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1.雄物川が創り出した横手盆地と平鹿平野!
2.平鹿平野の発展と用水対策!
3.近世になってからの主な用水改良事業!
4.雄物川筋農業水利事業の概要!

icon 1.雄物川が創り出した横手盆地と平鹿平野!



 秋田県南東部にある横手盆地は、北は角館から、大曲、横手、南は湯沢まで南北約60kmで、東西幅は最大15kmの西奥羽最大の盆地となっています。
 このうち北部は玉川や丸子川等が創り出した複合扇状地で仙北平野と呼ばれ、一方南部は皆瀬川、成瀬川及び旭川(横手川)が流路を変えながら雄物川と合流して創り出した複合扇状地で平鹿平野と呼ばれています。

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 この横手盆地地域は豪雪地帯としても知られており、横手では小正月(今では2月15、16日)に「カマクラ」の行事が行われ、訪れる人々を癒してくれます。
 大きな雪の室を作り、火鉢やムシロを持ち込んで灯りをつけ、その洞の正面奥に祭壇を設けて「水神様」を祭り、子供たちはお餅を焼き、温かい甘酒を食べたり飲んだりしながら、道行く人たちに「水神様に詣ってたんせ」と呼びかけ、甘酒等でもてなします。

 厳しい冬の雪を利用して楽しみながら、「水神様」を祭って春を待つ、昔からの水不足に苦しんだこの地方の農民たちの悲願がそこに込められた行事であると言われています。
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カマクラを楽しむ子供たち


icon 2.平鹿平野の発展と用水対策!



 平鹿平野の開発は伝えられるところによると、天平宝字(757年)の頃「田子内川(現成瀬川)を水源とした真人山麓に水田あり」と言われて、相当古い時代から開拓されていました。
 しかし、江戸時代より前までは成瀬川、皆瀬川及び雄物川が互いに氾濫交錯して湿地、沼地等が多く、一定の流路を持たないままの川から適宜取水して、かんがいに利用して稲作が行われていました。
 慶長年間(1596年)佐竹藩の領有となってから種々の開発が行われてきましたが、その後も洪水時及び干ばつ時には、大きな被害や水利紛争が絶えなかった地域でした。

 江戸時代初期までの成瀬川、皆瀬川は、横手盆地の東南端より西北に向かって平鹿平野の中央部を貫流して、別々の場所で雄物川に合流していたのです。
 元和元年から元和3年(1615~1617)にかけて、佐竹藩による大規模な河川改修が行なわれてから、概ね現在の河川配置が出来上がりました。
 この結果、旧成瀬川の河川敷は大宮川用水堰に、旧皆瀬川の河川敷は十三合堰に利用されて、旧来から上流部にあった亀田堰、平鹿堰や皆瀬川、雄物川からの取水堰を含めて、地域全体の用水体系が形成されていったのです。
 しかし、渇水時の水量不足は深刻なものであったため、藩による直接管理、厳しい水利慣行の徹底のほか、耕地面積拡大の禁止政策等を打ち出して農民間の紛争や被害防止に努めてきました。

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元和年間の河川改修後の用水堰の配置状況

 これらの用水堰の直接かんがい面積を河川ごとに見てみると、成瀬川 3箇所3,033ha、皆瀬川 11箇所2,050ha、雄物川 3箇所397haでありました。

 旭川(横手川)流域も佐竹藩の領有となる以前から、堤防のない川からの取水利用が数多く点在していましたが、天保11年(1804)佐竹藩吏久米嘉右衛門によって、当時170余りの取入れ水路が改修統合されました。
 翌天保12年、藩は取入れ堰に関して規定を設け「御定書及び添付図面」を定めて、改修や水量変更の場合は必ずこれを厳守するよう命じたのです。
 この「天保12年藩の御定書」を守りながらも、地域人口の増加に伴って開田も徐々に進み、明治の中頃には上流部の左岸に4箇所の堰、下流部右岸には5箇所の堰が設けられて約2900haのかんがい面積になっていました。
 旭川は、流域面積が小さく急流河川で堤防の整備も不十分であったことから、水量の枯渇による干害、降雨による水害等を受け易く、恒久的な被害防止策を望む声が次第に大きくなってきたのです。

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横手市内を貫流する旭川…横手公園から南西方向を見る


icon 3.近世になってからの主な用水改良事業!



 成瀬川から取水する平鹿堰の直接かんがい面積は1,300haを超えていましたが、老朽化した古い用水施設は漏水や浸透水が多く、それによって潤される近傍下流の面積の方が大きく、直接間接に平鹿堰の恩恵に浴する面積は3,000ha以上だったと言われます。
 このため一度洪水に見舞われると、取水口から下流各水路まで影響を受け、復旧や用水対策に莫大な労力と資材が必要となり、その調達等に苦労が絶えなかったのです。
 大正12年(1930)、地主900名、耕作者2500余名が県営による改良工事を申請した結果それが採択されて、「平鹿堰取入堰改築工事」が行われて昭和5年(1930)に完成をみました。

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成瀬川を斜めに堰き止めた「平鹿堰」…後に成瀬頭首工が造られる

 一方、旭川(横手川)の左岸下流地域では、干ばつ被害が続いたことから、恒久的な水源対策を望む声が強まりました。秋田県は常習的な干ばつ被害を無くするため、冬期の失業救済と凶作応急耕地事業を合せた形の、県営用水改良事業の実施を議決し、昭和8年に着工して昭和13年(1938)に完成させました。事業内容は次のとおりです。
(1) 大沢ため池の築造
 貯水量 1,166,000 m3
(2) 牛沼の増築
 貯水量 102,000 m3
(3) 幹線水路の新設
 1,500 m

icon 4.雄物川筋農業水利事業の概要!



 秋田県南東部の雄物川右岸に位置する横手盆地南部の広大な水田地帯であるこの地域のかんがい水源は皆瀬川、成瀬川及び旭川(横手川)に求めてきました。
 かんがい期に頻発する用水不足や、下流部の排水不良よる浸水被害を防止し、稲作農業の安定化を図るため、農林省と秋田県が共同調査を行い、昭和18年8月全体計画書を取り纏めて、雄物川筋大規模農業水利事業をスタートさせました。
工期:着工 昭和19年度 完了 昭和55年度
(昭和19~22年度農地開発営団施工)
関係市町村:秋田県横手市(横手市・増田町・十文字町・平鹿町・雄物川町・大雄村)
大仙市(大曲市)・美郷町(仙南村)・湯沢市
受益面積:14,325ha(用水・排水改良14,273ha、畑かん52ha)


皆瀬成瀬地区は、新規の水源を多目的ダムである皆瀬ダム(建設省)に求め、皆瀬頭首工、成瀬頭首工を築造し井堰を統合して、それぞれのかんがい区域について幹線用水路網を整備しました。
また、低位部の排水障害防止のため、吉田・大戸川排水路をはじめ5排水路の新設改修を実施しました。

 旭川地区については、横手川流域に新たに「あいののダム」建設して水源の安定化を図り、新一の堰頭首工、新上堰頭首工を築造して井堰を統合し、左岸幹線用水路、右岸幹線用水路を新設して用水系統の整備を行ったことで合理的な水利用が可能となったのです。

建設施設の概要
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雄物川筋農業水利事業で建設した主な施設

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皆瀬成瀬地区 成瀬川と成瀬頭首工……左下に繋がる成瀬1号用水路

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皆瀬成瀬地区 皆瀬川と皆瀬頭首工

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満々と流れる皆瀬1号用水路

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旭川地区 完成時のあいののダム

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旭川地区 新一の堰頭首工