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1.東北の卑弥呼!?…まほろばの里
2.米沢平野の地形的特性
3.上杉鷹山と米沢平野の開発
4.イザベラ・バードの見たもの
5.事業概要

icon 1.東北の卑弥呼!?…まほろばの里



山形県高畠町には、旧山形鉄道の廃線を利用した「まほろばの緑道」(7km)というサイクリング・ロードが整備されており、春には桜の名所として賑わっています。
「まほろば」の名が示すとおり、この付近には大立洞窟、日向洞窟、火箱岩洞窟、一の沢洞窟と縄文時代の遺跡が並んでいます。とりわけ日向遺跡(写真1)は約千年にわたって利用されていたらしく、その始まりは縄文時代草創期(約1万年前)にさかのぼることが明らかになりました。青森県の三内丸山遺跡が5500~4000年前といわれているので、それより5000年も古いことになります。

この遺跡群の北側には「大谷地」と呼ばれる約1000haの広大な低湿地帯が広がっており、古代には湖であったと言われています(その痕跡は「白竜湖」として現在も残っている)。山の幸に湖の幸、確かに縄文人にとっては「まほろば」だったに違いありません。
この地の古代的豊かさは弥生時代になっても続いていたらしく、近くの稲荷森古墳(南陽市長岡)は4世紀頃のもので全長約96m(写真参照)。山形県最大の古墳で、東北地方でも6番目の大きさであり、前方後円墳としては北限とも言われています。
 また、稲荷森古墳から10kmほど離れた戸塚山(米沢市浅川)からは約200基の古墳群が見つかっています。山頂には長さ56mの前方後円墳。山頂にこれだけの規模の古墳を造るには約1万人の労働力が必要とされ、また地形的にも渡来人が住み着くとも考えにくく、原日本人による強大なクニが成立していたことを示しています。
さらに山頂の古墳の東側には長さ24mの帆立貝式古墳(5世紀後半)があり、石棺の中からは女性の人骨一人分がほぼ完全な形で発掘されました。年齢は40~50歳。全体的には骨が細くきゃしゃな体つき、22本残っていた歯のうち7本が虫歯であることから、甘い物が食べられ、重労働をしないで育った、身分の高い女性と想像されています。発見当時、「東北の卑弥呼か!?」と話題になりました。
しかしながら、奇妙なことに、吉野ヶ里(佐賀県)、出雲(島根県)、吉備(岡山県)など古代豪族が栄えた地は、時代が下がるにつれ農耕の条件は悪くなるようで、多くの地は排水不良や低湿地など近世では苦労の絶えない地域になるようです。
これは、弥生人があまり大きな水路を必要としない低湿地を選んで水田にしたためと思われます。また、人口が多くなって過密になったのかも知れません。あるいは鉄器の出現によりかんがい技術が向上し、扇状地などの開発が可能になったことなどが考えられます。
いずれにせよ、この米沢平野(置賜盆地とも言う)も、平安時代以降になると農耕条件の悪さが顕在化してきます。それは、この盆地独特の地形的要因に帰すものです。

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【写真】稲荷森古墳 写真提供:南陽市

icon 2.米沢平野の地形的特性



 東北地方には、横手、北上、山形、会津、福島など形状のよく似た盆地が多くあります。これらの盆地はいずれも四方の山から流れ出た川がきれいな扇状地を造り、いわゆるすり鉢状の複合扇状地となっています。
 しかし、図1でも分かるように、米沢平野はこれらの東北の盆地といささか様相を異にしています。図1で盆地全体が緑色になっているのは標高が高いためですが、福島盆地の標高が50~90m程度、山形盆地の標高が100~150mであるのに対して、米沢平野は200~300mとなっています。このことは相対的に山が浅く、盆地に流れ込む川が短いことを意味しています。したがって、大雨の際には洪水が発生しやすく、逆に渇水期にはほとんど流水が見られないほど川がやせ細り、取水には非常に苦労を強いられることになります。
 さらにこの盆地では、南から北にかけて扇状地らしい傾斜が見られるものの、図2のように等高線は非常に入り組んでいます。特に北東部、南陽市から高畠町にかけての一帯は扇状地がまったく見られず、太古には湖であった「大谷地」(白竜湖周辺)は、広大な浮島状の泥炭湿地となっています。
 このため、各河川は洪水のたびに流路を変え、古くから幾度となく河川の付け替えなどの工事が行なわれてきました。
 記録に残る最も古い工事は天平宝字2年(758)。出羽の国司の配下であった四村という人が鬼面川に堰を設けて用水路を造ったとあります。ところが大同2年(807)の大雨で川の全量がその用水路を流れて本流となり、以前の東へ流れていた本流は廃川になったとのこと。今も鬼面川の両岸には、藤原、江股、平柳など東西の地区に分かれた地名があり、かつてはひとつの村だったものが新しい流路によって二分されたものと思われます。
 この置賜の地は「日本書紀」にも登場し、条里制を示す地名も残っていることからある程度の発展を見たようですが、やはりこの地が本格的に開発されるのは江戸時代を待たねばならなかったようです。

icon 3.上杉鷹山と米沢平野の開発



 上杉家は越後の名将・上杉謙信を祖とする名家であり、謙信の養子・景虎は豊臣時代に会津120万石を領する大大名でした。しかし、関が原の戦いで西軍についたため、徳川家康により米沢30万石に減封され、さらに藩主の跡継ぎ問題がたたり、15万石へと1/8に減らされています。
 上杉家は譜代の家臣5千人を連れて米沢に入ったため城下には収容しきれず、多数の武士団を屯田兵として、南原、花沢、山上など約40数地区に配置したといいます。いずれの地も未墾の原野であり、収入を1/8に減らされた藩としては新田開発にかけるしかなかったのでしょう。
 しかし、前述したようにこの盆地に流れ込む河川はいずれも急峻で保水力がないため、洪水と渇水を繰り返すという厄介な盆地でした。とりわけ「大谷地」約1000haは、約700haが泥炭の風化した湿地帯で水田作業は腰まで浸かるあり様。さらに250haは浮田といって文字通り水面に浮かぶ水田であり、渇水時には田面も下がり、多雨の年は膨れ上がるという奇妙な水田でした。おまけにこの地区に流れ込む河川はなく、地形的には排水も不可能という重症の農地でした。
 したがって新田開発もそれほどは進展しないまま、歴代の藩主はかつての120万石の格式から抜けきれず多額の借財を重ね、米沢藩は財政破綻に陥ります。重税のため逃亡する領民も多く、13万人を数えた領民は、8代藩主の頃には10万人程度に減少していたとも言われています。

 しかし、ここで登場するのが江戸期屈指の名君として名高い9代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)。1768年、17歳で藩主となった鷹山は「自助」「互助」「扶助」をスローガンに数々の改革に乗り出します。
 質素倹約を旨としながらも殖産興業を図るため畑作による商品作物の栽培に取り組みます。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などを藩邸で栽培し藩士にも奨励しました。藩主自らが農民の仕事をやってみせるわけですから家臣たちも穏やかではありません。やがて家臣たちも積極的に新田開発に取り組むようになり、妻子まで養蚕や機織りをやるようになったと言われています。
 鷹山の功績として名高いのが天明の大飢饉(1782年)における米沢藩の処置です。藩士、領民の区別なく一日あたり米3合の粥を支給し、酒、酢など、穀物を原料とする品の製造を禁止するとともに、被害の少なかった地域から米を買い入れるなど迅速な対応が功を奏し、仙台藩では30万人が餓死したといわれる大飢饉の中で、米沢藩では一人の死者も出さず、江戸幕府から表彰されています。
 こうした鷹山の改革が実を結び、晩年にはほとんど借財もなくなり、健全財政を確立するまでにいたりました。元アメリカ大統領のケネディやクリントンが最も尊敬する日本人の政治家として上杉鷹山の名前を挙げたことから、日本でも広く知られるようになりました。
 1721年、16,696haであった米沢平野の農地は、鷹山の頃の寛政年間(1789~1801年)には、21,709haにまで増えています。明治初期の農地は23,084haですから、寛政の頃に比べて約1,400ha増加しているだけであり、この盆地は鷹山の時代に、(「大谷地」などを除けば)ほぼ開発されつくしたと言えます。

 しかしながら、62万石という広大な農地をわずか3本の用水網で潤した尾張平野、葛西用水・見沼代用水で約2万haを灌漑(かんがい)した関東平野などと比べるのは酷であるとしても、わずか15万石の米沢平野で井堰の数が60ヶ所を超えるということ自体、この盆地の水利制御の難しさを雄弁に物語っているのではないでしょうか。

icon 4.イザベラ・バードの見たもの



 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れて各地を廻り、米沢について以下のような記述を残しています(『日本奥地紀行』)。「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。<鋤(すき)で耕したというより、鉛筆で描いたように>美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍(あい)、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデア(桃源郷の意)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。(中略)美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川(最上川)に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。」
 イザベラ・バードは『日本奥地紀行』において日本の貧しさや日本人の醜さも容赦なく書き記しているので、米沢平野はよほど彼女の気に入ったのでしょう。
このバードの記述を鷹山が読んだらどう思うかでしょうか。・・・喜ぶには違いないでしょうが、「人々の暮らしはそれほど甘いものじゃない」と憮然とするかも知れません。
 7年周期で襲われるという干ばつ、洪水、渇水期には流水すらなくなる細い川、腰まで浸かる泥炭地、浮田、60余りの井堰、複雑な用水慣行・・・。確かにこの平野がイザベラ・バードの言う「どこを見渡しても豊かで美しい農村」に変貌するには、彼女の米沢紀行より約100年の歳月、米沢平野農業水利事業の完成を待たねばなりませんでした。

 この平野の水利の厳しさは、152ヶ所というため池の多さにもあらわれています。記録では、幕末までに造られたため池は約4割に過ぎず、その後、明治から昭和20年まで徐々に増えています。中でも代表的なものは昭和10~23年に造られた蛭沢池。これは屋代川沿岸1400haの用水補給を行なうために築造されたものです。
 また、大正時代になると電気ポンプが登場し、鬼面川と羽黒川の扇状地(図2参照)には多くの地下水の揚水機が設置されました。大正7年には松川(最上川)から揚水して約600haを潤す湫郷堰揚水機も完成しています。この平野だけで20ヶ所を超す揚水機場がありましたが、いずれも局部的な灌漑のためのものであり、平野全体の用水不足を解決するものではありませんでした。
終戦後の昭和26年、山形県は水窪ダムを水源とする総合開発計画を推進しましたが、時期尚早として見送られます。しかし、同33年の大干ばつを契機に国営事業への期待が高まり、米沢市など1市4町1村(現在は合併で2市2町)の関係者が一丸となって請願運動を展開しました。地元の要望を受けた農林水産省では同35年より調査を開始、そして、同43年より国営米沢平野農業水利事業が着工されることになりました。


    古代のまほろばから数千年、苦しい中で鷹山が育てた自助・互助・扶助の精神、そしてイザベラ・バードが絶賛したこのアジアのアルカデア(桃源郷)は、ようやく近代的農業土木によって、名実ともに「豊かで美しい農村」へと変貌するときを迎えることになるのです。

icon 5.事業概要



 本事業の対象地域は、米沢市を中心に南陽市、川西町、高畠町の2市2町にまたがる9,040haの水田地帯です。本事業においてこれら地域の農業用水を確保し、合理的な用水系統を確立するため、羽黒川上流、刈安川に有効貯水量3,050万m2の水窪ダムを築造し、この水を東・西の両幹線によって地区内に導き、かんがい用水不足の根本的解消を図るものです。この他、流域変更により水窪ダムの貯水量の確保をはかるための大小屋、羽黒川の両頭首工、ダムの水を東・西に分流する東西分水工、鬼面川水系の堰統合を行い鬼面川頭首工及び淞郷堰揚水場の建設を行ないます。
 本事業着工以来、社会情勢が大きく変り本事業計画も変更をせまられ、米沢市、南陽市、川西町、高畠町の都市計画法に基づく用途地域が指定され、農振法に基づく農用地区域外の指定が2市2町で行われました。さらに開田抑制を受ける一方、屋代郷、吉野川、片子そして時田の各地域が新規編入、本事業の施行地域にかなりの変更が生じ受益面積も当初の計画より増えました。また、都市用水の利用等によりダムの水利用計画の変更などで、大幅な変更が行なわれました。  国営事業は着工以来15年の歳月をかけ昭和57年度で完了しました。国営事業とあいまって、これらに関連する県営事業、県営圃場整備事業、団体営事業等があり、これらの事業完成後に確立された用水系統のもと、安定した農業経営と近代的農村形態への移行が促進され、土地の高度利用ともあわせて、生産性の高い農業が期待されています。

【表】受益面積と農家戸数
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【表】主要工事
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