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1.紅花の盛衰と日本一のさくらんぼの里へ
2.水争いの裁定‐川通三間
3.経済成長による町尻田の汚染から脱却
4.環境と調和した稔り豊かな農村へ
5.寒河江川下流農業水利事業の概要

icon 1.紅花の盛衰と日本一のさくらんぼの里へ



 本地域は山形県のほぼ中央に位置し、東に「蔵王」、西に「月山」、「葉山」、「朝日連峰」を望み、南側を母なる川「最上川」、中央を清流日本一の「寒河江川」が流れ、水田及び果樹園等の田園空間が広がり、水と緑が豊かな潤いのある景観が四季折々の変化を見せる風光明媚なところであります。
 西側から注ぐ寒河江川により、肥沃な扇状地が形成されており、寒暖の差が激しい盆地特有の内陸性気候と、最上川のもたらす特有の気象条件を背景に、水田農業が基本であったこの地区も現在は、果樹、野菜、花卉( かき)、畜産を組み合わせた複合経営によって、県内でも有数の高品位生産地帯として位置付けられています。

 この地方の開発は、古代から中世にかけて、寒河江荘( 現寒河江市、西村山郡) が広がり、荘園の分布も県内内陸部の北限となっていた。鎌倉時代に寒河江荘の地頭に任命された大江氏初代の親広( ちかひろ) は、統治と開発の拠点として寒河江川の右岸側に寒河江城を築いた。 室町時代初期には、8 代時氏( ときうじ)・9 代元時( もととき) が3 重の濠をめぐらして大改築をした。
 鎌倉時代から続いた大江氏の支配は、18 代高基( たかもと) で終り天正15 年(1584) 以降は最上義光( よしあき) の支配下となる。
 最上氏支配の後、江戸時代には幕府直轄領となり、幕末には幕府が寒河江・柴橋両代官所を合同して寒河江陣屋を長岡山( 現陸上競技場) に建設した。一方、寒河江川の左岸側に位置する地域は、鎌倉時代中期に寒河江荘から分離されて北寒河江荘と称し、北条得宗領となった。
 中心の谷地は、南北朝末期から戦国時代の初期にかけて中条氏が城下町をつくり、白鳥十郎長久が谷地城を整備した。
 谷地城は、天正15 年(1584) に最上義光によって攻め落とされた。

 早くから水田が開発され、米を中心に発展を遂げてきましたが、寒暖の差が激しい内陸性気候と、紅花栽培に最適と言われる最上川の気象条件を背景に、室町時代の昔から紅花が盛んに栽培されました。特に江戸時代から明治初期にかけて、最上川の舟運とともに栄えました。収穫された紅花は、最上川を酒田に下り、そこでいったん北前船に積みかえられ日本海を渡って敦賀に上陸。さらに琵琶湖・淀川を経由して京都・大阪に送られ、「最上紅花」の名声を全国に轟かせました。当時は全国の生産量の半分を占めたといわれております。

 さしも隆盛をきわめた「最上紅花」も明治初頭からはじまった、日本の新しい産業政策、それは外国貿易の振興策としての、養蚕業の奨励、その基礎としての桑樹栽培という畑作転換のため、惜しげもなく、紅花畑はきりかえられた。さらに外国貿易のため、洋紅の輸入が盛んになり、日本紅はそれにとってかわられた。そして明治10年ごろを境として、最上紅花は、まったくその姿を消したのである。

 折しも、山形県に桜桃が入ってきたのは、明治9年ということになっている。当時は全国で試作されたが、山形県以外ではほとんど失敗し、霜害・台風被害の比較的少ない山形県だけが実績をあげた。
 その後、さくらんぼ栽培は山形県内で普及し、官民一体となっての努力も実り、全国生産量の7割を占めるまでの「さくらんぼ王国」となった。
さくらんぼの中でも、味も人気もナンバーワンの品種が「佐藤錦」だ。県内の栽培の7割を占め、名声は海外までも届いている。佐藤錦の生まれ故郷はほかでもない山形県である。
 佐藤錦の生みの親は、東根市の篤農家佐藤英助氏(1867~1950)。氏は、さくらんぼの品種改良に夢をかけていた。というのも、明治時代は「日の出」「珊瑚」「若紫」などを栽培していたが、せっかく収穫しても日持ちが悪く腐らせたり、出荷の途中で傷んでしまったりと、当時は品種的に悩みが多かったからだ。

大正元年、いよいよ長い試練が始まった。英助氏は、日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせてみる。この未知なるものはやがて実を結び、氏の夢をはらみながらすくすくと育った。そして実った実から種をとり、それを翌年にまいて50本ほどの苗を作り、その中から葉が大きく、質のよさそうな苗だけ選び抜いて移植し約20本育てた。
 さらに、氏が根気強く、手間をかけて育てた結果、10年後の大正11年に初めて新しい木に実がなった。これこそ世紀の発見である。「風味も日持ちもよく、そして育てやすいさくらんぼ」の夢が届きそうな実だ。ここで氏は、さらに良いものを選び抜き、最終的に1本に絞って原木に決定した。
 この時までずっと英助氏とともに情熱を傾けてきたのが、友人であり苗木商を営んでいた岡田東作氏だ。岡田氏はこのすぐれた新品種の将来性をいち早く見抜き、昭和3年に「佐藤錦」と名付けて世に広め、実質的には育ての親となる。命名する際、はじめに佐藤氏は「出羽錦」との案を出したらしい。これに岡田氏は反対し、「発見者の名前を入れた『佐藤錦』がいい」と押し通したとの、ほのぼのとしたエピソードも残っている。

icon 2.水争いの裁定‐川通三間



 本地区の水田のほとんどは、広く平らな寒河江川の扇状地に立地している。これらは、古くから山間の渓流・自然湧水を用いて耕作が進められていた。
 さらに、寒河江川の右岸地域は、城下町の構築等、広い範囲に領主の権力が及ぶようになると、濠に大量の水が必要となり、寒河江川から取水する一ノ堰(高松堰幹線用水路)とその下流部から取水する二ノ堰が造成されている。一ノ堰、二ノ堰の造成以来、今日まで豊富な水を利用し約1,000haが開田されている。
 寒河江川の左岸地域では、室町時代に谷地城主が寒河江川から取水する大堰及び末端の谷地堰等の水路を造成し、その水を利用し約2,000haが開田され現在に至っている。

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頭首工(堰)の位置関係

 これらの三系統の用水堰は、今から約400 年前までには建設されていたことになり、これらからのかんがいにより寒河江川下流一帯はこの頃から美田を受け継いできたと考えられる。しかしながら、干ばつや洪水のたびに水争いや大規模な復旧工事が行われてきたことを伝える記録が残されている。


 元文5 年(1740)、干ばつで寒河江川は大渇水であった。大堰側では寒河江川を全部締め切って取水した。当時、大堰は二ノ堰の上流に位置していたので、下流の二ノ堰は水不足となった。このため、二ノ堰では代官黒沢直右エ門に訴え、この指示により、さらに上流に位置する高松堰で寒河江川を締め切って高松堰に取水し、途中から二ノ堰に導水した。今度は、逆に大堰が水不足となり、『川通し三間を常に開き通水すること。』との代官の裁定によりこの水争いが決着した。この代官裁定の『川通三間』は、水争いを避けるため、昭和堰の完成まで続いた。そして今なお、代官の裁定は寒河江川の保全のために受け継がれている。

icon 3.経済成長による町尻田の汚染から脱却



 地区内の用水路のほとんどが、市街地の住宅密集地を通過しているが、古来どこの家庭でも川端に洗い場を設け、洗顔し米研ぎをはじめ食器も野菜も風呂水、消防用水に至るまで生活用水として活用していた。折しも、戦後、日本経済は上昇気流に乗り商工業の発展目覚ましく数年足らずして神武景気を迎え、例にもれず、本市街地の膨脹も急ピッチで拡大し、市民に親しまれ清浄を誇った用水路も汚物・汚水の垂れ流しの場と変わり、農業用水の水質が著しく悪化し、悪臭・汚物の流下及び微生物が大量に発生したため、施設の維持管理はもちろんのこと、農作業の困難さ、米の品質の低下等により農業意欲の低下を来していた。

 これらの障害を排除するため、昭和52年より水質障害対策事業、水環境整備事業により、農業用水と生活雑排水を分離し、新設・改修や冷水障害を回避するための温水路機能を有する水路幅の広い水路を設け、その水路沿いに遊歩道を整備し、農家のみならず市民の憩いの場として利用し、また環境教育としての施設や保養施設等としても利用されているとともに、かんがい用水に含まれる地域用水機能として特に市街地周辺においての防火用水、消流雪用水、親水用水として利用されていた。

icon 4.環境と調和した稔り豊かな農村へ



 このような時代背景を受け、平成8年度に事業着手した国営寒河江川下流農業水利事業、そして全国に先駆けて取り組んだ国営農業用水再編対策事業(地域用水機能増進型)も、当初計画どおりの10 年の歳月をもって完了しました。
 本事業は、頭首工、幹線用水路の改修及び揚水機場、用水路の新設などの用水系統を再編し、維持管理の軽減及び用水不足の解消と農業の生産性向上、農業経営の安定化を図るとともに全国的に先駆けて農業用水施設が従前から有する「景観」、「親水」、「生態系」など地域資源の保全に配慮しながら地域用水機能の増進事業を実施したものであり、従前にも増して地域の皆さんに愛される水利施設を造成した。

 このことから、地元の皆さんには、地域の施設として意識も高まり、地元区民・土地改良区・行政が一体となってグラウンドワーク活動(「グラウンドワーク二の堰」「グラウンドワーク高松堰」「田沢川のホタルを守る会」)をくり広げるとともに、水路に親しんでいただくためのフェスティバル(二の堰親水公園での「花と水辺のフェスティバル」「水辺の夜会」や「せせらぎフェスティバルin高松堰」)が毎年開催されています。

 また、土地改良区により応募された「二の堰」と「高松堰」は、日本の美しい豊かな“水、土、里”(みどり)を育て維持していく農業用水としての「疎水百選」に「寒河江川用水(二ノ堰・高松堰)として認定されました。
 本事業により造成された諸施設が有効に活用され、寒河江川の清流に育まれる安全・安心で美味しい米づくりや特産品のサクランボをはじめとする果樹栽培等、多様な農業が展開され、地域住民とともに地域資源としての機能を十分発揮し、水を有効に活用し、豊かな自然や産業・文化が育まれることだろう。

icon 5.寒河江川下流農業水利事業の概要



(1)事業工期
  平成8年度~平成17年度
(2)受益市町村
  山形県寒河江市、村山市、西村山郡河北町、大江町
(3)受益面積
  3,421ha
      (内訳)水田;2,956ha
           畑;465ha
(4)主要工事
①頭首工2ヶ所
100
②幹線用水路2路線5.5km
200
③揚水機場5ヶ所
上谷沢揚水機場;渦巻型ポンプφ250mm×2台、電動機75.0kw×2台
下谷沢揚水機場;渦巻型ポンプφ125mm×2台、電動機18.5kw×2台
鹿島揚水機場 ;渦巻型ポンプφ150mm×2台、電動機 7.5kw×2台
田沢川揚水機場;渦巻型ポンプφ200mm×2台、電動機22.0kw×2台
引竜揚水機場 ;渦巻型ポンプφ100mm×2台、電動機11.0kw×2台
④用水路15路線8.0km
 (景観配慮 9路線、流雪溝 3路線、防火用水 3路線)
⑤用紙管理施設1式
 親局 1局、子局 10局、孫局 2局

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寒河江川下流地区概要図

参考文献

・『寒河江市史(上巻、中巻、下巻)』(寒河江市史編纂委員会編)
・『西村山郡大堰土地改良区史』(西村山郡大堰土地改良区史編纂委員会編纂)
・『二ノ堰のあゆみ』(西村山郡二ノ堰土地改良区、大沼新也・高橋龍一共著)
・農林水産省東北農政局ホームページ
http://www.maff.go.jp/tohoku/index.html)
・水土里ネット寒河江川のホームページ
(http://www.sagaegawa.com/)