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1.三河を潤す大河
2.西三河に広がる古代遺跡
3.取り残される台地の開発
4.家康による矢作新川の開削
5.町人の進めた干拓
6.明治用水の開削
7.開発の進行と水需要の高まり水の開削
8.西三河を潤す矢作川用水
9.国営矢作川農業水利事業

icon 1.三河を潤す大河



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矢作川の流域
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出典:愛知県「県土レポートあいち'99」(一部加筆修正)
 長野県の木曽山脈に発し、愛知県の西三河地方を大きく蛇行しながら、三河湾へと注ぐ矢作川。
 矢作川は、古くは御川(みかわ)とも呼ばれていました。「御川」とは「美川」の意であり、「三河国」の地名も矢作川の流れる地域を指して付けられたものといわれています。(
 矢作川の上流部は、大半が崩れやすい花崗岩でできており、沿岸には矢作川の運ぶ土砂による沖積平野が発達しています。この肥沃な土壌は、農業の好適地として、古くから人々の生活の場となってきました。
 しかし、右下の地形図を見てわかるとおり、西三河の大部分には、丘陵地と台地が広がっています。低地との高低差はわずか十数メートルですが、水路の引くことのできないこの台地上の開発は、明治になるまで手をつけられることはなく、広大な未開地のまま放置されてきました。
 また、一方、開発の進んだ沿岸部の沖積平野や下流部の低地では、上流から流れてきた土砂が溜まり、河床が上昇してしまうため、乱流が起こりやすく、長い間、水害に悩まされてきました。そのため、主に江戸時代以降、堤防の築造や河川の付替えなど幾多の治水事業が行われます。
 この西三河が豊かな農業地帯となるためには、上流ではかんがい、下流では治水という二つの大きな問題を解消する必要がありました。

※・・・ 「三河国」の国名は、大化の改新の際につけられたもので、矢作川の西を流れる境川を国境として「三河国」と「尾張国」が分けられました。国境を流れるところから「境川」の名はつけられています。
 現在の「矢作川」の名は、岡崎市の矢作橋周辺にあった矢を作る部民の集落に由来しているといいます。



icon 2.西三河に広がる古代遺跡



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西三河における古墳の分布
なかでも安城市古井町の塚越古墳の周囲には、この地方最大規模を持つ遺跡が発見されていることから、大勢力を誇る豪族が葬られたことが推測できます。
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出典:愛知県「県土レポートあいち'99」(一部加筆修正)
 三河地方に人々が住み始めたのは、約2万年ほど前のこと、縄文時代よりも前の旧石器時代にあたります。狩猟と採集を糧とした人々は、豊かな自然に恵まれた矢作川流域の丘陵上で生活を営んでいました。そのころの人類の足跡を示す遺跡や貝塚(縄文人のごみ捨て場跡)が、矢作川流域の各地には残されています。
 紀元前3世紀ころ、朝鮮半島から稲作文化を持つ民が北九州へと渡って来ると、農耕による生活が広まっていきます。三河地方へ稲作が入ってきたのは、尾張地方より大きく遅れて弥生時代の中ごろのこととみられています。稲作農業は、ひとたび導入されると、またたく間に矢作川沿岸一帯へと広がっていきました。矢作川が運ぶ肥沃な土壌でできた沖積平野は、水田の好適地であり、矢作川中下流域の低湿地からは、大規模な遺跡が発見されています。

 人々が一定の土地で農耕を営むようになると、米の貯蔵によって、貧富の差が生まれるようになります。富を蓄積させ、強い勢力を得た者は、鉄製の農具を導入し、さらにその富を拡大していきました。こうして生まれた支配階級の豪族たちは、4世紀から6世紀にかけて、その勢力の象徴として大規模な墳墓である古墳を築いていきました。西三河地方でも、豊田市上郷町・岡崎市矢作町・安城市東部・安城市桜井町などの矢作川沿岸から古墳群が見付かっています。
 ちょうどこのころ、畿内には大和政権が成立し、その勢力は地方を征服し、次第に国家が作られていきます。西三河を支配した豪族たちも、この大和政権の権力とのつながりを背景に、周辺農村の支配を行っていたようです。


icon 3.取り残される台地の開発



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志貴荘: 矢作川沿岸から現在の安城市南部
吉良荘: 矢作川東岸から矢作、古川流域を含めて西尾市の八面山麓
重原荘: 衣浦沿岸から現在の豊田市高岡・上郷両町
矢作川下流の沖積平野は、「福地(ふくじ)」とも呼ばれる穀倉地帯として開発が進んだ。
 645年(大化2年)に大化の改新の詔が発布されると、律令体制が確立されていきます。愛知県域も全面的に大和朝廷の支配下に置かれ、「尾張」「三河」の2国が設定されました。
 郡や郷が設けられ、全ての土地・人民を国家のものとする公地公民制のもと、人々には「口分田(くぶんでん)」が貸与され、収穫物から租税を納めることが義務付けられました。中央集権的な支配制度のもと、西三河では、主に開発の容易な矢作川沿岸の低地で開墾が進められました。
 しかし、口分田の不足や貧困農民の逃亡などによって、次第にこの公地公民制は崩れていきます。10世紀以降には、朝廷が土地の私有を認める「三世一身の法」や「墾田永年私財法」を制定したこともあり、貴族や寺社、地方豪族らが、競って荘園の開墾を進めていきます。
 西三河にも、志貴荘、吉良荘、重原荘など広大な荘園が開発されましたが、それらはいずれも矢作川の流域の低地のみを範囲とし、台地上の開発は未だ行われることはありませんでした。10世紀初めに書かれた書物である『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』という書物には、矢作川沿岸に数多くの郷(村落)の名を見ることができますが、台地上にはごくわずかしか記されていません。
 台地に水を引くのに十分なかんがい技術が進歩しておらず、開発が困難であったため、西三河の大部分を占める広大な台地上の開発は取り残され、松などの広がる原野として放置される状況が続いていきます。この状況は、武士階級の台頭する鎌倉時代に入っても大きくは変わりません。(

※・・・ 西三河の地は、足利義氏が守護職に付いて以来、幡豆郡・額田郡一帯に足利氏が大きな勢力を確立し、主に矢作川(現在の矢作古川)下流の干拓による新田開発に力が注がれました。中でも、室町時代の1339年から1342年にかけて、現在の吉良町饗庭(あいば)を中心とした地域で行われた饗庭7郷の新田開発は、この地方では初めての大規模な開墾で、その後、吉良町や一色町でも新田開発が急速に行われていきました。



icon 4.家康による矢作新川の開削



 戦国時代に入ると、三河国も、織田氏、今川氏、松平氏(後の徳川氏)などの戦国大名が割拠して覇権を争う合戦場となります。戦国大名たちは、領土を求めて激しい戦いを繰り返すと同時に、勢力を増大するため、領地内の開発にも取り組みました。そのため、この時代になると技術の進歩とともに、大規模な治水事業も行われるようになります。
 矢作川沿岸の平野の多くは、中世までに農地として開発が進められてきましたが、上流からの土砂の流出のため、河川が増水することが多く、洪水に悩まされていました。この矢作川沿岸、現在の岡崎市矢作町から安城市木戸町にかけて、安土桃山時代の1590年から1600年、豊臣秀吉の命を受けた岡崎城主・田中吉政によって築堤工事が行われます。この大工事によって、網状に乱流していた矢作川は徐々に一本化され、周囲の農地の開発もさらに進んでいきます。
 しかし、一方、矢作川が八ツ面山(やつおもてやま)にさえぎられて、大きくカーブする下流部は、依然として洪水の常習地帯のままでした。そこで、安城市木戸町から、当時は西の海岸線であった西尾市米津町に向けて、矢作新川の開削が計画されます。工事は、江戸時代に入った1603年、徳川家康の命を受けた西尾城主・本多康俊により行われました。旧河川は1646年に閉鎖され、現在の矢作古川(やはぎふるかわ)となりました。
 この事業によって、矢作古川の下流、木戸町から幡豆地方の水害は防止され、さらに、矢作川の旺盛な土砂流出作用によって、新しい河口付近には、大量の土砂堆積がもたらされました。そのため、これを利用した干拓が進められ、新田開発が進められました。現在の碧南市北東部、安城市との境に位置する油ヶ淵(あぶらがふち)は、このころの入り江が、干拓によって湖となって残されたものです。
 この矢作新川の河口部の新田開発は、江戸時代を通じて盛んに行われ、現在の碧南市や西尾市の海岸部の地形が出来上がったのは、明治時代の後半(1900年代)のことでした。新川の開削は、西三河の地形に決定的な影響を与えた大事業だったといえます。


icon 5.町人の進めた干拓



 矢作新川が開削されると、入り江であった海岸部では、盛んに干拓が行われていきますが、この地の新田開発は、主に町人の手によって行われたことに、その特色があります。
 江戸の町人、伏見屋又兵衛(ふしみやまたべえ)の手による伏見屋新田、稲生平七郎(いのうへいしちろう)の平七新田、斉藤倭助(さいとうわすけ)の前浜新田、市川彦三郎(いちかわひこさぶろう)の市川新田、新実惣右衛門(にいみそううえもん)の新実新田、奥田正香らによる奥田新田、地名には、当時多大な資金を投資した町人らの名前が多く残っているのがわかります。
 江戸時代、尾張は国全体が御三家徳川家に支配されていたのに対し、三河では、大きな大名が配置されることがなく、様々な領主が存在し、交代していきました。三河における藩の数は、江戸時代を通じて18を数え、藩主の家系もたびたび変わり、それに加えて幕府領、旗本領も混在する三河の支配関係は、きわめて複雑でした。17世紀から18世紀にかけて、衣浦沿岸の開発が領主ではなく、商人を主体として進められたのには、このような事情が関係していたものと思われます。
 しかし、当然のことながら、もともと海抜ゼロメートル以下である干拓地は、河川沿岸の低地以上に水害や排水不良に苦しめられ、地主が転々とすることも少なくありませんでした。明治40年から干拓が始められた奥田新田の南側、三方を海に囲まれる南奥田新田は、暴風雨のたびに何度も堤防が壊され、多大な費用がかかったことから、お金が「チャラチャラ」と出て行く「チャランコ新田」とも呼ばれたほどです。用排水路の開削や築堤の技術の改良には、長い時間を要しました。


icon 6.明治用水の開削



 江戸時代を通じて、矢作川と衣浦の沿岸の低地は、商人を中心として開発が進められたこともあり、石高や耕地が大幅に増加していきます。しかし、その後、開発は次第に困難となり、大規模な開墾は見られなくなります。開発の比較的容易な低地は開墾し尽され、残された台地の開発には、多くの障害と困難に突き当たるようになったためです。
 とりわけ、大きな面積を占めたのが、巴川合流付近を頂点として、南西に扇状に広がった碧海台地で、水を引くのが困難なこの地は、上部にため池を水源とする水田が点在するほかは、荒れ果てた松林が放置されていました。(※1
 この不毛の原野に川を掘り、矢作川から水を引き込もうと、大規模な用水事業を計画したのが、現在の安城市和泉町の豪農であった都築弥厚(つづきやこう)でした。江戸末期の1822年から五年を費やして測量を行い、幕府へ願書を提出します。しかし、莫大な資金を投入するも、用水の落とし口となる村々の理解が得られず、志なかばで、1833年、弥厚は生涯を終えます。
 弥厚の計画が実現へと動き出すのは、弥厚の没後、40年以上が経過した明治7年のこと、岡本兵松(おかもとひょうまつ)と伊与田与八郎(いよだよはちろう)の二人が、弥厚の計画を引き継ぐ形で用水計画を出願します。水路地となる村々の反対運動や幕末の行政府の混乱、資金の調達など、事業実現は困難を極めましたが、出資者を募ることで、明治12年、念願の工事が着工されました。本流、東井筋(ひがしいすい)、中井筋(なかいすい)、西井筋(にしいすい)の幹線全てが完成したのは、明治14年のこと、明治の世を代表する世紀の大事業との意味をこめ、「明治用水」と名付けられました。
 弥厚の計画開始から半世紀以上を経て完成した明治用水は、碧海台地の中を血管のように張り巡らされ、不毛の土地として見放されていた台地面は次々と水田として開墾されていきました。東井筋、中井筋、西井筋の3幹線水路からは、小幹線水路94支線が作られ、くまなく水の行き渡った碧海台地は、現在では、日本デンマーク(※2)とも呼ばれる農業の先進地となっています。

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ため池のあったようす
出典:安城市中央図書館

※1・・・ 幕末以降、足踏水車の過酷な労働を分散させるため、田植えは、早期(5月下旬~6月上旬)と晩期(6月下旬~7月上旬)の2回に分けて行われましたが、早期に植える苗は害虫の被害を受けやすかったといいます。ポンプの導入で田植えが晩期に一本化されたことも、生産性が上がった大きな要因です。


※2・・・ 化学肥料の導入が進んだこともあり、クリークに必要不可欠な「泥上げ」が積極的に行われなくなったことが大きな要因です。作業の効率化が、クリークを通して築かれた共同体意識のようなものを緩ませてしまったのかもしれません。


参考 安城市中央図書館


icon 7.開発の進行と水需要の高まり水の開削



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今での各用水の取水図
出典:『矢作川農業用水ものがたり』(新矢作川用水農業水利事業所)
 不毛の地であった碧海台地を潤した明治用水の開削、この事業に刺激され、北部にある挙母(ころも)台地でも、枝下(しだれ)用水の開削が計画され、7年もの工事の末、明治27年、ようやく完成に至ります。一方、平野部や干拓地でも、矢作川や矢作古川からの用排水路の開削が盛んに行われ、明治時代の中ごろまでには、矢作川沿岸のほぼ全域に渡って26ヶ所の用水路が完成しました。昭和には、さらに2ヶ所の用水も開削され、全部で28ヶ所を数えるにまで至ります。長年の問題であった排水技術の改良によって、それまでの湿田は乾田化も進んでいき、さらなる開発が進められました。(
 しかし、こうした低平地の活発な開墾や排水技術の改良によって、次第に新たな問題が発生していきます。乾田は、湿田とは違い、冬季には水を抜いて乾かすため、翌年の田植えの時期には、急激に水需要が高まります。耕地面積の拡大もあり、次第に矢作川の流域では、必要とされる用水の絶対量が増加していきました。
 大正13年のかんばつの際には、ついに、上流部である碧海台地の明治用水に対して、下流の村々から、取水堰を開放して、水を下流にも送るよう求められます。これまでは、上流である明治用水が優先的に取水することが慣例化しており、問題となることすらありませんでした。明治用水ができてから40年、水不足が深刻な問題となってきたことがわかります。しかし、碧海台地も明治用水によって潤されることにより、ようやく開墾が実現した土地であり、決して水が余っていたわけではありません。明治用水からもたらされる水がなくなれば、また、以前の不毛の地へと戻ってしまいます。
 この問題を解決するため、昭和の初めには、矢作川の上流に貯水池を築造するという構想が持ち上がりますが、実現には至りませんでした。大規模な工事にかかる費用や水利権の調整、周辺住民の反対など、障害が多かったためと思われます。

※・・・ 一年中水を貯めている水田を湿田、水の量を自由に調節できる水田を乾田といいます。乾田は生産性が高く、稲の収穫が終わり乾いた水田では、麦や大豆などをつくることもできます(二毛作)。



icon 8.西三河を潤す矢作川用水



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現在の矢作川用水
出典:『矢作川農業用水ものがたり』(新矢作川用水農業水利事業所)
 昭和19年、22年にも干ばつの深刻な被害が続き、ようやく、矢作川の支流、巴川の上流に、用水不足を補うための羽布(はぶ)ダムを建設するという画期的な計画が出されます。この事業が、国営矢作川農業水利事業として着手されたのは、昭和27年のことでした。昭和38年に羽布ダムが完成すると、矢作川の水が十分に利用できるようになり、ようやく人々は長年の水不足から解放されるかにみえました。
 しかし、そのころには、すでに高度経済成長の建設ブームや伊勢湾台風の災害復興のため、コンクリート骨材として、大量の川砂が採取され、矢作川の河床が低下するという問題が新たに生じていました。これまでの取水口では、老朽化もあり、水を取り入れることが次第に困難となってきていました。
 そのため、昭和38年には、引き続き、この28ヶ所の取り入れ口をまとめ、安定的に取水する頭首工と、その水を合理的に送る幹線水路を新しく作る国営矢作川第二農業水利事業が着工されます。昭和54年に完成したこの新しい用水が現在の矢作川用水です。新たに設置された鹿乗川頭首工と吉良古川頭首工は、細川頭首工と幹線水路で連結統合され、羽布ダムの清流を下流でも直接取り込むことができるようになりました。
 肥沃な土壌を持ちながらも、洪水の常習地帯であり、長年の排水不良に悩まされた矢作川沿岸の低地や干拓地。広大な面積を占めながらも、かんがい不可能のまま放置され続けた台地部。
 中世に始まる堤防の築造や幾筋もの用排水路の開削、近代に至っての排水技術の改良、明治用水、枝下用水の開削という台地の用水路開発の大事業。幾多の歴史的事業を経て、ようやく西三河の地は豊かな恵みを生み出す耕地へと改良されてきました。そして、昭和の大事業である、この矢作川用水の完成によって、とうとう西三河地方全体に矢作川の水を行き渡らせることが可能となったのです。
 昭和46年には、都市化よる水需要拡大に対応するために、矢作川総合農業水利事業によって、矢作川上流に新たに多目的ダム(治水、発電、農業用水、上水道用水、工業用水)である矢作ダムも建設され、上水道や工業用水をも担う地域に欠かせない用水として、重要な役割を果たしています。
 平成6年からは、施設の老朽化に対応する国営新矢作川農業水利事業が着手され、羽布ダムや頭首工、幹線水路の整備改修が、現在もなお進められています。

icon 9.国営矢作川農業水利事業



羽布ダムの築造

(1)受益面帯
7,671ha

(2)工期
着手 昭和27年 4月 1日
完了 昭和38年 3月31日

(3)事業費
3,222,668 千円
内訳 国営潅漑排水事業 3,061,199千円(工事事務費を含む)
農業施設災害復旧費 4,351千円
農業機械整備費 157,117千円

(4)羽布ダムの概要

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icon 国営矢作川第二農業水利事業



(1)事業地域
 岡崎市ほか4市3町(岡崎市、西尾市、安城市、碧南市、豊田市、幡豆郡一色町、吉良町、額田郡幸田町)

(2)受益面積

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(3)主要工事計画

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(4)事業費
矢作川第二土地改良事業費 11,956,861千円
矢作川総合共同工事受託費 1,043,666千円
計            13,000,527千円

(5)事業期間
着工 昭和38年4月
完工 昭和54年3月(16ヵ年)


icon 矢作川総合農業水利事業



(1)事業地域
安城市ほか7市4町
(西加茂郡藤岡町、豊田市、安城市、刈谷市、碧南市、西尾市、岡崎市、 知立市、高浜市、額田都幸田町、幡豆邦書良町、幡豆郡幡豆町)

(2)受益面積
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(3)事業費
総事業費 335億円
(4)事業期間
着工 昭和45年4月
完了 平成元年3月(19ヵ年)

icon 国営新矢作川用水農業水利事業



(1)受益地
岡崎市他4市4町 7,073ha
(岡崎市・碧南市・豊田市・安城市・西尾市・幡豆郡一色町・吉良町・幡豆町・額田郡幸田町)

(2)主要工事計画
貯水池 羽布ダム 改修 1式(共用施設)
頭首工 細川頭首工 改修 1式(共用施設)
鹿乗川頭首工 改修 1式(農業用水)
用水路改修 L=57.4km
水管理施設 整備 1式

(3)事業工期
平成6年度から平成21年度を予定