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1.輪中の形成と高須輪中の成立
2.高須輪中農業水利事業
3.関連の県営事業
4.おわりに

1.輪中の形成と高須輪中の成立



 輪中は、水害から守るため、集落や耕地の周囲を堤防で囲んだところをいい、この堤防を輪中堤といいます。濃尾平野では木曽川河口からほぼ45kmの内陸にある岐阜市から伊勢湾まで大小45の輪中が連なっています。
 最初のころ、堤防は集落・耕地の上流側にあたる部分に造成され、濁流の激突をかわすことに努めていました。これを「尻無堤」といい、こうした堤防は下流からの浸水にはまったく無防備でしたが、洪水が引いた後には、作物の栽培に適した肥えた土が残るという利点もありました。
 その後、下流側にも堤防を築き、全体を包む輪中が完成し、さらにいくつかの小輪中が幾度となく合体しながら現在の輪中が形成されていきました。


自然堤防
洪水のたびに上流から大量の土砂が運ばれ、
川沿いに自然の堤防ができ、人々が住み始めた

尻無堤(しりなしづつみ)
人々は洪水時の水の直接の攻撃を防ぐため、
自然堤防をつないでかぎ形や半円形の堤防を築いた

潮除堤(しおよけづつみ)
洪水のたびに上流から大量の土砂が運ばれ、
川沿いに自然の堤防ができ、人々が住み始めた

輪中のなりたち
(出典:海津市教育委員会(歴史民俗資料館)「伸びゆく輪中」p.4)
 
 高須輪中の成立は、慶長5年(1600)から慶長11年(1606)の間と推定され、濃尾平野で最初に形成された輪中とされています。これは高須輪中の存在する地域が海抜ゼロメートル地帯を含む濃尾平野でもかなり低位な土地であり、水害を格別に被りやすい地域で、高潮や海嘯(かいしょう)の影響を受けやすかったためと考えられています。  
 その後、江戸時代に新田開発が進められ、新田を洪水から守るために輪中堤防が設けられました。享保17年(1747)に最後の新田万寿新田が完成し、古くからの輪中群と本阿弥輪中、金廻輪中及び福江輪中を包括する輪中堤を持つ複合輪中としての高須輪中が完成しました。  
 高須輪中の成立後、宝暦治水(宝暦3年(1753)~宝暦5年(1755))等の数々の治水事業が行われてきましたが、それでも長良川、揖斐川の氾濫のたびに大水害に悩まされていました。明治の時代に入り、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ(1842-1913)の計画に基づいて施工された明治の三川分流工事(明治20~44年)をきっかけに、水害による死者、家屋全壊・流失、堤防決壊等の災害は激減しました。  
 さらに昭和に入り、排水ポンプの技術が画期的に発達し、排水機場が整備され、地域の水害防止に大いに活躍しました。


昭和2年(1927)につくられた「ゐのくち式渦巻ポンプ」(福江油島排水機場)
所蔵:海津市歴史民俗資料館

2.高須輪中農業水利事業



 戦後の昭和27年、この年に襲来した「ダイナ台風」は、長良川上流に177mmの豪雨をもたらし、6月24日、海津郡海西村勝賀地先の堤防が決壊して大きな災害をおこしました。この水害により湛水した農地の区域は大江・中江・帆引新田土地改良区の全域でした。
 高須輪中地域は、これまでも排水不良で年々被害を被っていた現実から、この湛水した地域を対象として、排水機の新設、増設、既設排水機の改良強化を目的に国営排水改良事業を実施することとなりました。更に早急な事業実施が求められた等の事情により土地改良法施行規則を改正し、本地区に限り国営事業を岐阜県に委託し施行することとされました。  
 これが「農林省委託県営高須輪中農業水利事業」で、昭和28~34年度の7か年で実施されました。

長良川決壊による水害現場(昭和27年6月24日、海津郡勝賀)
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.188)

勝賀の堤防決壊による湛水区域
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.190)

町村別受益面積

単位:町歩
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.197)

主要工事計画

(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.206

高須輪中農業水利事業計画一般図
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.197)

3.関連の県営事業



(1)県営中江用水農業水利事業  

 高須輪中農業水利事業(昭和34年度完成)に引き続き、これに関連する高須輪中南部区画整理事業の用水確保のための幹線用水路工事計画として、県営中江用水農業水利事業が計画されました。
 用水受益806.8ha(内訳 海津町790.8ha 平田町16.0ha)で、昭和35~41年度の7ヶ年で実施されました。

主要工事計画

(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.230)


(2)県営高須輪中埋立干拓事業

 本事業地域は、海津郡海津町、平田町及び南濃町地内の長良、揖斐両川の合流点付近に位置する「高須輪中、その他」の地域です。この地域は標高0m~3mの低湿田地帯で、古来降雨時には雨水の停滞により、農業経営に著しい障害となっており、農民は田面の一部を短冊型に掘り下げ、田面を少しでも高くすることに努めた結果、大小無数の「堀潰(ほりつぶれ)」を生じていました。こうして出来た「堀潰」と従来からの池沼等水面の面積は、多い所で田面積の40%にも及んでいました。  
 昭和28年当時、治水対策として木曽三川下流部の河床堆積土砂を排除し、併せて河川堤の補強事業を実施中であり、下流から順次上流部へ事業地域が移動していました。本高須輪中地域には昭和29年度から実施されることとなり、この膨大な残土を利用して地区内に散在する池沼、堀潰の埋め立てを計画し事業に着手しました。  
 事業の実施状況は次のとおりです。

埋立干拓事業の実施状況

(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.233)


 この事業により圃場区画の拡大が図られ、機械化営農が可能となり、今日の大区画化への先駆けとなったのです。

土地改良前の「堀潰(ほりつぶれ)」の風景
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.239)



埋立事業の施工前後の比較(海津町帆引新田・沼新田付近)
(出典:高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」p.234)

4. おわりに



 条件不利益であった高須輪中地域が、現在では岐阜県下でも有数の農業地帯として発展しています。その功績として、第二次世界大戦から復興を始めた昭和の中期(S20~S40年代)に行われた用排水の増強や、後の大区画化の先駆けとなる「堀潰」の埋め立て等、様々な土地改良事業や関連事業の精力的な取り組みがありました。
 高須輪中農業水利事業は、県委託というユニークな事業を展開し、関連県営土地改良事業とともに、現在の高須輪中農業地域の礎となったのです。


引用文献・参考文献

【引用文献】
1.高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」 平成12年3月
2.海津市教育委員会(歴史民俗資料館)「伸びゆく輪中」四訂版 平成21年9月

【参考文献】
1.高須輪中土地改良区「高須輪中土地改良史(事業史編)」 平成12年3月
2.安藤萬壽男「輪中-その形成と推移」大明堂 昭和63年2月