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1.栗駒山(くりこまやま)と迫川(はざまがわ)
2.集落の形成
3.中世の迫川流域
4.伊達藩が行った主な水利事業
5.明治以後の開発
6.迫川上流農業水利事業 概要

icon 1.栗駒山(くりこまやま)と迫川(はざまがわ)



 温度計のなかった昔は、田植えの時期を様々な自然現象から読み取りました。雪の多い北国では、山の残雪や露出した山肌の模様から地域の気温を知りました。
 この地方は栗駒山。下の写真のように栗駒山中腹の残雪が駒(馬)の形となって春の到来を告げ、その豊かな雪解け水を山里にもたらします。

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 栗駒山からこの地域へ流れ出る川は一迫川、二迫川、三迫川。いずれも平野で合流し、迫川(はざまがわ)」となります。文字どおり山と山の挾(はざま)を流れてくる川の意味でしょうか。あるいは、この川が古代ヤマト政権の勢力範囲と蝦夷勢力の挾間(境界線)であったとする説もあります。古代からこの地は東山道(江戸以降は奥州街道、現国道4号)が通り、北上盆地(一関、平泉、胆沢など)に入る手前という軍事上の重要な地点でした。東国制覇の拠点として築かれた多賀城、胆沢城の中間にあり、この川がヤマト政権の前線であったという説もうなずけます。
 ヤマト朝廷は、言うまでもなく稲作を財政基盤とする政権であり、その意味では古代、この地域が稲作の最前線であったということにもなります。しかし、現在のような穀倉地帯となるには長い時と労力を必要としました。

icon 2.集落の形成



 続日本書紀によると「神護景雲元年(767年)陸奥国栗原郡を置き、伊治城を築き、3年造営を終わる。その土沃壌にしてその毛豊穣なり。百姓2千5百余人陸奥の国伊治村に置く。また延暦15(796年)関東・出羽・越後の国民9千人を発して伊治城に遷し置く。」という記述があります。この伊治城がどこかについては諸説ありますが、伊豆沼の北西付近(築舘市城生野)とするのが有力とされています。遺構・出土品の状況から一迫川と二迫川合流点に伸びてきた舌状の台地の端に位置し、その規模は東西約800m 南北900mであったと推定されています。文面から察すると、意図的に住まわせたようで、おそらくは集落の形成は自然発生的なものではなく軍事上の理由によるものだったのでしょう。
 「和名抄」によると栗原郡には栗原郷・清水郷・中村郷・会津郷、新田郡には山沼郷・貝沼郷の名がでてきます。栗原郷は二迫川、清水郷は一迫川、中村郷は三迫川の流域に、山沼・貝沼郷は伊豆沼周辺と考えられます。郷は当時の集落につけられた名称であり、この郷の存在する場所は河川の自然堤防の上や、丘陵の麓、河岸段丘面などの水利の良いところが選ばれて、集落が形成されていったものと思われます。

icon 3.中世の迫川流域



 奥州の豪族であった安倍氏は9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、11世紀の初めには俘囚(ふしゅう:帰属した蝦夷人)の長として奥六郡※の北上川一帯を支配していました。しかし、その後、藤原氏、清原氏などが台頭し、いくつかの戦乱を経て奥州藤原三代が、中尊寺金色堂に象徴される100年の栄華を極めます。しかし、源頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに、義経追討を口実に奥州に軍を進めて平泉に攻め入り、藤原氏を滅亡と追いやります。
 奥州藤原氏が関白道長に寄進したとされる荘園、高鞍荘は三迫辺りとされ、迫川の川沿いは早くから荘園をもった集落が存在していたことを物語っています。
 その後、源頼朝から関東御家人として福島地方に所領を与えられていた伊達氏が頭角を現し、慶長8年(1603)、伊達氏は秀吉によって仙台に移封されます。政宗はこの時の、減封、移封によって受けた経済的損失を取り戻すために、領内の産業、特に鉱山の開発を進めるとともに、北上川をはじめとした河川流域の低湿地や野谷地(耕作されていない湿地帯)の開拓を奨励します。慶長から元禄に至る17世紀のおよそ百年の間に北上川流域、迫川流域の主要な水利開発が展開され新田開発は意欲的に進められていくことになります。

※奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国(東北地方太平洋側)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から岩手県盛岡市にかけての地域に当たる。

icon 4.伊達藩が行った主な水利事業



 天正以前、仙台藩が成立するまでは、集落は多く丘陵地に点在し、水田開発は谷地、川沿いに点在していたにすぎず、迫川中流以下は低湿氾濫の地が広がっていました。
 伊達藩は譜代の家臣のほかこの地の領主であった葛西氏、大崎氏の遺臣をも召し抱え、増大する家臣団への知行給与に当てるため未墾地を野谷地として与え、自分で開発させました。このため家中の多くは半農半士的な生活を営み、藩政初期には野谷地開発の直接の担い手となりました。これによって迫川上流域の開発は急速に進みました。

・主な水利事業
●慶長9年(1604年)水沢より登米に移封された白石相模宗直は、北上川の改修を藩に願い出て川村孫兵衛重吉に工事を実施させました。工事は7年に及び、水越地点で締切を行い、その頃、迫川の方に流れていた北上川本流に相模土手を築いて東側の河道に導いて南流させました。この転流工事によって迫川は北上川と分離され、登米の西一帯は水害が軽減されることになり農地としての開発が可能になり、石高も一万石から二万石へと増加したと言います。
※相模土手とは白石相模宗直にちなんで名付けられた堤防で6Km 以上におよびます。

●元和2年(1616年)川村重吉は引続き伊達政宗の命を受けて江合川と迫川を合流させ、
さらに寛永3年(1626年)に北上・迫・江合川筋を一本にまとめる舟航路を開きました。
 当時、北上川は川幅が狭いうえに流れも早く、大雨が降る毎に洪水を引き起こしていました。また江合川・迫川などの河川も同じ様に氾濫を繰り返し、この流域沿岸は氾濫源などの湿地帯や湖沼地帯がいたるところに存在する原野でした。この仙台平野の干拓と新田開発こそが、仙台藩の悲願だったのですが、この合流工事により、北上川・江合川・迫川の水流が安定し、新田開発は急速に進みました。記録によれば、北上川流域だけで、実に四十万石以上の田が開かれたと伝えられています。

●慶長17年(1612年)迫川流域夏川の堀込み。元和2年(1616年)長沼土手築堤に着手。元和7年(1621年)には富塚某が石越・若柳の野谷地300町歩の開発に着手しています。長沼は元和8年(1622年)には氾濫遊水地から用水池に変わり、夏川排水路は寛永18年(1642年)に完工しました。

●正保3年(1646年)一迫川右岸に伊豆野堰が完成。
●延宝元年(1673年)一迫川左岸に鹿島堰着工、7年で完成。
●元禄7年(1694年)三迫川に軽辺堰開発。
●元禄13年(1670年)三迫川左岸に板倉堰完工。
●元禄9年(1696年)藩直営で伊豆沼長紹の干拓に着手。

 江戸中期以降は、補修改修をおこなった記録はありますが、積極的な開発の取り組みは見られなくなります。水害が収まらないため強固な堤防をもとめる村々の動きがありましたが、莫大な資金が必要なことから計画のみで挫折することの繰り返しでした。

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【図】迫川上流地域の農業水利

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【図】北上川・迫川下流地域の開発


icon 5.明治以後の開発



 明治29年(1896年)河川法が制定され、重要河川から国による治水対策が実施されるようになります。この地域でも藩政時代すでに懸案となっていた下流域の洪水対策は、新北上川(柳津飯野川間)の開削と新迫川の開削によって実施されています、また、夏川筋の排水改良、伊豆沼・長沼周辺の開発も進められることとなりました。 
 迫川上流部は、部分的な水害はあったものの、川に堰を設け用水路によって導水しているため、下流低湿域に比べれば生産力の安定した水田地帯でした。伊達時代初期の水利施設はすでに二百数十年を経ていましたが、まだ充分機能していたために、かえってこの地域の改良事業は後回しにされました。
 しかし明治末年から東北地方では冷害、水害が相次ぎ、米価の下落、諸物価の上昇から農村は極度に疲弊し、大正未には借金から小作に転落する農家が多くあらわれました。やがて次第に戦時経済に組み込まれていき、水利施設は更新されることなく戦後を迎えることとなることになります。

 戦後は食糧の増産が叫ばれました。海外からの引揚者受け入れのために緊急開拓が実施され、栗駒山中腹や迫川上流地域に10ヵ所の開拓村が生まれ、347戸が入植、開拓道路も造られ高原農業の先駆となりました。
   昭和22・23年にはカスリン・アイオン台風が迫川上流地域に大きい洪水被害をもたらしました。この未曾有の災害に本格的な対策が求められ北上特定地域総合開発計画が策定されます。この地域では洪水を防止し、用水を確保する等の総合開発事業として一迫川に花山ダム、三迫川に栗駒ダムが建設されることとなり、また南谷地・長沼の遊水池機能も強化されました。

 花山ダムは同32年に完成。栗駒ダムは同36年に完成します。さらに、ほ場整備の進展や排水改良は県営事業として整備されていきますが、この地域のかんがい用水については2つのダムが整備されたものの河川自体の水量が乏しいため、排水河川の水を堰上げし、厳しい番水制を実施しながらかろうじて用水不足に対処しており、恒常的な水不足に苦しんでいました。さらに、取水施設は、伊達藩時代のもので、老巧化が著しく、小規模な施設が多いため、維持管理に多大な労力と費用を費やしていました。また、ほ場の整備が遅れ、小区画が大部分を占めていました。しかも、地区の下流部は排水不良による湿田ないしは半湿田状態にあり極めて厳しい条件の農業地帯でした。依然不足勝ちで、時間を限って順繰りに取水する「番水」といわれる水利慣行が継続していました。

icon 6.迫川上流農業水利事業 概要



 迫川上流事業は、宮城県北部の栗原郡及び登米郡にまたがる築館町他7町と岩手県西磐井郡花泉町に拡がる水田10,870haに安定したかんがい用水を供給するものです。
 迫川上流事業の対象地域の主な水源は、北上川水系迫川及びその支流の二迫川、三迫川並びに花山ダム(迫川)、栗駒ダム(三迫川)に依存していましたが、二迫川に荒砥沢ダム、迫川支流の長崎川に小田ダムを新たに築造して新規水源を確保し、更に約80ヵ所の取水施設の統廃合による用水利用の安定と合理化を図る為、軽辺、板倉、一の堰、伊豆野、川台の5頭首工、および、新山、石越の2揚水機場を新設又は改築し、幹線用水路約52km の改修を行いました。
 また、荒砥沢ダム及び小田ダムは宮城県の迫川総合開発事業との共同事業として推進しました。

事業概要
地区名 迫川上流地区
所在地 宮城県栗原郡  築館町、若柳町、栗駒町、一迫町、鶯沢町、金成町、志波姫町、登米郡石越町、岩手県西磐井郡花泉町
かんがい面積 10,680ha
(許可(分割)5,400/0ha 志波姫町、花泉町を除く)

[主要工事]

荒砥沢ダム
  二迫川右岸
  宮城県栗原郡栗駒町大字深山岳国有林25林班のい1小班外
 位置
  二迫川左岸
  宮城県栗原郡栗駒町大字荒砥沢52番地の1外
河川名 北上川水系 二迫川
型式 ゾーン型ロックフィルダム
堤高 H =74.4m
堤長 L =413.7m
堤体程 V =3,048千m3
     総貯水量13,850千m3
貯水量
  有効貯水量12,840千m3

小田ダム
  長崎川右岸
  宮城県栗原郡一迫町長崎不動西32番地先
 位置
  長崎川左岸
  宮城県栗原郡一迫町長崎川台53番地の12外
河川名 北上川水系 長崎川
型式 ゾーン型ロックフィルダム
堤高 H =43.5m
堤長 L =520.0m
堤体程 V =1,236千m3
     総貯水量8,710千m3
貯水量
  有効貯水量8,000千m3

軽辺頭首工
位置 宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎大水門2番地の2地先
河川名 北上川水系 三迫川
型式 固定堰(既設)
取水ゲート 2.00m ×1.20m ×2門

板倉頭首工
位置 宮城県栗原郡金成町沢辺字外袋17番地の1地先
河川名 北上川水系 三迫川
型式 可動堰
洪水吐 3.20m×28.05m×1門
土砂吐 3.50m×10.55m×1門

一の堰頭首工
位置 宮城県栗原郡栗駒町大字深渡戸40番地の1地先
河川名 北上川水系 二迫川
型式 可動堰
洪水吐 2.40m×23.20m×2門
土砂吐 2.65m×11.00m×1門

伊豆野頭首工
位置 宮城県栗原郡一迫町真坂字柳原67番地の1地先
河川名 北上川水系 迫川
型式 可動堰
洪水吐 2.05m×21.10m×3門
土砂吐 2.30m×10.70m×1門

川台頭首工
位置 宮城県栗原郡一迫町長崎川台27番地の1地先
河川名 北上川水系 長崎川
型式 可動堰 洪水吐 1.03m×21.60m×1門
土砂吐 1.80m×3.00m×1門

新山揚水機場
位置 宮城県栗原郡若柳町字川南上堤181番地先
河川名 北上川水系 迫川
型式 横軸両吸込単段渦巻ポンプ φ1,200 ×1台、φ700×1台
実揚程 13.75m
全揚程 15.00m

石越揚水機場
位置 宮城県栗原郡若柳町字北二股86番地の1地先
河川名 北上川水系 迫川
型式 横軸斜流ポンプ φ900×1台、φ600×1台
実揚程 5.35m
全揚程 6.00m

用水路 幹線用水路 54,100m
 軽辺幹線用水路9,700m
   板倉幹線用水路7,000m
 一の堰幹線用水路8,700m
 伊豆野幹線用水路16,600m
 川台幹線用水路6,100m
 新山幹線用水路3,400m
 石越幹線用水路2,600m

■事業費
一期事業 64,028,000千円
二期事業 10,900,000千円

■事業工期
一期事業 着工 昭和51年度 完成 平成8年度
二期事業 着工 平成3年度 完成 平成  年度