top01

1.ゆきかたの原を拓き潤す、西水東流
2.陸奥国と出羽国の入口、ゆきかたの原
3.地域の水と地形・地質・気象
4.土地を拓き、土地を潤し、弥栄の地
5.西水で東のゆきかたの原野を潤す
6.矢吹原・白河原の開拓

icon 1.ゆきかたの原を拓き潤す、西水東流(せいすい、とうりゅう)



 広大な未開の原野、中世からの田圃の望み、
     西水東流で、明治に夜明け、昭和に日の目、弥栄の地

I.奥羽山系の麓と阿武隈川に沿いの広大な地

001

II.奥羽山系の西水を東の原野への疎水構想

002
星翁の西水東流の建白絵図

icon 2.陸奥国と出羽国の入口、ゆきかたの原



III.白河(白川)郡・岩瀬郡の歴史

奥羽と中央政権との境、白河の関

 陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)と中央政権との境に位置する白河の関は、大化の改新以降七、八世紀には存在し、古くから道奥の関門として知られていた。この頃奥州・羽州地方は、律令政治の支配と領土拡張のため強い圧力が加えられたが蝦夷地の人の伝統的な生活を守るための多くの抵抗勢力があった。当時白河以北は、奥州阿部氏そして藤原氏の支配下にあり中央政権と境の白河の関は、その存在感を示していたと言われている。

時代の激動に遭遇
 中世初期の頃この地方には、集落毎に多くの館があり権力闘争や領地の争いが頻繁に行われていた。源氏の息のかかった石川氏の統治時期が長かった。その後幕藩時代に入り時勢により藩主が伊達藩・会津藩・高田藩・白河藩等に藩主が頻繁に交替して行った。また、奥州十二年合戦や明治維新の激戦の地となるなど時代の激動を経験、明治維新後には多くの入植者が入ってくるなどこの地方に複雑な歴史が残こされている。

街道と共に繁栄

 幕藩時代の矢吹地方は、奥羽街道(江戸―白河―矢吹―須賀川)、水戸街道(水戸―矢吹―会津)、会津街道(白河―勢至堂峠―会津)、関街道(栃木黒羽―白河―矢吹―須賀川)の多くの街道が交叉するところであった。このため矢吹原を通る奥州街道には大和久宿・中畑新田宿・矢吹宿が、水戸街道には山城目宿・中畑宿など多くの宿場があり、人や荷馬車の往来で賑い人口の増加に伴って、街道沿の原野の開拓などによる地域の開発が進み宿場街・農村地帯として繁栄した。


IV.時代流れと風土

 この地域は、奥羽国と中央とを結ぶ街道が交叉する要所で宿場街が多く、前九年合戦や戊申の戦いの直接の地となった、また、統治者の頻繁な入れ替わりなど人の交流も多く時代の流れの影響を多く受けた。このような歴史や風土から著名な志士等(中山義秀「芥川賞作家」、日本最初の看護指導婦人、小林翁、星翁等)が生まれ、新しい事への挑む情熱や原野開拓の意欲の醸造の土台となったのではないか。
 中山義秀氏の明治末の小説に、「自宅は水車を生業として生計をたてていた」、「隈戸川を隔て碁盤の目のような整然と整地された田圃が広がっている。」記されている。この地方は早い時期から、川の水を利用した生活、田圃開発や土地整備の意欲が高かったことが想像される。

V.地名の由来

 地名の由来には諸説があるが、「義経記に、源頼義が白川の関を超え、ゆきかたの原に馳付き、貞任を攻む、貞任其日の軍に打負て、安積の沼に引退く」と、前九年の役の戦いの史記に「行方野」の地名で記さている。古い時代から荒れ地の原野であったようである。
 この戦いでこの地に陣を張り「弓の矢柄で八幡神社の屋根を葺いた」ことから、矢吹の地名は、行方野⇒矢葺⇒矢吹となったともいわれる。
 また、この地方の原野が「矢吹ガ原」と統一的に呼ばれるようになるのは、明治中期なって御料地・御狩猟場が開設された時期に、その中心にあった矢吹村の名を総称名とし使用してからと言われている。

icon 3.地域の水と地形・地質・気象



VI.地質時代と土性

 この地域が属する福島県中通り一体の地質概観は、阿武隈川を中心に東側には今から一億年以上前の中生代から古生代にかけて形成された花崗岩・変成岩から成る阿武隈山地が分布し、西側には新第三紀に形成された堆積岸・火成岩から成る奥羽山脈が聳えている。
 地層の底部を構成する地質は未固結の礫・砂・粘土から成り、地形は現在から数十万年前の間に阿武隈川を初めとする河川によって形成された。第四紀には現在とほぼ同様の河川が流れていたと言われる。
 矢吹ガ原地域は、阿武隈川中流左岸に位置し、阿武隈川とその支流、釈迦堂川・隈戸川・泉川に囲まれた、奥羽山系の東部に連なる帯状の丘陵台地である。原野の上層は黒色、深部は黒褐色、下層土は不透水、凝灰性の砂岩層に達するところが多い。土壌は腐食質火山灰で強酸性土壌である。

VII.古くからの水不足

 矢吹ガ原は、奥羽山系の南端に位置し降雪量は少なく、用水は春期の雪解け水の期待できない小流域面積の中小河川が水源で、古い時代から用水確保に苦しんいたことを示す石碑もあり、現在でもこの地域には溜池が400ヶ所程あって利用されているなど、渓流水・地下水・降雨水を貯水する溜池や地下浸透水再利用等による用水に恵まれない地域あった。
 しかし、この地域の古墳時代の墳丘に埴輪がめぐらされ、内部に木棺・石棺・石室などが配置され、遺体と共に銅鏡・剣・馬具の副葬品が納められた古墳が残されていることから、強力な権力者が居た大きな集落あったと言われている。このことから降水量は少ないが、奥羽山麓の地下水は良質で安定した生活用水環境に恵まれていたのではないか。
 昭和の気象資料からの推測では、当地は那須火山脈の山岳気象の那須高原に類似した晩霜被害の常習地帯で被害が5月中旬まで及ぶこともある。降雨は夏期に偏在し降雪量が少なく年間降水量は、1400mm/年程度である。少ない降水量、低温遅霜の発生など水田や畑作の営農上厳しい気象条件の地域であったことが推測される。



icon 4.土地を拓き、土地を潤し、弥栄の地



VIII.明治期までの矢吹ガ原

 本地区の多くを占める矢吹ガ原は、江戸時代までは統一的な名称はなく、北から六軒原・藤沼原・西原・南原・三城目原・八幡原・岡谷地原・十軒原・滑津原と呼ばれた原野であった。
 石高制を基盤とした幕藩体制が始まった江戸時代初め、各藩の領主は領内の開墾を盛んに行い農地の拡張を図った。その結果、明治時代の初めには当時の技術で開発可能な地は殆どが開発されつくしていたと考えられ。
 しかし、当時の矢吹ガ原は、「保水力、保肥力が弱く、生産力が著しく劣っていて、那須おろしは砂塵を巻き上げ、草原と松林が点在する原野が大部分である」と伝えられ、耕地は集落の周辺にささやかなものがあるにすぎず、主に地域住民の薪炭、採草の入会地となっていた。
 この地域の本格的な開発が始まるのは明治に入ってからである。明治政府の最大の課題は、中央集権国家を確立し、外国の脅威に耐えうる国家になることであり、「殖産興業」はその大目標であった。
 殖産興業の一環として、明治政府は、全国に散在する原野を開墾し、農業生産を高めることに注目し、更に、当時社会不安の大きな原因となっていた旧武士階級の失業の対策「士族授産」の一助となることから士族開墾に取り組んだ(1878)。
 矢吹ガ原にも滑津原に11戸、十軒原に2 戸、八幡原に3戸の士族が入植したが、地味が悪く、用水がないため思うような収穫を得ることができず、困窮を極めた生活を展開することになった。


IX.明治維新の風と共に開拓の黎明

 明治期以前までの開発は、中小河川からの取水や溜池の築造等による、零細で小規模な農地開発に留まって広大な未開発の土地が残されていた。明治初期になって、御開墾所・御料地・御猟場が設立されるなど、広大な原野の開発の機運が急速に高まる。
 明治政府は、新しい時代の国の繁栄政策として士族対策や絹・米の増殖産業が打出して、1876年(明治9年)に国営開墾事業計画として「東北・関東地方官有原野について開拓適地調査を行い」東北開発の最適地を明らかにし、原野開発計画が公表された。
 この計画に関連する開発計画や事業実施の事例としては、小林翁の湖水東流疎水計画(1879年)、鏡石町の牧場開発(開設1880年、オランダからホルスタイン輸入)、明治政府の失業士族の緊急授産事業の安積疎水事業(開始1882年~1887年完成:猪苗代湖水の東流利用)、矢吹ガ原入植(1878年)、星翁の西水東流の疎水計画(当初案1889年第二案1897年)、矢吹町の県立修練農場設置(1890年開設:現在の農業経営大学校)、矢吹ガ原の入植(1934年開始:弥栄開拓)、矢吹原開拓事業(1941年開設:農林省の国・県営事業)が挙げられる。

X.痩地原野に新しい農業

 水源を持たない痩地の矢吹ガ原周辺の広大な原野に、オランダからの乳牛導入による畜産業を取込んだ新しい農業開発を目指した「日本初の国設牧場が明治13年」に開設された。更に、湖水東流を水源とする安積疎水事業の完成を目で見て、この地域の開発機運が一層高まっていったと言われている。
 この時に「オランダから記念に鐘」が贈られた。この鐘が後に「牧場の朝の歌」に謳われ日本全国広く歌われる。
 この歌詞から当時のこの地域の情景が浮かんでくるようです。


icon 5.西水で東のゆきかたの原野を潤す



XI.西水東流・湖水東流の疎水建白

 明治時代になると、矢吹原や須賀川原地域に奥羽山系の水を引水する疎水計画を地元在住者が何回かに亘り計画建白した。この地元の熱意が明治維新初期実施された安積疎水事業、大正時代になって福島県が示した「白河矢吹開拓計画」として芽を出していく。
 その後この計画が農林省国営矢吹地区開拓事業(羽鳥ダム水の放流開始「昭和29年」)の実施へと繋がり、安定した開田用水が確保され矢吹ガ原の開拓が本格化した。
 古い時代からのゆきかたの原の土地開拓と土地潤いが、西水の東流引水で日の目を見ることとなった。


XII.猪苗代湖の北岸口水源とする疎水計画(湖水東流)(1879年:明治12年)

 岩瀬郡須賀川村の小林翁は、幼少のころ会津磐梯山の麓にあった、満々と水を湛え猪苗代湖の雄大な姿を見て、この水を須賀川に樽に詰めて持って行けないのか。と言ったとか。
 小林翁が家督を引継ぐと私財を投入して新しい測量技術等を駆使し苦労の末猪苗代湖水の東方流下を水源とする矢吹ガ原や須賀川原の疎水計画を提示した。
 計画は、水源を猪苗代湖岸上戸地先に求め奥羽山系山麓の安積郡西部山麓を経て勢至堂峠に至り、大里村の釈迦堂川に落とし矢吹ガ原、須賀川へ開水路で導水する計画であった。しかし、猪苗代湖面低下と矢吹猟区との関係で実現に至らなかった。
 後に、この湖水東流疎水計画は、安積疎水事業完成時に明治政府の恩賞を受けるなど高く評価され、今もその功績を讃える石碑が多く残されなど貴重な歴史として引き継がれている。
 小林翁が東流水の流れを見て詠んだ句。「あらたのし田毎にうつる月のかげ」 明治12年 岩瀬郡須賀川村在住 小林久敬。

XIII.西流水山を越し引水東流補水とする疎水計画(西水東流)(1885年:明治18年)

 白河郡大和久村在住星吉右衛門をして、奥羽山系から日本海側に流下する鶴沼川に水源を求め、隧道掘削による太平洋側の阿武隈川に導水し、阿武隈川の流水と合流させて、矢吹・白河の開墾と近傍の旧田補の用水とする疎水計画を提示した。
 計画は、鶴沼川下流の既得かんがい利水量の減少による不足の事態が懸念されことから実現に至らなかった。 (昭和になり農水省国営事業で鶴沼川への羽鳥ダム設置の疎水事業が実施された。(昭和16年開始~39年完成)


XIV.猪苗代湖の南岸口を水源とする疎水計画(湖水東流)(1897年:明治30年)

 星翁が明治18年に提示した、奥羽山系西麓の羽鳥に水源を求めた疎水計画は、新たな展開として評価されたが、会津鶴沼川下流の受益者からの強い反対に合い計画変更を余儀なくされた。
 このため、猪苗代湖からの取水を南岸舟津村から取水、追分峠を経て牧本村を経て矢吹原に導水する新しい疎水計画を提示した。
 この計画も御料地開墾が障害となり実現に至らなかった。
 再三の疎水建白の採択の見送りもかかわらず、新しい水源確保による広大な原野の吹原開墾に掛ける意欲は消えることなく地元熱意が醸成されたていったのではないか。  疎水計画が採用されなかったが、星翁は、地域の住民と一緒になり明治初期に隈戸川に堰堤を設置し周辺の原野30haを開田している。この堰は万歳堰と言われ現在も利用されている。


icon 6.矢吹原・白河原の開拓



XV.矢吹原地域の開墾計画

 地元有志が矢吹ガ原の開田を知事に申請(1915年「大正4年」)して以来、開墾議論が活発化した。県は現地調査を基に「西白河、岩瀬郡矢吹原開墾基本調査」、開田面積950町歩を含む1320町歩への鶴沼川上流から農業用水を取水する矢吹原開墾の実施計画を公表した。(水源は、星翁が明治18年に提示した疎水計画を踏襲している) この計画で鶴沼川の用水を流域変更し隈戸川に導水する水源確保が明確に示されたことで、矢吹原の開墾と疎水事業が促進されるようになった。
 大正8年の開墾助成法、大正12年の用排水改良事業補助、大正13年になると、農林省による矢吹原開墾予定地調査が行われ、開田面積3500町歩、用水補給田1166町歩の土地利用計画が樹立された。
 昭和になり、矢吹原御料地の払い下げや県営開墾が進められ、昭和16年に農林省矢吹開拓建設事務所か開設され、事業開始後白河原野を事業に取込み白河矢吹原開拓事業として昭和39年に完了した。

019
開田が進んだ矢吹ガ原台地(昭和48年の状況)

XVI.国営白河矢吹開拓地区開拓事業 (昭和16年~39年)

 星翁の「西水東流」構想は、後世に引き継がれ大正4年県南有志によっ て、矢吹ガ原の開田に関する申請書が福島県知事に提出、これを受けて県 による調査が開始、大正13年には当時の農商務省によって土地利用が樹 立された。
 その後、水源をめぐる水利権問題に関して、鶴沼川の水利権を有する会 津電力株式会社と福島県及び農林省の三者で「鶴沼川水利用に関する協定」 が締結され、昭和10年には岩瀬御料地が福島県への移管が決定するなど 周辺環境が整い、昭和16年に国営事業大規模開墾事業「矢吹地区」が着工する。
 第二次世界大戦後、白河西部台地の軍馬補充部用地を「白河地区」とし て、矢吹地区事業に含め「国営白河矢吹地区開拓事業」として推進され、昭和39年に完了した。
 昭和16年に事業着手、頭首工・幹線水路工事が進められ、主水源の羽 鳥ダムは戦後になって本格化する。昭和24年に本体工事に着手、29年 には、ダムから水が取水通水された。羽鳥ダムの用水が隈戸川と導水路を 流れた水を現実に見ると、地域の雰囲気が一変して矢吹ガ原の開墾事業も 急速に進み39年に完了することとなった。

100




XVII.国営隈戸川農業水利事業 (H5年度~H22年度)
 本事業は、矢吹町(その後白河市に合併)、外2市2町3村にまたがる水田3,300haの受益地からなり、不足用水の確保と前事業の「白河矢吹土地改良事業」で施工された、用水路・頭首工・用水機場・羽鳥ダムの施設の改築を主な目的としている。
 かんがい用水は、国営白河矢吹土地改良事業(昭和16年~昭和39年)で造成された羽鳥ダムの他、隈戸川、泉川、鈴川及びため池等に依存していた。地区内の河川はいずれも自流量に乏しく、ため池も小規模なため、用水の反復利用、番水等による水利用を余儀なくされ、また、近年の営農形態の変化に伴い、代掻き期の開始がそれまでの6月から5月に早まったことなどより、用水不足が深刻化し新たな水源の確保が必要となった。
 さらに、国営事業により造成された用水施設の老朽化により、維持管理に多大な労力と経費を要すとともに、末端用水施設の不備やほ場が狭小なため、農業生産性向上の阻害要因となっていた。
 このため、羽鳥ダムからの取水量の増と頭首工・揚水機場及び用水路の改修を行い、近年の営農形態を反映させた用水の安定供給と維持管理の軽減を図ることを目的に実施された。

026
隈戸川事業概要図

200

027
日和田頭首工改築

028
隈戸揚水機

参考資料
隈戸川事業誌
隈戸川記念誌
岩瀬牧場ホームページ
須賀川市ホ-ムページ