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1.地域の概況
2.地域開発の歴史
3.大崎地域の農業農村整備事業の概要

icon 1.地域の概況



 本地域は、宮城県北部の北上川水系江合川と鳴瀬川流域に展開する大崎市、東松島市、松島町、色麻町、加美町、涌谷町及び美里町の2 市5 町にまたがる約2 万ha の地域で「大崎耕土」と称される県内有数の穀倉地帯である。
 地域の概況は、北西部~西部は秋田・山形県と接して奥羽山脈の山々が連なり、東に向かって傾斜しながら平坦地が形成されており、地形を大別すると北西部~西部の山岳地域と、そこから広がる丘陵地域、中心部~東部に広がる平坦地の3地域に区分される。
 北西部~西部地域の山岳地域は、湯量・泉質の豊富な鳴子温泉郷やグリーン・ツーリズムの拠点となっている薬莱山麓等が点在し、ここに訪れる都市住民との交流の場となっている。
 丘陵地域では大規模な畜産や野菜の生産が行われており、中心部~東部地域は、平坦で肥沃な農地が展開され、古くから「ササニシキ」「ひとめぼれ」に代表される銘柄米の産地として知られている。

icon 2.地域開発の歴史



2.1 縄文時代

 今から1万2千年程前の縄文時代の始まりは、岩手県花泉町の金森遺跡の花粉分析によると、ブナ属、コナラ亜属、カエデ属、トチノキ属、クリ属等落葉広葉樹の花粉が高い出現率を示しており、亜寒帯の針葉樹林や草原が後退し、氷河期に終わりをつげて温暖化に向かった時代である。
 この温暖化は、海面の上昇をもたらし、現在の日本列島を造りだすと共に、温暖化により自然条件が変化して新しい時代を育む原動力となった。
 約1万年前から海面が早いペースで高くなる“縄文海進”により、縄文時代前期の中頃(6,500~5,500年前)には現在の海面より高くなった時期もある。
 縄文海進の進行と共に、気温が上昇して雨量が増加し、内陸では台地等で斜面の侵食が活発化し、溺れ谷や浅海も形成された。また、日本海の拡大と共に対馬暖流が流れ込み、冬における日本海の豪雪風景も出現することとなった。
 江合川と鳴瀬川に挟まれた美里町(旧小牛田町)北浦の『山前遺跡(国指定記念物史跡)』は、縄文時代早期~中期の竪穴式住居跡や、古墳時代から平安時代の集落跡が複合している遺跡であり、木製の鋤先、砧、突き棒、竹製の笊、籠などが多数出土し、学術上貴重な埋蔵文化財と位置づけられており、現在は史跡公園として整備・開放されている。

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山前遺跡

2.2 弥生時代

 東北地方における弥生時代の水稲栽培は、冷涼な気候から西日本に比べかなり遅れていると考えられていたが、昭和58年と昭和59年に行われた青森県田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡の調査で弥生時代の水田が発見されている。
 この水田は、浅瀬石川の南岸に延びる自然堤防上に造成されており、基幹水路が東から西に30~40m間隔に配置され、その間に一辺2~6mの小規模な畦畔が碁盤の目に細分化されて、40m四方のまとまりをもっている。
 それに加え、プラント・オパール(植物珪酸体)の検出により、科学的手法によっても東北地方における水稲の栽培が実証されている。
 大崎地方においては、大崎市三丁目遺跡から弥生式土器が出土されており、水稲栽培に生産基盤をおく遺跡として、大崎市の苔の谷地・下蝦沢遺跡、野崎遺跡などがある。
2.3 古墳時代

 古墳時代は、畿内勢力を中心とする古代国家が形を整えた時期であり、4世紀から5世紀にみられる大型の前方後円墳や前方後方墳の広がりによって知ることができる。
 東北地方においては、宮城県の大崎平野から山形県の山形・米沢盆地以南の地域で、古墳時代を通して継続的に古墳が築かれている。
 奈良・平安時代に入ると、大崎市古川周辺も律令国家の中に組み込まれるようになり、以下の遺跡で知ることができる。
 清水側(しみずはた)遺跡の南約5kmには、多賀城創建期の瓦を焼いた大吉山瓦窯跡(国指定記念物史跡)、城柵または官衙跡と考えられる宮沢遺跡(国指定記念物史跡)がある。また、一般民衆の集落としては藤屋敷遺跡、高清水町西手取遺跡などが知られている。
 大塚森古墳「加美郡宮崎町(現加美町)」において、墳丘の積み土の状況と粘土槨の下部構造の確認を目的とした調査により、墳丘の土を積む際にブロックを使用していたことや、槨の下に排水施設を造っていたことが判明している。

 また、本事業における埋蔵文化財調査で、 図2-1-1に示す旧南郷町(現美里町)木間塚 字古舘地内の古舘樋管周辺部より、竪穴住居 跡、堀立柱建物跡、堀跡などの遺構や土師器 ・須恵器などの遺物が出現し、古墳時代、中 世~近世、近世以降の三世代における生活環 境が明らかにされている。


2.4 飛鳥・奈良・平安時代

2.4.1 飛鳥時代

 7世紀中頃は、畿内政権が国内統一に向けて新しい社会秩序を打ち出し、大化改新(645年)といわれた時代であり、阿倍比羅夫が東北地方北部あるいは北海道まで遠征したのもこの頃である。これらの背景には、朝鮮半島を中心とする東アジアの政治社会の再編があったことも事実である。
 7世紀には仙台の郡山遺跡で官衙(かんが)が成立していたことが確かめられており、少なくとも7世紀末には大崎平野一帯まで官衙・城柵が成立していたようである。
 7世紀末~平安時代に、玉造郡内の中心的な官衙跡であった名生館官衙遺跡(国指定記念物史跡)は、南北1,100m、東西700mの範囲で、周辺との比高10m程の台地上の標高40mに立地した中世奥州探題大崎氏の「名生城」としても著名である。
 昭和55年からの発掘調査の結果、7世紀末頃の四面庇付瓦葺の建物を中心とする官衙中枢部が発見されており、それまでの通説に反し、多賀城創建以前にも大崎地方に律令政府の支配が及んでいたことが明らかになった。
2.4.2 奈良・平安時代

 律令政府は、仙台平野の北端に多賀城を造営した。その後、天平宝字3年(759年)に北上川下流域に桃生城を造って、坂東八国および越前・能登・越後などの浮浪人を集めて移動させている。
 また、神護景雲元年(767年)に、北上川の支流迫川と一迫川の合流点の丘陵に伊治城を築き、栗原郡が置かれた。
 こうした中で、栗原郡の蝦夷の族長であった伊治公呰麻呂が反乱を起こし、多賀城を襲い壊滅させている。これを契機に政府軍と蝦夷側との戦乱が拡大し、北上川中・下流域を舞台にして約30年にわたって戦闘が繰り広げられる。
 北上川流域の戦乱が落ち着くのは、延暦21年(802年)に、坂上田村麻呂が胆沢平野の北上川西岸に胆沢城を、翌年、雫石川の南岸に志波城を築いてからである。
 北上川中流域は、平安時代の開拓により比較的安定した社会が続き、中央政府が地方政治に無関心となる。こうした中で、北上川中流域の土着の豪族である安倍氏が、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の奥六郡の司となり、北上川沿いにいくつもの柵を築いて一族を配置する。
 しかし、その後、中央政府の介入により、北上川中流域は再び戦乱の渦中に巻き込まれ、前九年の役(1051~1062年)と後三年の役で多くの犠牲者を出す。
 これらの戦乱を治めたのが奥州藤原氏である。藤原清衡、基衡、秀衡とおよそ100年にわたって藤原氏が政権を握り、当時の地方豪族が築いた文化としては最高のものと言われた仏教美術を平泉に築いて白河以北を完全に支配した。「吾妻鏡」によれば、国府は多賀城にあったが、秀衡は嘉応2年(1170年)5月25日鎮守府将軍に任ぜられ、養和元年(1181年)8月25日に陸奥守となり、陸奥国は実質的に平泉が行政の中心だった。

2.5 中世(鎌倉・室町・安土桃山)

2.5.1 鎌倉・室町時代

 中世における北上川流域の多くは、葛西氏の支配下にあった。
 北上川は、乱流を繰り返してしばしば流路を変えてきた。特に下流の宮城県登米郡・桃生郡地域は、支流の迫川と共に広大な湿地帯(谷地)を形成していた。
 中世においては、自然堤防上に集落を構え、旧河道や後背地の水田化が進められてきたが、開発をする上で、北上川本流からの直接取水の困難性、下流部における谷地の排水、中流部や支流域での用水取得が課題となっていた。
 近世までの数少ない試みと思われる本流の工事としては、承応元年(1652年)着手の仙台領江刺郡下門岡村(現北上市)の大堰(三照・倉沢・高寺村「現江刺市」方面への用水)が、700貫文(仙台藩では1貫文は10石)で新田開発に成功しているが、後に洪水等のために放棄されている。  このため、中世においては、本流に比べて用水の得やすい支流の中・上流部や、更に上流の沢等からの取水による開発が行われていた。
 源頼朝が文治5年(1185年)に奥州を平定後、東北地方は鎌倉幕府の支配下に入り、関東の武士が多数地頭に任ぜられた。大崎地方におけるそれらの人物として、加美郡の足利氏、その代官倉持氏、玉造・栗原郡の畠山氏・朽木氏・金沢氏、桃生郡の葛西氏などであったが、開発はあまり進んでいなかったと思われる。
 鎌倉幕府滅亡後、南北朝の動乱を経て、斯波家兼が文和3年(1354年)に奥州管領として下向した。後にその子孫が大崎を名乗り、大崎五郡を支配して、その家臣たちが丘陵の麓や河岸の自然堤防地帯を開発したと推測される。

2.5.2 安土桃山時代

 豊臣秀吉は、小田原を攻め落とすと、天正18年(1590)8月9日に会津黒川城に到着後、瞬く間に奥羽諸将の処分を決定した。
 大崎義隆・葛西晴信は、小田原に参候、もしくは使節を派遣しなかったため、所領を没収されて一瞬にして断絶した。このように東北の中世は、中央からの政治の力で革命がもたらされた。
 伊達政宗は、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命により、山形県米沢から旧大崎領内玉造郡岩手沢城(岩出山城)に転封され、宮城の近世は、今までの数多くの中世大名による支配から伊達氏単独で担う時代となる。
 その後、政宗は慶応8年(1603)に仙台城に入城し、仙台藩領の新田開発に着手した。
 大崎地方の葛西・大崎の旧家臣達は、いずれも旧領地に土着したので、政宗は彼らを家臣、あるいは肝入に命じて支配している。

 (1)江合川流域の水利

 新田開発が盛んになると、用水不足も起こり、江合川流域の代表的な岩出山大堰も、この時期に造られ拡張したものであった。安永の「風土記御用書出」によると古川村、稲葉村を流れる緒絶川、大江川の水源は岩出山大堰と記されている。
 『岩出山町史』によると、岩出山大堰は、伊達政宗が屋代勘解由景頼に命じて、洪水防止と潅漑用水を目的として、江合川の水を岩出山の上河原地内で分水するため、長さ14.4m、幅9.0mの木造樋門を造成したのが始まりで、この分水した用水が大崎市岩出山町内を流れている内川である。
 その後、明治期に堰の位置が、 上流の大崎市岩出山下一栗字牛の 瀬に移されている。
 「風土記御用書出」によれば、 大堰以外の堰として、二ツ石堰 (上宮村)、三丁目堰(三丁目村)、 桜ノ目堰(桜ノ目村)、小泉堰 (小泉村)、北小牛田堰(北小牛田 村)、右京江堰(小牛田村)、横埣 堰(横埣村)、馬場谷地堰(馬場谷 地村)が記述されている。
 寛永検地「正保郷帳」によると、 本地高654,110石余、新田91,182 石余、計745,292石余と、すでに 表高62万石を超えていた。

2.6 江戸時代

2.6.1 鳴瀬川の上・中流域

 鳴瀬川流域の水利施設は、安永の「風土記御用書出」によれば、上流域に中小の堰が多数みられ、加美町小野田の流域では20の堰があり、そのうち代表的なものは小瀬堰(本郷小瀬)で別名八カ村堰と呼ばれ、寛永検地の頃に造られたと伝えられている。
 中流域には、中新田・四日市場・下新田及び志田郡各村の用水施設として、支流の田川から取水する多川堰と館前堰があり、多川堰は後に鳴瀬川と田川の合流地点に移動した。
 鳴瀬川本川の取水堰は、いずれも正確な築造は不詳であるが、灌漑水下諸村の溜高から判断すると、少なくとも近世初期の開発に属し、いずれも蛇籠等による自然取水方式と想定され、増水の度に破損し流失している。
 荒川堰(王城寺村)は、『色麻町史』による と正保3年(1646年)に藩の直営工事として着 工、明暦元年(1655年)に竣工した。
 そのかんがい地域から志田堰や松山堰とも呼 ばれ、安永5年(1858年)に作成された荒川堰絵 図には、当時としては大規模で長さ15m、幅57m の堰と記されている。
 荒川堰は、大崎市松山までの通水を目的としているが、上流部の水不足の解消のため、小野田の鹿原村から取水し、月崎村・高根村を潜穴で通して高根村若林からは平堰として長谷川、保野川に落水し、志津村・王城寺村を過ぎて荒川の除に落水後、四釜村一円の用水としている。

 水害が比較的少なかった施設は、鳴瀬川支流田川の米泉地先に築造された館前堰である。
 館前堰は米泉堰とも呼ばれ、記録によると「米泉村館前堰十ヶ村入合溜高」として、加美町中新田の米泉、羽場、城生、上狼塚、下狼塚、南町、岡町、西町、雑式目および四日市場村に跨がる灌漑溜高525貫711文に及んだ  このうち四日市場村は、藩の御本穀所が置かれ、 灌漑面積も最も多かった。
 図2-6-1は、田川から館前堰によって取水される 大江(股川)を示したものであるが、末端は下流 の上川原堰に流入する水源でもあり、下流の水下 諸村は両堰の重複灌漑地帯であった。

 上川原堰は、図2-6-2のように鳴瀬 川から直接取水する堰であったが、小 野川(鳴瀬川)の締切り箇所の水深が 深いことから、毎年の堰普請に莫大な 費用と人足を必要としたため、田川に移設しており、多(田)川堰とも呼ばれている。

2.6.2 鳴瀬川下流域

 鳴瀬川下流域は、大崎地域で最も農業用水の確保に苦労しており、厳しい水利慣行のなかで水利用を行っているが、かんがい面積は2割を占め、古くから穀倉地帯として知られている。 鳴瀬川の右岸に位置する桑折江樋管、山王江樋門、阿弥蛇江樋門、山王江用水、八幡袋江樋管、さらには左岸から取水する青生江堰、不動堂樋門、臼ヶ筒用水は、近世以降に取水を開始している。

 これらの取水施設は、鳴瀬川が低平坦地に移行し、緩やかな流れに変わる場所に樋門、または樋管形式で取水するもので、現在では揚水機でなければ取水が困難な立地条件にある。 しかも、この地域には河道を締切る堰がないことも鳴瀬川上流および江合川流域とは異なる点である。
 桑折江樋管は、東北新幹線が鳴瀬川を 横断する直下流の大崎市三本木町上伊場 野地先右岸に築造された取水施設である。 その形態は、木枠の床固め工、或いは 木枠の玉石、木工沈床等を施して取入れ る方法であった。
 図2-6-3は、取水樋門と床固め工を示 したものであるが、築造年代や当時の構 造の記録はない。ただし、寛永年間の総 検地によって、灌漑区域の村高(溜高) が記されていることから知ることができる。

 鳴瀬川の最下流右岸を灌漑する山王江 用水および八幡袋江用水は、いずれも開疏 年代は不詳であるが、近世村の成立事情や 茂庭氏の知行地であったことから開発は古く、 寛永年間の木間塚村の溜高が565石9斗3升 (拝領高)であったことからも推量すること ができる。
 図2-6-4は八幡袋江樋門を示すが、夏期渇 水時には鳴瀬川の流量が涸渇するため、番水 が日常的であり、上流域の排水・残水を取水 せざるを得ず、その流末である阿久戸樋管 で集水し、大堀川の排水をも加えて取水する 構造であった。
 しかも、両用水は越水・湛水による長期の水害禍による被害に見舞われることが多かった。 さらに、夏期の渇水時には極度の水不足に襲われ、嘉永6年(1853年)には農民一揆が起きている。

 二代藩主忠宗は、山王江用水の末流にある広大な品井沼を藩直営で干拓に着手し、元禄6年(1693年)から同11年にかけて元禄排水および潜穴(「元禄潜穴」という。)、小川口逆水防止工事を竣功させている。
 この工事は明治政府にも引き継がれ、内務省御雇技師オランダ人、セイ・ファン・ドールンに調査を依頼し、明治43年(1910年)に新潜穴(“明治潜穴”という)「延長1,309m、幅員6m、高さ4mの偏馬蹄型断面」を施工し、沼内排水を高城川に落水する偉業を成し遂げる。また、工事と併行して明治22年(1889年)に品井沼沿村組合、更に明治34年に品井沼水害予防組合が設置され、水害防止にあらゆる手段が講じられた。

図2-6-5 杉ケ崎の調整水門

 明治以降になると山王江用水も大崎市(旧鹿 島台村)杉ケ崎において二つに分水し、調整水 門を備えた灌漑用水施設を築いた。  (図2-6-5参照)
 これらの干拓地と一連の水利施設は現在鶴田 川沿岸土地改良区において管理されている。
 後藤江樋門(不動堂)も、青生字松ケ崎薬師堂付近より簡易な施設で取入れていたが、洪水や河床の低下で再三取入口を変更して今日に至っている。不動堂村は後藤近元の知行地であり、元和9年(1623年)に開墾したといわれ、寛永17年(1640年)の拝領高は638石7斗2升とされ、青生村を上回っていた。
 不動堂村の「用悪水御普請引受御勘定目録」には、水路普請に人足を割り当て、村普請として夫役労務を各村々農民に課していることが記されている。
 このように施設の管理は、村普請が一般的であり、全てが農民の夫役で賄われていた。この点においては、普通水利組合も同様であったようである。

 南郷地方は、江合川と鳴瀬川が複雑に入り 組むいわば氾濫地帯であり、名鰭沼、長沼、 三合沼等の沼沢は氾濫にさらされるままの 地域であった。
 反面、洪水は肥沃な泥土を流送する天与の 客土の働きを持つため、涌谷伊達氏はこの干拓 に力を注いだ。世に云う「寛文事件」もこう した野谷地の開墾地(二郷村)をめぐる境界 争いであった。従ってこの地方の開発は早く、 図2-6-7のとおり臼ヶ筒用水が開疏されるに および新田村が続々と形成された。

 享保15年(1730年)以降における樋管場、 樋門および水路(大江)の運営は、課役と称 せられ、村に割当てられた水下人足をもって行われた。臼ヶ筒樋管も例にもれず水害と河床の変動のために再三取入口を変更している。
 そして明治40年に石造樋門に改め、排水面も元禄11年(1698年)に鞍坪潜穴を穿ち、域内排水を鳴瀬川に自然排水することに成功する。このことと関連して名鰭沼の排水を江合川へ落水する浮川の三軒屋敷筒が築造され、排水の要となった青木沢の疏水工事が天保2年(1831年)に藩営によって行われ、南郷村の排水条件は著しく改善される。
 品井沼の干拓は、藩直営の工事として元禄6年(1693年)から元禄11年(1698年)に行われ、完成後に藩直営が解かれ、品井沼一帯の土地は領主である松山の茂庭家に返還された。

2.6.3藩米の輸送

 伊達藩では、収穫した米を江戸へ送るため、北上川の舟運を重要視して河川改修工事に取り掛かった。なかでも、政宗の家臣川村孫兵衛重吉は、追波湾に注いでいた北上川の河口を石巻に付け替えるという大掛かりな工事を寛永3年(1626年)に完成した。
 これにより、石巻には北上川中流部からも船が下るようになり、北上川の舟運は飛躍的に発展した。

2.7 明治・大正・昭和時代

2.7.1 用排水改良事業制度の確立

 明治初頭の土地改良事業は、幕末期に全国的に盛んになった町人による請負新田や、地元農民による開墾、水利土功などの方法が持続していたが、その中心的位置を占めていたのは士族授産対策としての緊急開拓であったと言われている。
 このように、明治前期における耕地政策は、開墾を中心に進められたが、耕地の改良に対する要望も高まり、特に畜力や農機具の有効活用のため、区画整理や暗渠排水が各地で試みられるようになった。
 近代における土地改良制度の確立は、明治3年の「開墾規則」(9月27日、太政官布告第630号)に始まるが、本格的には明治32年の「耕地整理法」(3月22日、法律第82号)の制定からである。この法律によって、区画整理を中心とした法体系がなされ、耕地整理が展開されることとなったが、潅漑排水すなわち用排水改良に関する事項は盛り込まれてはいなかった。
 その後、明治38年の「耕地整理法」の一部改正により、第一条に潅漑排水に関する工事が追加され、用排水改良工事も耕地整理事業として実施可能となった。
 ついで、明治42年に「耕地整理法」が全面的に改正され、いわゆる「耕地整理法」(4月13日、法律第30号)の新法が公布された。新法においては、従来の区画整理から潅漑排水にウェートが置かれると共に、事業主体となる耕地整理組合が法人として設立が認められることとなった。
 これを契機に、江合川・鳴瀬川流域では多くの事業が行われ、南郷地方は耕地整理の先進地として位置づけられ、地主の利益を反映して積極的に進められた。
 耕地整理組合は、地主中心の事業組合として組織されたのに対し、明治41年の普通水利組合及び水害予防組合は、水利施設の維持管理に主体をおく法人組織であった。しかも耕地整理組合が農商務省の監督下に置かれたのに対し、普通水利組合は内務省の所管となった。

2.7.2 明治後期の治水・利水政策

 明治新政府による利水・治水政策の大綱は、低水工法と呼ばれる舟運主体の河川行政であり、鉄道の未発達な当時においては、最も有効な広域の交通手段であった。  宮城県における北上川をはじめ江合川・迫川・定川・貞山堀は、いずれも舟運を重要な輸送手段として位置づけ、堤防を低く、堅固にし、各河川を有機的に結合する方針で事業が進められ、北上川と江合川、迫川の三川合流はその象徴的事業であった。
 しかし、開発が一部の地域にとどまっていた段階では問題が少なかったが、ほとんどの荒地、低湿地が開発されると北上川の増水による江合川への遡上・水位上昇・両岸への氾濫と支川への逆流といった問題が南郷地方を襲った。
 これらを解決するために、北上川を、柳津から飯野川への捷水化(ショートカット)工事が不可欠なことと、地元住民も強く望んだため、明治41年に北上川第一期治水工事として50km余に及ぶ付替え工事を行い、低水工法から高水工法へ大きく転換することとなった。

2.7.3 戦後の土地改良事業

(1) 農業用水源と利用形態

 鳴瀬川と江合川を比較すると、鳴瀬川は、流域面積は大きく河川勾配も緩いため、流出率が小さいという河川形態を持つため、農業用水の取水条件も恵まれていると考えられがちであるが、歴史的に見ても取水条件は厳しく、番水が日常的で用水の確保に困窮するという経緯をたどっている。
 昭和29年に宮城県が実施した「水利現況調査報告書」(表2-7-1参照)によると、鳴瀬川の取水施設数は江合川の3倍強となっている。特に溜池は江合川の5倍を越えており、如何に厳しい地形条件の上に水田が形成されたかを窺うことができる。

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写真 明治末期~昭和8年まで利用した穴堰(江合川上流域)の自然取水

(2) 渇水状況と用水不足対策

 昭和59年の干ばつにおける鳴瀬川流域の稲作は、出穂期、登熟期における高温多照と連続干天という良好な気象条件に支えられて、結果的に収量増加をもたらしたが、農家にとって夏期の渇水時における用水確保のための労力と経費は、個別負担の限度を越えるものであったといわれている。
 鳴瀬川では、河川流量の低下と施設の老朽化のため、どの樋管も河道の仮締切により取水の強化が図られていた。この方法は渇水時の常套手段であり、河道の一部をブルドーザで押し上げ、河道内に1~2kmの導流堤を築き、対岸を一部残す方法である。さらに樋管から取水した用水を高位部の貯水槽にポンプアップして通水されるが、すべて各分水工毎の番水制であった。
 昭和59年の干ばつは、こうした方法も不可能な気象異常年であったため、鳴瀬川利水委員会による全域の利水調整が実施された。
 まず、旧南郷町(現美里町)、旧鹿島台町(現大崎市)の水不足に対応するため、漆沢ダムからの放流水は、上流域における諸堰・樋管の現行施設に一切手を加えないという条件で供給された。その上で、各土地改良区は分水毎に厳重な番水を実施するため、昼夜を問わず用水管理人、改良区職員、地元利水委員、水利協力委員が苦汗に満ちた用水配分の調整、操作に奔走したといわれ、臨機的に設置された個人、公有の揚水機もフル稼働し、莫大な経費が費やされた。

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足水堰地点(鳴瀬川)の渇水状況

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右京江取水口地点(江合川)の渇水状況

(3) 災害復旧事業と土地改良

 大崎耕土が育んだ農業の豊さは、近世以来築き上げられてきた農民の努力と創意の知恵が注がれた土地改良施設の保全によるものであるが、水害との闘いの歴史でもあった。
 江合川および鳴瀬川は河川工学的にみると、上流部は氾濫破堤による洪水型河川であり、下流部は越水、湛水による氾濫型河川という二面性を有している点が特徴であった。
 この土地改良施設の保全については、戦後も土地改良事業や災害復旧事業により行われてきたが、水害の未然防止と被害を最小限に止めることに注意が払われた。  しかしながら、戦後の水害史をみると、昭和22、23年のキャサリン、アイオン台風は大崎地方に甚大な被害をもたらし、農業水利施設は破壊的な打撃を受けた。


 この台風により、江合川筋の大堰は大破し、ニッ石堰、清水川堰、三丁目堰、桜の目堰、右京江堰および横埣堰もことごとく大被害を受けた。
 鳴瀬川流域においても同様で、上川原堰から末端鶴田川沿岸地区に至るまで施設は流失し、田畑は湛水といった惨状が繰り返し発生した。このため、戦後の土地改良事業は、水害対策に終始せざるを得ず、その回復に多額の資金を投入したが、その大部分は、災害復旧対策事業で対処したという点に特徴がみられる。
 それは、毎年のように発生する水害に対して、農民は勿論のこと市町村も経済的に多大の犠牲を払わなければならなかったことと、負担を幾分でも軽減するという観点が災害復旧事業に結実したと考えられる。

icon 3.大崎地域の農業農村整備事業の概要



3.1事業概要図

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3.2 事業の概要(大崎西部、江合川、大崎、鳴瀬川)

3.2.1 大崎西部地区の事業概要

(1)計画の経緯
 本地区は、江合川上流地域のかんがい排水事業として昭和57年~59年に地区調査、昭和60年~61年に全体実施設計を行い、昭和62年度に国営かんがい排水事業「大崎西部地区」として事業着手した。
 本事業の進捗途中から、同じ江合川を主水源とする「江合川地区」が国営基幹かんがい排水事業(基幹施設)及び国営かんがい排水事業(一般施設)として計画(平成2年~5年全体実施設計)された。
 その後、大堰地域の受益面積を精査する中で、市街化による受益の減少と改良区の合併に伴い、二ツ石堰を含めた上流施設と一体的改修を行う計画で検討された。
 このため、第1回計画変更により、江合川水系の既存頭首工のうち、大堰頭首工、二ツ石頭首工、清水川頭首工を国営大崎西部地区として新規地区編入した。
 なお、主要水源の岩堂沢ダムは、大崎西部地区・江合川地区の共用水源として大崎西部地区から切り離し、新たに国営基幹かんがい排水事業(基幹施設)「大崎地区」として有効貯水量13,000千m3のダムとして築造することとした。

(2)事業概要
 本地域は、北上川水系江合川と鳴瀬川水系多田川沿いに展開する大崎市外2町(注:事業発足時は古川市他4町)に跨る水田4,621haの地域である。
 本地区のかんがい用水は、江合川及び地区内小河川等に依存しているが、いずれも河川自流量に乏しく恒常的な用水不足を呈しており、水路の堰上げや揚水機による反復利用と番水等により辛うじて対処してきた。
 また、地区内の下流低位部では、排水施設の未整備や洪水時における排水河川の水位上昇から排水機能が低下するため、常習的な湛水地帯となっている。
 さらに、取水施設は小規模で老朽化が著しいうえ、水路は用排水兼用で土水路が多く、加えて末端用排水施設の不備と農道及びほ場区画の狭小等により、水田の汎用化や農業の生産性の向上が阻害されていた。
 このため、不足する用水については関連する大崎農業水利事業で築造する岩堂沢ダムに依存して農業用水を確保し、頭首工、揚水機場及び用水路を新設・改修して、用水の安定供給と用水管理の合理化を図ると共に、排水機場及び排水路の改修を行い、排水不良を解消し、水田の汎用化を図る。
 併せて、関連事業により末端排水路の整備及び区画整理等の土地基盤整備を実施し、営農の合理化と複合経営を促進し、地域農業の生産性の向上と農業経営の安定を図るものである。

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図4-2-1 大崎西部の概要図

(3)施設の概要

 ①頭首工:4箇所
 ・大堰頭首工:フイックスドタイプ半可動堰(固定堰)L=268.4m、H=2.6m(洪水吐2門、洪水吐1門)
 ・二ツ石頭首工:フイックスドタイプ全可動堰(ゴム引布製起伏堰)L=90.2m、H=1.7m(洪水吐2門、洪水吐1門)
 ・清水川頭首工:フローテイングタイプ全可動堰(ゴム引布製起伏堰)L=138.2m、H=0.9m(洪水吐3門、洪水吐1門)
 ・門前頭首工:フローテイングタイプ全可動堰(ゴム引布製起伏堰)L=8.0m、H=1.2m(洪水吐1門)
 ②揚水機場(第2号幹線):1箇所
 ③排水機場:1箇所
 ④幹線用水路:3路線L=20.2km
 ⑤幹線排水路:1路線L=0.4km
 ⑥用水管理施設:1式

4.2.2 江合川地区の事業概要

(1)計画の経緯
 本地域は江合川中流域の両岸に広がる5,875haで、地区調査が昭和61年~平成元年度まで実施され、地区調査期間には二ツ石頭首工(約600ha)、清水川頭首工(約600ha)掛かりも含まれていたが、平成2年度~5年度の全体実施設計期間に、先行していた大崎西部地区に計画変更で編入している。
 当初計画は、平成5年度に軍沢ダムの新設、三丁目頭首工の新設、右京江左岸取水工の新設、右京江右岸取水工の改修、幹線用水路5条の新設・更新、田尻川排水機場、涌谷西排水機場の新設、幹線排水路3条の新設・更新を主な事業とする国営かんがい排水事業「江合川地区」として事業着手した。
 当初、水源利用計画は軍沢ダムの有効貯水量8,100千m3では不足水量が発生するため、岩堂沢ダムに3,200千m3を依存する計画としていた。
 しかし、その後、①農地の転用や受益面積の増減、②地元意向を踏まえた地区内用水系統の再編成、③河川協議に伴う基礎諸元の見直し、等の用水計画の見直しを行い、平成12年度に第1回計画変更を行った。主要工事計画の変更は、①軍沢ダムの廃止、②三丁目頭首工の工事計画の見直し(新設から既設堰の補修)、③右京江左岸取水工を三丁目頭首工へ統合して廃止、④三丁目幹線用水路及び桜の目幹線用水路の路線変更、⑤右京江取水工及び右京江幹線用水路の工事計画を見直して全面改修から一部改修、としている。

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図4-2-2 江合川地区計画概要図

(2)事業概要
 本地区は、宮城県の北部に位置し、北上川水系江合川の両岸に広がる大崎市他2町にまたがる水田5,875haの地域で、県内有数の穀倉地帯である。
 この地区のかんがい用水は、主要水源を江合川及び地区内及び地区内小河川等に依存しているが、いずれも河川自流量に乏しく恒常的な用水不足を呈しており、水路の堰上げや揚水機による反復利用及び番水等により辛うじて用水不足に対処している状況にある。また、地区内の下流低位部では、排水施設の未整備や洪水時における排水河川の水位上昇から排水機能が低下するため、常習的な湛水地帯となっている。
 さらに、取水施設は小規模で老朽化が著しいうえ、水路は用排水路兼用で土水路が多く、加えて末端用排水施設の不備と農道及びほ場区画の狭小等により、水田の汎用化や農業の生産性向上が阻害されている。
 このため、不足する用水につては関連する大崎農業水利事業で築造する岩堂沢ダムに依存して農業用水を確保し、頭首工及び用水路を新設・改修して用水の安定供給と用水管理の合理化を図ると共に、排水機場及び排水路の新設・改修を行い、排水不良を解消し、水田の汎用化を図る。
 併せて、関連事業により末端用排水路の整備及び区画整理等の土地基盤整備を実施し、営農の合理化と複合経営を促進し、地域農業の生産性向上と農業経営の安定を図るもので。

(3)施設の概要
 頭首工:1箇所
 三丁目頭首工:フローテイングタイプ半可動堰(固定堰)、L=364.1m、H=1.3m(内固定堰長297.5m、洪水吐2門、洪水吐2門)
 取水口:1箇所(右京江)
 排水機場:2箇所(田尻川、涌谷西)
 幹線排水路:3路線、L=5.0km
 幹線用水路:4路線、L=15.2km
 用水管理施設:1式

4.2.3 大崎地区の事業概要

(1)計画の経緯
 当初、岩堂沢ダムは大崎西部地区の水源施設として有効貯水量9,600千m3で計画していたが、平成6年度の江合川地区の水源計画の段階で、大崎西部・江合川地区の両地区共用の水源として岩堂沢ダムの有効貯水量を13,000千m3に増量し、軍沢ダムは江合川地区の単独水源とする計画として事業を実施してきた。
 しかし、平成12年度に①農地の転用や受益面積の増減、②地元意向を踏まえた地区内用水系統の再編、③かんがい期間の前倒し等を検討し、大崎西部地区、江合川地区、大崎地区の3地区の用水計画を再策定して軍沢ダムを廃止した。
 なお、軍沢ダムを廃止したことによる、岩堂沢ダムの有効貯水量に変更はなく、大崎地区の工事計画に影響を与えなかった。

(2)事業概要
 本地区は、宮城県の北部に位置し、北上川水系江合川の両岸に広がる大崎市他2町にまたがる水田10,425haの地域で、県内有数の穀倉地帯である。
 この地区のかんがい用水は、主要水源を江合川及び地区内及び地区内小河川等に依存しているが、いずれも河川自流量に乏しく恒常的な用水不足を呈しており、水路の堰上げや揚水機による反復利用及び番水等により辛うじて用水不足に対処している状況にある。
 また、取水施設は小規模で老朽化が著しいうえ、水路は用排水路兼用で土水路が多く、加えて末端用排水施設の不備と農道及びほ場区画の狭小等により、水田の汎用化や農業の生産性向上が阻害されている。
 このため、江合川上流岩堂沢に岩堂沢ダムを築造し、農業用水を確保すると共に、関連する大崎西部農業水利事業及び江合川農業水利事業により頭首工及び用水路を新設・改修して用水の安定供給と用水管理の合理化を図る。
 併せて、関連事業により末端用排水路の整備及び区画整理等の土地基盤整備を実施し、営農の合理化と複合経営を促進し、地域農業の生産性向上と農業経営の安定を図るものである。

(3)施設の概要
岩堂沢ダム:重力式コンクリートダム、有効貯水量13,000千m3 H=68.0m、L=200.0m

4.2.4 鳴瀬川地区の概要

(1)計画の経緯
 昭和55年、鳴瀬川に県営補助事業により漆沢ダムが築造されたが、多目的の用水源であるため農業用水としての役割は小さかった。
 昭和57年に至り、農業用ダムの築造に対する強い希望が示され、鳴瀬川地区国営土地改良事業推進協議会が設立された。
 調査段階での構想は、烏川ダム、寒風沢ダムの有効貯水量はそれぞれ6,000千m3と見込んでいたが、烏川ダムは地質が不適当とされ、寒風沢ダムは国土交通省が直轄ダムとして田川ダムとすることが明らかになったため、農林水産省は加美町宮崎二ツ石地点に二ツ石ダムとして10,000千m3程度の1ダム建設方式として調査を進めることになった。
 昭和63年4月に全体実施設計に入り、一期事業が平成3年度に着工して、二ツ石ダムと2頭首工(桑折江頭首工、鳴瀬川下流頭首工)を整備し、二期事業として平成7年度に着工して、2頭首工(舘前頭首工、上川原頭首工)と用水路6路線35.7kmの整備及び用水管理施設を整備することとなった。

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図4-2-3 鳴瀬川地区計画概要図

(2)事業概要
 本地区は、宮城県北部に位置し、一級河川鳴瀬川水系鳴瀬川両岸に展開する大崎市外1市5町にまたがる9,736haの農業地域で、県内有数の穀倉地帯である。
 かんがい用水は、鳴瀬川、田川及び小河川等に依存しているが、いずれも河川自流量に乏しいため、番水等による水利用を余儀なくされており、恒常的な用水不足の状況にある。
 さらに、用水施設の老朽化により維持管理に多大な労力と費用を要していると共に、末端水路は用排兼用で土水路が多く、加えて、ほ場区画の狭小なため、水田の高度利用や農業の生産性の向上が阻害されている。
 このため、二ツ石ダムを築造し、頭首工及び用水路の新設・改修を行い、関連する鳴瀬川総合開発事業で築造される筒砂子ダムと共に、必要な農業用水の確保と安定供給を確保するものである。
 併せて、関連事業により末端用排水施設の整備及び区画整理を行い、営農の合理化と複合経営を促進し、農業の生産性向上と農業経営の安定を図るものである。

(3)施設の概要
 二ツ石ダム:ゾーン型ロックフイルダム,有効貯水量9,700千m3、H=70.5m、L=439.0m
 頭首工:4箇所
 桑折江頭首工:フローテイングタイプ全可動堰、L=86.6m、H=3.9m(洪水吐2門)
 鳴瀬川下流頭首工:フローテイングタイプ全可動堰、L=116.8m、H=3.8m(洪水吐3門)
 館前頭首工:フローテイングタイプ半可動堰、L=78.4m、H=1.8m(洪水吐2門、洪水吐1門)
 上川原頭首工:フローテイングタイプ半可動堰、ゴム引布製起伏堰)L=226.5m(内固定堰長110.0m)H=2.3m、(洪水吐2門、洪水吐2門)
 幹線用水路:6路線L=35.7km
 用水管理施設:1式
※ なお、執筆に当っては、「大崎地域農業水利事業事業誌」を基に編集しております。