水土の礎 キッズページ サイトマップ ご意見・お問い合せ
水土の歴史年表 地域の礎 水土の成り立ち 大地への刻印 国土を創造した人々 礎の歴史的展開 近代日本の礎 水土の巧
地域の礎
カテゴリトップへ
数百年に渡って繰り広げられた水論 岩手県 ―山王海農業水利事業
東北エリア
戦後の国営事業






27堰の歴史



 27の堰は上流から順番に作られていったと考えられています。これはこの水系をめぐる水利慣行が「上流優先が原則」であったという点から読み取れます。上流優先に至った理由は、水田開発過程の新旧の差によるものと考えられています。用水路の開発過程は新田開発にはなくてはならないものですから、この水田の開発過程は同時に用水路の発展の過程ともいえます。
 すなわちこの地域では、上流部から順に開発が進んでいき、上流優先という約束を絶対としながら、その際最も下流にあった堰の下流に堰を築き、余った水をもって下流へ下流へと用水圏を拡大していったと考えられています。
 この27堰の建設は、江戸時代初期にはすべて完了していたと考えられ、この地方の新田開発は末期を迎えていました。滝名川用水協定によれば、寛文12年(1672年)、27堰のかんがい面積は約822haであったと伝えられています。その後昭和28年(1953年)の旧山王海ダム建設当時の受益面積は1,051haであり、およそ280年間の間で229haの増加しかありません。このように用水源の絶対量が乏しく、江戸時代初期には既に新田開発は限界に達していたため、この頃から水をめぐる争いが頻発しはじめ、旧山王海ダムが完成するまで続きました。
27堰の名前と堰番号
27堰の名前と堰番号

岩手県 ―山王海農業水利事業