岩手県は本州の北東部に位置し、東西約122km、南北約189kmで南北に長い楕円形をしており、面積は約15,275km2と広く、その広さは北海道に次ぐ面積であり、日本の面積の4%を占めている。(出典:岩手県ホームページ)
本地域は岩手県内陸部のほぼ中央部にある花巻市・北上市に位置し、西側には奥羽山脈があり、これと平行して北上高地の山並みが連なり、肥沃な北上平野が広がっており、冬は寒さが厳しく、夏は暑い内陸性の気候を示している。
地域農業については、昭和36年に完成した豊沢ダムにより、必要な農業用水が確保されたことから、宮沢賢治が花巻農学校時代の夜水引の体験を詩に残した、「ヒデリ」による農民同士の水争いが解消される事となった。また、関連事業として実施された県営豊沢川潅漑排水事業及び団体営区画整理事業、農地造成事業が昭和40年3月に完工し、このことにより本地域の農業生産基盤が確立された。
その後、県営ほ場整備事業の実施により大区画化と農地集積が進み、経営規模5ha以上の農家数は、昭和60年の62戸から令和2年度の370戸へと約6倍に増加している。
また、水稲以外の作物として従来から水田で栽培されていた雑穀(ハトムギなど)については、岩手県全体における雑穀栽培面積の約3割を占める花巻市では、作付面積が約807ha(令和2年現在)まで拡大しており、経営規模の拡大及び複合経営が進展し、岩手県内有数の穀倉地帯へと変貌を遂げている。
(出典:岩手県・花巻市HP、2020農林業センサス、土地改良289号)
(1)豊沢川の由来
豊沢川が、何故に豊沢と言われる様になったかについては、文化3年(1806年)に刊行された「旧蹟遺聞」(きゅうせきいぶん)で次のように述べている。
「胆沢郡よりおくのかた、しられかたがりしかば、其の地をさして、其の頃は凡よ遠胆沢とよびけんかとおぼゆるよし」とある。
遠胆沢公母志(とおついさわのきみもし)が出雲で叛俘(はんふ)(叛乱を起こした俘囚(ふしゅう))を討った功により、従五位(じゅごい)を授けられたことは「類聚国史」(るいじゅこくし)「日本後記逸史」(にほんこうきいつし)に書かれているが、この人は豊沢川河畔の生まれで、出雲に移された人と思われる。
今は豊沢と書くが、なお土地の人は「トイサワ」と発音するが、これは古語が残っているものと思われる。
平安時代の頃は、今の胆沢川周辺までが王化に浴したため、804年頃に多賀城から鎮守府が胆沢城に移されて官治の北限とされた。その後次第に北進して花巻付近まで進出したのであるが、遠くの胆沢という意味で「トホイザワ」と称したのが、豊沢川の名称となったというのが、今日の定説である。
(2)岩手における水利事業の起源
平安時代に坂上田村麻呂が岩手の地に802年胆沢城、803年志波城を築き屯田兵が置かれた。これが岩手における本格的な水田開発の始まりと考えられている。
前9年、後3年の役を経て藤原氏が陸奥押領使(むつおうりょうし)となり支配するようになったのは、1092年であり、平泉に本拠を移し三代の間に中央文化に匹敵する黄金文化を築いた。このような文化を築くことが出来たのは、農業生産力をはじめ金や漆などの優れた経済力であった。
藤原三代目秀衡の時、現代の農業水利施設につながる水利事業が明らかにされている。すなわち、秀衡の家臣である照井太郎高春は、天保元年から磐井川五串の滝に用水を引き入れる事業に着手し、文治5年(1189年)に戦死したが、その息子が関係村民を使い数年後に水路を開削した。これが磐井川の厳美渓上流部に設けられた照井堰の起源と言われている。
(3)豊沢川の諸堰について
①新田堰(しんでんせき)
本堰は豊沢川の最上流部にあり、従来の固定堰は相当の構造であるが、下流との慣行から全長を締切ることが許されず、右岸寄り堰中に幅2.6m、高さ2.0mの分水口より取水していた(分水口は土砂吐兼用として角落しを挿入する構造)ものであるが、盛夏に晴天が続き河川水が漸次減少すると、慣行を無視して遂には全部締切る様になる。これにより河川水が全て遮断されるため下流の大口堰や各堰は、その不当を憤り河川水の流下を迫って大挙して新田堰取入口に殺到し、彼我相対(ひがあいたい)して小競り合いが始まるのである。
この様な事態になると、勝負は大勢に掌握されるので、昔から闘争が激甚となり負傷者等が出る様になる。大正12年から14年の3年間、近くは昭和4年、8年の旱魃では最も激甚で農民1,000人以上が動員されたと言われている。
これは下流の各堰との紛争であるが、このような時期には本用水路の水掛り区域内においても引水には相当の論争を生じ、各部落や役人が相互に反目し、昼夜の別なく引水に没頭し水守をしてきた。また、本用水路のかんがい区域は遠く花巻地内にまで灌漑しているため、下流部の花巻区域は移植時に既に用水不足を来たすため三々五々隊を組織して上流部の小分水口を取り外すため巡回し取水を行うが、その取水は一時的なもので、三々五々隊が通過した後は直ちに遮水されていた。
この新田堰は、昭和22年の水害で全部流出したことから、県営施行による大幹線用水路の堰提として建設された。
②大口堰
奥寺八左ヱ門の開削と言われているが、古文書は無く不明である。この堰は関係者が最も多数であり豊沢川筋では最大の勢力を持っている。この堰も従来の新田堰と同様の紛争が多く、本堰の用水掛かり内の紛争も新田堰と同様である。
③神山堰
渇水期には、上流の新田堰、大口堰の二つの堰により豊沢川の河川水が殆ど取水されるため用水不足が甚だしく、大口堰の浸透水と蟹沢の余り水を引用するほかに方法は無く、本堰の用水掛かり内の紛争も新田堰・大口堰と同様である。
④河川法の制定
明治29年(1896年)に河川法が制定され、水利権に法的根拠を持たせて水の合理的利用を図ることになったが、用水不足は甚だしく、地区内に水利慣行はあるも水利紛争が度々発生した。
また、台川では台堰によって全量を取水することが出来る水利慣行があり、下流の堰では順次、浸透水や渓流から台川へ集まった流水を、各々の堰で取水する水利慣行となっており、台川の下流に至るに従って旱魃被害が甚だしい状況であった。
(4)県営土地改良事業の着手
大正元年、花巻電灯株式会社によって豊沢川新田堰より取水し、松原地点の水位落差を利用して、使用水量約8.9m3/s、落差約1.5m、出力50kwの発電がおこなわれた。
その後、大正10年6月に盛岡電灯株式会社に合併され、花巻電灯株式会社は廃止されたが、この発電事業が行われたことで、豊沢川水系の水争いに拍車をかける結果となった。
特に大正8年の旱魃により、受益農家に豊沢川奥地への用水溜池の必要性を痛切に考えさせるに至り、岩手県は溜池予定地並びに受益地域の調査を大正10年に着手した。
大正15年には農林省が現地調査を実施したのを皮切りに、昭和3年に前土地改良区理事長平賀千代吉氏並びに現理事長斎藤光市氏等が豊沢川上流を調査し「まごとろざわ」を溜池予定地とし、花巻町内の有志から溜池建設の同意を得ることが出来た。
昭和8年、地元の各町村長並びに有志が会合し、溜池築造のための細部調査を岩手県に陳情し、同年8月に岩手県耕地課の調査が行われた結果、計画の骨子としては旧水田の補水に加え、清水野、山口野、後藤野の開田計画を加えることになり、関係町村は花巻市ほか8ケ村、受益地域は旧田2,500ha、開田1,500haとし、国営事業で行うよう運動することとなった。
同年9月に関係町村長及び地元有志20名が花巻町役場に集合し、農林省の調査を請願するため、関係町村長による「豊沢川国営事業期成同盟会」を設立し、会長は花巻町長、副会長は湯口村長であった。
以上の農林省への請願が認められ、昭和10年3月まで農林省が地域を踏査し、昭和10年8月より10月まで農林省並びに岩手県より測量隊が入り、溜池予定地、幹線用水路の測量、溜池のボーリング調査等が行われた。
昭和11年4月に関係町村長が協議し、国営事業の推進団体として耕地整理組合を設立する準備を進めたが、計画では豊沢川の上流に新たに取入口を設置する予定であることから、『既存の湯口村新田堰・大口堰等の豊沢川水系の水口の重要性を考慮せず、農民の負担のみを重くするものである』として反対運動が起こり、ついには花巻警察署長の調停により、設立運動並びに反対運動を延期することで双方が申し合わせた。
以上の事由により、「豊沢川国営事業期成同盟会」は解散したが、平賀千代吉氏を中心とする人達は最後まで目的貫遂の意思を捨てず、昭和13年4月稗和西部耕地整理組合設立認可申請を岩手県に提出した。
岩手県はこれに対し昭和13年12月21日に設立を認可しているが、湯口地区新田堰掛かりには反対の動きがあり、新田堰水路の利用については承認しなかった。この時の申請書に添付されている貯水池の計画概要は、土堰提で堤高26m、貯水量3,840,000m3であり、ダムの位置は白沢川合流点下流200m地点であった。
以上の経過を経て『県営土地改良事業』として事業実施する事となり、豊沢に貯水池を築造するための事業負担団体が発足し、併せて新田・大口・神山の各堰も湯口村長の説得により、幾何もなく事業に参加する事となった。
その後、昭和16年7月岩手県営稗和西部用水改良事業として認定になり、6ケ年計画で溜池並びに地区内井堰の統合、用水路の新設改修を行う事業に着手し、昭和16年より貯水池の仮排水隧道・仮締切工事・用地買収等が行われ、昭和18年より大幹線用水路の開渠・隧道工事が施工されている。
しかし、大東亜戦争が苛烈となり、労務や資材が欠乏し工事の継続が不可能となり、事業は一時休止状況のまま終戦を迎えた。
(5)国営豊沢川土地改良事業の着工(一期)
①国営事業への移行
終戦後の食料事情の悪化に伴い食料増産が叫ばれたが、県営土地改良事業では事業の進捗が捗々しくないため、国営事業による早期の事業完了を目指すため、国に対し受益農民が一体となって度重なる陳情が行われた。
その結果、昭和24年7月に国営土地改良事業による施行が国に認められ、事業を岩手県より継承実施する事で事業所が開設され、同年10月15日に起工式を行い、昭和25年3月31日に岩手県からの事務引継ぎを完了した。
事務引継ぎ時は、豊沢ダムのほか地域内の井堰の統合、並びに幹線用水路も含めていたが、その後に水源施設の豊沢ダムのみを国営施行とし、地域内の諸事業については県営施行とする事となり、土地改良法による計画決定では、豊沢ダムのみを国営土地改良事業として昭和25年12月に告示されている。
一方、昭和24年8月4日に土地改良法(昭和24年法律第195号)が施行されたことにより、「稗和西部耕地整理組合」は昭和25年12月27日付けで組織変更を行い「稗和西部土地改良区」となり、充実した体制のもとに国営ダム工事の事業促進を図る事となった。
②ダム位置の変更
昭和25年度は、運搬道路並びに仮排水隧道仮締切工事、仮設建物等の工事が本格化し、セメントサイロ・混合工場・砕石工場等の主要仮設工事は、昭和28年度にほぼ完成した。
仮設工事と並行して、重力式コンクリートダム地点の地質調査並びに提体の床掘工事も進められたが、ダム計画地点右岸の地質は予想外に悪く、風化花崗岩が意外に深く、重力式コンクリートダムを築造するには、余りにも不経済・不適当であることが調査の結果判明した。
このことから、昭和28年に地質専門家の調査並びに打合わせが再三行われ、当初計画された地点より250m下流地点を新たに調査する事となり、同年8月より昭和29年3月までの間に詳細な地質調査を実施した結果、上流地点に比べ地質も良好でコンクリート量も少なく経済的であることが判明したことから、堰提地点を下流地点へ変更することとなった。
③計画変更・工事完了
昭和28年から昭和30年にかけて、岩手県への委託による受益面積の調査・計画が行われた結果、開拓地域内の開田可能面積並びに入植と増反計画が決定し、開拓地内の必要水量が確定した。
また、県営土地改良事業による開田計画(地目変換)も調査が進められ、開田希望面積が増加することが判明し、ダムの貯水量を大幅に増量する必要が生じた。
って、昭和30年に国営事業計画を変更する事となり、旧田補水量、開田所要量を詳細に調査した結果、開田面積が648ha増加し1,024ha、ダムの貯水量は2,335万m3でダムの貯水位が3m高くなり、昭和31年12月6日付けで計画変更が認証され。その後、工事は年平均25,000m3のコンクリート打設を実施し、昭和35年度に本体コンクリートの打設並びにダム付帯機器一切の取付工事を完了した。
(6)用地補償
①水没地の沿革
豊沢の住民は全て高橋性で、平家の落人と自称しているが、往昔、三ノ又縫之助と云う落人が住んでいたと伝えられる。
豊織時代に武田信玄の家臣に高橋新助と云う人がいて、九戸政実叛乱の折に今の台温泉入口の高館の地に住居していたが、戦に敗れて豊沢に逃げ匿われた。即ち高橋氏が南部氏に攻められて敗北した永享8年(1436年)当時の台城主高橋氏の一族と称される。
その頃、以前から豊沢に住んでいた三ノ又縫之助と仲が悪くなり、遂には討ちあいとなり、三ノ又縫之助は高橋新助に滅ぼされたと伝えられており、豊沢一円は高橋新助により約590年前に拓かれたものと思われ、これが高橋性の豊沢におけるそもそもの始まりと伝えられる。
その後、年は移り昭和に入りダム建設の話が台頭してくると、もともと団結心旺盛な住民は挙げてその計画に反対し、昭和10年9月2日豊沢川溜池設置反対大会を開催し、岩手県知事に嘆願書を提出、同年11月15日には内務省、農林省に対する嘆願陳情を行う如き情勢の変化を見るに至った。
また、昭和13年9月に岩手県の経済更生指定村となり、経済更生5人組の結成により、豊沢は暫らく繫栄し昭和14年に豊沢平和郷を謳歌するに至った。
しかしながら、ダム建設計画は昭和16年に入り岩手県営稗和西部用水改良事業として岩手県に認定され、着工の運びとなり、500年余りの栄枯に終止符を打つ事となり、やがて湖底に変わる悲しみは、むしろ村造りへの意欲となり大東亜戦争に民心は一致したが、昭和20年8月15日の終戦を迎え意気消沈する事となった。
なお、着工していた岩手県営稗和西部用水改良事業は、大東亜戦争の影響で休止とっていた。
その後、昭和24年7月に農林水産省豊沢川農業水利事業が発足となり、再建の夢いくばくもなく湖底に変わる将来に民心が動揺する事となったが、やがて来るであろう発展に大同団結し、昭和27年4月24日「水没補償協定成立調印」に及んだ。
ここに、豊沢500年の歴史は消えたが、共にダムの受益者として再び大きな発展と繁栄が約束される事となった。
②水没集落
豊沢地内で水没対象となった集落は、豊沢地内豊沢川下流より白沢、豊沢、桂沢は豊沢川の右岸に、幕舘は左岸にあり、4集落の全戸数54戸(338人)が水没対象となった。但し、字桑木田に点在した4戸(28人)は、水没対象の4集落の住民と親戚関係にあり、4集落の54戸全て移転したため生計を維持する上で不安定となるため、間接移転を余儀なくされ、ここに旧集落民58戸366人全てが移転する事となった。
③土地利用状況
旧県道花巻~六郷線の沿線に白沢、豊沢、桂沢集落の宅地があり、豊沢川沿いには水田、宅地周辺及び緩傾斜地付近には畑が拓かれ、その他は山林となっている。
幕舘集落は堰嵩上げの計画変更(昭和31年12月6日認証)に伴い水没する事となった集落で、豊沢川左岸に一団地を形成していたが、その農地の大部分が水没する。
水田は山間高冷地に在りながら収量は割合に良好で、畑は専ら自家野菜に利用されてきた。
周辺の山林はその大部分が国有林又は牧野組合の原野、共有地等で利用されており、個人の所有地としては集落の近傍地に若干あるのみである。なお、部落近傍林は主に薪炭用材に利用され、家計の重要な資金源となっていた。
ダムの奥地は殆どが国有林となっており、広葉樹が多く主としてパルプ材として搬出されていた。また、営林署の特売用材払下げ等による製炭が冬季における只一の仕事であり、集荷用倉庫4棟を保有していた。
④鉱業及び漁業
岩手県花巻市豊沢桂沢官地内に岩手県砂鉱第293号により砂金鉱区が設定され、岩手県和賀郡東和町土沢河東田正夫所有の休業中の鉱区であるが、延長はL=3,181mあり、豊沢川と桂沢の合流点から、桂沢を遡る一部分が水没対象となった。
漁業権としては、豊沢川と北上川の合流点から豊沢川を遡る豊沢川本流及び支流には、昭和18年旧漁業権(非出資)が設立され、その後は毎年稚鮎、うなぎ等の放流事業が行われており放流量は4万尾から6万尾で、現在は豊沢川漁業協同組合(組合員約80名)で運営されている。
⑤用地補償
昭和24年に県営事業から国営事業へ引き継がれ、7月より起工承諾事務を開始し、年度内に全戸の承諾を得て、昭和25年度には水没農地、土木水没家屋等の環境調査を行う一方、補償項目の立案調停、同算定要領の整備を行い、昭和26年度に亘り要目別の折衝を開始した。
折衝は団体折衝の方式で行い、水没者側の予め決められたグループ(要目別代表)に対して当局側の意思を反映させる協議形式とした。
昭和17年県営買収当時の時価上昇に伴う再買収、補償を要望され苦慮する時もあったが、これらの要望点は要目に尊重され生活補給金の要素に入れられる所となり、昭和27年4月24日に漸く第1次協定書の調印式を行った。
これが昭和31年の提体嵩上げに伴い水没する対象者に対して、第2次対象者と称する事となった由縁である。
この第1次協定書調印式には水没対象57名と仙台農地事務局建設部長を初めとして岩手県耕地課・開拓課・農地課の三課長、稗貫地方事務所長、花巻土地改良事務所長、湯口村長、稗和西部土地改良区理事長他関係者が立会し挙行された。
その後、第2次協定成立調印を昭和33年9月26日に事業所において挙行し、完了年度である昭和35年度には、付替道路の道路敷用地の買収を始めとして、懸案であった水没1戸の補償、漁業及び鉱業等損失補償について妥結した。
(1)事業の概要
国営かんがい排水事業により実施する豊沢川地区は、岩手県のほぼ中央に位置し、花巻市及び北上市にまたがる4,250haの水田地帯において、農業用水の安定供給及び維持管理費の軽減を図るため、経年変化により老朽化が進行している豊沢ダムの改修を行うと共に、ダムからの有効落差を利用した小水力発電を行うものである。
(2)事業の目的・必要性
豊沢川地区の営農は、水稲を中心に水田の畑利用による小麦、ネギ、えだまめ等を組み合わせた農業経営が展開されている地域である。
豊沢川地区の基幹的な農業水利施設である豊沢ダムは、国営豊沢川土地改良事業(昭和24年度~昭和36年度)により造成されたが、経年的な施設の劣化によりコンクリート構造物のひび割れや欠損、鋼構造物の腐食や変形等が発生し、農業用水の安定供給に支障を来たすと共に、維持管理に多大な費用を要している。
このため本事業により豊沢ダムの改修を行い、併せて小水力発電施設を新設することにより、農業用水の安定的な供給と維持管理費用の軽減を図り、農業生産の維持及び農業経営の安定に資するものである。
(3)施設の劣化状況(提供:豊沢川農業水利事業建設所)
(4)事業実施概要 (提供:豊沢川農業水利事業建設所)
(5)施設の整備状況(出典:東北農政局ホームページ 豊沢川農業水利事業建設所)
引用文献
1.
東北農政局ホームページ 豊沢川農業水利事業建設所
2.
豊沢川土地改良区ホームページ
3.豊沢ダム工事誌 東北農政局
参考文献
1.
岩手県ホームページ 岩手県の面積・気候
2.
花巻市ホームページ 花巻市の紹介
3.土地改良289号 2015.4 土地改良 一般社団法人 土地改良建設協会
4.2020農業センサス (組織経営体別戸数、水田栽培雑穀面積)
2025年11月20日公開
(出典:東北農政局ホームページ豊沢川農業水利事業建設所)