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栗駒の麓に抱かれた伊達藩の米どころ 宮城県 ―迫川上流農業水利事業
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戦後の国営事業






中世の迫川流域



 
【写真】青葉城の伊達政宗像
  奥州の豪族であった安倍氏は9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、11世紀の初めには俘囚(ふしゅう:帰属した蝦夷人)の長として奥六郡の北上川一帯を支配していました。しかし、その後、藤原氏、清原氏などが台頭し、いくつかの戦乱を経て奥州藤原三代が、中尊寺金色堂に象徴される100年の栄華を極めます。しかし、源頼朝は鎌倉幕府を開くとすぐに、義経追討を口実に奥州に軍を進めて平泉に攻め入り、藤原氏を滅亡と追いやります。
  奥州藤原氏が関白道長に寄進したとされる荘園、高鞍荘は三迫辺りとされ、迫川の川沿いは早くから荘園をもった集落が存在していたことを物語っています。
  その後、源頼朝から関東御家人として福島地方に所領を与えられていた伊達氏が頭角を現し、慶長8年(1603)、伊達氏は秀吉によって仙台に移封されます。政宗はこの時の、減封、移封によって受けた経済的損失を取り戻すために、領内の産業、特に鉱山の開発を進めるとともに、北上川をはじめとした河川流域の低湿地や野谷地(耕作されていない湿地帯)の開拓を奨励します。慶長から元禄に至る17世紀のおよそ百年の間に北上川流域、迫川流域の主要な水利開発が展開され新田開発は意欲的に進められていくことになります。

※奥六郡(おくろくぐん)は、律令制下に陸奥国(東北地方太平洋側)に置かれた胆沢郡、江刺郡、和賀郡、紫波郡、稗貫郡、岩手郡の六郡の総称。 現在の岩手県奥州市から岩手県盛岡市にかけての地域に当たる。



宮城県 ―迫川上流農業水利事業