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1.地域の概要
2.地域の歴史
3.新田開発の歴史
4.凶作による大飢饉と大洪水
5.昭和時代の営農
6.国営土地改良事業の沿革と経緯

icon 1.地域の概要



 本地域は、青森県の北西部、津軽平野の北端岩木川右岸に位置し、東方に津軽半島の梁をなす中山山脈が南北に走り、西方は岩木川の支流である旧十川及び十三湖に注ぐ鳥谷川を境として南北およそ22km、東西に約2kmのほぼ長方形の平坦地で、標高約5m以下の稲作を中心とした農業地帯である。
 津軽平野の地形状の特徴として、その標高が低いことであり、今でこそ百万石の美田化しているが、大昔は、一円満々たる水をたたえた大湖水であったと言われている。
 長年月にわたる泥砂の堆積により、埋もれ、埋もれて段々と縮小し、また、新田開発により現在の十三湖を残すのみとなったものである。

icon 2.地域の歴史



 2.1 旧石器時代
 津軽地方の遺跡は、弘前市の大森勝山、東津軽郡蟹田町の太平山元と、ここ小田川地域の金木町相野山から見つかっている。相野山遺跡では大形尖頭器が発掘され旧石器時代終末期~縄文時代初頭の生活の一端が分かる重要な遺跡とされる。
 出土石器の形状は、ナイフ型、尖頭器等で、旧石器時代の後期、または中石器時代の様相を呈しているもので、北部ローム層からの発掘である。

 2.2 縄文・弥生時代
 この時代に入ると、津軽地方で暮す人間の数も相当数に達し、生活の跡である遺跡が各地に見られ、そのほとんどが丘陵台地部分に点在している。
 古十三湖の沿岸は、シジミ貝や魚がたくさんとれ、人々がムラをつくりはじめ、中里町深郷田遺跡や、市浦村オセドウ遺跡のような貝塚が発見されている。
 当時の人々は、竪穴住居と呼ばれる建物を作って住んでいた。竪穴住居の中を発掘すると、土器や動物の骨、貝殻などが多量に出土し、当時の食糧事情をうかがうことができる。
 このころの人々が使っていた土器を、専門的には「円筒下層式土器」と呼ぶ。円筒下層式土器を使用していた地域範囲は、北海道の道南部から東北地方の北部にかけてで、普通この圏域を「円筒土器文化圏」と呼ぶ。
 十三湖周辺においては、弥生時代の遺跡は少なく、水田跡も発見されていない。ただし金木町神明町遺跡や車力村乗鞍遺跡から弥生土器が出土しているので、一時的に米作りの文化が及んでいたのかも知れない。
 弥生時代の終わりころになると、米作りは気候の寒冷化などにより急速におとろえ、遺跡の数も少なくなる。

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貝塚から出土した遺物(深郷田遺跡)
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円筒下層式土器


 2.3 平安時代の頃まで
 平安時代前期、十三湖周辺においても、中里町深郷田遺跡・大沢内遺跡などのように、低地に面した丘陵部に複数戸からなる集落が営まれ、鉄製の農具を使用して、畑や水田の開発をおこなっていたと推定される。また十三湖周辺では、網漁が盛んに行われたと考えられ、土錘などの漁具が多く出土している。
 当時の住居は、地面を方形あるいは長方形に掘りくぼめ、柱を立てて屋根をかける竪穴建物で、寝食のほか鍛冶や薦編みなどの作業もおこなわれる。このころ使われた土器は、古墳時代から用いられている土師器や須恵器です。
 須恵器は、五所川原周辺で生産されたものが多く使用されました。また、文字が書かれた土器や、仏教関係の遺物が多く出土しており、文化面でも充実してきた様子がうかがわれます。
 平安時代中期以降から後半にかけてのものと思われる土師器を主体としたものが、金木町の藤枝遺跡から出土している。
 この中に絵文字の刻印のある縄文晩期或いはそれ以後のものと考えられる土器片が出土しており、絵文字についての解読が試みられ、それによると「子孫を生むよきこの世、神に従っていつもこの壷を満たし、長生きをせよ」という意味で、生の全うをうたったものであると言われています。

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炭化米(中里城遺跡)
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土師器(中里城遺跡)

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icon 3.新田開発の歴史



 3.1 新田開発の奨励期
 この一帯は、藩政時代にいわゆる新田開発がなされ、五所川原市、北津軽郡金木町、中里町、市浦村の1市2町1村にまたがる約4,330haの地域であり、その大部分は、鎌倉幕府初期の頃迄は、十三湊郡と言われて、大きな入江であった。
 約400年前に、初代陸奥弘前藩主津軽為信公により津軽が統一され、石高45,000石とされたが、全国統一をした太閤秀吉は、津軽はせいぜい3,000石~5,000石程度と思っていたらしく、検地使一行から石高を知らされておどろいたというエピソードが伝えられている。
 津軽平野は、一面の萢地で渺々とした湿地帯であったのである。
 為信公により津軽が統一され、太閤検地により、45,000石、133村となったが、小田川地区に関係するものは、当時の金木村・忌来市村(喜良市)、薄市村と、梵珠山の西の麓出根通りのみで、中通り部分は、一面の湛水域(萢地)であった。
 津軽藩における初期の開拓は、いわゆる戦国浪人や郷士や藩士がその中心で、成功すると士分に取り立てられたり、数年間(3~5年)の諸役免除等の恩恵が与えられ、多いに奨励された。
 この当時小田川地区は、比較的生活環境の良い土地での集落があったと伝えられてはいるが、検地の記録等では明らかではない。
 津軽藩における新田開発の歴史を見ると、主として民間の手により行われた、「小知行派」と藩営による「御蔵派」とがあり、初期の頃は小知行派が主体となっていたが、諸般の事情、特に財政力の関係から次第に御蔵派によるものが開田の主流となっていったものである。
 特に4代藩主信政公(明暦2年)のころからは、この動きが活発となり、開田面積も飛躍的に増大していったのである。

 3.2 新田開発の推進期
 これまでを開発の奨励期とすると、4代藩主信政公(明暦2年~)の時代は積極的に開発が行われた時代で、新田開拓が多いに推進された。
 開拓は、下ノ切と呼ばれていた現五所川原市以北で、小田川地区と西津軽地区の現木造以北に該当する地帯である。
 寛文4年(1664)頃までには比較的条件の良い土地の開田は一応終了、貞享4年(1687)の領内総検地までに開村されたものは古村と呼ばれており、標高はほぼ5mの地帯となっている。
 低湿地のため開墾が困難で残された土地を現在の集落地名で挙げてみると、五所川原市の前萢、馬性、太刀打、桃崎、中野新田、長富、金木町の沢部、神原、蒔田、藤枝、中里町の豊島、富野、豊岡、福浦、宮川、五林、下高根等々が小田川地区の関係である。
 信政公の最大の業績は、大規模な藩営開田であるが、これと相前後して、岩木川の改修、才の神川、鳥谷川の掘削、堀替えなどの大規模な土木工事も実施された。
 この時代に行われた主な新田開発として、五所川原新田(1662~1676)、広須・木造新田(1681~1727)、金木新田(1692~1700)、俵元新田(1704~1728)などがあるが、特に広須新田開発の際に、「広須新田御掟条目」(大和元年1681年)が藩営新田開発のため定められ、その後の新田開発の規範となったとされている。
 藩営の金木新田の開発が元禄11年(1698)から開始され、宝永2年(1705)に終了し、18ヶ村が開村し田438町、畑84町が拓らかれた。これに伴って、これらの用水源として藤枝溜池(1688~1703)、大沢内溜池等も完成し本格的な営農の体制が整った。

 3.3 廃田復旧と溜池の築堤
 新田開発後はたびたびの洪水や冷害がこの地帯を見舞い、居住する農民たちを不安へとおとし入れた。
 5代藩主信寿公から7代藩主信寧公までのほぼ70年間は、主として廃田の復旧に主力が注がれた。
 さらに8代藩主信明公の時代に入り名君のほまれ高き殿様は希望藩士の土着を許可するなど廃田復旧に精力を注いだ。
 9代藩主寧親公の時代に入ってから、廃田復旧と共に新田開発も行われた。
 これは津軽藩の第3次開発とも言うべき規模のもので、享和元年(1801)から文政6年(1823)頃までの長期に亘っている。
 これにより、下毘沙門、長富が開村した。古村の開村から遅れること約130年の隔たりがあったのである。
 金木新田の開発以来、津軽藩は川の掘削及び堀替溜池の築堤等を積極的に進めてきた。
 これらの土木工事には多数の農民が安い賃金あるいは賦役として借り出されたが、溜池を造ることによって各沢目には道路が出来て、隣接する部落、村々との通り道としてされる利用ようになった。
 この時代の主要土木工事として、三の沢溜池、二の沢溜池、清久溜池の築造、飯詰川の流れ方向の変更堀替等がある。
 これによって毘沙門から金木までの中通りが通行できるようになった。

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icon 4.凶作による大飢饉と大洪水



 4.1 天保の大飢饉
 10代藩主信順公の時代、天保2年(1831)から9年(1838)迄続いた大飢饉は、「7年飢渇」と呼ばれ、歴史上最長の飢饉であった。
 この「7年飢渇」により、死者36,000人、他散したもの47,000人、死馬20,000頭、空家14,000軒、荒廃田10,000町歩に達した。
 7年間の引続く凶作により、領内には貯米はほとんどなく、藩の財政は窮乏を極めた。
 小田川地区の特に低湿地は廃田復旧の繰り返しであった。
 低湿地を生産力の安定した耕地にするためには、土木技術の進歩改良、特に水抜工事(排水改良)が大前提となる。
 この地域での水抜工事の障害となったのが十三湖水戸口の閉塞であった。
 藩政時代から掘削がたびたび試みられたが、この地方特有の西風のため閉塞が繰り返されるというものであった。

 4.2 昭和の大洪水
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洪水
 時代も進み、食糧の増産政策ともからみ、比較的高い土地の飯詰地区の扇状地、金木台地付近を除く水害の常習地帯である萢地での排水改良に対する要望の高まる中、昭和10年8月の大雨のもたらした大洪水は、大昔の十三湖が再現されたような大規模なもので、自然排水のみに頼っていたこの地区に与えた打撃は、想像をはるかに越えるものであった。
 当時の東奥日報紙によると8月21日夜半から降り出した大雨は、23日未明迄続き岩木川流域で245mm、十和田湖畔休屋では439mm、金木付近では150mmとあった。
 その後も昭和22年7月の大雨による河川の堤防決壊での大災害の経験から、さらにはこの地域の主たる水源である中山山脈に源を発する飯詰川、小田川等の中小河川は水田面積に対してその集水域は極めて狭小であるがための、用水確保の不安定等々の理由から、防災及び用水確保との発想で「小田川ダム」の構想が浮上してきたのである。
 当時は、用水確保の為の水源施設も多種に亘り、その数も井堰役56ヶ所、東部段丘部に散在する溜池群26ヶ所余、揚水ポンプ14ヶ所等々、さらに水路についてはそのほとんどが用・排水兼用であった。

icon 5.昭和時代の営農



 5.1 ぬかり田での労働
 岩木川の下流地域はヤジ(ヤチ)とよばれるアシガヤなどの繁茂する湿地帯であったため、開拓された水田もよくぬかる湿田であった。この水田はヤジ田(ヤチ田)とよばれたり、腰までぬかるので「腰切り田」ともよばれている。そのため、農民は過酷な重労働を強いられたのである。
 よくぬかるため、馬や牛を水田に入れて労役に使用することができなかったので、ほとんどが人力による作業であった。ぬかるのを防ぐため、足には田下駄(たげた)を履いた。田下駄は一枚板もしくは細い板を格子状(こうしじょう)に組み合わせて、藁縄(わらなわ)の緒をすげたものである。農家が懸命に客土(きゃくど)を行い土壌の改良につとめた結果、現在のような水田になったのである。

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腰切り田
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ぬかり田での農作業
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湿田での稲刈り

(中泊町立博物館提供)

 5.2 用水の確保
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水車を踏んでの揚水作業
(五所川原市立歴史民俗資料館提供)
 岩木川の下流地域は、水利にも恵まれなかった。稲垣村(現つがる市)付近では、上流地域で使用したあとの排水を利用しなければならなかったので、水が回ってくるのが遅かったり、水不足になりがちだった。そのため、水争いが多かったといい、上流地域で用水がせき止められて水がこないので、夜にせき止めた板を外しに行ったりしたという。下流地域では排水路も整備されていなかったので、中里(現中泊町)あたりでは春の雪解けで水があふれ、一帯が海のようになった。
 また、用水堰が低い位置にあったので、水田に水を揚げ入れるのも大変であった。そのため、水車(みずぐるま)という木製の揚水機を人が踏んで動かし、水を水田に入れた。水車は中心軸に何枚かのハネとよぶ板がついていて、下部には覆い板がつく。覆いの部分を堰に入れ、ハネを人が足で踏んで回転させて水を揚げた。非常に重労働であったため、30分ほどで家族が交代で行ったといい、朝から夜の10時頃まで踏んだこともあったという。水車が立ち並ぶ風景は西北地方独特のものであった。
 水車は第二次大戦後も活躍し、昭和30年代半ばまで使用されたが、発動機を使用したポンプが普及するようになり、姿を消していった。

 5.3 過酷な労働
 第二次大戦前は自作農が少なく、ほとんどの農家は地主から田畑を借りて小作(こさく)をしていた。小作料は一反歩につき何俵と決められていて、上田から下田までそれぞれ割合が異なっていた。
 稲垣村の周辺では、通常で一反歩あたり2俵であったが、まれに一石(2俵1斗)の所もあったといい、下田では6斗のこともあった。小作料は旧正月前に玄米にして、地主の所まで納めに行かねばならなかった。
 このように西北地方の農家の暮らしは貧しく、苦しい生活を強いられていた。貧しい農家の二、三男は水田を多く所有する農家に雇われて賃労働をすることが普通であった。これらの人たちをカレゴ(仮子)とかネンヤドイ(年雇い)とよび、1年契約で雇主と証文を交わしたが、証文でなく口約束だけの場合もあった。雇主の家に住込みで働き、給料は一人前のカレゴで12俵であったが、小学校を終えたばかりだと2、3俵であった。カレゴは農家の二、三男が多く、口減らしの意味があったが、中には仕事を覚えさせるために長男にやらせる農家もあった。

 5.4 農民の生活
 西北地方の場合、津軽平野という平地に立地している集落が多かったが、山を持たないため、日常生活や冬季の燃料である薪(たきぎ)に不自由するところが多かった。そのため、湿地帯からサルケという泥炭を掘り出し、燃料として燃やした。これを燃やすと独特の臭いがあり、煙が多く出たので眼病を患(わずら)う人も多かったという。
 また、冬季の西北地方は多雪地帯であり、かつ西北風が強く吹きつけた。雪が降らない日であっても強風で積もった雪が猛烈に舞い上がり、視界がきかない地吹雪(じふぶき)の状態となる。そのため、家々では家の周りに板やカヤなどを立てた雪囲いをした。これをカッチョといい、この光景は、西北地方の冬の風物詩であった。
(昭和時代の営農 青森県立郷土館学芸課長 成田敏氏の文献より )

icon 6.国営土地改良事業の沿革と経緯



 6.1 国営小田川農業水利事業の概要
 小田川ダム建設運動は、昭和27年から開始され、表向きは喜良市、川倉の開田を目的とし、既耕田の補水を計るための究極の使命を帯びてスタートした。
 その後の食糧増産の国家施策に対する再考の動きともからみ、土地改良事業の目的も、当初の「食糧増産対策」から「生産性の向上」へと方向転換が行われた。
 小田川地区の国営及び県営の農業水利事業計画は、その概要が昭和38年10月に公表され、関係受益者の利害関係から、さまざまな問題を抱えながらも、その後の土地改良区の設立、ダム本体の着手と徐々に事業も軌道にのっていった。
 農林省では、昭和34年度から国営土地改良事業小田川地区として、直轄調査に着手し、昭和39年度から昭和40年度にかけ全体実施設計を行った。
 一方地元では、昭和34年「小田川ダム促進同盟会」を設立、昭和37年新たに「国営小田川ダム促進協議会」を発足させ、促進同盟会は発展解散した。
 昭和40年9月8日木立民五郎外18名から、用水改良を主眼とした「国営小田川土地改良事業の施工申請」が行われ、昭和42年1月7日国営小田川土地改良事業計画決定がなされ、同年2月16日金木町に東北農政局小田川農業水利事業所が開設し、昭和45年度に本事業の基幹施設である小田川ダム、相原頭首工、尻無頭首工の建設に着手した。
 しかし、国営小田川土地改良事業計画に対する利害関係人の異議申立があり、訴訟の提起に至ったが、関係者の努力により昭和53年9月19日和解し、本事業は順調に進められた。
 また、関連事業である国営付帯県営かんがい排水事業は、昭和45年度に着手し更に、引き続き圃場整備事業等が着工した。
 本事業の当初計画は、用水改良を主眼として着工したが、その後農業を取り巻く情勢の変化により、農地の汎用化に対応すべく国営事業の計画変更で、県営かんがい排水事業で計画されていた排水改良のうち、未着手であった金木川以北の排水改良を新たに取り組み、昭和57年1月11日に計画変更が確定した。

1.事業目的
 本地区の主水源は、河川、ため池及び揚水機等にたよっているが、流域面積が狭小のため、用水は、常に不安定であり、水路は、用排兼用水路が殆どである。このため、水田は常に湿田あるいは、半湿田の状態である。
 従って用水源確保のため、ダムを築造して、用水を安定させ、用排水路を分離して乾田化を図ると共に、耕地の汎用化を促進するため、排水施設の整備を行い併せて、関連事業により基盤整備事業等を実施し、機械化営農体系を導入し、農業の生産性を高め、営農の安定を図るものである。

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小田川ダム
堤体張石施工状況
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小田川ダム
盛立アバット掘削状況
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小田川ダム

2.総事業費・工期
  ○総事業費:185.5億円
  ○工  期:昭和41年度~平成元年度

3.関係市町
  ○青森県五所川原市、北津軽郡金木町、市浦村、中里町

4.受益面積
  ○受益面積:4,330ha
     用水改良  4,270ha
     排水改良  1,630ha(うち重複1,570ha)

5.主要工事計画
  ○ダム    1ヶ所:小田川ダム
  ○貯水池   3ヶ所:藤枝、大沢内、作左エ門
  ○頭首工   6箇所:相原、尻無、蒔田、小田川、金木川、前堰
  ○揚水機場  2ヶ所:尻無、蒔田
  ○用水路   8路線:L=27.5km
  ○排水機場  2ヶ所:新河、中里
  ○排水路   2路線:L=12.1km
  ○水管理施設 1式

6.関連事業
  ○県営かん排  (S45~H4)  3,778ha
  ○県営ほ場整備 (S50~H2)  2,953ha
  ○団体営ほ場整備(S46~S63)   200ha
  ○構造改善事業 (S43~S45)    97ha
  ○区画整理事業 (S36~S39)   741ha
               面整備計 3,991ha

 6.2 津軽森林鉄道と国営事業
 津軽森林鉄道(青森~蟹田~中泊~金木)は、1906年(明治39年)に着工され、明治42年に完成した日本で最初の森林鉄道である。当時の木材需要の増大に伴い、津軽半島の「ひば材」を運搬し、昭和42年に58年に及ぶ歴史に幕を閉じた。
 津軽森林鉄道の軌道跡は、国営小田川土地改良事業(昭和41年~平成元年)で造成された第3号・第4号・第5号幹線用水路として利用されている。

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 6.3 国営小田川二期農業水利事業の概要
1.事業目的
 本地区の小田川ダム等の基幹的水利施設は、国営小田川土地改良事業により昭和41年度~平成元年に造成されたたもので、老朽化や厳しい自然条件による劣化の進行により、農業用水の安定供給に支障をきたしているとともに、施設の維持管理に多大な労力と経費を要しています。
 このため、本事業により、ダム、頭首工、揚水機場及び幹線用水路等の改修を行い、農業用水の安定的な供給と施設の維持管理を軽減し、地域農業の維持及び農業経営の安定を図ります。

2.総事業費・工期
  ○総事業費:100億円
  ○工  期:平成17年度~平成30年度(予定)
         平成17年度~平成22年度 国営かんがい排水事業
         平成23年度~平成30年度 国営施設機能保全事業

3.関係市町
  ○青森県五所川原市、北津軽郡中泊町
  五所川原市 H17.3.28合併(五所川原市、金木町、市浦村)
  中泊町   H17.3.28合併(中里町、小泊村)

4.受益面積
  ○受益面積:4,021ha
     五所川原市 2,625ha
     中泊町   1,396ha

5.主要工事計画
  ○ダム    1ヶ所:小田川ダム
  ○貯水池   3ヶ所:藤枝ため池、大沢内ため池、作左エ門ため池
  ○頭首工   3箇所:小田川頭首工、金木川頭首工、前堰頭首工
  ○揚水機場  2ヶ所:尻無揚水機場、蒔田揚水機場
  ○用水路   4路線:第2号・3号・4号・5号幹線 L=15.7km
  ○水管理施設 1式


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【参考文献】
・文献 事業誌 小田川
・文献 青森県立郷土館学芸課長成田敏氏
・文献 考古学からみた十三湖周辺地域
・文献 海津正倫 1976 津軽平野の沖積世における地形発達史 地理学評論49-11
・中泊町立博物館 資料
・五所川原市立歴史民族資料館 資料
・津軽森林鉄道ホームページ 資料