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1.はじめに
2.木曽川流域の概況
3.木曾川の治水
4.濃尾平野の用水事業
5.尾張西部農業水利事業

icon 1.はじめに



 尾張西部地区は、愛知県西部に位置し、津島市外8市2町1村にまたがる11,600haの都市近郊農業地帯を受益とし、愛知県の穀倉地帯として発展してきました。
 既に濃尾用水及び同二期事業、木曽川用水事業などにより地域の用水事業は整備されてきましたが、昭和35年代からの高度経済成長とともに、地下水の過剰くみ上げによる地盤沈下と農地転用により、降雨があると河川への流出が進み、排水に支障が現れてきました。昭和49年7月と昭和51年9月には記録的な集中豪雨が発生し、伊勢湾台風以来の大被害を受けました。
 このような湛水被害から農地を守り、水田汎用化を進め農業経営の安定を図ることを目的に尾張西部農業水利事業が発足されました。事業内容として、地域を貫く日光川の河口に日光川河口排水機場と、地域の上流部に尾西排水機場を建設するものです。
 工事は昭和60年度から平成8年度にかけて実施され、造成された排水機場により地域の農地・農業用施設の湛水被害の軽減が図られてきたところでです。今では、水稲を中心に水田の畑利用による小麦、大豆、野菜等を組み合わせた農業経営のほか、畑での野菜専作による農業経営が展開されています。
 しかしながら、造成後20年近くが経過し、施設の一部で経年による劣化がみられることから、大規模な分解整備を行う時期を迎えるとともに、大規模地震への備えが必要になってまいりました。このため、東海農政局では平成26年度まで施設長寿命化検討調査を行い、平成27年国営施設機能保全事業「尾張西部地区」が発足されました。


icon 2.木曽川流域の概況



 木曽川は、木曽川・長良川・揖斐川を総称して木曽三川ともいい、関東の利根川、関西の淀川と並びわが国三大河川の一つです。木曾三川の源は遠く離れ離れですが、木曽川は犬山市、長良川は岐阜市、揖斐川は揖斐川町付近から濃尾平野に流れ込み、濃尾平野の西部のほぼ同じ地点に集まって伊勢湾に注いでいます。木曽三川は古来一つの木曽川として濃尾平野を乱流していましたが、先人の水害防止のための三川分流工事によって現在の形に整ってきました。特に本地区に関係のある木曽川の源流は長野県西筑摩郡木祖村地内の鉢盛山(標高2446m)および烏帽子岳(標高1952m)の渓谷で、木曽福島を経て王滝川を合流し、中山道に沿って木曾の大渓谷を下り岐阜県に入ります。左支川、落合川、中津川、阿木川、右支川、付知川、飛騨川の諸川を合わせて濃尾平野の入り口犬山市に至り、それから岐阜と愛知の県境を南西に流れ、祖父江町付近から長良川と背割堤で隔てて併流し伊勢湾に注いでいます。
 木曽川流域の平野部を占める濃尾平野を地形的にみると扇状地、自然堤防、三角州に分類されます。最も大きな扇状地は犬山を頂点とする半径12~13kmに達し、岩倉市、一宮市がその末端となり、堆積物は砂礫だが表層は砂又はシルト質砂で覆われ、勾配は1~1.5/1.000で極めて緩傾斜です。これに続く自然堤防はなだらかなシルト質細砂で稲沢市の三宅川では自然の作った蛇行が今も見られます。自然堤防の中をぬって河道が通り、末端からは三角州につながっていく。砂層の上に泥層が滞積し、今は見られないがクリークの発達が特徴であったようです。

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icon 3.木曾川の治水



3-1 御囲堤(徳川時代)

 木曽川が始めて文献に登場したのは『続日本紀』の769年(神護景雲1年)の項に鵜沼川として記述されたときで、それ以降系統だって記述は見当たらない。記録的にはっきりしているのは徳川時代になって『御囲堤』の名で知られる木曽川の左岸堤防のうち、犬山から弥富に至る延長約40kmに及ぶ大築堤工事からである。
 当時の犬山から下流の木曽川は本流のほか、大きな三筋の支流に分かれて伊勢湾に入っていた。その支流は上流から一之枝、二之枝、三之枝と呼ばれ、一之枝(一名石枕川) は現在の濃尾用水の取入口付近から二つに分かれ南西に流下するが扶桑町福塚付近で合流し、青木川として江南市布袋をへて五条川に合流していた。二之枝(一名般若川)は現在の江南市中般若町で分流し、南西に流下し一宮市時之島をへて三宅川として三角洲平野へと入っていた。三之枝(一名浅井川)は現在の一宮市浅井町大野付近で分流し大江川をへて伊勢湾に流れ出ていました。
 『御囲堤』の築造によりこれら派川は必然的に水源を断たれて排水専用河川となり、これら派川を用水源として取水していた尾張平野の20,000haの水田は大きな影響を受けました。その対策として尾張藩は2カ所に杁(樋門) を新設し用水確保につとめた。一つは二之枝の締め切り地点の般若村(江南市般若町)に設け、新設水路で青木川につなぎ五条川へ落とし「般若用水」と称した。いま一つは大野村(一宮市浅井町大野)に設け「大江用水」に連結した。2カ所の取水地点はいずれも犬山の扇状地内にあって取り入れ口としては、河床の変動が大きく本来不適当であったため、以後農業用水に悩むことになった。

3-2 木曾三川の分流(明治改修)

 明治維新直後、愛知・三重両県知事は明治11年、木曽三川改修の方針を立てるための指導と調査を要請、政府はこれを受けて、デレーケ技師に木曽三川の調査を命じている。デレーケは明治11年4月、実施調査の結果を「木曽川概説」としてまとめ、水害の原因・改修する手段を述べ、治山に言及し、当面測量と量水の実施が必要であることを勧告しており、明治改修の基礎となるものであった。デレーケは構想を進めて明治17年には日本技術者たちの協力を得て下流改修計画の立案に取り掛かっている。彼は当初木曽川だけを分流する考え方であったが、日本側の考え方を入れて三川分流へと進み、河床の土砂堆積を河川の掃流力によって防止し、河床の安定を図る方向へと進んでいった。そして明治19年、前年の18年洪水を計画洪水として三川分流計画を完成した。その翌年、明治20年から下流改修工事、いわゆる木曾川を完全に分流する明治改修が開始されることとなるのでした。

3-3 日光川の歴史

 現在の日光川は江南市の西北部を源として、尾張平野の西側を北から南へ多くの支川を合流しながら貫流し、約300km2の流域の排水を集め41kmの流路をへて伊勢湾に注ぐこの地域の重要な幹川排水路である。
 そもそも日光川上流部の起源は木曽川の「二之枝(一名般若川)」の北派川末流の「萩原川」が1586年(天正14年)の大洪水によって廃川となり、それが度重なる改修の結果今の日光川の基となったものである。当時の「萩原川」は渕高新田(佐織町)から平和町、佐織町界を南流して根高(津島市)で三宅川と合流して津島川(天王川又は兼平川ともいう)となり津島市の中央を通って佐屋川に流入していた。
 下流部は寛文年間(1660年頃)では勝幡川(現在の三宅川)の支流で二筋の排水路と して南に下り蟹江新田で海にでていた。
 これらの川筋は狭く排水能力が劣っていたので、1666年(寛文6年3月)国奉行山本平太夫他によって、海東郡勝幡村(佐織町) より宇治村(津島市)まで川幅10間の開削をし、ついで日光新田までは20間、蟹江新田までは28間、河口までは50間と拡幅し工事は1667年(寛文7年)までに完成させたが、その年の秋の大暴風雨の高潮で、折角の堤防は各所で欠壊、逆潮を防ぐため蟹江大海用(蟹江大澪)に5門の樋門を設けた。
 一方、佐屋川はずっと後まで木曽川の支流としての役割を果たしていたので、洪水のたびの滞積土砂のため河床が上昇して津島川は佐屋川へ排水できなくなっていった。そのため洪水時には佐屋川の水が津島川へ逆流して上流の三宅川が破堤する被害もでたので、1785年(天明5年)渕高新田の間に新川を開削して足立川(旧日光川)の水を日光川に落とすこととした。津島川は天王橋で築留とし以北は市内の小排水路とし、下流は佐屋川が廃川(1899年:明治32年)となったため、大きな沼地として残り現在の天王川公園となっている。そして日光川の幅員を40間に改修する工事は1812年(文化9年)に完成した。この時蟹江大海用にあった5門の樋門は撤去され、両岸の堤防補強も行われ、ほぼ現在の日光川となったのである。

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icon 4.濃尾平野の用水事業



4-1 尾張農業水利事業

 1941年(昭和16年)12月8日に大東亜戦争が勃発し、国は戦争の遂行の最重点物資として、食料確保を最優先することとなった。そのため『農地開発法』を制定し、国が直接関与できる公共性の強い特殊法人「農地開発営団」を国の代行機関として創設した。尾張農業水利事業も1942年(昭和17年)に農地開発営団によって着工されたが、1947年(昭和22年)には戦後改革の一環として『土地改良法』の制定により、事業は農林省に移管され直轄事業として実施され完了させた。
 元来、この地域一帯は木曽川の度重なる氾濫によって、もたらされた土砂による堆積平野である。従って地区内は広大・平坦で水路は木曽川の派川跡で用排水を兼ねているのが常であった。そのため改修を進めるにも、用水不足地区と排水不良地区とが入り込む複雑な水利地帯であったため、用水改良の大江川工区と佐屋川工区、排水改良の立田輪中工区と領内川工区の4工区に別けて進められ、17年の歳月と6億1千余万円の工費で1958年(昭和33年)に完了した。

4-2 濃尾用水事業

 木曽川の中下流部、上流から木津用水、宮田用水、羽島用水、佐屋川用水、五明・筏川等の地区があった。いずれの用水も流水の多少、流心・河床の変動による取水の不安定化に悩まされ続け、特に、木津・宮田・羽島の三用水は、加えて水路の老朽化により通水能力の減退と漏水が多く、削井・悪水の揚水で不足を補い、維持管理費の増大が農業経営上重大な問題になっていた。
 1948年(昭和23年)愛知用水期成同盟が、愛知用水事業の設立を政府に対して強力に働きかけたのに対して、木津用水等は上流で取水する愛知用水を認めるには、下流の既待権(取水権) を侵害しない確固たる保証をすべきだと反対、愛知用水の推進には多年懸案の下流農業用水の取水施設の抜本的な整備が不可欠であった。
 このため、農林省は1951年(昭和26年)木津・宮田・羽島・佐屋川の4用水に対して木曽川総合農業水利事業計画(濃尾用水) を明らかにし、木曽川に依存する全用水を合口する頭首工を犬山に作り、各用水へは水路を新設して導水するというものであった。
 しかしながら、1955年(昭和30年)佐屋川用水は、取水地点が遠距離であることを理由に不参加と決定し、濃尾用水事業は第一次と第二次に分け、第一次はとりあえず木津・宮田・羽島の3用水で推進、第二次事業は佐屋川以下の地区として別途木曽川総合用水として進められることとなった。
 濃尾用水事業として三用水を合口した犬山頭首工を現木津用水取入口付近に新設して、3用水共通の悩みである取水を安定させるとともに、木津用水は水路の改修、宮田用水は既設への連絡水路の新設と一部改修、羽島用水は既設への連絡水路の新設と既設の改修をして、地域内の配水を合理化し、その余剰水で畑地カンガイを行ない受益地22,000haの農業基盤の安定を図ることとした。

4-3 濃尾用水第二期農業水利事業

 濃尾用水事業の完成により宮田土地改良区は水源の安定確保と地区入口までの導水路は改修されたが、域内27,800haに展開する9,752haの受益地の水田へ配水する基幹の新般若用水、大江用水、奥村用水三幹線用水路は、何百年来根本的な改革はされておらず、江戸時代に建設された頃の骨格は受け継がれたままに今に至っていた。水田への分水は水位を確保するため、杁で水位上昇をさせていたため、杁上流の農地の湿潤化を招き、上下流の反目の要因となっていた。底張りのない石積み護岸のみの構造から漏水が大きく、下流では常に水不足ぎみであった。時あたかも高度経済成長期にあたり、農業の合理化、省力化のために大規模にほ場整備が進められ水田用水量が増大した。水質的には蚕食する市街化の波が農地を蚕食し、排出汚水とゴミの投棄が悪影響を及ぼすようになってきた。
 「きれいな水を末端まで」と言う受益者の声に答えるために、濃尾用水第二期農業水利事業を発足させ、全線を用排分離の近代的な水利システムとし、改修する新水路は鉄筋コンクリート函型管渠を地下に埋設、地上には付近の排水量を満足させる必要断面を開水路で確保した。また、多数の分水の円滑な運営と正確な水量を確保するため、水位の必要に応じて水位調節用堰(チェック)を設置した。工期は昭和44年から63年までの約20年間で事業費は333.4億円であった。

4-4 木曽川総合用水事業(濃尾第二地区)

 佐屋川以下の改良区は犬山から受益地が遠距離で配水不安があることから濃尾用水事業には参加せず、「濃尾第二地区」として別途対応することとなった。この「濃尾第二地区」の対策と名古屋市を中心とした都市用水と工業用水の増加に対応することにしたのが「木曽川総合用水事業」であった。木曽川総合用水事業の構成は新規利水のための岩屋ダムと、岐阜県の木曽川右岸地区・岐阜中流地区、愛知県三重県の濃尾第二地区の総称で、このうち岩屋ダムを除いた事業を木曽川用水事業と呼ばれている。
 農林省が1966年に調査設計に着手し、1968年愛知用水公団は水資源開発公団に統合されたため、事業はこの公団により実施された。事業内容としては、木曽川河口から26km地点に587mに及ぶ馬飼頭首工を設置し、河川の水位をEL3.7mに堰上げ、農業用水としては犬山取水に参加しなかった佐屋川用水かかりと三重県の一部の農地併せて約9,645haに25.63m3/s、都市用水としては愛知・三重に15.3m3/sを、水道用水としては三重に1.00m3/sを取水できる施設をもうけた。
 海部幹線水路は、佐屋川用水路敷を利用して新設された鉄筋コンクリート開水路で分離した排水は右岸側に併設した排水路で筏川に放流する構造となっている。延長は約17.5kmで41.9m3/s~16.1m3/sの容量をもち、水位調節堰6箇所、分水口44箇所が含まれ各用水の支派川に供給する。幹線水路15km下流地点の五明地先に、弥富送水機場をもうけ、三重県の農業用水3.45m3/sと上工水10.00 m3/sを長島水管橋を通じて圧送することとした。木曽川用水事業は昭和57年に完成した。

icon 5.尾張西部農業水利事業



5-1 発足の経緯

 1959年(昭和34年)9月、当地方を襲った未曾有の伊勢湾台風の被災地も完全に復興し、その爪痕や水害の怖さをすっかり忘れていた1974年(昭和49年)7月(24~25日)梅雨末期の集中豪雨が、突如この地方を直撃。肝心の主排水河川である日光川は支川からの流入量の増大から破堤の危険さえ心配される事態となり、日光川関連の排水機をすべて一時停止するよう要請せねばならぬ状況となり地域住民の不安をつのらせた。長い間水の被害から遠ざかっていたため防備に多少の油断はあったものの、それにも増して地域の地盤沈下による影響が災害をより大きく影響した。特に伊勢湾台風以後の沈下量は甚だしく被害を一層大きなものにし、被害状況としては床上1,947戸と、床下浸水22,016戸と甚大なものであった。
 この緊急事態の発生に愛知県は日光川下流部の補強と蟹江川(40m3/s)、日光川(100m3/s) の排水機場の早期設置を策定した。その計画途上の1976年(昭和51年) 9月(7~13日)にまたまた再度の大水害が発生した。前回の浸水の恐怖がまだ去らぬ2年後のことで、台風17号による豪雨が数日続き16年前の伊勢湾台風にも劣らぬ大きな被害を尾張一円特に海部郡にもたらした。この時の総雨量は津島市で633.5mmにも達し、満潮にも重なった日光川では水位が異常に上昇し、ついに支流の日比川が佐織町地内で決壊し、その付近一帯は一週間もの湛水が続いた。これの被害は湛水が158km2の広範に及び、床上浸水5,267戸、床下浸水25,742戸で農地災害は11,000余haにも達した。
 これら二つの集中豪雨が当地方に特に大きな被害を発生させた原因としては、①水田の工場・宅地への大規模な転用② 地域の都市化による流出率の増大③地盤沈下による河川勾配の減少に伴う流下能力の減少④ 日光川への排水量の絶対値の増加と言われている。

5-2 愛知県および地元の意向

 愛知県はこれら度重なる水害の防止対策を民政安定上早急に策定する必要に迫られ、「愛知県地盤沈下対策会議」を設置した。従来、当地方の排水事業は農地林務部と土木部が個々に対応してきたため、ここで新たに日光川関連の全体計画を作成するにあたっては、これまでの権益の調整を含め両部で検討する必要があり、すり合わせの結果基本方針を決定した。基本計画によれば、①早急に日光川河口に排水機を設置すること ②日光川上流3カ所に木曽川の放流路を設けることであった。
 河口排水機場については、この方針に沿って既に100m3/sのポンプが県土木部の手によって昭和53年に第一期工事分として竣工稼働した。第二期工事分の用地もその時併せて造成ずみであった。一方上流部のショートカット工事は、日光川の河横拡大工事の限界、河口排水機場の能力を勘案して、①上流部一宮市浅井町地先で50m3/s ②中間部尾西市地先で60m3/s ③下流部祖父江町地先で90m3/sと振り分け量もこの会議により決定され実施に移されることになった。

5-3 国営かんがい排水事業での施行

 1974年(昭和49年)7月の集中豪雨被災のあと、地元からの強い要望によって、農水省は急遽1975年(昭和50年)からの調査地区として採択する手続きを取り、『国営かんがい排水事業・尾張西部地区』として事業化すべく計画調査を始めた。しかし、受益地が二級河川日光川の流域と重なるうえ、事業目的が異なるとは言え、工事内容はほとんど同じであったので事業調整は難航が予想された。それは既に県土木部が建設省の補助事業として、日光川排水機場を昭和53年に完成させていることから、第二期工事も当然、県土木部が実施すべきとする土木部との調整は難航し停滞ぎみであった。
 しかし、県費支出の多寡、完成までの工期について「愛知県地盤沈下対策会議」の討議の結果、農水省の国営かんがい排水事業と建設省の高潮対策事業を比較したところ、農水省の事業の方が早期完成等のメリットがみこまれることから、県の方針として「国営かんがい排水事業」で対応することに決定した。

5-4 事業化の起爆

 度重なる湛水被害の原因とされる水田の市街化は経済の高度成長期ほどの勢いは無いまでも依然として続いており、当然流出率の増大も減少の気配はなく、地下水の汲み上げ規制による地盤沈下も収まりつつあったが0にはならず、日光川への排水量は増加することはあっても減少の兆しは見当たらない。ひとたび豪雨に見舞われればいつまた水害が発生するか分からない状況下にもかかわらず、安全対策は停滞し水害を無くすための事業の早期着工が切望されながらも関係機関の調整が難航し、対策は手付かずの状態が続いていたのである。1975年(昭和50年)から『国営かんがい排水事業・尾張西部地区』として事業化すべく計画調査を始めていた農水省の準備が一番進んでいたこと、農水省と農地林務部との施工区分の協調が整ったこと等が起爆剤となって事業が歩みを始めたのである。
 『国営かんがい排水事業・尾張西部地区』として農水省が施工する事業内容は、河口増設排水機場の建設と三号排水路90m3/sのうち35m3/sの排水路の新設であった。農水省は河口増設排水機場の細部検討と県関係機関との調整を考慮し、上流部のショートカット工事から取り掛かり、農水省の水路の用地補償の開始と並行して、県土木部も三号排水路の用地交渉を開始した。

5-5 尾張西部地区事業計画

 昭和46年から木曽川水系調査の一部として調査をはじめたところ、昭和49年7月24日、25日の台風19号くずれの集中豪雨に見舞われ、愛知、三重、岐阜の3県で広範囲な浸水被害としては伊勢湾台風以来という大被害が生じた。さらに昭和50年から直轄調査地区として出発したなか、昭和51年9月には、台風17号に起因する集中豪雨により、津島市で年間降雨量の1/3強が7日間目比川(むくいがわ)で発生し、総雨量633mm既往最高を記録するに至り、目比川の決壊を始め、尾張地域の11,000haこのため地元からも国営排水改良事業の早期着工の気運が一気に高まった。昭和53年までの4か年で事業計画を概定し、昭和54年から全体実施設計に着手した。
 農林水産省は河川事業との調整に多くの時間を要したが、土地改良法に基づく事業施行申請により、昭和61年3月尾張西部農業水利事業所を発足させ、昭和61年8月9日土地改良法に基づく事業計画確定、直ちに尾西排水路工事に着手、昭和63年3月15日日光川河口排水機場建設工事に着手した。尾西排水路工事に関しては、並行する県営等の排水路改修工事との共同工事により、地域環境の整備に配慮した工事実施を図った。

①目的
農業用用排水事業と併せ行う地盤沈下排水対策事業並びに関連基盤整備事業を行うことにより、農用地及び農業用施設の雨水による被害を未然に防止するとともに、地区内全般の排水改良を行い、水田の汎用化を推進し、農業生産性の向上を図ることを目的。

②地域(着工時)
名古屋市、一宮市、津島市、江南市、稲沢市、愛西市、清須市、弥富市、あま市、大治町、蟹江町、及び飛島村(9市2町1村)

③面積(着工時)
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④排水計画
計画基準雨量
2日連続雨量
 津島 288mm(確率1/10)
 一宮 259mm(確率1/10)

計画排水方式
 本地区の排水は日光川を基幹排水路として、中流部に尾西排水路・尾西排水機場、下流部に日光川河口排水機場を設置し、機械排水方式により排水する。 なお、地区内排水は次の通り。
 上流部…自然排水および機械排水
 中流部…自然排水および機械排水
 下流部…機械排水工事計画

1.排水機
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2.排水路
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⑤計画変更 
 事業着手後の農地転用による受益地の減少と、工事施工にあたって地域の環境対策、地域住民への配慮等により事業費の増高により、平成8年から平成9年にかけて土地改良法に基づく事業計画の変更の法手続きを実施し事業の推進を図った。
 受益面積の変更 農業用排水 13,860ha(14,650ha)
 事業費の変更  380億円 H5年単価(260億円 S59単価)

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参考資料・参考文献

1. 事業経過
基本調査 昭和46年4月
地区調査の申請 昭和49年7月
地区調査 昭和49年~昭和53年
全体実施設計 昭和54年度~昭和59年度
事業所開設 昭和61年3月
土地改良事業計画確定 昭和61年8月9日
日光川河口排水機場建設着手 昭和63年3月15日
日光川河口排水機場始動式 平成6年10月24日
土地改良事業計画変更の確定 平成9年1月25日
尾張西部事業完工式 平成9年2月12日
尾西排水機場始動式 平成9年3月27日
尾張西部事業所閉所式 平成9年3月27日
尾張西部事業完了 平成9年3月31日

2. 国営かんがい排水事業 「尾張西部」(国営施設機能保全事業)
 国営尾張西部地区で造成した日光川河口排水機場等の機能保全と耐震化のための整備

≪整備構想≫
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受益面積 11,608ha、国営総事業費80億円

3.参考文献
尾張西部事業詩 東海農政局尾張西部農業水利事業所編(平成9年3月)
日光川河口排水機場技術誌 同上
尾張西部農業水利事業 完工記念誌 同上