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1.濃尾平野
2.民が支え
3.夢の用水への決断
4.熱望の人々
5.愛知用水の趣旨と理想
6.世紀の大事業をやり遂げた
7.尾張・知多地域が変わる
8.新しい愛知用水
9.生きる用水

icon 夢の愛知用水 はじめに



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 愛知用水は昭和36年9月に通水を開始し、昨年で50年を迎えました。その間大きく時代が変化する中で、「水利用の転換、渇水、施設の老朽化、長野県西部地震等」をのりこえながら、地域の生活及び生産を支える水の大動脈としてその役割を担い続け、中部圏の発展に大きく貢献しました。

 これを機に、濃尾平野全体を踏まえる中で「木曽川の流れ」「素晴らしい先人達の偉業」「水源地域への感謝と共生等」を再確認して、愛知用水を守り育て、より多くの人々のために、どう生かしていくかを考える必要がある。

icon 1.濃尾平野をつくる母なる木曽川   自然



 現在の濃尾平野は、数百万年前に始まり、今も(0.5mm/年)沈降を続ける沈降盆地に、河川からの土砂が堆積してできている沖積平野である。そしてその地形は東高西低を成している。これは地質学上中部傾動山塊といわれる地形で、東北方向の飛騨・木曽山脈の間に木曽川の河岸段丘をなしながら西南に傾動し、養老断層に落ち込んでいる。



 今から四百年前までの木曽・長良・揖斐三川の下流部においては、流路が錯乱し、洪水のたびに変化、分流を繰り返しながら、土砂を運び濃尾平野を造成してきた。

 そして、1,610年頃に家康が尾張の国を守るべく、関東流治水技術者伊奈忠次による、「御囲堤」を築いてから木曽川の流路が安定した。本格的に木曽川から水を利用する形態ができたのは、このころからである。

 現在の木曽川は、その源流を木曽谷の鉢森山そして御岳山を懐とする支流王滝川に発し、飛騨山系(北アルプス)の東面、木曽山脈(中央アルプス)西面等から年間2,000~3,500m/mの雨を集めながら岐阜に入り、美濃加茂市付近で右岸から飛騨川を合流して犬山に至り平野部に出る。流路延長は215Km、流域面積は4,956K㎡(笠松地点)で、うち90%は山地である。その流れは、流出率も高く、年間総流出量は約100億?に及んでいる。

 こうして流下する木曽川が平野に出る、犬山付近以降が、これまで濃尾平野における土地と水と人の生活において、密接に関わりあってきた地域である。

 一方、濃尾平野の東高西低の東高にあたる、犬山から南東に展開する台地または扇状地、そしてこれに連なる知多半島、いわゆる愛知用水地域は、概して地盤が高い傾向にあり、この平野に係る地域の中では最も水利の便に乏しく、長い間水に苦しんできた所であった。


icon 2. 民が支え・支えられる木曽川  既存利水



 木曽川にかかる水利の歴史は古く、特に肥沃な土地そして水に恵まれた犬山下流部の尾張西部・美濃地域では、稲作を中心とした農業が営まれていた。しかし、農民は常に洪水と戦いながら、川を守り利水を生み、長い年月をかけ、やっと「御囲堤」築堤のころ、約400年前に水利の形を整え、その後も川と競合しながら耕地を確保してきた。

 近代に入り産業・交通の発達は、水力発電の開発を促し、更には都市用水の増大等が要望される中、農業水利の木津・宮田・佐屋川・羽島用水等そして名古屋市上水道用水等の既得用水では、「河床の低下、流心の変動、土砂の堆積等」の課題を抱えていた。

 このような長い歴史を歩んできた下流利水者にとって、その重みと、主張がある中で、ここに、木曽川犬山上流の地点から、尾張東部そして知多の人々が、新たに愛知用水の水源をもとめることは、既得権利の侵害にもつながる、非常に重大なことであった。

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icon 3.夢の用水への決断   胎動



 尾張東部に位置する台地及びこれにつながる知多半島一帯は、気候温暖(年平均温度は16度前後・降雨量は約1,600mm/年 )、そして中京圏として産業立地条件等に恵まれていた。一方、その土は非火山性の鉱質土壌で保水力に乏しく、下層位に作物の根が入りにくく、地形的にも丘陵地であり大きな河川がない、更には降雨分布が不規則であったことなどから、夏は干ばつを受けやすく、弥生時代のころから農民は水に苦しんできた。

 この地域では、生活が主に狩猟や漁労に依存していた縄文期のころは、居住がしやすいところであった。弥生期に入ると水稲耕作が始まり、居住地は、台地や丘陵地よりその周辺や平野中央部に進んだ。その後古墳時代に入り平野部では開発が進み農業集落が形成されたが、愛知用水地域ではその遺跡も少なく、江戸時代に入ってようやく、ため池の築造、新田開発が進んできた。

 知多半島のため池は、丘陵の間、侵食谷等に築造されたものが多く、その数は約13,000ヶ所(満水面積1反歩以上は2,635ヶ所)に及び、その密度は播磨(兵庫県)、讃岐(香川県)に次いでいた。しかし規模は皿池といわれる小さなものが大部分であるため、その水源は乏しかったが、それでもため池に頼るしかなかった。それだけにその管理は厳重を極め、地区の「長」「かかりさん」と呼ばれる、最高責任者が全てを行なっていた。

 昭和22年の渇水時には、ため池が枯渇し大きな災害となった。「知多の豊年米食わず」知多が豊作の時は、他の地域は水害で米ができないと言われたほどである。

 戦後食料増産が大きくうたわれるなか、「水がほしい」「用水がほしい」、長年に亘る切なる願いであった。ここに農民は新たな胎動を決断した。

 愛知用水は当初食料増産を目指す、農業主体で考えられていた。しかし、その計画地域が産業地域及び土地利用区分等の、変化が著しい必然性を持った地域であったため、都市用水・発電等多目的な用水として考えられた。更には、この用水の木曽川からの取水は、木曽川全体の水利秩序等に大きな関わりを持つことから、木曽川の総合的な開発事業の一環として取り組むことを考えた。

 一方行政等の動きとしては、農民の強い動きに呼応し、昭和25年制定の「国土総合開発法」により、産業開発の基本となる用水、エネルギー等を各水系によって開発すべく、昭和26年に「木曽特定地域」を指定し、総合開発計画の一環として、その中心を愛知用水として、調査が同年開始されるに至った。

 この大事業が、幾多の難事を克服し動き得たのは、ひとえに木曽川下流地域農民の「断腸の思い」の中での対応、また国・県等の決断と努力そして協調によるものであった。


icon 4.熱望の人々   活動



 大正6年、知多農家の久野庄太郎さんは、17歳のころ、元冨貴村(現武豊)村長森田萬右衛門氏の「碧海郡に明治用水があるように、知多郡にも木曽川からの水を引いてはどうか」との提唱に感銘を受けた。その記憶を呼び起こし、実現のため、技術、制度、資金、水源地、その他利水者等、可能性を含め多くの課題に向けて、昭和22年に行動を開始した。そして、昭和23年5月5日安城市の農聖 山崎延吉翁に会った。翁は「我は農に生まれ,農に生き,農を生かさん」と教示した。久野氏は、あたかも太陽に逢った如く、その思いは、「今日一生の決心をした。今日を限りに農作業を家内にまかせ、木曽川から知多半島への用水実現に専念したい。」と行動を決断した。(久野氏は、平成9年に逝かれたが、晩年、今を見て「農を生かす」とは、他を生かしてこそ、自らも生かされると回顧されていたようである。)



 一方、同じく知多農家の浜島辰雄氏(高校教師)は、久野氏の思いを新聞で知り、昭和23年7月23日運命の出会いを果たした。共に入鹿池西の尾張富士に立ち、半島を歩き路線を踏査した。そして、8月10日今に生きる「愛知用水概要図」が完成した。

 愛知用水地域の人々は、これまでの永い歴史のなかでの苦しみを踏まえ、昭和23年から具体的に用水の実現に向けて、農民自らのこととし立ちあがった。様々な人々の信念と情熱、「愛知用水の趣旨と理想」に見られる綿密な計画、そして粘り強い努力、それに応えた人々と各関係機関、そしてその時機等の全てが整い、日本で始めての大規模な総合開発事業が実現できた。

 特にその時代、普通には考えられない発想を、現実のものとして考え行動した人々の決断と苦悩は、大変なものであったと思われる。夢の愛知用水実現に向けて行動を決断した知多市出身の久野庄太郎氏、そして以前(昭和19年ころ)から、その構想を自らも考えていた豊明出身の浜島辰雄氏、これを支えた半田市長の森信蔵氏らが特筆される。

 久野氏の運動に対する姿勢は、① 民衆の啓発を重点 ② 私利私欲をはなれた清潔な運動 ③ 運動費用は自弁を建前とし篤志家の協力を得るであった。これらを周知する会合の様子が愛知用水に関する最初の新聞記事となり、多くの人々の共感を得た。これらの古くて新しい運動姿勢は、現代にも相通じるものがある。

icon 5.愛知用水の趣旨と理想  事業の基本



 昭和24年に知多農村同志会、後の愛知用水開発期成同盟会が、今後の事業推進に係る一大構想を「木曽川総合開発パンフレット」と称し「愛知用水の趣旨と理想―木曽川総合開発の一翼として」を刊行した。

 その内容は、まさに日本版T.V.Aともいうべきものであった。事業の実現に向けた自らの切実な想いと大胆な発想、これまでの建設運動を通じ、洞察力に富み、総合的に調和を持ったもので、地域住民そして中央政府・関係各省庁や、木曽川上下流の住民への積極的な広報活動が、この資料をもとに行なわれた。

 その内容は、発願・運動・組織・総合開発計画・社会との関わり等多岐にわたり、非常に分かりやすく緻密なものであった。

   [原文 抜粋 ]

木曽川総合開発パンフレット第1巻  (知多郡農村同志会刊による)
 戦前と云はず、戦後と云はず、日本に一番たくさんあるものは水であります。此れの水の利用が日本再建には一番肝心であると思った。
木曽川の総合的利用を望むこと切なるものがあります。

           愛知用水期成同盟会長  森 信蔵

① 愛知用水の発願

 東南部地域一帯は、昔から河川に恵まれず、少し旱りが続けば直ぐに農作物に被害を蒙るといふ状態であったから、何とかして用水路を切り開きたいといふ希望は、人々の往昔からの深い願いであった。然し、今日までその願望は日の目を見ることが出来なかった。東尾張地区の中で知多郡は全然河川に恵まれないのみならず、降雨量が非常に少なく、且つ山脈が浅いために溜池に雨水が溜らず、夏といふ夏は毎年の如くに灌水に苦しめられ、旱害のない年はないといふ程、水不足に苦しめられ通して来たのである。隋って知多郡の農民は何とかして水を、何とかして用水をと、来る年も来る年も切ない祈りと苦闘を続けてきたのであった。

 愛知用水の発願者達がこの運動を思い立ったのは昭和23年5月頃のことであった。技術的に見て実現の可能性の確認、又既存の諸用水に御迷惑を掛けないで之をやりたいと考えていた。そしてこの用水の実現を目的とする民衆運動を展開しようといふことになったのである。

② 愛知用水と民主主義

 この用水を真に民衆の自覚による民主的な力によって実現したい。この用水は自分達が自分達の手で作ったものであり、その保存の責任も自分達の上にあるのだといふ気持ちが民衆の間に存在する場合には、その用水は最も有効に利用せられ、又最も大切に愛護せらるのである。

 かうした意味において愛知用水の発起者達は当初以来この用水の実現について最も大切なことは民衆にこの用水の必要性とその実現のための手段とを正しく理解してもらうために話し掛けることが一番大切であると考へたのである。

 村々町々を倦まず撓まず説き廻り、訪ね歩いて之が理解の結果、関係都市に「愛知用水期成会」が組織せられ、昭和24年9月15日には之等期成会を打って一丸とする「愛知用水期成同盟会」が結成せられた。

③ 愛知用水と木曽川総合開発

 愛知用水の運動は単なる愛知用水の運動ではなくて、大きく国土開発事業の一つとしての木曽川総合開発の運動でなくてはならぬといふことがわかって来た。もとより愛知用水はどこまでも愛知用水であるが、その運動を契機として木曽川全体の問題が広く総合的に解決せられ、木曽川流域の全民衆が均しくその恩澤を受け得る如く遂行せられなければならない。然るに広く世間の識者に触れてみると、考へ方を教へられ、次から次へとその企画が合理化されて行き、結局「木曽川の総合開発の一環としての愛知用水の完成」といふ目標こそ吾々の念願を正しく達成するための正しい方途であるといふことがわかったのである。

④ 愛知用水と既存用水

 木曽川に依存する既存の用水は次の通りである。

     愛知県木津用水 宮田用水 佐屋川用水 草井用水 五明用水
     岐阜県羽島用水 農業用水 計53.01
     名古屋市水道用水 計10.00(取水点犬山町、一宮市)合計63.01(m3/s)

 愛知用水は既述の如く、之等の用水に対し些かたりとも御迷惑を掛けてはならぬと考えている。蓋し愛知用水の実現により尾東地区は善くなるが尾西地区が悪くなるのであったり、又名古屋市が用水に困ることになるようでは、いはゆる我田引水となり国家全体から見て意義のないことになるからである。そこで要するに木曽川の総合開発といふ構想に立って之を進めるより他に愛知用水の目的を正しく達成する方法はないのである。

⑤ 愛知用水と文化運動

 愛知用水の発起者達は、この用水を企画した当初から、「愛知用水は単に水を流すだけの用水であってはならない。水と一緒に新らしい文化を流さなければならない」と考へて来た。即ち用水を単なる用水に終わらせないで、用水を流域の全民衆特に農民に対する一つの文化運動の中核的機関たらしめたいとの念願を持ってゐる。

 農民生活の中へ清新な文化の香りとふくよかな潤ひとを採り入れるために何等かの貢献をしたいと考へるのである。例へば農作に対する水の利用方法、用水の実現と農業経営体制、水を中心とする農産加工の開拓、保健衛生の改善、水力電気を利用する農業電化及び家庭電化の普及、畜産及び油脂加工等の発達に関連する食生活の改善、一般衣食住生活等々の問題について、愛知用水の本部は絶えず、流域の全民衆の教育並びに再教育に貢献してゆきたい。

⑥ 結語

 愛知用水の計画は、上述の如き経緯を辿り、今や中央地方の関係当局をはじめ、政界方面の同情と理解を得、着々とその実現に向かって巨歩を進めつつあるのである。何分にも日本の歴史始まって以来の大用水計画であり、巨額の資金を要する大事業であるので、今後まだ数年は之が実施のための調査を進める必要があり、今直ちに着工の段取りに入ることは出来ぬ次第であるが、然しともかくもこの大事業が先輩各位の御?援と御指導とにより、発足以来僅かに一年余りにして、既に中央関係官庁たる農林建設両省において夫々多額の調査費の計上を見、係官の数度の実地検分を受け得る段階に到達し得たことは、洵に感謝に禁えざるところである。

 希くば全民衆が均しく活眼を開き、児孫百年のために相携へて本用水達成のための民衆運動に全幅の協力を寄せられんことを、切に待望する次第である。 (終)

 その他次の項目について細部にわたり提唱されている。

 「水路と用水量」「水力発電」「工業用水及び水運」「食料増産」「園芸・畜産・水産」「保健・観光・消防」「失業対策」「開発費」「付録:米国T・V・Aの概要」      [ 以上 ]

icon 6.世紀の大事業をやり遂げた  事業の特色



 この事業は、戦後の日本を支える一大事業であり、事業の仕組み・進め方・技術・資金調達等あらゆる面において範たるものであった。昭和23年の運動開始から約10年、昭和32年に、やっと工事開始にこぎつけた。そして、昭和36年9月には通水を開始し、その間僅か4年の突貫工事であった。ただ、この工事による犠牲者は、アメリカ人技術者1名を含み、56名(牧尾ダムで21名)にも及んだ。いかに完成を急いだとはいえ、あまりにも壮絶な結果になってしまった。事業の発起者である久野氏は「いっそ自分を人柱にと・・・」苦悩されました。また、牧尾ダム建設により、家屋184戸(908人)の移転を強いたこと等、尊い犠牲と協力の上に、この水が・文化があることに感謝するとともに、このことを決して忘れてはならない。

 この事業を成功に導いた要因の主なものは次のとおりである。

○日本で最初の国土総合開発事業で、水の総合利用を目指した大規模な多目的事業

 米国T・V・Aによる総合開発を範とし、木曽川の水資源を総合的に開発し、水利用の高度化を図り、農業用水30,675haの用水補給、水道用水(計画給水人口28万人)、工業用水(年間20.8百万m3)を供給し、更には牧尾ダムを利用して、下流15か所の既設発電所と合わせて出力増強を図る等の多目的事業を、公団事業として実施した。

○日本で最初の外国からの資金及び技術(設計・施工・畑地灌漑等)を導入した農業開発事業

 総事業費422億円のうち、世界銀行からその4%にあたる17.5億円(487.2万ドル)の融資を受けるとともに、専門技術者(エリック・フロア社)との技術援助協定を締結した。その主な内容は、・技術面での明 確な役割分担・科学的な設計と段階的な設計手順の徹底 ・設計思想と技術水準の統一のための基本設計の確立 ・設計と施工の明確な分離 ・合理的な施工管理 ・設計基準の導入 ・図面や仕様書の書き方等で、多岐にわたり合理的な考え方をもたらした。

○大規模畑地かんがいの導入

 この地域の自然条件は、耕作に対し非常に厳しい状況であり、農業経営は極めて不安定であった。事業の経済効果を一層高めるために、全体受益面積の38%にあたる約11,500haを対象に畑地灌漑を導入した。その実現に大きく寄与されたのがアメリカ人研究者A・アルビン・ビショップ氏(ユタ州立大教授)である。学者としては厳格に、考え方は幅広く、人間味豊かに指導をされた。具体的には、うね間かんがいの基本導入、輪番かんがいの導入、技術の普及(先進国からの権威者招聘・日本人技術者の養成・実験農場の充実・各種の実験究明等)等この事業の内にはらむ、力強い意義の実現を目指された。

○実質4年の短期間での工事完成

 愛知用水の早期完成は、地域農民をはじめ全ての人々が、注目し、行動し待ちに待ったものであった。昭和32年9月10日実施計画認可(着工)から昭和36年9月30日の通水開始まで、約4年間の短期間で工事を完成させ、作業の一貫性、工事の均質化、経費の節約、経済効果の早期発現等を果たした。その要因としては、昭和23年の事業発願時の行動が全てであるが、主なことは次のように考えられる。

・ 事前の調査、計画、調整、施行体制の確立等に対する、農民から行政等に至る関係者の強い意識の一致と行動(昭和23~32年の約10年間)
・ 愛知用水公団の設立により、水源から幹線水路及び末端水路の国営級から団体営級工事の一貫施工及び都市用水と発電等の専用施設に対する資金供給が可能になった。
・ 内外の最新の大型重機械(パワーショベル2.3m3・ダンプトラック22t・ブルドーザー20t・モータースクレーパー等)を総額約13億円で導入、牧尾ダム(堤体積262万m3)、東郷ダム(堤体積104m3)、幹線水路約112km、支線水路1,012km等を完成させた。
・ 進歩した海外技術を導入し、設計・施工等の合理化と効率化を図り、経済的にも非常に有効であった。




icon 7.尾張・知多地域が変わる 水利用



 愛知用水は、需要変動の著しい必然性を抱える中、供給開始を機に、二・三次産業の発展また農業の兼業化、都市の膨張、農村地域の混住化が一層顕著になった。そして営農も稲作から畑作へ、施設園芸等への転換、農地面積の減少等が進み、その需要傾向は大きく変わった。通水開始当時は農業主体であったが、年間使用水量としては、平成22年では都市用水が8割を占める状況になった。



○ 農業

 愛知用水の受益面積は、現在関係17市10町の農地約15,000haで、通水開始当時に比して面積・水量とも約半分の状況である。しかし、農業産出額では昭和38年には約200億円で、昭和60年の約900億円をピークに平成17年には約700億円になっている。なかでも知多半島(10市町)地域においては当時約54億円であったものが約400億円にまで約7倍の伸びを示している。
 その品目としては、野菜(キャベツ・レタス・玉ねぎ・ふき等)、果樹(みかん・もも・びわ・梨・ぶどう等)、花き類(観賞用植物等)を中心に、多種多様で計画的な営農を展開し、集約された農業経営の安定化を目指している。


○ 水道

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 この地域の水道は、通水前では約7割が家庭用井戸であり、半島での水道普及率は25%程度であった。水質的にも不良なものが多かったこと、昭和30年代の宅地開発等により人口が増加し、以降も工業用水の増加等にともない、周辺都市を発展させ、さらに急激な増加を見たこと等から。その給水人口は昭和38年では約20万人、昭和60年には約103万人と急激な増加し、平成17年では約127万人(内40万人は長良導水分)という状況であった。

 昭和25年に制定された国土総合開発法に基づき、伊勢臨海工業地帯の整備が行われたが、井戸水の大量汲み上げによる地下水低下・各井戸相互の干渉等をきたす状況にあった。
 昭和33年以降は、愛知用水の目途が立ち、名古屋南部臨海工業地帯に東海製鉄、大同製鋼、製鉄化学、石川島播磨重工、出光興産等の関連重化学工業が進出することになり、その需要は急激に増加した。これに対する給水能力は、昭和36年には日量86,000m3、現在では845,600m3と約10倍に増加。工業出荷額は昭和38年では3,340億円、昭和60年では4兆4,237億円と急激に増加し、平成17年では4兆3,805億円になっている。
 これらは、既の愛知用水を基とし、地理的な要因、良質な木曽川の水質、阿木川ダム及び味噌川ダム等新たな水源の確保等により、安定的な供給が可能になったものであり、「愛知のものづくり日本一」の実現に大きく貢献している。

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icon 8.新しい愛知用水   二期事業



 愛知用水が通水開始後約20年を経過し、水利用形態の変化による、水需要の全体的な変動と農業の冬水の増加・土地開発の進展・施設機能の拡充・施設の老朽化に対する安全確保、安定供給等に対処するため、「施設機能調査」「地区調査」「全体実施設計」を昭和49年度から56年度まで実施した。そして、施設の改築及び水管理施設の近代化を昭和56年度から「愛知用水二期事業」で実施し、水路系は平成16年度に完了した。

 昭和54年10月の御岳山の噴火と、昭和59年9月に起きた長野県西部地震による、御岳山の源頭部3,600万m3の崩落に起因した土砂の一部が、牧尾ダムに流入した。その貯水池機能の回復・周辺の災害防止を図るため、「牧尾ダム堆砂対策事業」を愛知用水二期事業として、平成8年度から実施し、平成18年度に完了した。

 時代に即した大規模な施設整備がなされたが、今後とも常に新しい眼で、継続的に積極的に「安全・安心」を目指すことが重要である。

(1)愛知用水施設(既施設)
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(2)愛知用水二期施設

  ① 取水・導水施設

・愛知県犬山導水路を愛知用水施設に編入(通水量最大約2.4m3/s、延長2.5km)
・可児導水路の改修(最大通水量約1.9m3/s、延長4 km)
・入鹿連絡水路の新設(揚水機場、最大通水量1.0m3/s、延長1km)

  ② 幹線水路

・供用区間の改築及び新設(延長85km、全体二連構造で開水路は2連フルーム、トンネル・サイホン等はバイパスを新設)



・幹線開水路の標準断面農水専用区間の開水路を改修(延長27km、単水路)
・既設施設の補強・補修(既設トンネル・サイホン)

③ 調整池

・東郷調整池(バイパス用の取水施設の新設、堤体保護工等)
・美浜調整池(水路末端に新設・貯水量約10万m3
・前山池(愛知県から承継・有効貯水量約97.2万m3)

④ 支線水路

・かんがい面積500ha以上の国営級 6路線約 20kmのパイプライン化)
・かんがい面積500ha未満の県営級125路線約492kmのパイプライン化)

⑤ 牧尾ダム

・堆砂除去(約548万m3)・貯砂ダム(2ヵ所)・床止工(1か所)

⑥ 事業費  3,155億円(水路2,855、牧尾ダム300)

⑦ 技術の特徴

・バイパスシステムの採用(都市用水供用区間において、冬期に水路の保守点検を行うために、水路を複線化する)
・下流水位追随型の上流水位一定制御型無動力自動ゲートの導入(農専区間の需要変動に対応する)
・中央集中監視による水管理システムの採用(幹線延長112km、分水工152ヵ所、水位調節堰37ヵ所、調整池3カ所を介しての水運用を、遠方監視制御等で有効に行う)
・環境に配慮した施設整備(水路周辺地域との調和を図りながら、開水路区間の暗渠化による上部の環境的な活用、水際の植生、小水力発電の導入等)
・その他(通水しながらの施工が可能な「半川締切り工法」の採用)





icon 9.生きる用水 おわりに



 愛知用水は昭和36年に完成し現在50年を経過し、その大きな役割を十分に果たしてきた。その間に将来を見据えた改築がなされ、その施設は強固にそして給水体制は進化した。まだ歴史が浅い中での、これだけの取り組みには、今後に向けての、水に対する強い思いと期待が感じられる。

これらの施設の管理は、今後もより一層、積極的かつ有効に行なうことが肝要であるが、この用水は単に利水者そして施設管理者だけのものではなく、「文化は水に宿る」ともいわれ、この事業を生み出した時を想い、周辺全ての人々の参加による、潤いの水を「地域の用水」として育てることが大切だと思います。

 今回、資料を改めて見て、感じたことは「先人の偉大なる思いを時代に即し、いかに生かすか」「この用水を築くに、尊い犠牲となられました方々の霊位を慰め、感謝すること」でした。これらのことを、この用水への常の思いとしたい。

 更に「川も水も上には上がらない」なればこそ水源地との絆を忘れてならない。「真の文明は、川を荒らさず、森を荒らさず、村を破らず」とも言われます。

 愛知用水の根幹である水源地の牧尾ダムは、王滝村・三岳村(現木曽町)そして下流域で、古来より連綿として生活されてきた、多くの人々の理解と協力によって築かれた。当時戦後の復興を果たす国策のためと決断をされたが、その思いは痛切でした。

 時代は大きく変わり、水にまつわる状況は、今後さらに厳しくなるものと思われ、受益地域と水源地域の人々は、子々孫々まで共に歩み、常の行動のなかで、「水の絆」を育むことが大切だと思います。

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参考文献 ◆ 愛知用水史  (愛知用水公団) ◆ 木曽川水系農業水利誌 (農林省)◆ 愛知用水その事業の意義(畑地かんがい研究会)◆ 農業農村工学会誌 79巻10号 [水土の知](愛知用水通水50周年 特集)◆ 農業土木学会誌 05/02 73巻NO2 (リフレッシュした愛知用水) ◆ 愛知用水50年 水の文化2010 NO 36 (ミツカン水の文化センター機関誌)◆ 愛知用水概要書(愛知用水総合管理所)◆ 愛知用水二期事業工事誌(愛知用水総合事業部)◆ 水とともに 愛知用水通水50周年 (水資源機構)◆ 水とともに 水の思想、土の思想(第1回~12回) (水資源機構)◆ 愛知用水の趣旨と理想(木曽川総合開発パンフレット第一巻)知多郡農村同志会 ◆ 「 豊かな水をありがとう」愛知用水30周年記念 水資源開発公団◆ 愛知用水グラフ(愛知用水公団)◆ 活きづく木曽の清水(東海農政局濃尾用水第二期農業水利事業所)

愛知用水事業のあゆみ
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