愛知県の東三河地域は、本州のほぼ中央にあって、太平洋に面しています。その主となる水源は豊川。愛知県では、木曽川、矢作川とともに三大河川と呼ばれています。しかし、その規模を木曽川と比較すると、流路延長は約3分の1、流域面積は約7分の1と圧倒的に小さいことがわかります(図1)。また、この川の特筆すべき点として、最大流量と最小流量の差(河況係数)が、日本の河川の中でも飛び抜けて大きいことが挙げられます(図2)。これは、流路が短い上に、急峻な山々を通っていることと、この地域の降水量が、季節によっても、年によっても、非常に変化が激しいことによるものと考えられています。
このような不安定な性質を持つ豊川は、豪雨となれば洪水を引き起こし、日照りが続けばまたたく間に渇水となりました。
その被害をたびたび被ってきた東三河農民にとって、豊川を制することは、積年の悲願だったのです。
東三河地域の中でも、渥美半島の農村は、深刻な干害に悩まされ続けました。以下は、明治以降の主な干害について、『愛知県災害史』からその一部を抜粋したものです。
もともと水量の少ない豊川には、本流から遠い渥美半島を潤すだけの余裕がありませんでした。そのため、この地域では、水源をため池や地下水・天水に頼らざるを得なかったのです。農村の中には、干天に見舞われると全く手の打ちようがなく、雨乞いをして神仏に頼るだけが唯一の方法というところも少なくなかったといいます。村民総出で村はずれの山に登り、七日七夜の願掛けをした村。村をあげて伊勢の多度大社や遠州の秋葉神社など遠方まで出向いて祈祷した村。村の総代が紋付・袴の正装で山に登り、降雨を祈った村・・・。稲を植え付けるため、育てるため、実らせるため、これらの雨乞いが、いかに悲痛な想いでおこなわれていたか想像に難くありません。
さらに、この地域は強い酸性の土壌。麦を作ろうと一斗五升(約27リットル)の種を蒔いても三升(5.4リットル)ほどしか実らず、さつま芋も落花生ぐらいの大きさにしか育たなかったといいます。
「赤貧洗うがごとし」。渥美半島の農村はまさにこの言葉を体現するものでした。
そんな中、「鳳来寺山に巨大なため池を造り、渥美半島の先まで水路を引くことができれば、農村の水不足を解消することができる」というとんでもない構想を提案した人物があらわれました。近藤寿市郎。当時の愛知県会議員です。
近藤は明治三年、渥美群高松村に生まれました。12歳の頃、当時旺盛を極めた自由民権運動で、板垣退助らが豊橋を訪れた時のこと。その演説を聞いた近藤は、「多情多感な僕にはその革新的な思想、政見に感動されずにはいられなかった。」と語っています。少年の頃から政治への関心が高かったのでしょう。その後、自らも政治の道に進み、渥美郡会議員、愛知県会議員を歴任。そして、世間で『青い目の人形』が流行した51歳の時、「国民生活の安定を期せしむるには、農地開発、干拓、水利などの工事を起こし二毛作を奨励するか、また一面海外移民生活をたてるのほかなし」と確信。当時、世界でも水利技術の高いオランダの領であったジャワ島への視察を思い立ちます。近藤は、ジャワ語はもとより、英語も全くできませんでしたが、「言葉は通ぜずとも手真似、物真似でも立派にやってくるから結果をみてください」と周囲に言い残し、単身神戸港から旅立ちます。
ジャワ島の丘陵地域、バジャルガロを訪れた際のこと。所々の農家に夕煙の立つ風景に、近藤は、郷里の東三河を思い起こしました。同時に、その水利技術の高さに感心します。そこには、はるか高い山の頂上から谷底の集落まで鉄管をつないで取水し、途中の山腹には段を刻んで棚田が築かれていたのです。この時、近藤の頭にひとつの像が浮かび上がります。「鳳来寺山脈に堰提を築いて大貯水池を設け、その水を豊川に落とすことで、渥美半島をはじめとした東三河に灌漑用水を引くことができるのではないか。」これが、豊川用水の基盤となる構想の第一歩となります。
近藤寿市郎銅像(豊橋市) 帰国した近藤は、すぐさまこの構想を国費で実行するように、愛知県知事と県議会に働きかけます。しかし、あまりにも壮大な計画だったため、「理想としては至極結構なるも、いうべくして行わるる問題にあらずや」と、近藤の構想を「変人扱いにして葬った」といわれています。ところが、誰もが荒唐無稽と決め込んだこの構想に、ただ一人共鳴した人物がいました。当時の愛知県耕地課長、横田利一です。
近藤は横田と組んで調査にあたり、計画を立て、農林省に対して国営事業として施行するように陳情します。しかし、結果は虚しく終わり、この計画は議場から完全に姿を消すこととなります。
近藤の計画が再び注目を浴びたのは、6年後の昭和2年のことでした。
この頃、日本の農村は、米価の変動が激しいことや税金の圧迫などによって、困窮を極めていました。そこで、農林省は、緊急対策として大規模な開墾計画を打ち出します。その際、各県知事宛に出された通達の内容は以下のようなものでした。
「窮迫する農村を救援するため、農林省は緊急対策として国営にて大規模な開墾をする計画を樹立した。もし一団地五〇〇町歩以上の集団的開墾見込み地があり、この事業に対する地元の気運がある場合は申し出よ」
この通達を受けた愛知県は、すぐさま近藤らの計画を復活させ、政府に申請します。
申請を受けた農林省は、同年10月、調査班を派遣。その結果、昭和5年、宇連川にダムを造り、そこから放流した水を八名郡大野町(現在の鳳来町大野)で取水するという『愛知県八名二郡大規模開墾土地利用計画書』が発表されました(図3参照)。そして、その2年後の昭和7年には、宝飯郡地域への送水も加えた『愛知県渥美、八名、宝飯三郡大規模開墾土地利用計画』へと拡大されます(図3参照)。
この時、当時の愛知県知事は近藤に、「君が突拍子もない事をいうと思っていたが、どうやらものになりそうだ」と語ったといわれています。
ところが、時を同じくして、日本は激動の時代を迎えます。昭和5年に起きた世界恐慌は日本経済に大きな打撃を与え、昭和12年に勃発した日中戦争は拡大の一途をたどります。そして、昭和16年、ついに日本は太平洋戦争へと突入します。このような時代背景の中、実現まであと一歩となっていた計画は、またしても表舞台から姿を消すこととなりました。
終戦後、時代は深刻な食糧難と就職難を背負って幕を開けます。政府はこれらの問題を解決すべく、昭和20年、『緊急開拓実施要領』を決議。全国に農地の開拓を促しました。これを受けた愛知県は、戦前に立てた『愛知県渥美、八名、宝飯三郡大規模開墾土地利用計画』をふたたび議場に戻し、本格的な検討を再開します。また、東三河では計画の推進を支援する団体が発足。県と地元の両輪で計画の実現を目指します。
しかし、その道のりは険しいものでした。危機的状況にある国家財政、高騰する物価、調達のあてのない資材・・・。県と地元は、これら一つ一つを乗り越えるため、調査・計画・陳情を幾度も重ねました。
その結果、昭和24年、ついにその活動が実を結びます。宇連ダムの建設を中心とした『豊川農業水利改良事業』が着工される運びとなったのです(図3参照)。
その後、計画は、静岡県の天竜川水系の水を豊川へ導水することで水源を確保し、都市用水としての機能を加えた『豊川用水事業』へと拡大(図3参照)。
そして昭和43年、近藤寿市郎がジャワ島視察で構想の第一歩を踏み出してから実に四十七年の時を経て、豊川用水は完成の日を迎えることとなったのです。
豊川用水の完成から三十余年が経った今、渥美半島の大地には、海の青と対をなすように、農地の緑が広がっています。平成15年の農業粗生産額を見てみると、豊橋市が全国1位、渥美町3位、田原市4位と、豊川用水の恩恵を受けた多くの市町が上位に名を連ねています。かつては、「赤貧洗うがごとし」といわれた村。それが水路一本によって劇的な変貌を遂げた事例として、戦後最も成功した大規模畑地かんがい事業のひとついわれています。
※この稿を作成するにあたっては、下記の文献を参考にさせていただきました。
・豊川用水史(水資源開発公団中部支社・愛知県)
・豊川用水―水の流れとともに25年―
・今昔物語(近藤寿市郎著)
(1)受益地
豊橋市、豊川市、蒲郡市、新城市、
音羽町、一宮町、小坂井町、御津町、
田原町、赤羽根町、渥美町
(2)受益面積
21,883,5ha
(3)主要工事
宇連ダム(貯水量2,842万m3)
大入頭首工・導水路
振草頭首工・導水路
佐久間導水路 14.2km
大野頭首工 6.2km
東部幹線水路 76.4km
西部幹線水路 39.3km
支線水路 815.0km
三ツ口池
駒場池
初立池