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1.陸奥の先進地
2.大領主の経済基盤
3.名君・保科正之と新田開発の進展
4.水不足の表面化
5.戊辰戦争と会津藩の気質
6.十代藩主 松平容保
7.会津北部農業水利事業

icon 1.陸奥の先進地



 現在の東北地方は、旧国名では「陸奥(みちのく)」と呼ばれていました。これは「みちのおく」から転じたもので、いわゆる五畿七道の行政区分のうち、東山道の最奥地だったことに由来します()。畿内の都からすれば辺境ともいえるこの陸奥のなかで、最も南に位置し、古代から先進的な地位にあったのが現在の福島県にあたる地方でした。
 福島県は、会津地方、中通り地方、浜通り地方の3地方に分けられます。このうち県庁所在地の福島市や新幹線の駅がある白河市、郡山市といった主要都市はいずれも中通り地方に位置しています。しかし、少なくとも江戸時代までは、会津地方、特に会津盆地が、福島県域はもちろん東北地方の拠点ともいえる地域でした。
 四方を山が囲む会津盆地には、猪苗代湖(いなわしろこ)から流れる日橋川(にっぱしがわ)や、北部の山地から流れる濁川(にごりがわ)、南部の山地に端を発し、盆地の川を全て合流する阿賀川(あががわ)など、数多くの川が集まります。これらの川は上流の山から肥沃な土砂を運び、長い年月をかけて会津盆地に積もらせてきました。豊富な川と、川によって造られた肥沃な土地が、この地の発展を支えることになります。

※古代の律令制以降、日本は畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の大きく8つの地域(五畿七道)に分かれ、それぞれの地域はさらに数国ずつに分かれていました。東北地方は東山道に属しており、文字通り“道の奥”という意味で陸奥国になったものと思われます。



icon 2.大領主の経済基盤



 会津盆地には、東北地方最古、4世紀頃の築造といわれる大塚山古墳があります。この古墳の全長は114m。巨大古墳といわれる全長100m以上の古墳は全国に約300基ありますが、東北地方には6基のみです。このうち3基が福島県、大塚山古墳も含めて2基が会津盆地でみつかっています。
 東北地方で数少ない巨大古墳が会津盆地に築かれたことは、被葬者であるこの地の首長が他と比べてそれだけ大きな経済基盤を持っていたことを示しています。当時の経済基盤は米の生産力。もちろんこれは、会津盆地の豊富な川と肥沃な土地がもたらしたものです。
 以後、中世、近世と時代が進んでも、会津盆地は大領主の経済基盤であり続けました。平安時代、東北の仏教都を築いた慧日寺(えにちじ)。戦国時代、仙台の伊達氏と並び東北の二大戦国大名となった葦名氏(あしなし)。その葦名氏を滅ぼして、東北南部を平定した伊達政宗。いずれもこの地を拠点とし、広大な領地を一円的に支配しています。豊臣秀吉が全国統一を成し遂げた後も、蒲生氏郷(がもううじさと)という実力者が配置されました()。四方を山に囲まれ、守りやすい地形だったことも影響したのでしょう。高い農業生産力を基盤に、会津盆地は東北地方の要衝としての地位を確立します。

※蒲生氏郷は、織田信長にもその才能を認められ、信長の娘を妻に迎えたほどの大名です。



icon 3.名君・保科正之と新田開発の進展



 江戸時代の1643年、会津盆地は、親藩大名の保科正之(ほしなまさゆき)が治めるところとなります。保科正之は、三代将軍・徳川家光の腹違いの兄弟であり、また家光から絶大な信頼を受け、幕政にも深く関わったほどの人物です。江戸時代に入っても会津盆地の地位は確固としたものでした。
 会津藩23万石の領主となった保科正之は、まず検地を行い、それまで農民にかけられていた不当な年貢を廃します(※1)。藩が米を貯え、飢饉や災害時などに農民、町民へと貸し出す「社倉(しゃそう)制」も始めました。新田開発の間、収入が無くなる農民にも米は貸し出され、また、新田開発後の数年間、年貢を免除する制度もとられています。
 農民を大切にした藩政は、新田開発を進める起爆剤となりました。元々豊かであった会津盆地は、江戸時代に入って、一層開墾が進むことになります。とりわけ盆地の北部では、濁川の松野堰や七か村堰、押切川の遠田堰、田付川の下台堰など、中小河川にびっしりと堰が築かれ、新田が増えていきました。(※2)。大平沼、無行帰沼(ゆきなしぬま)など、自然の湖沼を利用したため池も造られています。
 江戸時代以降、盆地北部の川に築かれた堰は100以上。その多くは、昭和に至るまで修理を繰り返しながら使われることになります。

※1・・・蒲生氏郷が治めた以後の会津は上杉氏、江戸時代に入って再度、蒲生氏、加藤氏と続き、保科氏(松平氏)の時代へと進みます。加藤氏の時代は、ほとんど作物の採れない荒地などにも年貢がかけられたため、農民は困窮を極めたといわれています。M

※2・・・同様に会津盆地南部でも開墾は進みました。この頃は、古代から氾濫を繰り返してきた阿賀川の流路が定まり、その旧河道を中心に新田が増えています。また、猪苗代湖から水を引く「戸の口堰」や「日橋堰」など、規模の大きな用水路も引かれています。



icon 4.水不足の表面化



 幕末、会津藩の石高は実質31万石程度であったといわれています。保科正之の時代で23万石ですから、およそ1.3倍の増加。新田村も100村以上増えました。しかし、新田が増えれば当然、必要となる水も増えていきます。川が多く元々水が豊富な会津盆地でしたが、時代が進むにつれ、次第に水不足という問題が表面化していきました。
 明治に入ると、農業は富国強兵を支える重要な国策と位置づけられます。全国各地でかつての藩単位では不可能だった大規模な用水事業や台地の開発、干拓などが国営事業として行われるようになりました。会津の隣、中通り地方でも、明治14年に安積疏水(あさかそすい)という大用水が引かれ、それまで水の行き渡らなかった広大な原野が水田へと変わっています()。余談になりますが、安積疏水の水源は、会津盆地の“水がめ”ともいえる猪苗代湖。猪苗代湖の水は日橋川などを通して、会津盆地で使われていたため、会津の人々が安積疏水への分水に、複雑な想いを抱いたことは想像に難くありません。

 一方、明治期の会津盆地では、安積疏水のような目立った事業は行われませんでした。水不足が現われ始めたとはいえ、開墾が進んでいた会津盆地は、国営で事業を行う地域としては優先順位が低かったのでしょう。また、戊辰戦争(会津戦争)で、会津藩が明治新政府の朝敵とされたことも影響していたものと思われます。

※「安積疏水」についての詳しい情報はこちらをご覧下さい。
「大地への刻印―都市をつくる水、安積疏水」
「明治の礎・安積疏水 ―元勲大久保利通の遺産」

icon 5.戊辰戦争と会津藩の気質



 戊辰戦争は、明治新政府軍と旧幕府軍の間で起こった政権を巡る一連の闘いを指します。1868年1月の鳥羽伏見の戦いに始まり、北越戦争、会津戦争と続いたこの戦争は、いずれも新政府軍が勝利を収め、1869年5月、箱館戦争で旧幕府軍が降伏したことで完全に終結しました。
 一連の戦争では、優勢な新政府軍に寝返った旧幕府軍の藩も少なくありませんでしたが、会津藩は違いました。「奥羽越列藩同盟」という連合を結成し、旧幕府軍として闘った東北・北陸地方の諸藩の中でも、会津藩は、最後まで激しい抵抗を見せています。会津藩が持っていた旧幕府に対する忠誠心は、特別なものだったといえるのかもしれません。
 この忠誠心とも義理堅さともいえる気質を会津藩に植えつけたのは、初代藩主の保科正之でした。保科正之は、側室の子にも関わらず自分を優遇してくれた三代将軍・徳川家光に対し、強い恩義を感じていたといいます。彼は、幕末まで十代続く会津藩の指針『家訓15箇条』を残しますが、その第一条で、幕府に対する絶対の忠誠を説きました。
 義理固く真面目、かつ先述したように幕政に深く関わるほど有能であった正之は、その後の会津藩の基礎を築き上げます。また、その家訓を忠実に守った保科家は、三代目正容(まさかた)の代で、松平姓を名乗ることを許され、名実共に徳川将軍家親族の名門として認められるようになりました。そして、時代は幕末を迎えます。

icon 6.十代藩主 松平容保



 幕末、十代藩主松平容保(まつだいらかたもり)は、「京都守護職」に就任しました。これは、討幕派による要人の暗殺などが相次ぎ、政情不安定だった京都の治安維持を図る幕府の要職です。この職への就任は、当然、相当な危険を伴うものでした。
 幕府から京都守護職の要請を受けた際、家臣たちは、「マキを背負いながら火事に飛び込むようなものだ」と言い、容保を制したといいます。しかし、幕府から『家訓15箇条』を引き合いに出された容保は、要請を受け入れざるを得ませんでした。初代藩主から連綿と続いてきた家訓の重さ、渦中の京へと飛び込む身の危険さ、そして藩の将来――様々な想いが交錯するなかでの苦渋の決断であったものと思われます。
 京都守護職に就いた容保は、新撰組などを要して、京都の治安維持に成果を挙ました。しかし、結果としてこれが討幕派の恨みを一身にうけることにつながります。戊辰戦争(会津戦争)時、新政府軍にとっての会津藩は“朝敵”、“賊軍”の代表的な存在となりました。

 戦後、会津若松城下では、新政府軍による略奪や虐殺が凄惨を極め、また戦死者の埋葬も許されなかったといいます。会津藩松平家は、家臣とその家族も含め1万7千人が、下北半島の不毛の地へ移住させられました()。また、学問や国政など様々な分野で会津藩出身者は不遇され、交通や教育機関などの整備も遅れたといわれています。
 このような不遇が、少なからず農政にもあったものと考えられます。江戸時代に表面化した会津盆地の水不足が解消されるのは、昭和を待たねばなりませんでした。

※青森県の下北半島に斗南藩として移住させられました。斗南藩の石高は3万石とされたものの、実際の石高は7千石程度の荒地だったといわれています。



icon 7.会津北部農業水利事業



 明治以降、会津盆地の四方を囲む山々では、戦争時の燃料として樹木が乱伐され、その保水力が低下していきました。川の水量は不安定さを増し、江戸時代からの老朽化した堰では十分な水を確保できなくなっていきます。さらに、第二次世界大戦後の食糧増産政策により、十分な水を確保できないまま開墾が進められたことが、水不足をいよいよ深刻なものとしていきました。
 昭和に入ってからは、県営事業を中心に頭首工や水路の整備も行われました。昭和31年には、姥堂川(うばどうがわ)上流に関柴ダムも造られています。しかし、いずれも局所的な対策であり、根本的な水不足の解消には至りませんでした。時代は高度経済成長期に移ります。全国各地で農業の近代化が進むこの時代、水不足への抜本的な対策を求める声はピークを迎えました。こうして昭和47年、会津盆地では、まず北部で大規模な国営事業が行われることになります。
 国営会津北部農業水利事業は、着工から20年後、平成4年に完了しました。押切川上流に造られた日中(にっちゅう)ダムは東北有数の規模を誇り、その水は下流に新設した八方頭首工、濁川へとつながる幹線水路を通してほぼ盆地北部全域を潤します()。江戸時代から使われてきた多くの堰は、八方頭首工をはじめとした4つの新頭首工に統合されました。既存の用水源であった関柴ダム、大平沼の取水口もそれぞれ改修されています。
 この事業は、会津盆地の水不足を解消し、農業の近代化を進める先駆けとなりました。平成5年に会津南部農業水利事業、平成16年に会津宮川農業水利事業と、南部の国営事業が完了した会津盆地は、現在、県下第一の穀倉地帯として、古代からの豊かさを取り戻しています。

※会津北部農業水利事業は、福島県による押切川総合開発の治水事業、発電事業、喜多方地方水道用水供給企業団による都市用水事業との共同事業として行われました。このため日中ダムは、かんがい用水の供給だけではなく、洪水調節、都市用水の供給、発電にも使われる多目的ダムとして建設されています。



事業概要

■関係市町村
喜多方市、会津坂下町、北塩原村の1市1町1村(現在の行政区分)

■受益面積
・水田用水改良 4,640ha
・畑地かんがい 60ha
計 4,700ha

■主要工事
・日中ダム 有効貯水容量 23,100,000m3
・大平沼及び関柴ダム取水設備の改修
・松野頭首工、八方頭首工、下台頭首工、塩川頭首工の建設
・幹線用水路(5路線、総延長18.5km)の建設

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