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ケネディも称えた鷹山が育てイザベラ・バードが絶賛した里 山形県 ―米沢平野農業水利事業
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上杉鷹山と米沢平野の開発



 上杉家は越後の名将・上杉謙信を祖とする名家であり、謙信の養子・景虎は豊臣時代に会津120万石を領する大大名でした。しかし、関が原の戦いで西軍についたため、徳川家康により米沢30万石に減封され、さらに藩主の跡継ぎ問題がたたり、15万石へと1/8に減らされています。
  上杉家は譜代の家臣5千人を連れて米沢に入ったため城下には収容しきれず、多数の武士団を屯田兵として、南原、花沢、山上など約40数地区に配置したといいます。いずれの地も未墾の原野であり、収入を1/8に減らされた藩としては新田開発にかけるしかなかったのでしょう。
  しかし、前述したようにこの盆地に流れ込む河川はいずれも急峻で保水力がないため、洪水と渇水を繰り返すという厄介な盆地でした。とりわけ「大谷地」約1000haは、約700haが泥炭の風化した湿地帯で水田作業は腰まで浸かるあり様。さらに250haは浮田といって文字通り水面に浮かぶ水田であり、渇水時には田面も下がり、多雨の年は膨れ上がるという奇妙な水田でした。おまけにこの地区に流れ込む河川はなく、地形的には排水も不可能という重症の農地でした。
  したがって新田開発もそれほどは進展しないまま、歴代の藩主はかつての120万石の格式から抜けきれず多額の借財を重ね、米沢藩は財政破綻に陥ります。重税のため逃亡する領民も多く、13万人を数えた領民は、8代藩主の頃には10万人程度に減少していたとも言われています。

【写真】上杉鷹山 
出典:ウィキペディア
  しかし、ここで登場するのが江戸期屈指の名君として名高い9代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)。1768年、17歳で藩主となった鷹山は「自助」「互助」「扶助」をスローガンに数々の改革に乗り出します。
  質素倹約を旨としながらも殖産興業を図るため畑作による商品作物の栽培に取り組みます。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などを藩邸で栽培し藩士にも奨励しました。藩主自らが農民の仕事をやってみせるわけですから家臣たちも穏やかではありません。やがて家臣たちも積極的に新田開発に取り組むようになり、妻子まで養蚕や機織りをやるようになったと言われています。
  鷹山の功績として名高いのが天明の大飢饉(1782年)における米沢藩の処置です。藩士、領民の区別なく一日あたり米3合の粥を支給し、酒、酢など、穀物を原料とする品の製造を禁止するとともに、被害の少なかった地域から米を買い入れるなど迅速な対応が功を奏し、仙台藩では30万人が餓死したといわれる大飢饉の中で、米沢藩では一人の死者も出さず、江戸幕府から表彰されています。
  こうした鷹山の改革が実を結び、晩年にはほとんど借財もなくなり、健全財政を確立するまでにいたりました。元アメリカ大統領のケネディやクリントンが最も尊敬する日本人の政治家として上杉鷹山の名前を挙げたことから、日本でも広く知られるようになりました。
  1721年、16,696haであった米沢平野の農地は、鷹山の頃の寛政年間(1789〜1801年)には、21,709haにまで増えています。明治初期の農地は23,084haですから、寛政の頃に比べて約1,400ha増加しているだけであり、この盆地は鷹山の時代に、(「大谷地」などを除けば)ほぼ開発されつくしたと言えます。
  しかしながら、62万石という広大な農地をわずか3本の用水網で潤した尾張平野、葛西用水・見沼代用水で約2万haを灌漑(かんがい)した関東平野などと比べるのは酷であるとしても、わずか15万石の米沢平野で井堰の数が60ヶ所を超えるということ自体、この盆地の水利制御の難しさを雄弁に物語っているのではないでしょうか。

山形県 ―米沢平野農業水利事業