぐる争いが頻発しはじめ、旧山王海ダムが完成するまで続きました。

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27堰の名前と堰番号

icon 4.南部藩と八戸藩の分割と水利問題



 水争いにさらなる煽りを加えたのが南部藩と八戸藩の分割でした。この地方を治めていた南部藩主重直は寛文4年(1664年)後継ぎを定めないまま死亡したため、将軍徳川家綱は重直の弟重信を南部8万石、次弟直房を八戸2万石に分割することを命じました。その際、滝名川扇状地と葛丸川扇状地が、南部藩と八戸藩に二分されてしまいました。このため滝名川の27の堰も同様に二つの藩に分割されることとなり、一つの用水源が二つの藩に利用されるという事態に陥ってしまいました。もともと水争いが起きていた地域が、二つの藩に分割されるという複雑な事情を抱え、さらに争いが激化するに至りました。

icon 5.頻発する水論



 この1664年の分割直後の寛文12年(1672年)、争いを避けるため南部、八戸両藩の役人によって協定が決められました。この協定は以前からあった水利慣行を正式に制度化しようというものでした。ところがこの水利慣行で取り決められていたかんがい面積に対する分配比率は不公平であったため(南部藩領の堰の方が水が豊富であった)、水利慣行を変更すべきとの圧力が高まり、協定をめぐる「水論」(水をめぐる紛争)が頻発しました。主な紛争としては、天保4年(1833年)、天保11年(1840年)、慶応元年(1865年)、明治28年(1895年)、明治33年(1900年)、大正13年(1924年)などが挙げられます。明治33年の稲荷大口前の争いでは約2000人の農民が集結し死者も出ています。この水論は三百数十年に渡って大小42回に及びました。 この1664年の分割直後の寛文12年(1672年)、争いを避けるため南部、八戸両藩の役人によって協定が決められました。この協定は以前からあった水利慣行を正式に制度化しようというものでした。ところがこの水利慣行で取り決められていたかんがい面積に対する分配比率は不公平であったため(南部藩領の堰の方が水が豊富であった)、水利慣行を変更すべきとの圧力が高まり、協定をめぐる「水論」(水をめぐる紛争)が頻発しました。主な紛争としては、天保4年(1833年)、天保11年(1840年)、慶応元年(1865年)、明治28年(1895年)、明治33年(1900年)、大正13年(1924年)などが挙げられます。明治33年の稲荷大口前の争いでは約2000人の農民が集結し死者も出ています。この水論は三百数十年に渡って大小42回に及びました。

icon 6.明治の大水論



 中でも大改革が起こったのが明治28年(1895年)の水論です。この水論では江戸時代から受け継がれていた、滝名川27堰の分水比率の算出法が変更となりました。この変更により江戸時代から改訂を願い、時には流血の争いを起こしてきた先人達の苦労が実りました。この後も度々水論は起こりましたが、この決定が変更されることはなく、昭和29年(1954年)に旧山王海ダムの建設などを行った土地改良事業によって水利慣行が廃止されるまでの60年間にわたって維持されました。

icon 7.山王海地区の発展



 江戸時代には既に新田開発ができないほどに用水が不足し、水争いが絶えない山王海地域でしたが、昭和初期の土地改良事業、昭和19年~昭和29年に行われた旧国営山王海土地改良事業、そして昭和53年~平成3年の国営山王海土地改良事業で水利秩序は確実に形成されていきました。事業以前にはわずか1,051haしかなかったものが、現在では3,890haにまで水を行き渡らせることができるようになっています。
 右の写真は幹線水路が完成し初めて水が流された日の様子を写したもので、人々が近くの幹線水路へ赴いて、いつ水が来るのかと首を長くして待っているところです。何時間も待って、待ちに待った水が流れてくると、万歳の歓声を上げたり、中には涙を流している姿もあったといいます。それほどまでにこの地域では水の配分が重荷になっていたということです。
 山王海農業水利事業は用水の不足を解消し、水利慣行やそれに伴う水争いを根絶した画期的な事業であったといえます。


icon 8.山王海水利事業の概要



 (1) 受益地
 紫波郡紫波町、矢巾町、稗貫郡石鳥谷町

 (2)受益面積
 3,890ha

 (3) 主要工事
 ・山王海ダム嵩上げ
 ・葛丸ダム新設
 ・稲荷頭首工
 ・中央頭首工
 ・葛丸頭首工
 ・葛丸上流頭首工
 ・稲荷幹線用水路
 ・南幹線用水路
 ・中央幹線用水路
 ・葛丸幹線用水路
 ・開拓分水工
 ・山王海導水トンネル
 ・葛丸取水トンネル
 ・水管理システム

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岩手県 ―山王海農業水利事業