4世紀後半に大和朝廷が東北地方に支配権を拡げ、阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)が設置されました。 阿尺国造は安積郡全域と田村郡、岩瀬郡、安達郡の支配者として、阿武隈川沿岸とその支流の笹原川、逢瀬川、藤田川、五百川、大滝根川、谷田川などの河川沿岸部を開拓して農耕集落を作り、蝦夷に備えるため千名の兵士による軍団を置いていました。
江戸時代末期までこの地域では河川沿岸部以外では新たな農業用水を確保することが出来なかったため農業開発はほとんど進まず、41の寒村からなる人口が4,500人足らずの地域でした。
「阿武隈川左岸部における農業開発事業」
明治時代に入り安積地域では福島県(明治6年3月~)や開成社(明治6年11月~)による開拓事業を皮切りに、明治政府による開拓事業(明治11年~)、猪苗代湖の湖水を安積地域に導水するための猪苗代疎水事業(明治12年~一般的には安積疎水事業と言われている。)が行われ、その後には昭和時代中期の新安積開拓建設事業(昭和16年~)に至るまで各所で開拓事業が行われ安積地域は福島県有数の農業地帯となりました。
安積地域が農業地帯として発展した原動力は、猪苗代湖の湖水を安積地域に導水した安積疎水事業にありますが、安積疎水事業の以前にも先人達は猪苗代湖の湖水を安積地域へ導水する東注計画を考えていました。
<二本松藩による東注計画>
一説によると天保年間に二本松藩から会津藩に湖水の東注についての話がなされたものの会津藩の同意が得られずに沙汰やみになったという話もあります。
(会津の豊かな農業を支える湖水を東注することに対して親藩であった会津藩が外様大名の二本松藩の要請に応じないのはごく当たり前であったと思われます。)
<渡辺閑哉による東注計画>
福島県「岩代町史」に、岩代町生まれの渡辺閑哉が幕末に安積三原(大槻原・広谷原・対面原)の開拓を唱え、東注のために第1回目の実地踏査を行いましたが、猪苗代湖が会津藩の領地であることから東注することが出来なかったとの記述があります。
明治3年の春に、渡辺閑哉は今泉一三郎と共に湖水東注のために第2回目の実地踏査を行い、建白書を福島県民政取締所に提出しました。
明治5年の秋には第3回目の実地踏査を行い、湖水を田子沼に導きここから五百川に放流する案を取りまとめました。
この案は後に行われた安積疎水事業のルートとして採用されています。
<小林久敬による東注計画>
明治2年は奥羽飢饉が発生した年で、安積地域においても用水が欠乏していたことから須賀川の郷士小林久敬が猪苗代湖の湖水を岩瀬郡に東注する構想を立て、福島県民政取締所に建言していますが計画は実りませんでした。
<地元有志による東注計画>
明治3年には、大槻村の相楽半右衛・駒屋村の山岡友次郎・多田野村の山岡山三郎・小原田村の積口桃翁らの有志が湖水東注のための現地調査と測量を行い、浜路村からの東注計画を福島県民政取締所に提出しましたが計画は実りませんでした。
「阿武隈川右岸部における農業開発事業」
阿武隈川右岸部の地域では、昭和時代の後期まで大規模な農業開発事業が行われず小規模な水田農業と養蚕を主とする不安定な農業経営が続いていました。
このことから、新たな農地を造成すると共に既存水田の区画整理を行い田畑複合による農業経営の安定を目指す郡山東部総合農地開発事業(昭和54年~)が行われました。
「事業で作られた施設の維持管理」
阿武隈川の両岸部で行われた農業開発事業によって作られたかんがい施設等は、福島県や地元の手によって維持補修が行われていますが、阿武隈川左岸部のかんがい施設等は時間の経過と共に老朽化が進み抜本的な改修が必要となりました。
安積疎水事業で原型が形作られた施設については安積疎水農業水利事業(昭和45年~)で、新安積開拓建設事業で造成した施設については新安積農業水利事業(平成9年~)で施設の改修を行い、郡山地域における農業の維持に貢献しております。
郡山地域が農業を含め現在の姿になった礎は、まさに明治時代から平成の時代にかけて行われてきた農業開発事業にあります。
この農業開発事業の歴史から農業開発事業が地域の発展に如何に貢献したかを振返ってみます。
1)福島県による開拓事業・・・(明治6年3月~)
明治5年、福島県の県令安場保和(県令は現在の知事職に当る)は戊辰戦争で荒廃した地域の振興を図るため、典事の中条政恒(元米沢藩士で作家宮本百合子の祖父)が唱える安積地域の開拓を決意しました。
明治6年3月安場県令は二本松に出向き、戊辰戦争で家を焼かれ家財を失い生活に困窮していた旧二本松士族を救済するために安積原野への移住を勧めました。
安場県令の勧めに立入勝易ほか4名が即座に移住に志願し、明治6年から明治11年までに28戸の旧二本松士族が大槻原の一角に移住しました。
これら入植者に対して福島県は開拓資金として1戸当たり30円を5年据置・5年賦返済の条件で融資しました。 しかし、入植した旧士族はもともと百姓仕事の経験がなく農作業に不慣れなことに加え肥料不足から作物の収穫量が少なく生活が困窮していました。
福島県は更に明治12年までに臨時金(年1割の利子)として各戸に30円~50円を貸付しましたが、その後も生活の困窮から脱落者が相次ぎ大正15年には子孫が住む家は7戸に、昭和38年には2戸となりました。
2)開成社による開拓事業・・・(明治6年11月~)
明治6年4月、福島県は開墾奨励のため「自力開墾有志募集告諭書」を出しました。
典事の中条政恒は、広大な開墾可能地がある安積諸原における自力開墾を実現するため郡山の商人を熱心に説得しました。
この説得に阿部茂兵衛ほか24名の商人が応じ、拠出した土地と出資金により明治6年11月に開成社が設立されました。
開成社同志拠出申合せによる出資
*出資金 : 3,000円(最大出資は阿部茂兵衛と鴫原弥作の400円)
*田 : 145,500歩(最大出資は阿部茂兵衛と鴫原弥作の25,000歩)
*畑 : 150,000歩(最大出資は阿部茂兵衛と鴫原弥作の25,000歩)
*山林 : 40,000歩(最大出資は阿部茂兵衛と鴫原弥作の10,000歩)
*宅地 : 55歩(最大出資は阿部茂兵衛の10歩)
開成社は、貯水池を作り、家作を準備し、山林を開墾することを事業の目的としておりましたが、入植者の心のよりどころとして神社を建立しています。
当初、神社は伊勢神宮の分社にしたいと地元は希望しておりましたが、政府の許可が得られなかったため開成山大神宮として建立しました。
開成社は、田畑を小作人に貸付け小作料により収益を得る形で事業を行っていましたが、小作人に対しては以下の様なきめ細かな規定を設けていました。
① 家作の修繕は小作人が行うこと。
② 桑田、稲田ともに3年間は収穫の一切を小作人に付与すること。
③ 桑田、稲田ともに4年目より収穫の3分の1を小作料とすること。
④ 宅地の賃料は年玄米4斗5升入り3俵とすること。
⑤ 道普請、堀さらいは小作人が行うこと。
⑥ 地主への年貢は12月15日を厳守すること。
⑦ 小作人が農に精を出さないときは立ち退かせること。
開成社による開墾が始まると小作人として入植する人や自力開墾で近村から移住する人が増え、大槻原には数年で開拓村が形成され明治9年4月に人口700人の桑野村が誕生しました。
3)明治政府による安積諸原の開拓事業・・・(明治11年~)
安積諸原で福島県や開成社による開拓事業が始まった明治初期には、明治7年の「佐賀の乱」をはじめ「萩の乱」・「新風連の乱」・「秋月の乱」など旧士族による騒乱が続発し、旧士族に対する授産政策は急務のものとなっていました。
明治9年に明治政府は開拓の適地を東北地方に求めるため、高畠千畝と南一郎平を調査に派遣しました。 調査は、青森県の三本木原・福島県の安積諸原・栃木県の那須野原で行われ、安積諸原が開拓の適地として報告されました。
明治10年には西南戦争が勃発し、明治政府の討伐により相次ぐ士族の反乱は終結しましたが旧士族への政策は必至のものとなりました。
明治政府は富国強兵と殖産興業を国是としており、不平旧士族への授産政策として開拓事業に従事させることは殖産興業の有力な手段となるとの考えから、高畠千畝と南一郎平が報告した安積諸原を開拓地に選定しました。
安積諸原を開拓地に決定した背景には、安積諸原では既に福島県や開成社により旧二本松藩士への授産を行っていたことと広大な開拓可能地を有することがありました。
明治11年11月には旧久留米藩士の森尾茂助他7名が移住先発隊として到着し、入植地を大蔵壇原に決定しました。
後続隊は対面原と大蔵壇原に入植し旧久留米藩士の入植は最多時には156戸に及びました。
その後、旧鳥取藩士・旧高知藩士・旧松山藩士・旧米沢藩士・旧岡山藩士・旧二本松藩士・旧会津藩士・旧棚倉藩士・旧愛媛藩士・旧若松藩士が相次いで入植しました。
移住士族が開拓を完了するまでには早くても数年が必要であり、開拓地からの収穫によって生計を維持するまでの間は開墾補助金(家作補助金・開墾補助金・増開墾補助金・肥料補助金)や持参金によりかろうじて生活を行っていましたが、入植して10年を経過した明治20年代半ばになっても田畑からの収益は所要経費に追いつけず食い継ぎの借金生活となっていました。
4)安積疎水事業・・・(明治12年~明治15年)
安積諸原の開拓地では、かんがい用水を確保するために「ため池」を設けていましたが、この地域は年間降水量が1,100mm程度と少ないため、かんがい用水の不足から安定した農業を行うことが困難な状況にありました。
このため、明治政府は入植者が安定したな農業を営めるようにするため、猪苗代湖から安積諸原へかんがい用水を導水するための安積疎水事業(正式名称は猪苗代疎水事業という。)を明治12年より実施しました。
この安積疎水事業は明治政府による国内第1号の疎水事業で、その後各地において疎水事業が行われています。
安積疏水事業には、407千円(現在の価格で約500億円に相当)の事業費と85万人の作業員が動員され、猪苗代湖の湖水を制水するため日橋川に十六橋水門を設けると共に、山潟取水口や用水路など幾多に亘る施設を明治15年までに作りました。
安積疎水事業といえば政府のお抱え技師であったオランダ人のファンドールンが設計にあたり、彼の力によって安積疎水事業が完成したと思っている方が多いと思われますが、安積疎水事業はファンドールン一人の力によって成すことは出来ない大事業でした。
当時、ファンドールンは宮城県の鳴瀬川河口で行われていた野蒜築港の責任者であり、明治11年に野蒜築港の現場視察を行っています。
東京への帰路の途中に安積諸原の現場視察を行っていますが、この期間は明治11年11月1日から11月6日までの僅か7日間で正味期間は4日間でした。
安積疎水の詳細な設計は、内務省農勧局の山田寅吉を中心とした日本人技術者集団によって完成しています。
工事は政府の直轄事業でしたが、政府が直接に人夫や工夫・職人を雇うのではなく、区割りした持場を入札によって請負わせる方式とし、工事施工に当っては奈良原繁を最高責任者とし南一郎平ほか7名の工事掛員を任命して工事を行いました。
工事個所には、山越えや谷越えの場所が多くありトンネルや橋が数多く設けられていますが、特に橋作りでは優れた石橋作りの技術を持った大分の石工集団が大変な活躍をしていました。
この安積疎水事業によってかんがい施設が完成したことにより、安積地域ではかんがい用水が安定的に供給されるようになり、明治初期には3万石と言われた米の生産量が大正12年には4倍の12万石までに増加しました。
江戸時代末期には人口が僅か4500人足らずであった郡山地域は、今や人口が436千人に達しており福島県随一の人口集中地域に発展しております。
地域が発展するためには社会インフラを整備できることが条件になりますが、郡山地域では電力・上水・工水に猪苗代湖の湖水を利用できたこと、都市開発用地には開拓によって作られた田畑を利用できたこと、工業に必要な労働力には開拓者の子供を利用できたことなどがありますが、この陰には明治時代から行われてきた農業開発事業が大きく寄与しております。
特に工業の発展に対しては、開拓事業によって養蚕業が盛んになり地元で生産された原材料を使った製糸工場を建設する動きが盛んになりました。
製糸工場を作るためには、工場の動力源となる電力の供給と工業用水の供給が不可避となりますが、安積疎水事業で築いた用水供給レートの中で沼上山から五百川へ放流する地点では約40mの落差があり、この落差を利用して水力発電が可能であったこと、工業用水については安積疎水の農業用水を利用することが可能な状況にあったことから、明治31年に郡山絹糸紡績が進出し沼上水力発電所を建設して紡績工場に電力を供給しました。
この郡山絹糸紡績の進出が郡山地域における工業化の礎となりました。
*郡山絹糸紡績はその後片倉製糸、日東紡績と変遷しています。
*沼上発電所は全国で2番目の水力発電所で出力は1,560kw、発電所から工場までの送電線延長は30kmで電圧11,000Vの高圧送電路は日本で最初のものです。
その後、五百川沿いには更に水力発電所が建設され進出した工場へ電力を供給することが可能となり、郡山地域の工業化は更に進みました。
また、都市の発展に欠かせない上水については猪苗代湖の湖水を利用していますが、上水の送水ルートには現在も安積疎水の用水路が利用されております。
この様に現在の郡山地域を形作っている原点は農業開発事業が礎になっていると言っても過言ではありません。
この執筆に当っては、「安積開拓史」「安積疎水百年誌」「安積疎水農業水利事業誌」 「郡山東部総合農地開発事業誌」「新安積農業水利事業誌」を参考にしております。